育友会の役割を終えられた。PTAの役員をやりだしたのは、二十歳になる長男が小学2年生の頃からだから、13年ということになる。最初は青年会議所の現役でもあったし、監事だから何にもしなくていいといわれて始めたものだ。しかしながら副会長になり会長をと、段階的にハードルが高くなった。結局切れ目は作らず、副会長・会長は小・中学、高校とそれぞれやることになった。大変だったといえばそういう面もあったから、素直に卒業ということで、うれしい。青年会議所の卒業の次に嬉しい。それとやっぱり解放感。本来的にがらじゃないというのがあったから、そんなに化けの皮をはがされることなく終えられたのが良かった。いや、一度同級生の今はお母さんになっている友人から、ひとこと「(僕が会長なんて)ウケル~」といわれたことがあったくらいだった。ま、そうだよな。僕は本格的な不良とは言えないまでも、学校生活はちゃんと一貫してアウトローだったわけで、学校に関わるなんてもってのほかだったはずなんである。ま、子供のおかげで学校に写真なんかも飾ってあったりして、ウケない方がおかしい話である。
時々直接的にはあんまり言われないまでも、こういうのが好きでやる人がいるんだ、というようなことを漏れ伝わって聞こえてくると、なんとなく面白くない気分にならないこともなかったが、まあ、聞こえなきゃ平気なんだから、やることさえやればいいんだと自分に言い聞かせたりはしていた。それに役を受けるというのは、やはり人に頼まれたのを断れなかったというのが一番大きくて、要するに気が小さいだけのことである。しかしながら最初の方で、役を受けてほしいという電話をしてきたお母さんから、「基本的にはお母さん方が仕事の大半は引き受けるんで、男の人が役のところに名前があるだけでもいいんだ」ということをおっしゃった。要は表だって飾りでいいということで、そういう社会で僕の名前が役に立つのなら、人助けとしてやるしかないのかな、と思った。まあ、しかしそれでもそれなりに仕事はあったりしたわけだが…。
そういう役割ではあるけれど、小学生の頃が一番大変で、中学生は少しだけ、高校はそんなに大変ということまでは無かった。その理由としてははっきりしていて、順に先生の対応が良くなっていくからだ。小学生の先生というのは、言っちゃ悪いがかなり無責任な人たちがたくさんいる。夜の話し合いで、あんまり私語の声が大きいので注意したら先生だった、ということはざらだった。行事も教頭・校長を除くとかなり非協力的で、おれたちはいったい何をやってるんだろうな、という気分になったものだ。まあ、親なんかが学校に来ることが、素直に迷惑だったのだろうけど…。
とまあ、そういうことだが、それはそれでいいだろう。高校になると先生たちも生き生きとして頑張っている感じで、素晴らしいな、と思いましたからね。結局そういうやる気というのは、ある程度の選抜がないと湧いてこないものかもしれない。いろんな人が混ざっている義務教育下にあって先生方が疲弊するというのは、あながち考えられないことではない。そうして学校が嫌いになった人が、先生として生きていかなくてはならないなんて、それはそれでお気の毒なことである。
実をいうとブログにおいては、ほとんどPTA関係のことは書いてこなかった。ちょっと生々しい感じが好ましくなかったからだけど、距離がもてると、ちょっとくらいは考えていることくらいは書いてもいいかもしれない。ともかく、楽しいこともたくさんあったのは事実で、おかげさまでありがとうございました。
追伸:つれあいから指摘があり、長男が3年生の時からと判明しましたので、12年間ということになりそうです。謹んで訂正致します。