カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

袋麺リポート

2013-05-16 | なんでもランキング

 本当はランキングって言うんだから順位を決めるべきなのだが、食い物の順位というのは好きじゃない。というか、そんなものに順位があるというのは変な話だ。人間の舌の感覚に上下がある訳がない。売上順、人気順というのは良いんだけどね。
 それというのも、ここしばらく数カ月にわたってインスタントの袋麺をコツコツ食べ比べて見たのだけれど、あまりに長期にわたってしまったので、正直なところランキング的にはどうでもよくなってしまった。
 もともと食ってはいたとはいえ、きっかけは言わずと知れた「マルちゃん正麺」の所為ですね。これは確かにちょっとした事件だったことは間違い無くて、袋麺の水準が、グッと持ちあがる形になった。後発の「麺の力」「ラ王」にも一定の力を感じる。食べ比べた人も多いと思うが、そうしたくなる気持ちになるくらい力勝負が展開された訳だ。しかしながら個人的な感想から言って、やはり先発に分がある比較になってしまったのではなかったろうか。
 他にも色々食べてみたが、やはり値段の高いものにはそれなりの水準の金のかけ方をされているものがあり、例えば中華三昧の数種は、さすがという味なのであった。ドライブインのようなラーメン屋より袋麺の方が上であるという貫禄さえある。
 デザインから面白い北海道の藤原製麺も頑張っている感じがして、改めて店頭でよく目にするようになった。面白くおいしい袋麺の広がりを感じさせられる。
 ご当地のラーメンは以前からあった訳だが、袋麺という生産体制の商品として少し目立ったのは「富山ブラック」だった。衝撃度も理解されやすく、さらにやはり良い味ではないだろうか。気になってもう一度買ってしまう力があった。
 辛いラーメンはやはり韓国ものが良かったと思う。最近はいろいろ種類も増えたが、辛ラーメンの少し煮込んで旨いインスタントという感じも癖になる味であった。
 いろいろ買った中で、改めて再発見したのは「ホンコンやきそば」かもしれない。チープでマズウマという感じがとてもいい。いや、わりにイケるんですよね、これが。カップ麺市場のUFO系列の方が、ボリューム、味のバリエーション等で席巻している訳だが、袋麺のやきそばが旨いというのも、再発見だった。
 長らく手にとって無かったのだが、比較的地元の「これだ」ラーメンも懐かしく食べた。小学生くらいの時に食べてたのはこれだったことは間違いない。あとから「うまかっちゃん」に水をあけられてしまったけれど、これはこれで何となく大人の味のような感じもして、なかなか良かったのだった。
 正麺が出る前には世の中を席巻していたサッポロ一番も、やはり改めて力があることを知った。塩にしろ味噌みしろ、よく考えられているスープである。ベーシックにはこれがやはり強いということも分かるのだった。
 いろいろ食って適当に健康にも支障が出てくる頃のようなので、最近は五木の生麺風の蕎麦とかうどんを食っている。これはやはり九州の味なんだろうね。

 僕はカップめんは匂いが苦手で、さらに貧乏学生だった所為もあるから(カップは高価で手が出なかった)、ずっと袋麺のファンである。やはり手軽でありながらそれなりの水準の満足感があるというのが何より嬉しいものだ。キャンプのような野外で食うと、また格別の旨さがあるのは付け加えておきたい。
 近年の活況ある袋麺市場をみるようになって、いろいろあるけど、いわゆる不健康な食文化というものも、ある程度は必要なものだということを思った。また、常備食や災害などにも重宝しそうだ。ここらあたりで一応の区切りをつけて距離を置きたいとも思うが、またちょくちょく覗いてみたい分野であった。
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顔色で歴史が変わるなら、歴史とは事実とは関係が無い

