カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

仕方なかった理由が小さい   真夏の方程式

2015-05-18 | 映画

真夏の方程式/西谷弘監督

 ミステリ作品だから謎解きのための殺人が起こらなくてはならない。そうして、なぜ殺されなくてはならなかったのかということにおいても、一定の説得力が必要という気がする。一番に思うことは、要するにそのことに対しての理由が決定的に弱い気がするということかもしれない。もちろん、誰かを守るという強い意志があるというのは分からないではない。そうまでして守らなければならないのは、やはりその人には意識的には罪が軽く、そうしていい人でなければならない。条件としてそれは伝わるが、しかし衝動的に殺してしまうほどのことをやり遂げられたことの方が、実に不思議だ。自分がやらなければやられていたというような状況ならば、よかったんじゃなかろうか。さらに第二の殺人において、殺された人が善意の人であるというのも痛い感じだ。もちろん、彼にもミスがあって、捜査上もう少し突っ込んで状況を調べ上げることが出来たら、いわゆる(本人が望んでいるにせよ)冤罪は防ぐことはできたかもしれない。ただ、それだけで殺されたのは、少し割に合わない感じで、更にこれはトリックとして殺人事件にするよりも、やはり事故としてそのまま届けてもよかったようにも感じる。もちろんその時点である程度トリックが見破られたかもしれないにせよ、余分に殺人を隠す動作が理解しがたい。結局つかまっても良いという意識があるのだから、それが大切な人を守るという意識なのだから、目的としてはそのほうがより説得力のあるストレートさを感じる。
 僕は個人的には、罪を犯したからその人がまっとうに罪を償うべきだ、ということを言いたい訳ではない。時にはこのような話のように、逃れても良いのかもしれない。僕は警察官ではないし、復讐としての罰が見ず知らずの人にかぶせられることに、多少の無頓着さはある。しかしながら物語としての説得力では、このようなケースで逃れることは、必ずしも美しい話ではなかろう。気の毒な面もないわけではないが、それは単に無垢なだけのことで、殺された女や刑事が、実際にはそれほどに悪人だとは、やはり思えない。むしろ事故にあったように、本人は殺されるという一縷の予感もなしに殺されてしまったように思える。しかし殺人はやはり事故ではない。仕方なかった理由というのは、だからやはり大きいのである。
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評議員としては残るらしいけど…

2015-05-17 | 感涙記

 育友会の役割を終えられた。PTAの役員をやりだしたのは、二十歳になる長男が小学2年生の頃からだから、13年ということになる。最初は青年会議所の現役でもあったし、監事だから何にもしなくていいといわれて始めたものだ。しかしながら副会長になり会長をと、段階的にハードルが高くなった。結局切れ目は作らず、副会長・会長は小・中学、高校とそれぞれやることになった。大変だったといえばそういう面もあったから、素直に卒業ということで、うれしい。青年会議所の卒業の次に嬉しい。それとやっぱり解放感。本来的にがらじゃないというのがあったから、そんなに化けの皮をはがされることなく終えられたのが良かった。いや、一度同級生の今はお母さんになっている友人から、ひとこと「(僕が会長なんて)ウケル~」といわれたことがあったくらいだった。ま、そうだよな。僕は本格的な不良とは言えないまでも、学校生活はちゃんと一貫してアウトローだったわけで、学校に関わるなんてもってのほかだったはずなんである。ま、子供のおかげで学校に写真なんかも飾ってあったりして、ウケない方がおかしい話である。
 時々直接的にはあんまり言われないまでも、こういうのが好きでやる人がいるんだ、というようなことを漏れ伝わって聞こえてくると、なんとなく面白くない気分にならないこともなかったが、まあ、聞こえなきゃ平気なんだから、やることさえやればいいんだと自分に言い聞かせたりはしていた。それに役を受けるというのは、やはり人に頼まれたのを断れなかったというのが一番大きくて、要するに気が小さいだけのことである。しかしながら最初の方で、役を受けてほしいという電話をしてきたお母さんから、「基本的にはお母さん方が仕事の大半は引き受けるんで、男の人が役のところに名前があるだけでもいいんだ」ということをおっしゃった。要は表だって飾りでいいということで、そういう社会で僕の名前が役に立つのなら、人助けとしてやるしかないのかな、と思った。まあ、しかしそれでもそれなりに仕事はあったりしたわけだが…。
 そういう役割ではあるけれど、小学生の頃が一番大変で、中学生は少しだけ、高校はそんなに大変ということまでは無かった。その理由としてははっきりしていて、順に先生の対応が良くなっていくからだ。小学生の先生というのは、言っちゃ悪いがかなり無責任な人たちがたくさんいる。夜の話し合いで、あんまり私語の声が大きいので注意したら先生だった、ということはざらだった。行事も教頭・校長を除くとかなり非協力的で、おれたちはいったい何をやってるんだろうな、という気分になったものだ。まあ、親なんかが学校に来ることが、素直に迷惑だったのだろうけど…。
 とまあ、そういうことだが、それはそれでいいだろう。高校になると先生たちも生き生きとして頑張っている感じで、素晴らしいな、と思いましたからね。結局そういうやる気というのは、ある程度の選抜がないと湧いてこないものかもしれない。いろんな人が混ざっている義務教育下にあって先生方が疲弊するというのは、あながち考えられないことではない。そうして学校が嫌いになった人が、先生として生きていかなくてはならないなんて、それはそれでお気の毒なことである。
 実をいうとブログにおいては、ほとんどPTA関係のことは書いてこなかった。ちょっと生々しい感じが好ましくなかったからだけど、距離がもてると、ちょっとくらいは考えていることくらいは書いてもいいかもしれない。ともかく、楽しいこともたくさんあったのは事実で、おかげさまでありがとうございました。

