カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

理解されなきゃ去るより無い   かぐや姫の物語

2015-09-12 | 映画

かぐや姫の物語/高畑勲監督

 超有名なお話をなんで今更アニメ化などしたのだろうと、少し怪訝には感じていた。で、実際に観てみて、やっぱり何でだったのだろうな、と思った。これがやりたかったという思いは知らないし、しかし後で語られているらしい最後の仕事というのはあったのだろう。宮崎監督も引退することは分かっている。自分としてもそろそろ潮時。〆の作品が必要だという思いはあったのだろう。あくまで推察だが、だからこそ、これは後世に残るという思いもあったのではないか。作品としては地味にオーソドクスだけれど、もともと残っている物語でもあるし、決定版としてもこれが良いという思いがあったのかもしれない。アニメのふんわりしたタッチとも、合っているという思いがあったのだろう。もともと不条理な物語だし、観るものは普通に混乱するだろう。お話はそうだけれど、それではみなさんさようなら、という思いと合っていたということになるんだろう。
 基本的には勘違いの連続で、最後までほとんど誰も姫の事など分かってやれない。姫が恋をしているというのは僕は知らなかったことだけれど、まあ、断り方からいって、当然のことだったのかもしれない。しかし相手は妻子ある人。それで良かったのかな、ということと、しかしこれは原話として実は示唆的な何かがあった可能性はあるな、とも感じる。身分を超えた恋愛があって、しかしそれは階級が許しはしない。物語としては、月に帰してしまうより無いということにしたのではないか。
 竹取物語自体が、もともと謎の多い物語だということは言われている。そういう解釈の幅のようなものがあって、だから独自のものが作られそうだという感じはあるのだろう。しかし大筋として知られ過ぎている話を変えようは無い。実はだからそれなりに制約が多い。そうでありながら独自のものを作ることが出来る力量が自分にはありそうだ。高畑監督の自負というのはそういうことになるのではないか。やたらに服を脱ぎ棄てて脱皮するような感じが、個人の自由の獲得の比喩にも感じられる。そうして最後には何もかも忘れて逃げてしまう。今までやってきた仕事というのは、そういう比喩があるのではないか。
 昔の話だけれど、音楽はちょっと現代的な感じはする。古いが新しいはそういうことだ。現代的な再現なしに現代人の受け入れもない。きわめて普遍的な話が、だから現代の断片にもなる。そういう狙いも含めた作品作りということは、やはり高畑監督の現役性がなせる業であったのだろう。終わりの終りは再生の道かもしれない。いや、もう廻りは何も言うまい。そのほうが気楽に何かができるかもしれない。知らないことだが、そういう気がするのであった。
コメント
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