2013-05-15 | 時事

 政治家の歴史認識問題についての発言に対しての報道機関の姿勢というものには、いつもいつも変な気分にさせられる。そもそも歴史がイデオロギーだというのも変だけれど、政治問題として何故まずいのかが、あまりはっきりしない感じがする。いや、政治だからまずいというのはある訳だが、それなら政治の中の歴史というのは、事実とは関係が無いということと同義であろう。
 例えば朝日新聞なら左翼思想なんだろうから、そういう人向けに報道しているということであるという前提に立てば、少しは仕方のない事かな、とも思うが、それでも赤旗じゃないんだからね。でもまあ他の新聞だって似たようなところがあってうんざりするので、特定の新聞のみの問題という訳でも無い。
 その一番の疑問は他国の反応を見て批判するという姿勢が一番かもしれない。他国の反応はいいとして、一緒に批判するならやはりその歴史認識が間違っているという前提が必要なはずだ。ましてや間違っているということを分かっているのなら、他国の反応の前に厳しく糾弾すべきだろう。その他の反応として他国の事を紹介するのであれば、少しはまともな感じということもいえよう。
 歴史問題や領土問題のようなものは一方の側の主張ではそもそも折り合いのつくものではない。そのテーブルに一緒に座らない限り将来は無いのだが、その前の段階で話し合いを拒否するのであれば、最悪の選択もあるということかもしれない。どちらかに都合の悪い部分があると、いわゆる譲歩した方が弱腰として自国の批判を浴びるので難しいのだが、それが怖いからと言って逃げていると、関係そのものは冷えるより無い。今はどちらも相手を信用してないのでテーブルにつけない訳だが、その前段階なら自国の立場をもう少しはっきりさせる必要もあるだろう。自由な言論の国だとは言え、他国の有利を引き出して喜んでいる精神性というのは今一つ訳が分からない。
 そういう訳で、歴史問題は政治的には避けられてきたということなんだろう(そのこと自体に問題意識があって、今のような政治的な発言へと追い込まれている図式もありそうだが)。ましてや日本は敗戦国で、戦勝国の歴史認識を踏襲すべきだということなら、まあ、どの期間が終戦なのかという期間を定めた上でなら、それでもいいだろう。もっともそういうものを定められるはずもないし、そもそもの歴史的な本文からは外れるだけのことなので、歴史問題は厄介な訳だ。
 二度と戦争を起こさないということの反省のためには、なぜ戦争に至ったのかという正しい認識が必要なはずである。歴史的に確定した正しさというのは、エネルギー問題(経済問題ということでもあろう)で孤立して日本が戦争に踏み切ったという事実だ。過去の間違った歴史認識を持ったために、戦争を起こしたとはまったく次元の異なる政治問題だろう。これは別段個人の持つ歴史認識では無い。そういうことから考えると、やはりそんなに安泰ではない世界像が広がっていることが分かる訳で、日本のおかれている立場はそんなに平安だとは言えない。
 メディア的に面白いから政治ゲームとして歴史を持て遊ぶことは、単なる暇つぶしよりたちの悪い、現代の歴史を作っているだけのことだろう。
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道路に横たわるあのヒモのこと

2013-05-14 | HORROR

 道を歩いていると先の方に黒っぽいヒモのようなものが落ちている。ひょっとするとセメントの区切りに何か引っかかっているのかもしれないなとも思う。それにしても何となく変だな、というのはだいぶ近づいてから改めて思う。そうして本当に目の前になるとその紐は急に向きを変えて動くではないか。そう、ヘビさんなのであった。
 温かくなってきたので道路でひなたぼっこをしているのだろう。ヘビさんにしてみるとのんびりしてるのに迷惑な話だろうが、こちらとしてもびっくりさせられて迷惑である。
 溝の方から激しくガサッと言う音を立てて逃げ出す影もある。トカゲさんであることもあるが、これまたヘビさんが増えている。カラスヘビなどは場合によっては飛びかかってくる。びっくりたまげるだけでなく、ちょうど車が来ることになれば轢かれてしまうだろう。それくらい激しく飛び上がってしまう。
 しばらく動悸がおさまらず難儀する。心臓が特に悪い訳ではないが、こんなことで死んでしまっても誰も気づかないかもしれない。もし原因が分かっても、ヘビに驚いて心臓発作で死んだなんて、家族は何と思うだろう。悲しいが滑稽で、きっと部外者には秘密にするに違いない。
 それにしてもヘビに驚いて飛び上がってしまうと、そののち何となくバツが悪い。思わず周りを確認したりして取り繕う。それくらい見栄っ張りな自分にも嫌気を覚えるし、しかし飛び上がって驚いた様子を他人に見られるのもたまらない気がする。幸い人口密度の低い地区を歩いているのでめったに人に出くわすことは無いのだが、一人で驚いている事実が恥ずかしくないとも言えない。
 恥ずかしくなっているのに無性に腹も立ってくる。なんでこんな目にあわされなければならないのだ。たかだかヘビの動いただけのことにこれだけの恐怖を感じるということが、人間の経験してきた原初的な恐怖心ということのような気がする。特にヘビに咬まれた経験もないくせに、これだけの怖さというのは異常ではなかろうか。
 これはホラーというより、散歩の話題だったかもしれないですね。平穏に歩くというのはあんがい難しいことなのである。
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無視できる労力の低さとストレス