追伸:つれあいから指摘があり、長男が3年生の時からと判明しましたので、12年間ということになりそうです。謹んで訂正致します。
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アイスコーヒーがクール?

2015-05-16 | culture

 鴻上さんの本の紹介を読んだ。彼は長らく(もう10年)NHKのクール・ジャパンの司会をしている。クール・ジャパンは外国人が見た日本の姿ということでなかなか面白いのだが、まあ、日本人の自尊心をくすぐるものも確かにあろうが、単純に変な日本を楽しむということの方が主眼にあるかもしれない。そうして日本人自身が自分たちを不思議がるということに気づかされるわけだ。
 その鴻上さんが書いているが、日本のクールは何?というアンケートを外国人にすると、多くの回答は「ママチャリ」「洗浄器付き便座」「アイスコーヒー」ということになるそうだ。ね、ちょっとびっくりでしょ。
 中でも一番驚くのはアイスコーヒーではないだろうか。今では某コーヒーチェーン店が外国でもアイスコーヒーを出すようになっているらしいが、もとはといえば、これは日本発のものらしい。もちろん厳密には、もともとコーヒーを歴史的に先に飲んでいた諸外国のルーツというものはあるのかもしれないが、少なくとも一般的に普及した飲み物として庶民がアイスコーヒーを飲んでいる文化は日本のものであるといえるだろう。そうして熱いコーヒーしか知らない外国人が日本に来てアイスコーヒーを目にして驚き、飲んで感激するという図式だ。日本人の柔軟さに感心し、そうしてすっかりファンになってしまう。その象徴的なものとして、やはり多くの外国人が「日本のアイスコーヒー」をクールと認めるということのようだ。もちろんそんなことは日本人は微塵も知りはしないのだけれど。
 しかしながら考えてみると、これは日本が高温多湿で過ごしにくいからこそ、普通に考え出されたことだろう。さらに僕も個人的に記憶をたどると、子供のころに緑茶やコーヒーを冷やして飲むは、まだまだ一般的ではなかった。冷やすのは麦茶であって、緑茶を冷やすなんて、という反応がまず最初にあったように思う。さらにコーヒーを冷やして飲むCMが流れて、その後に徐々にそういう文化が始まった感じもする。それからは早くて、喫茶店などでは「レイコー」と注文するサラリーマンなどが登場した。まあ、それは大人たちであって、僕らが小学生の高学年になって、やっと認知できる存在になったのではなかろうか。まあ、研究している人も必ずいるだろうから、検証はその人たちに譲るが、まあ、もともと日本人の気質だとかいうよりも、かなり文化的に緩いからこそ成り立ちえた、近代日本の変遷ということになるのかもしれない。
 でもまあ、文化の伝播というのはあんがい遅いもので、いまだに日本のクールとしてアイスコーヒーが認知される程度には、日本特有に珍しいものであるというのは、面白いことである。個人個人が、これはいいことだと思っても、要するにこれを安易に商品化しない、もしくはできない会社というのが、外国には多いということだ。日本の商品の多様性というのは、外国人には脅威に映るらしいけれど、結局生き残るものは少ない。そうして生き残って普及したアイスコーヒーだからこそ、外国にも十分通用する力を持っているのではないだろうか。
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偏向理解者

