宇宙人ポール/グレッグ・モットーラ監督
毒舌家というのは居るけれど、西洋のそれは日本のそれとかなり違う気がする。日本の代表として誰がふさわしいかは難しいところだが、例えば立川談志なんかはまさに毒が知的でそれなりの根拠もあって文化人に好かれる。ビートたけしもそれそうな感じで、たぶんちがうな。放送できないということもあるかもしれないけど、やはりあんがい少ない感じだ。
Fuckという単語ひとつとっても、やっぱり日本語に馴染まない感じもする。短く汚く攻撃的だ。バカやアホとは異質だが、しかしそれの意味もあり、しかも隠語としか言いようがない。何にでもくっつけて連発する人もいるようだし、やはりこのニュアンスにある日本語というのは難しすぎる。「お前のかあちゃんデベソ」的な面白さもあるようだし、しかしそれは日本だと子供しか言えない訳で、大人のニュアンスでそれ的な馬鹿げた言葉が少ないのかもしれない。寅さん辺りなら知ってるかもしれないけど…。
そういう言葉の感覚もありながら、やはり宗教的な禁忌の背景も大きいのだと思う。途中で出てくる敬虔なクリスチャンらしい(しかも)女性が毒舌で解放されている様も、日本だとやはり今一つ難しい。そういう素質が無いとそもそもそうならない感じだし。要するに、このファンタジーはだからアングロ・サクソン的なのだ。限りなく馬鹿げているが、痛快なのだ。
このような曇りの無い馬鹿らしさは、遺伝的なものらしいということは分かっている。以前は文化だと思われていたが(もちろんそれもあるが)、それだけで無いということらしい。イタリア人の様になるとさらに度を越していくが、幾分見慣れている英米文化だから何とかついて行くことができるのかもしれない。もちろんついて行けない人もそれなりにいるだろうけど。
大変に面白かったのだけど、そういう訳で(特に日本人に対して)人を選ぶ映画だろう。また、舞台となっているエリア51についてもググっておくことをお勧めする。ポールにリアリティを感じている背景も理解できるのではないか。
そういえば、日本的な宇宙人像というのは、たいてい輸入品という感じもする。天狗はおそらく西洋人だろうし、神話の神様も中国のものが多そうだ。かぐや姫は宇宙人だろうけど、人間に近過ぎる。そういうことの意味を考えると、文化論として面白いかもしれない。