2013-05-13 | net & 社会

 Facebookのハードユーザーなんだろうな、とは思う。やっぱり面白いものだし、その、なんというか、自然と気になって見てしまうというのはある。友達が増えるのも楽しみだし、みんなが何をどうしているという、一見どうでもいい情報に「いいね」を押せる(押せないものも正直あるけど)のは喜びである。コメントが来るのも嬉しいし、時には返答に困るものがあるにせよ、コメントを返すのも楽しい。理由はいろいろあるんだろうけど、これは生理的に快感があることなんじゃなかろうかと疑っている。べつに会って話をしてもいいんだろうけれど、実際には物理的にそんなことは不可能だ。でも多くの人が参加しているSNSならそれか簡単に出来てしまう。その状態そのものが快楽と関係があるというのは、僕なりに不思議な事件かもしれない。
 僕は学校が特に好きな人間ではなかったとは思う。登校拒否的なことをしていた訳では無いにしろ、何となく合わないなという感触はあった。友達は多くて(だから自分からはあんまり増やさないようにしていたくらいだ)、そのこと自体には特に不満は無い。嫌な奴もいるにせよ、僕自身の方が嫌な奴にはもっとずっと圧力をかけられる自信も持っていた。いわゆる一定の強さも持っていたように思う。高校くらいになるとそういう自分の力の使い道を放棄するようになったけど、それはある意味で同世代を馬鹿にしてたんだと思う。もちろんそんな自分の方がもっと馬鹿だということは知っている。思春期だからひねくれていたんだろう。僕自身の性格のめんどくささは僕自身が一番よく知っている。嫌な奴からひどく嫌われるのが分かっていても、そのことから素直に逃げるような事があんまり得意じゃない。結果的には度々衝突を起さざるを得ない訳だが、めんどくさいので本当には関わりたくない。でも学校の環境というのは、そのような関わりをいわば強要するようなところがあって、本当に自分の考えを曲げてしまうしか、その場をやり過ごせないという場面が多々出てくる。そういうことが、いくら親しい友人がたくさんいるからといって、自分の居り場をしっかりと確保することを阻害しているように感じていたのかもしれない。
 大人になった今でも、人間関係の不満はたくさんあるようだ。誰とウマが合わないということは特に秘す訳だが、それでも一応は誰とでもお付き合いは出来るくらいには大人のふりをしているだけのことだ。リアルはそれで仕方がない。今後も何とかやっていくさ。
 たぶんそういうもののつきあいのバランスを取るために、ブログで好き勝手なことを書いたりもするんだろうと思う。何でも書いているというのはウソだが、ある程度は鬱憤を晴らすことにはつながっている。自己顕示欲のようなものもあるに違いなくて、どちらかというと発信する場があるという安心感が、それなりに自分自身に寄与しているのだろう。
 そうしてやはりSNSである。これはリアルでも知っている人が圧倒的に多い。でも、なんというか、そんなに密に付き合っている感じでも無いんだな。そうなんだけど逆説的に、そんなに知り合いでもない人のことは却って親密に知ってしまったりする。要するに発信する度合いがそれぞれ違うので、リアルの親密度とはちょっとばかりズレがある訳だ。そこに微妙な親密さの濃淡が出てきている。背景まで分かる人だから特にかえって意見を控えたりする場合もあるし、知らないから容易に意見を書いたりもする。それは全部こちらの都合で恣意的にやってもぜんぜんかまわない。いつもネットの前にいるわけじゃないから、無視しているのか見忘れているのかだって厳密には分かりえないだろう。やっぱり相性の悪そうなヤツもいて、拒否までするつもりは無くても、堂々と無視できる。リアルだとこれにも気を使いそうだけど、まったくといっていいほどどうでもいいことになってしまったのである。
 学校の様に多くの人が集まることが可能で、しかし目の前にいても相手には分からない。このことのストレスの小ささというのが,facebookなどが中毒になってしまうひとつの理由なんじゃないかと思う。学校なら行くのが億劫でも、行かないと何かと問題になってしまう。でもそうじゃないハードルの低さが、とりあえず覗くという行動を助けているのではないだろうか。そうして嫌なやつはちゃんと無視してくれるだろうという安堵もある。さらに反撃のこない攻撃だってしかけることができるのだ(そこのあたりのことはまた考えてみよう)。もう少し使い方については今後も変化がありそうだけど、とりあえずの居場所は、かなりいいことは間違いないようだ。
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ひばりはやはりスターだった   東京キッド