2015-05-15 | 音楽

 椎名林檎のインタビューか何かを見ていたら、彼女が本来好きな曲は「歌詞がいらない。音楽には言葉は邪魔になる」というような意味のことを言っていた。人間というのは、ついつい言葉の意味に引きずられてしまう。そうすると音楽そのものを聞かなくなってしまう。音楽を聞くという行為にとって、歌詞がついているものはどうしても邪魔に思えるのだ、ということのようだ。
 ちなみに自分の作る曲というのは、あくまで職人として皆に受け入れられるものを考えているということであって、自分が好きなものを作っている訳ではないそうだ。自分を売るという意味で、ビジュアルも計算の上でやっていることで、そういう自分を映像で確認して、演じているということらしい。そうして構築された世界を隅々までチェックしてやり遂げるということで、まるで建築現場の監督さんのような仕事を音楽でやっているというのだ。だから音楽に自分がノッてきて、「イエーイ」となったことは無いんだそうだ。
 知らなかっただけのことだけど、プロというのは違うものですね。まあ、それが彼女の個性だとは思うが。
 しかしながら思い当たることは、僕なんかは英語もまったくわからないくせにふだんはいわゆる洋楽が中心だ。それも今ではいささか古めかしいものばかりだ。これだけ長い間聞いていて、さらにろくすっぽ英語の発音が良くなったということもない。まあ、歌詞を聞いてないこともないのだろうけれど、英単語として聞いてないということだろう。時々歌詞のカードなどで内容を知って、愕然とすることもある。この曲はこんなことを歌ってたのか…。まあしかし良くわからん方が、曲を聞いていて気楽である。だから好きな曲は歌えもしない。
 要するに音楽を聞いていたのだろう。日本のロックもまったく聞かないではないが、確かに歌詞が邪魔をしている場合もある。日本語は理解できるから、ところどころ聞き取れないとイライラする。日本の場合のみは、歌手にはちゃんと歌ってほしい願望がある。桑田佳祐くらいになると、そういうことは望まないけれど…。
 外国の曲の方が聞きやすいというのは、言葉が分からないということが、あんがい大きいのかもしれない。むしろ自国の歌しか聞かないような人というのは、それは好き好きだからかまわないことだけれど、知らず知らずに歌詞に引きずられていることに、無自覚なのではあるまいか。まあ、歌っている人が何かを伝えたかったのならば、僕はよき理解者ではないのであろうが、わからないけど曲が好きだという変な関係者ではあるのかもしれない。
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青木まりこ現象の謎を知りたい

2015-05-14 | 掲示板

 本屋でお腹が痛くなる人、便意を催す人というのは相当いるらしいことはそれなりに有名なことである。そのような疑問を最初に投げかけた人といわれることから「青木まりこ現象」と命名もされている。結論から言って理由はよくわかっていないが、印刷のインクのにおいが何らかの腸の動きを活発化させるのではないかというのが、少し有力視されている説である。他には本を並べている縦の配列模様が関係あるのではないかというのもある。まったく便意など催さないという人もいるので、人間共通の悩みというわけではないし、そもそも本好きは本屋に長時間いるので、単にそういうタイミングに見舞われる機会が多いせいだという話もある。僕の場合をかんがみても、必ずお腹がごろごろしだすわけではないから、ある種の前提が合致しない限り、やはり便意というのは発起しないのではあるまいか。
 もう一つ疑いがあるのは、最近はいくら本屋に行ったところで、あまりその場で買うことは少なくなった。それでこの便意問題も比例して少なくなっているように思われることだ。本屋で本を立ち読みなどして確認するわけだが、注文は帰ってからネットをクリックする。要するに荷物になるのが嫌なのだが、先日の出張中、もうそろそろ手持ちの本を読み終わるので、買うつもりで立ち読みしていたら、久しぶりに便意が来た。あれとこれと、そうしてほかに何を買おうかという気持ちと、そのような場面の過去の記憶がよみがえり、以前の場合もどの本を買うべきか逡巡していた時にやはりこのような時が来たのではなかったか、と思ったのだ。
 しかしながら本屋以外の買い物で、何を買うか悩んだからと言って便意の来る覚えは少ない。やはり思い違いなのだろうか。そこのあたりを研究してくれる人が出てくると本当に助かると思います。
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人間的な豊かな生活のために選択していること

