カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

自然と生きる人が自然をも維持している

2015-09-23 | 境界線

 僕の職場でも農業の端くれのようなことはしていて、僕はあんまりかかわっていないとはいえ、しかし日常的に自然と接する機会は無いではない。里山の環境にあって、しかし近年本当に危機的に思えることはいくつもあって、その中の一つに野生動物との共存問題というのがある。僕ら側の視点からいうと、農作物の被害が年々ひどくなっていくのが感じられるということだ。普通に散歩をしていてもイノシシの姿を目にすることもあるし、実際に何度となく怖い思いをすることがある。イノシシというのはなかなか崇高な存在ではあるが、何しろ力が強いので、破壊するのも凄まじい。以前なら仕事帰りの車のヘッドライトに、タヌキやウサギが時折飛び込んでくることがある程度の微笑ましさがあったのだが、そのイノシシの被害たるや笑い事ではないレベルで、まったく悲しいやら腹が立つやらする人間を、本当に日常的に目の当たりにする。しかしながら彼らも生きているのは確かで、人間が何と言おうと責任があるわけではない。恐らく人間の側の都合が変化し、そういう中での環境の変化が、彼らの行動にも影響を与えているということなのだろう。
 もともと日本においての野生動物と人間の境界は近い。境界線はあいまいで、むしろ共存関係にあったという見方もできるのかもしれない。しかし人間が手入れをする里山においては、やはりそれなりの境界が存在できていた時代があり、今はそれを維持することが出来なくなった人間の都合があるということだ。
 温泉に入るサルがいるのは微笑ましいニュースになるが、そうして集まったサルたちが畑から作物をとって食べると問題になる。いっそのこと観光をとって食べさせるという手段もあるかもしれないが、その場合の人間の側の経済的配分は難しかろう。
 しかしながら野生は野生である。人間が手を加えて作物を与えられるような環境になると、その個体数は安易に増えていくだろう。そうするとさらにテルトリーは広がることになり、多くなった個体を維持するために、また里山に侵入せざるを得ない動物も増えるとも考えられる。
 実際に自然の厳しさは大変なもので、多くの野生動物は、微妙な生態系のバランスの中で、自然では個体数を減らしていくものが多い。北海道は冬の厳しい環境の土地がたくさん残っているが、そういう中での貴重な絶滅危惧の生物たちは、逆に人間の営みとのバランスの中で、その個体数を辛うじて確保したり増やしていったりできているものがある。タンチョウがそうだし、オオワシがそうである。北海道で暮らす人々と、遠からず共存しているために、辛うじて絶滅の危機を脱しているとも考えられるのである。
 日本のこのような環境というのは、そういう意味でも確かに貴重なものである。人間も煎じ詰めると野生の生き物だったはずで、しかし安易に他の生物の環境を破壊しながら拡大繁殖をしている存在だ。そうではありながら、少なからぬ境界にあって、その境界の人々の暮らしが、奇しくも貴重な生物との共存の見本を示している。恐らく他の国の境界でも同じような境遇というのはあるのだろうけれど、それらを含めて、自然と暮らす人間が一定の役割を果たせることに、多くの人の関心が集まるべきなのではないだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする