大阪の件はシルバーデモクラシーが残念だという話に尽きるわけだが、しかし人口比で言うと、必ずしも若者が少ないわけではないので、そもそもシルバーデモクラシー問題では無いなどと言う人がいて混乱した。しかしながらやはり投票率として、若者が投票しないのだから老人の意見の方が政治的に強いということに何の変りもないのだから、単に混乱させるだけの意味のない考え方のように見える。民意として偏りが生じるのはそのためであるが、しかしそれが政治的にダメだとは言えても、不公正なのではないから制度的にはそれで何の問題もないのは当然である。しかしそういう正当性がありながら、あえてその正当性である構造まで否定して批判するのは、何かやはり考えがあって、単に批判のための批判が必要だという感覚があるのだろう。要するに否決されたことの正当性を擁護するための方便である。それなら最初から否決に至る正論で勝負すべきなんだから、勝者として今の良かったことをかみしめて喜べばいいだけのことではないか。そのことは滑稽ではあるにせよ、勝者というのはそういうものだ。
ところで先日業界のある先輩と共に飲む機会があり、老人世界のことをいろいろと聞くことができた。その先輩は業界の引退をする年頃なのだが、すでに地域の老人会の事務局のようなこともしておられるらしい。
そこで人事改選ということがあり、ある役職について自薦他薦の意見を議長が求めた。そこである人がすっと手を挙げて「ヒガシさんがいいと思います」という。会場はしばしざわついて、当のヒガシさんらしい人が恐る恐る、「あのーどうも私らしいけれど、私はアズマと言います」と言った。ところがその直後にやはり別の人が手を挙げて「私はヒガシさんがいいと思います」という発言をされたのだという。先輩は、「いや、すごい世界に足を踏み入れたものだな」と思われたそうだ。
もちろん老害という言葉は、大変に強いニュアンスがあるし、多少は失礼なことであるとは思う。何も好き好んで人は年を取らないし、年をとってもその個人が悪いなどと言うことは微塵もない。しかしながらその局所的な世界であれば何も問題が無いにせよ、広く社会の中でそのような混乱があるのが困るわけだ。何にも悪いことはしておられないし、理解する範囲において、そのような判断があること自体は健全ではあろうとも、困るものは困る。結局は日本がそういう社会に突入してしまっている現実をどうするのかということだ。
まあ、そのような面白き社会を楽しむ余裕がほんとにあるんだろうか、という話なんであるが…。