2015-05-13 | net & 社会

 確かにスマートフォンを手放せない人が増えた。少なからず僕もそうだ。そうしてそのような現実を見て、人生の何かが損なわれたように言う人も多い。皮肉として面白いと考える人もいるだろう。そういうものだというのは理解できるし、ある種のものは、本当に損なわれてはいるだろう。スマホが不快だというのは勝手に思ってもいいことだし、それはそれで仕方がない。
 スマホを捨てる生き方をするというのは、それは自分で考えてしているのであれば、いいことであるとか悪いことであるとかいうこと関係なく、一つの生き方に過ぎない。ただ、そのような生き方をすることが素晴らしいというのは、まったく賛成できないな、と素直に思う。何故なら、スマホのある生活の方が、無かったころより明らかに豊かであると実感があるからだ。もちろんこればかりに時間を取られる生き方が良いとは思いはしないが、それは相対的に、スマホ以外の時間を自分が削っているということに過ぎない。このようなものは自分が使うものであって、使われるものではないはずで、そういうことを自分なりに感じて、コントロールすることの方が重要だ。そのことのむつかしさというのは課題としてあろうことはあるが、なにしろそれは不可能ではない。そうして一時スマホから身を離すというのであれば、最初に戻ると勝手にやればいいのである。
 将来的にスマホのようなテクノロジーを身に着ける方向はブレなく進むことだろう。それは良いことか悪いことかという議論はあっても、必然であることに変わりはない。そうしておそらくその方が人間的だからそのようになるということであることに違いは無い。人間は生き物だから、それが不自然そうに見えるというだけの事に過ぎないのだと思う。しかしながら人間らしいというのは、実はそのような機械を生み出して、自分の生活に入れてしまうような生き物だということなのだ。その流れを否定するのも人間らしいけれど、しかしながら、それを受け入れるからこそ、実際には多くの人間がその選択をするだろうけれど、そういう道筋そのものが、人間としてのそれらしさなのではないかと思う。要するに現在のスマホのような状況は、実に人間的なことに過ぎないと思う。それは良いとか悪いとかいうこととは、実は本来的には少し違う次元の現象なのだ。
 要するにそのようなことを、強要してやめるように言うのは、的外れなだけでなく、実際には不自然なことじゃないかと思う。自分でそうするは勝手にやればいいだけで、害になるような不自然な意見は、謹んでもらいたいものである。もちろん文化の中にさまざまな多様な使い方や、マナーのようなものは生まれるかもしれない。議論の余地というのは、そういうところにあるだけじゃないかな、と思うだけである。
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ごつごつした味わいの不思議な恋愛   恋しくて

2015-05-12 | 読書

恋しくて/村上春樹(監訳)(中央公論新社)

 ニューヨーカー誌に掲載された現代的なラブ・ストーリーを、村上春樹が訳して編纂したもの。このようなアンソロジーを組んで日本に紹介することで、日本にもまったく無いことではないが、少し日本の風土とは違った味わいを楽しんでもらおうということかもしれない。それに著者の村上も書いているが、やはり本人が読んで、それなりに感心してしまったということでもあるんだろう。さらに一編村上の描き下ろし作品もある。僕としては当然その一編さ読めればよかっただけのことなんだけれど、まあ、ついでと言ってはなんだが、結局ぽつぽつ読んでしまった。
 世の中には男女しかいないという言い回しもあって、しかしちょっと面倒なことに厳密にはそれだけのことでは語られない事実はあるにせよ、まあ、人は恐らくタイミングが合うと恋をしてしまう。生物学的に言ってそれは、確かに本能的な宿命であろうけれど、人間というのは複雑な生き物であって、生殖行動を必ずしも最終目標としないような恋もある。それは一つの原因ではあろうけれど、あえて一つであるに過ぎない。大人の恋と年少のものは違うということは多少あるにせよ、これは時折抗しがたく訪れる感情には違いない。そうして当たり前に個人差があって、さらにうまくいくかどうかというのが不透明にスリリングだ。恋愛小説が嫌いだという人もいることだろうけれど、おおむね体験的にはなじみのある小説分野ではあろう。
 しかし選ばれた作品というのはそれなりに癖があって、そういうところが引っかかってしまうが、更に村上訳というのは妙にごつごつしたところが残っているような感じがあって、スルスルと喉を通るようなわけにもいかない。そういうところがいいということであるけれど、まあ、少しばかりは人を選ぶような作品集ではなかろうか。
 また村上の描き下ろし作品にしても、カフカの変身をモチーフのしている訳で、ちょっとというか、かなり変わった話である。正直なところ、これが恋愛小説なのかさえ少し疑わしいくらいだが、青年はしっかりと勃起しているようだし、まあ、性愛のお話なのであろう。
 個人的には「愛し合う二人に代わって」で号泣に近い感じになり、「モントリオールの恋人」で、少しドキドキした。二つともちょっと困る話ではあるんだけれど、青春と大人の都合との対比ということなのかもしれない。他にも少し引っかかることはあるけれど、現代でも人は恋をするんだなという当たり前のことを考えながら、不思議な恋の仕方を楽しんだらいいだろう。
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上から目線は俺のことだ

