カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

恥ずかしくないのが気の毒には思うこと

2015-09-10 | net & 社会

 実はそこまでは気にならなくはなっているものの、というか、もうそんなに気に留めても仕方がないと思っているものに、いわゆる政治的発言や、ちょっとイデオロギーめいた考えや、健康趣向による偏見や、明らかな間違いによる発言がある。あまりに多いのでブロックしようと思いはするが、日常的にはさほども不快な感じの人ではない人が、ということもあって、躊躇する。本人は気付いてないらしいけれど、たぶん恥ずかしいことを知らない程度に無知なだけである。また間違いを信じてしまう純粋さもあるのかもしれないとは思う。積極的に間違うような思考も持っているのかもしれないが。
 ひどいものをシェアするというのはある。元記事を閲覧禁止にすることはできるが、やはり一定程度には支持者があるらしく、何度も持ち上がってきたりする。不愉快だけれど、世の中というのは、実態としてこの程度には歪んだものであるらしい。頭が悪い人たちというのは仕方がないことだと思うが、つける薬が無いのはやはり残念である。
 それにしてもと思うのは、やはり自分で物事を考えない人が、それなりに多いということだ。まっとうな意見ももちろん上がっているのだが、まともそうなことでも、妙に捻じ曲げて理解しているらしい人たちもいる。別段攻撃的にならずとも、同じ穴のムジナにならずとも、普通に意見が言えればいいのにな、とは思う。もっともこれのユーモア版の人もちゃんと居て、救われることもある。なるほど、頭の良さの人も健在なのだな、ということだ。できれば僕もそうありたいものだと思ったりするが、性格が悪いのでなかなかそうはなりにくい。
 嘘を書きたい人や、ジャーナリズムの正義感ということがあって、そのためには間違いを含んでいてもいいのだ、という考え方をしているんじゃないかとも思う。まさに朝日新聞やNHKみたいなんだが、たとえ自分の意見であっても、何とかそのことを通したいという怨念のようなものがあるのかもしれない。許せないという思いがあるのかもしれない。
 しかしながらたとえそうであっても、ダメなものはダメとしか言いようがない。もちろんある程度の正しさの中には、認めたくもない都合の悪さというものは混ざってはいる。それは立場のようなもので、誰かのためになることは、誰かの不快も含んでしまわざるを得ないのである。もっともだからそれでいいとは言い切れないところが人間社会であって、そういうところを提起したいのであるということだと、単に攻撃的に否定ばかりでなく、どこまでなら可能なのかということを、やはり真摯に考える必要がある。議論というのはそのためのものだろう。結局何も決めなくていいのであれば批判して溜飲を下げて楽しめば済むことかもしれないが、今現在も苦しんでいたり、将来的に困ることは、ごまんと目の前に積まれたままなのである。現実的に粛々と処理していくということ以外に、人間の持っている誠意というものは表すことはできない。さらにそれが時代を超えてずれてしまうことも当然あって、それは次代の人がまた、修正していかなければならない。ただそれだけのことなので、やはり雑音のようなわだかまりは、出来るだけ排除して生きていきたいものである。
コメント
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