2013-05-12 | 映画
ひばりはやはりスターだった
東京キッド/斎藤寅次郎監督

 一言で言うと美空ひばりに尽きる映画。
 僕らの子供の頃には子役といえばケンちゃんだった。そういう記憶があって子役というのは一時の流行りのようなもの(それでもずいぶん長くケンちゃんは子役をやってたようだけど)という達観があった。
 美空ひばりについては後の歌手の姿しか知らなかったのだが、昔から凄かったという話は親からも聞いたことはあるようだ。大人で唄が上手いのも素晴らしいが、映画を観ると子供の頃からずば抜けて上手いのが分かる。芸も達者だし、はっきり言って凄過ぎる。当時の人が熱狂するはずだよ。現代風とはちょっとばかり違うところもあるけど、今デビューしても間違い無く一世を風靡してしまいそうだ。そのまま死ぬまでずっとスター。これはもう、当たり前過ぎることだったんだと改めて思う次第だった。
 お話としてはけっこうどうでも良いスジで、結末がそうなってもホントにそれでいいのか疑問が残るような内容だったのだけれど、コメディとしても楽しいし、何となくおしゃれな映像もあったりして、得な映画だという感じではあった。
 出演している俳優さんたちもなかなか豪華だった。堺正章のお父さんも出ている。アチャコのなんということもないことをしゃべりながらおかしい感じもよく出ている。昔の芸人というのは、やっぱりどこか普通でない感じがにじみ出ていて、恐らく舞台芸と兼用しながら映画の世界でも活躍していたのだろう。普通っぽいのは難しくなるかもしれないが、俳優目当てで映画を観る人には良い時代だったのかもしれない。もっとも今でもそういう期待のある人は居るんだろうけど、芸風というのはやはり今とは違うものがあったんだろうね。娯楽映画だけれど、同時にこれは記録映画とも言えるのではないだろうか。
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目をそむけたくても避けられない事実   刑吏の社会史

2013-05-11 | 読書

刑吏の社会史/安部謹也著(中公新書)

 副題は「中世ヨーロッパの庶民生活」。刑吏とは、いわゆる処刑人のことを指している。当時の法や宗教観、そうして処刑や拷問を通して国家と庶民の考え方をひも解いていく。読み進むうちにとにかく具合が悪くなってしまった。人間が人間を裁いて、さらに刑罰を用いて拷問したり殺したりする方法がいろいろと紹介されている。サディスティックな性分のある人なら、かなり楽しめる内容になっているだろう。自分の身に降りかかることが無いということを時々確認しながら読み進めなければ、とてもつらい読書体験になってしまいそうだ。
 そういう内容だけれど、もちろん僕らを苦しめるために書かれている訳ではない(だろう)。中世のヨーロッパ(特にドイツだろうな)のことを紹介されているのだが、そのことをもって人間の歴史や本質を知ろうということなのだと思う。人間と社会のつながりや、生活と都市の成り立ち、そうして国家というものが形成される理由のようなものが段々と理解されるという仕組みである。少なくともこの方面のことを知らないまま、現在のわれわれの考え方のもとになっている流れを理解するにはかえって難しいことになりそうだ。名著として名高い本書だが、改めて当然のことだと理解できた。
 ヨーロッパという都市は、戦災をくぐりぬけて古いものがたくさん残っている。さらに、文字としての記録も数多く残されているようだ。また習慣として苗字に先祖の職業の名残を残すものも多いようだ。そういうものの中に、刑吏の存在を細かく読みとることができる。ある意味で素晴らしく、そして残酷にも見える。もちろん人にはそれぞれルーツがあり、好むと好まざるにかかわらず、自分と血のつながりから逃れることはできない。そういう自分に流れている血のようなものに興味を持つ人があり、そして研究をするということが繰り返される。過去の記録はそうして体系化され、また将来に残ることにもなるのだろう。
 神と人との関係や自然観の中で、もともと処刑は偶然とも関係のあるものであったようだ。処刑が上手くいかない場合もあって、生き残るものはその罪からも逃れることができた。しかしながら段々と処刑の技術もあがってゆき、偶然で生きながらえるチャンスも無くなっていく。法の考え方も整備が進み、そうして法は国家の権力と密接に結びついていく。国家や民衆を統治する術として法と処刑の権力を残酷に行使していく。民衆は国家への不満を処刑執行人である刑吏に向けるようになる。人を殺す人間に対する憎悪から、穢れなどの差別意識も芽生えていく。民衆の中にも階級や仲間意識や身分の違いが公然化していく。そういう中で一貫して刑史という職業に就く人間は、忌み嫌われる存在として定着せざるを得ない訳だ。
 ところが拷問や処刑に長ける刑吏には、医療としての技術も持っていることになる。拷問で弱った体を治して、さらに拷問を繰り返すなどをやるのだから、特別な資格を持つ医者よりも、庶民には信頼できる医者という顔をもつものもいたようだ。さらに罪人から拷問費用や処刑費用も取ることができる。自殺者の処理や動物の皮剥ぎの技術でも金銭が手に入る。経費もかかるが金銭的には裕福な地位も獲得していく。知性の高い人間も当然いて、引退後にも普通の地位を獲得して尊敬のもとに亡くなるという道もあったようだ。そのようなエピソードもふんだんにあって、実に興味が尽きることが無い。
 ところが刑史の職業はあっけなく失業の憂き目にあうことになる。ギロチンの発明だ。処刑に特別な技術を要しなくなる処刑道具の発展によって、その地位というものの特殊性も薄れていくのである。その後社会も変化し、国家と民衆の対峙の仕方も変わることになる。現代社会というものが、あたかも刑史の失業と共に現れるかのようだ。
 読むべき本は世の中にたくさんあるのは間違いないが、本当に意味のある本ということで選ばれる本というものがある。新書で手軽であるが、その意味は非常に重いものがありそうだ。少なくとも人間社会がなんであるのか知りたい人にとって、避けることが難しい本と言えそうだ。
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世界遺産は嬉しいか