2015-05-11 | net & 社会

 言葉の欄で考えるべきところかもしれないが、むしろネット上でよく目にするという感じがするのでここで取り上げてみる。それは他でもなく「上から目線」という言葉だ。
 意味が分からないわけではない。なんだか偉そう、尊大だ、ウザい、横柄、乱暴、なんかも入るかもしれない。偉そうな人というのはいるんで、それを外野から揶揄しやすいというのはあるんだろう。さらに実際に「これはちょっとな…」という場合もある。
 また、政治家や、専門家、芸能などの有名人なんかも、こういうことを言われやすい傾向にある。またへりくだらない企業家なんかもやり玉にあげられている。
 まあ、実際に言っている人が対象者をバカにしているのならともかく、そのようでない場合も結構ある。特に専門家が分からない人に説明しているのは普通のことだろうし、政治家は反対勢力から適当につるされるだけのことで、特に普通の場合の方が圧倒的だ。それでも上から目線といわれるのは、言っている人が尊大だからと思う。
 要するに発言者より偉い人が増えているわけだ。偉くない人であれば、横柄な物言いを言われたところで、特に何も感じないからだ。
 しかしながら、やはり実際には発言者と何のかかわりもないにもかかわらず、言われる筋合いのない発言に反応するということでもあるだろう。それなら少し分かるが、しかしそれは厳密には上から目線では無い気もする。単なる偉そうで気持ちの悪い人であって、まあちょっと滑稽かもしれないが、怒るほどのことでもない。
 関係のある人で、なおかつ自分の上の人でもなくて尊大ならば、上から目線は気になるかもしれない。これはちゃんと叱ってもよい問題で、だからそれはたいした問題ではない。言いにくい場合もあるが、たぶん付き合いが疎遠になるだけのことだろう。
 やはり、何らかのプライドの問題で、発言を受ける側に、不快感が生まれる場合が多くなっているのだろう。何のコンプレックスなのかは分からないが、そういう人の癪に障る物言いが「上から目線」という反撃の言葉になって表れているのかもしれない。もっともこの書き方が癪に障るだろうことは、もちろん僕には意識的である。それくらいこのことに反応している人を、僕はこき下ろして見ているということなんであろう。まったく尊大でいけないですね。
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おもてなしの精神はどこへ   県庁おもてなし課

2015-05-10 | 映画

県庁おもてなし課/三宅喜重監督

 最初はほのぼのとした役場を改革するような話なのかな、という展開だったのだけど、なんだか民間の方がかなり暴力的になって行って、ちょっとやりすぎかな、とも思われた。そうしてみんな、なんだかそのまま暴力的になっていく、ということではないが、妙に不自然になっているような印象を受けた。役場の問題はそうかもしれないが、しかし民間がこれでは良くないと思う。皆、なんだかあんまり本気じゃないというか…。まあそれはテンポということもあるし、話のつながりの不自然さにもあるのかもしれない。結局高知は魅力的だけれど、やっぱりダメだという感じもする。どこの田舎の市町村でも、いいところでありながら、観光的にダメというのは多い。そういうところで観光を担当するのは苦労するのが当たり前だろう。それをアイディアで打開するというのはいいけれど、そういうことだからダメなんじゃないかということも言えるのだ。結局多くの人の選択から選んでもらうということを考えると、競争するということを意味する。リンゴを買う人はミカンを買わなくなるかもしれない。単純にブームで一時良いだけでもダメだろうし、そうするとやはり地元を意識的に育てるよりないだろう。それで勝てないのなら、やはりダメなんであって、そもそもそんなに観光に力を入れるべきなのではないかもしれない。それを素直に口にする必要は無いにしても、他の役場の職員の態度を見ていると、そういうことをわかっているから、パンダを誘致するような話に乗らなかっただけのことなんではなかろうか。まあ、個人的には、高知って行ってみたいですけどね。それもかなり熱烈に…。
 しかしながらお話は、実はやはり恋だろう。告白できないというのは、それは別段普通の人の普通のことで、しかしタイミングを見計らって、しかるべき時にしかるべき決断をしなくてはならないだけのことだ。いや、その「だけ」が難しいのは分かるが、きっかけなんかも欲しいのは分かるが、基本的には自分なりに悩んで自分なりにけりをつけるより無いではないか。結果が上手くいくかいかないかということはあるにせよ、そういうのは二人のドラマとして自然に残るわけだ。もちろん小説や映画なのだから、そういうところで楽しいという必要はあるんだろうけど、だからと言って不自然すぎても良くないと思う。僕のような短気な人間からすると、いささかタイミングが遅すぎるし、皆があまりにも鈍すぎる。いや、僕は本来もっと鈍いはずだが、それでもこの分かり合えない感じは少しどうしたものかと思ってしまう。そのくせ周りは妙に説教くさい。分かってたんなら自分のことを先に考えろ、ということである。
 そういうことで、この映画で知った高知の魅力でないところで高知には行きたいし、この映画でやはり魅力的だった堀北真希を見るということではいい映画かもしれない。
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今いる子供に向き合うということ

