確かにスマートフォンを手放せない人が増えた。少なからず僕もそうだ。そうしてそのような現実を見て、人生の何かが損なわれたように言う人も多い。皮肉として面白いと考える人もいるだろう。そういうものだというのは理解できるし、ある種のものは、本当に損なわれてはいるだろう。スマホが不快だというのは勝手に思ってもいいことだし、それはそれで仕方がない。
スマホを捨てる生き方をするというのは、それは自分で考えてしているのであれば、いいことであるとか悪いことであるとかいうこと関係なく、一つの生き方に過ぎない。ただ、そのような生き方をすることが素晴らしいというのは、まったく賛成できないな、と素直に思う。何故なら、スマホのある生活の方が、無かったころより明らかに豊かであると実感があるからだ。もちろんこればかりに時間を取られる生き方が良いとは思いはしないが、それは相対的に、スマホ以外の時間を自分が削っているということに過ぎない。このようなものは自分が使うものであって、使われるものではないはずで、そういうことを自分なりに感じて、コントロールすることの方が重要だ。そのことのむつかしさというのは課題としてあろうことはあるが、なにしろそれは不可能ではない。そうして一時スマホから身を離すというのであれば、最初に戻ると勝手にやればいいのである。
将来的にスマホのようなテクノロジーを身に着ける方向はブレなく進むことだろう。それは良いことか悪いことかという議論はあっても、必然であることに変わりはない。そうしておそらくその方が人間的だからそのようになるということであることに違いは無い。人間は生き物だから、それが不自然そうに見えるというだけの事に過ぎないのだと思う。しかしながら人間らしいというのは、実はそのような機械を生み出して、自分の生活に入れてしまうような生き物だということなのだ。その流れを否定するのも人間らしいけれど、しかしながら、それを受け入れるからこそ、実際には多くの人間がその選択をするだろうけれど、そういう道筋そのものが、人間としてのそれらしさなのではないかと思う。要するに現在のスマホのような状況は、実に人間的なことに過ぎないと思う。それは良いとか悪いとかいうこととは、実は本来的には少し違う次元の現象なのだ。
要するにそのようなことを、強要してやめるように言うのは、的外れなだけでなく、実際には不自然なことじゃないかと思う。自分でそうするは勝手にやればいいだけで、害になるような不自然な意見は、謹んでもらいたいものである。もちろん文化の中にさまざまな多様な使い方や、マナーのようなものは生まれるかもしれない。議論の余地というのは、そういうところにあるだけじゃないかな、と思うだけである。