カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ゲイへの偏見がアメリカの正義をつくった(のかも)   J・エドガー

2015-09-19 | 映画

J・エドガー/クイント・イーストウッド監督

 米国のFBIという警察組織をつくった長官である人物の伝記映画。いろいろと憶測や逸話のある人物で、日本人には馴染みは無いが、米国では良く知られた人らしい。そういう人物の憶測を省いた事実として明確にされている部分だけを抜き出して描かれていることに、不満の声もあり、しかしそれでも十分に怪しい人間像が描かれている。
 まず第一に言えることは、このエドガー・フーバーという人物が、かなりの偏向した思想(反共主義)を持っているばかりでなく、強欲であり、コンプレックスの塊であり、さらに盗聴を仕掛けて、多くの権力者の弱みを握って、その上で自分の権力を誇示しているようなとんでもない人間なのである。どうしてそのような人物なのかということの根本には、恐らく子供の頃からの性的な偏向(現在の視点からいうと普通のことだけれど、やはり以前の米国内での空気であると、あえて断っておく必要はあるが)のためと、そのことに激しく母から叱責をされる心の痛みや、ゲイである仲間の自殺などによって、自らがゲイであることにはしっかりと自覚しておきながら、そうして一生のパートナーと人生を共にしながら、性生活においては禁欲的に過ごしていたということがあるように見えた。要するに無理をしている訳で、社会的な偏見の中にいて致し方ない側面はあろうけれど、米国犯罪を取り締まる立場にあって、自分の偏向思想と権力に執着する一生をまっとうするのである。
 これをまた、ディカプリオという二枚目でありながら芸達者な若者が、醜い内面と表面的な姿まで見事に演じているところが複雑な心境にさせられるわけで、見事であるがゆえに実に嫌な感じなのである。僕は異性としてのディカプリオ・ファンでは無いから、特にどうということは感じないはずだが、しかし、コアなディカプリオ・ファンにしてみると、少し気の毒な感じもするような見事さと言っていいのではないか。何しろ愛すべきところが見つけにくく、最後まで悲しいまでに醜い。
 そのように誰もがあまり喜ばないような映画を作ってしまうところが、イーストウッドの凄さなのかもな、とは思った。地味なうえに、不愉快で、そうして後味もあんまり良くなく、多くの人が知っていた衝撃の事実などはほとんど扱わず、しかし悲しいのである。いくら演技が良くても、メイクでごたごたと老人になり切っている若者であるのは誰でも知っている。そういう過剰さも行き過ぎており、本当に少数の人の同情しか勝ち得ないのではなかろうか。だから目的はたぶんそういうことでは無くて、やはり、悲しい人物が、実はアメリカの根底を支えるような組織を作り上げてしまった事実の不可思議さを、考えてもらおうということなのかもしれない。何も崇高な正義感が、社会のありようを形成している訳ではない。このような邪悪な悲しさがあるからこそ、人間社会は歪みながらも成り立っているのではないか。少なくとも巨大なアメリカ社会というのは、このような積み重ねなしには成り立っていない。考えすぎかもしれないが、結局そういうことまで考えさせられる、変な映画なのであった。
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