2015-05-09 | 時事

 熊本の赤ちゃんポストのその後というのをテレビで見た。8年間で100人を超えているらしい。
 テレビだから仕方のないことかもしれないが、捨てられたその後の子供の感情をクローズアップしすぎるきらいがあるようにも思った。なぜ捨てられたのか理由がわからないし、本当の親を知らない悲しさや、まだ迎えに来るのではないかということで、一緒に捨てられた時の靴などの備品を捨てられない様などがあった。痛ましい限りだが、ある意味で当然だろうし、その子にどう寄り添うかは大変に重要な問題だ。子育てが個人の問題から離れた後に社会で何をすべきかは、多くの人で考えるべき課題だろう。
 さて、そういうことのほかに、やはり気になる問題はある。一つは一時置いて引き取りに来る親が当然あって、その後の姿があまりわからない場合があること。あとは知らんということは言えないにしろ、これは少し追跡する必要がありそうに思う。それというのも、その後に事件なったケースが実際にあることだ。引き取り後、やはり生活苦に耐えられず、無理心中をしたということもあったというのだ。子供を捨てるに至る最大の理由は、恐らく経済的な負担と孤立だろうと思われる。良心にさいなまれ無理に引き取ると、諸問題が解決しないまま、さらに窮地に陥る場合がありそうだ。結局痛ましさの究極の愚かな選択をしてしまわざるを得なくなってしまったのだろう。
 もう一つは里親問題だ。捨てられた子供は、多くはその後は療育施設へ送られる。まれに里親に託されたり、さらにまれに養子に迎えられたりする子もいる。新しい環境に移らざるを得ないのは仕方のないことだが、やはり子供を迎えるにあたっては、真剣にその子を育てる決意のある家庭も多いことと思われる。里親になっているところでは、すでに自分らの子供が居ながら、きょうだい同然に迎えているという姿も映しだされていた。
 そこで最大の問題になるのは、親権の問題なのだ。捨てた親が親権を放棄しないことには、養子にできないのである。これは法律の問題である。ちなみに赤ちゃんポストの設置の多いといわれるドイツでは、子供をポストに入れた後8週間以上引き取り申し出がなかった場合に、親権を放棄したものとみなされ、速やかに養子などが可能になるそうだ。そうしてやはり速やかに新たな家庭へ送り出される。さらに成人になるまで継続して調査をするということだった。
 期間や調査方法などには議論の余地はあるにせよ、日本の場合も法的にはこのような仕組みを見直すことは必至ではあるまいか。大切なのは、捨てられた子供のその後の筈だ。もちろん捨てられないような親の問題へのアプローチも必要には違いないが、対処的なことに過ぎないかもしれないが、現実をどうするかというのは、もっとも重要だ。問題点が明確な以上、これを放置するのはたんなる怠慢だろう。
 子供が捨てられる現実は、痛ましく悲しいことだが、結局は皆ひとごとで、そうして関係ない人に責任などない。しかしそれで済んでいいことではない。速やかに今いる子供に向き合うのは、新たな社会的な責任だといえるのではないだろうか。
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ご褒美は何がいい?

2015-05-08 | 散歩

 散歩の日課が続くのは、特にほかに何もないことと、さらに腰痛予防もあるし、やはり実はダイエットの期待もあると思う。散歩くらいで体重が減りはしないが、だからと言って何もしない人間の体重も減らない。要するに意識付けがや動機付けが持続するためにも、日課として歩くのは悪くない。
 歩きに出ることが億劫であることに変わりはないが、しかしひとたび歩き出すと気持ちが良くなるし、歩いていると、特に歩く以外にやることがないので、ついついいろいろ思索にはまる。これも結構楽しいのだけれど、歩いているときは前向きな考えになりすぎるので、帰ってくると結構そのまま忘れてしまう。メモをポケットに忘れないように。でも書いたことは見返すように。
 ところでダイエットのためにも歩いているわけで、歩いていると歩きながら特に食うわけではないので、それは大変にいいのだが、ダイエットが成功したらどうしようかな、などと考えたりする。そうして思うのは、ダイエットが成功したら、大好きなちゃんぽんを食べに行こうとか、カツカレーを食べてもいいかな、などと夢想することがある。そこでふと気付くのだが、やはり太るような人というのは、そのような自分へのご褒美が、ズバリ食べ物になってしまっているところがすでにNGなのではあるまいか。自分へのご褒美を食べ物以外に夢想できるようになれば、それはつまり減るトレンドがそれなりに持続するのではないか。
 じゃあどうするか。というのをまた次のテーマに、今日も歩くことにいたしましょう。
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日没後、西の空に注目

