カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

本気を出した人間は違うぜ   俺はまだ本気だしてないだけ

2015-05-03 | 映画

俺はまだ本気だしてないだけ/福田雄一監督

 原作は漫画があるらしい。主演は堤真一。これも原作通りなのか不明だが、かなり個性的な人物。何しろ40くらいで会社を辞め、家には自分の父親と娘がいる中、平然とゲームをしながら失業暮らしを悶々と続けている。そうして突然漫画家になる決意をして出版社に通うようになるというお話。一応バイトもしているようだし、まったく本当に無能だとは言えないのかもしれないが、ヤンキーっぽくいい加減に世の中を立ち回って何とかしているという感じ。恐らくそれにはそれなりの今までの自分に対しての漠然とした不満のようなものがあって、遅れてきた反抗期を満喫しているということなのかもしれない。しかしながら風俗店に行ったら自分の娘が働いていたりして、それなりに衝撃を受けつつ反省しているようにも見える。実はかなり心の葛藤があってもがいているのだけれど、うまくそれが表に出せないということで、強がったいいわけが「まだ本気を出していない」という表現になるものらしい。
 実はそれなりにそういう気分というのは理解はできるのである。もっと掘り下げて考えてみると、バツイチになりながら嫌な会社勤めをしていて、本当にそういうものが嫌になりすぎたのではないか。しかし辞めたからといって何も打開できない。そんなことは十も承知していたはずだが、実際に自分がそういうことになって、いまさらどうにもどうやって後悔していいのかさえうまく言えない。自分でかえって自分をさんざん追い詰め追い詰められて、どうにもならなくなってから何とか溢れるものがあるのではないかという自分に対する期待のようなものがある。しかしもともとダメ人間にそういうパワーが湧き出るはずもない。グダグダしてしまうが、自分の所為なのに自分の所為にできない。しかし、実は頑張っているのである。こういう頑張りで本当にいいのか自信がないが、本当は意地になっているのだ。態度に出ないが苦しくもがいている。そういう姿が自分でも滑稽でいて、しかし本当に自分には、もうこれしか道がなくなってしまっているのだ。
 逃げているが、それでも実は必死で立ち向かってもいる。そういうことは、たぶん、これくらいの年ごろの人には誰にだってあることなのではないか。むしろこのように思い切ってバカができない人が大半で、さらにこれでもそれなりに運と才能を持っているらしいことも素晴らしいわけだ。基本的にはコメディだが、ところどころなんとなく笑えない苦しさもある。身につまされる思いがするというか…。変な映画だが、緩い感じもするが、この設定のお話がいい感じだということかもしれない。負けているが負け続けない気分の人には、それなりに有意義な物語なのではないだろうか。
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哲学より科学が上   主役はダーク

2015-05-02 | 読書

主役はダーク/須藤靖著(毎日新聞社)

 副題は「宇宙究極の謎に迫る」。
 文章は砕けていて真面目なのか不真面目なのかよくわからないところはあるが、読み進めるうちにだんだんと慣れてくる。そうしてなんとなくだがその面白おかしさもだんだんと理解されていく。いわゆる理系ギャグなのだが、学生時代などを思い起こしてみて、確かに賢い人にこんな感じのギャグが得意な人がいたな、と思った。ずっと科学をやっていると、基本的にそういう方面が洗練されていくのかもしれない。
 さて、時々何かいらいらしたような気分になる時があるらしく、それは恐らく科学に対する多くの人々の誤解に対するものであるらしいと分かる。特に哲学に対しては辛辣で「今や世界を語るうえで(過去の)哲学は不要であるが、科学は必須である。言い換えれば、現在の科学は、かつての哲学を完全に凌駕している」と言い切っている。言葉の上では過激だが、しかし実際はその通りだということが、この本を読めばある程度は理解できるのではないか。哲学の人が驚き怒りを覚えたとしても、科学無しに今や何も語ることはできなくなっているということだ。そうしてその現実の科学が解き明かした世界というのは、実はよくわからないものに支配されているということだ。科学というのは、まだわからないということを理解した体系ということもできる。どこまで解明されたら終わりかということでもないのでそれでいいわけだけど、わからないということを知るだけでも、十分に哲学的なのではなかろうか。
 さらに面白いと思うのは、特に天文学や物理のような学問を考えるうえで、桁のみを気にして大雑把に細かく数値を追わないという考え方をするということだ。以前円周率のπを3,14でなく3で教えるようになったというニュースで一時その是非について騒がれたことがあるが、考えてみると騒いでいる人々というのはおおむね科学関係者ではなく、主に文系のジャーナリストたちだった。できるだけ正確に表記したり覚えたりすることを怠るのはけしからんのではないかという意見もあったように記憶する。しかしながら物理の人たちは実はπはπ≒1として数値の桁だけを計算するようなことをする。そうしてそのほうがずっと大切でいいセンスなのである。考えてみると「太陽の質量は2×10(33乗 表記できず)グラム」と書くからすんなり理解できるわけで、「2.000.000.000.000.000.000.000.000.000.000.000グラム」などと正確に書くと、単なる嫌がらせのようなことになる。物事を正確に記述するのはだから、数学的には実は逆に分かりにくくすることになってしまいかねないのだ。そういうあたりのセンスが理解できると、文系の人も逆に数学的な理解を早められるのかもしれないが、このあたりの感覚が分からなかったり気になったりするから、理系を捨てて文系に走るのかもしれないとも思うわけだ。
 まあ、そのようなことで、科学的な考え方が合理的で哲学を凌駕するのはこのようなことであるということを楽しみながら理解することができる、と思う。実はよくわからないことは残ったままであると告白しておかねばならないわけで、こういう本は辞書のように、時々また読み返さなくてはならないようだ。
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アーティストであって欲しくない

2015-05-01 | ことば

 ミュージシャンやアイドル歌手に至るまで、最近は普通にアーティストと表現される場合が定着しているように見える。僕のような世代に抵抗感があるのは、それは以前はアーティストと言っていなかったにすぎないからだと思うが、さらにやはり芸術家という翻訳語があるせいと思われる。ちなみにこれが広がったのは、やはり音楽関係者が使い出したことと、翻訳文化として、特に米国では音楽関係もアーティストというらしいことがあるように思う。もちろん芸術家もアーティストだけど、日本のように厳密に芸術家という高みにない場合でも、創造的な感じと音楽を特に分け隔てしてない感覚があるようだ。たぶん、日本の芸術家より軽く使われ、尊敬の場合もあるが、一般的な人でもアーティスト的な感覚というのは普通にあってもいいような日常性があるように思われる。日本と重さの違いはかなりありそうだ。
 ところで亡くなった大瀧詠一は、アーティストといわれるのを嫌ったといわれる。自分はアーティストではないと公言していたそうだ。音楽を作る職人のような感覚があったようで、人前で歌うのは嫌ったが、CMソングやドラマへの曲の提供や、他の人への作品作りなどは喜んで引き受けた。印象から言ってこのような人であれば僕らは素直にアーティストでいいんではないかという感覚はあるが、しかし本人はそれが嫌だという。おもしろいもんだと思う。
 だからやはりアイドル歌手は違うんじゃないかと思ったりするわけだが、近ごろはご本人がアーティストを名乗るともいわれる。若い人には定着していて、さらに抵抗がなく、語源的にも必ずしも間違いではないのだけれど、やはり僕らは違うんではないかと感じてしまう。これは少し困ったことかもしれない。
 音楽家が芸術家でないとは言えない。しかし芸術家であって欲しくない場合もある。できれば使い分けてほしい。それが日本語的な語感なのではあるまいか。
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