2015-05-07 | 散歩

 水星や金星は太陽と地球の間にあるので、地球に住む僕らから見て、太陽の反対側になることは無い。そういうわけで、この二つの星が真夜中の夜空に見えることは無い。太陽からも大きく離れた位置に見えることも無い。そういう理由で、目にすることができるのは、明け方か日没後しばらくということになる。明け方なら東の空、日没なら西の空という訳だ。
 という訳で、今日は水星が東方最大離角となる。太陽から東方にもっとも遠い距離になるということで、地球から見ると逆になって、西の空のもっとも高い位置に見えることになる。水星は金星より小さく見えるので、双眼鏡などで確認すると良いかもしれない。
 ちなみに、よりはっきり分かる金星の東方最大離角は、ひと月後の6月7日だ。覚えておくと、ずいぶん空の高い位置に輝く金星を目にすることができるだろう。
 水星の方が太陽に近いからより強く太陽の光を浴びているはずだが、金星の方が地球に近いため、逆に地球からは金星の方が大きく輝いて見える。僕は子供のころにこの事実がよく理解できていなかった。太陽は自ら輝くが、惑星は太陽などの恒星の光を反射しているだけである。だから遠い星で輝いているのは恒星で、宇宙の黒い闇の中には、目に見えない惑星などの星々で埋め尽くされているはずだ。そうして火星から見ると、恐らく地球がより輝いて見えることだろう。
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孤独であっても逃れられない過去とのつながり   王国

2015-05-06 | 読書

王国/中村文則著(河出書房新社)

 掏摸の姉妹編ということで興味を持って買っていた。手に取るのに少し時間がかかってしまった。それというのもその興味というのは、まさに掏摸という小説との関連だったはずで、大枠で内容は覚えてはいたものの、僕の中で少し関連性は薄れていたかもしれない。もちろんそれで何の問題もなくて、王国は大変に面白い作品だった。読みながら何度も不安になるが、しかしやはり面白い。それは掏摸の時もたぶん感じていたことで、だから姉妹編としてもちゃんと楽しんで、しかし独立した王国も楽しめた。ちょっと不思議な犯罪小説だけれど、そうして実は本当にはリアルなのかはよくわからないのだけれど、幻想的でもあり過ぎない見事な物語なのではなかろうか。
 僕はこの王国にいるような人たちの考え方は、ほとんどよく理解できない。あまりに違う環境にいることもあるけれど、いわゆる共感するようなところがほとんど無いせいだと思う。やっている犯罪はスリリングで面白いのだけれど、やっていることの本当の意味というのは謎が多い。想像するに裏社会で暗躍するということは、実際にそういうことがあるのかもしれないのだけれど、しかし人が本当にそのように支配されて動くというのは結局よくわからない。もちろん、組織的なつながりや、金銭的なものや、そうして恐怖というものが、人々を束縛するものだというのは分かる。しかしやはりそれはその人のすべてなのではない。そういう前提がどうしても時折邪魔するが、しかしこの恐ろしい世界観は、この人たちにとっては絶大なる世界そのものであり、すべてなのだ。僕らは読む側の人間だからそのことに驚きはするものの、しかし彼らに本当の意味で同情的でない。いや、同情はしてしまうけれど、物語の先に何が見えるのかということに興味が行ってしまう。そうして物語は、ある意味で読むものを裏切る。それは物語が仕掛けている罠だったのだが、そのことが実はかなり心地が良いような気もするし、やはり新しい絶望の始まりかもしれない。不安でありながら完成されている世界観に、実は圧倒されてしまうのだろう。
 もう一つ気になったのは、これだけ個人的に独立した人間、孤独な人間であるように見える女でも、実は完全に孤独なのではないのではないか、ということだ。過去に縛られるものが何もないような生き方を選択しているのは、他ならぬ自分が必ずしも望んでいることではない。彼女が生きる執着を見せるのは、必ずしも自分だけのエゴだけのものなのかということさえ疑問だ。だが、結果的に現実としては、彼女は孤独に生きざるを得ない状況で、しかし彼女が生きながらえているのは、彼女がやってきた強いつながりの意識なのかもしれない。そのような物語の組み方は絶妙で、いくつも無関係にはられているように見える糸が、実はちゃんと絡まっているような快感も覚える。それは構成力のうまさでもあるのだが、なんだか物語の偶然のようにも感じられる。著者を離れた僕の感想にすぎないが、そのような奇跡のようなものまで感じさせられるような、見事な小説だと思った。
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師匠といわれるほどに何とやら

2015-05-05 | ことば

 習い事や芸に習熟した人が師匠といわれるようになるというのは分かる。特にその道にある人が、その道にある人々からそういわれるのは問題がない。その道にもいろいろあるだろうから、特に伝統的な芸の人でなくとも、同じように師匠になれる人もいるだろう。それが師匠であっておかしいという言うことでもないし、堂々と師匠であって何ら問題がない。会社の社長が他の関係のない会社の人から社長といわれても問題はないし、単にちょっと小太りだから夜の呼び込みなどから社長といわれたからと言って、いちいち訂正するのもおかしな話だろう。現実に社長でなくても社長でおかしくないのなら、ましてや師匠でなくとも師匠がいてもおかしくない。そのような理屈であってもしかし、最近の師匠はちょっと怪しいな、と思うだけのことである。
 それというのも、噺家ならば少しは分かる気がすることもあるが、ちょっとした芸人が、たぶん弟子などがいるような現実を指してかもしれないが、少しその道に長くとどまるようなことになると、案外に部外者の人間を含めて、○○師匠などとあがめたりすると、少しみっともないような語感の響きを感じてしまうわけだ。飲み屋の社長でもみっともない場合もあるけれど、あれは酔客だからそれでいいとして、しかし何にも尊厳がないと思われるような人がそろって師匠と呼ぶような芸人というのは、なんだか偉くなっているけれど今はもう面白くも糞もないような、そんなような人なのではないかという響きが感じられることもある。まあ、考えすぎなんだろうけれど、現役ならばあんまり師匠でないような芸人が、実はまっとうなんではなかろうか、ということなんである。
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無責任にやりたきゃやればいいと思う

2015-05-04 | 雑記

 他人がどんな職業に就きたいかなどということにあれこれ言う気はさらさらない。職業に貴賤なし。泥棒などの犯罪(それはすでに職業とは言えないし)をするならいざ知らず、それでそれなりに生計を立てているというのであれば、他人が何をしようと知ったことではない。だからたとえば芸能人になりたいような人がいたり、それを夢にするような人がいたとしても、確かに自分の身内にいると少しばかり厄介な気分になりそうな予感はするにせよ、基本的に反対なんてことをするようなつもりはない。
 そうなんだけれど、やはりそういう世界に足を踏み入れるというのは、単なる憧れというのでは、なかなかうまくいかないものがあろうかもな、と思うわけだ。もちろん強いあこがれもないことにはどうにもならんだろうけれど、なれる人は案外すんなりなってしまう人もいるだろうこともある一方で、やはり本当に苦労しても身にならない人が圧倒的に多数だろうな、とも思う。中には本当にロクに金ももらえずに、こき使われてポイと捨てられるような人もいるはずで、さらにだまされたりいじめられたり、精神的にも本当につらい思いをするような人もいることだろう。努力をしかたから必ず報いられるという保証はないし(これは他の仕事でも一緒かもしれないけれど)、さらに少しばかり生活の足しになるようなことがあった人であっても、その後それが保障されるとも限らない。そういう中にも長い間スターであるというような人も確かにいるが、そうでない人がいるからこそ、そのような人が君臨できるという社会というのは間違いなさそうなことだ。
 しかしながらそれがたとえ不公平に映ろうとも、誰もがこの職業で飯が食えるわけではない。誰でもなれるような社会じゃないからこそ、一部の人がこれで生活を成り立たせていることもできるのではあるまいか。だから彼らは憧れられることもあり、そうしてそれを支えるようにして、ファンやそれを目指すというよう人をたくさん生み出すことになる。その循環に本当に付き合うことができるのかどうかということを、やはりある程度は考える必要があるだろう。
 まあしかし考えてみると、これは特に芸能で生きる人々のみをさしているとは限らないのかもしれない。必ずしも憧れられるだけの存在にないような職業であっても、大成したり少なからぬ成功をしたり、さらにその仕事を継続して続けられたりということも含めて、うまく立ち回ることはそれなりに困難がつきまとうわけだ。そうであるならば、できるだけやりたいことをやってもいいじゃないか、という理屈にはなるのだろう。まだの人も手遅れみたいに感じる人も、等しく自分のやりたいことは、無理にでもやってみていいのかもしれない。
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