2013-05-10 | 時事

 富士山の世界遺産登録は、おおむね喜ばしいニュースということになっているようだ。富士山周辺の観光関連の会社などの株価も軒並みあがって、大変景気がいい。「ヒマラヤが急伸」と書いてあるのを見て、思わずなんでよその国の山が!と思ったが、スポーツ用品店の株価だった。期待も大きいが、やはりその効果そのものが将来的には大きいのだろう。経済的に潤うことは、たしかに大変にいいことではある。日本人の心がどうだというのにはまったく興味は無いけど、懐に良いというのなら話は別である。
 一方でアルピニストの野口健さんなどは懸念を表明している。ただでさえゴミだらけの汚い山が、さらに荒らされることになるということらしい。屋久島なんかも世界遺産登録でひどいことになっているという。かくいう僕もいつか行ってみたいと素直に思う訳で、やはりそういう気持ちにさせられることが問題と言えば問題だ。世界遺産登録への思惑ということでは、まったく意に反しての結果を呼び込むことにつながるということらしい。
 富士山の近くに住んでいる訳ではないからまったく思い入れは違う訳で、当初は地方のお喜びニュースだと思っていた。しかしながらそのような影響があることを思うと、世界遺産という考え方そのものに、なんだか疑問を感じるのは確かだ。
 実を言うとNHKの世界遺産という5分の番組をコツコツ見るのを楽しみにしていて、それなりの数の世界遺産を堪能している。いろんな種類があって、建物だけでなく、自然や文化なども登録されている。さすがに歴史のあるイタリアのものが多いのだけど、いかにもという西洋的な文化的価値観を理解できる訳で、世の中は偏見に満ちているということが学習できる。
 まあ何が言いたいかというと、世界という名前を冠しているけど、そういう権威主義にあやかりたいというのは、やはり何となく情けないのかもしれないな、ということである。良いものは良いんであるなら、向こうから頭を下げて登録させてくれ、ということにならないのだろうか。という考え方そのものも日本的なのは悲しいところだが、主張しなければ認めないという文化に馴染んで行く過程としての日本の姿であるなら、もうこれはしょうが無い問題なんだろうか。僕もいずれは死ぬから、どうでもいいのかもしれないけど。
 ただでさえ数が多過ぎてありがたみが薄れているようにも感じる世界遺産。ポケモンの数が増えるのとはわけが違う訳で、そろそろ打ち止めにしてくれないものだろうか。
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イスタンブールを支援したい

2013-05-09 | 時事

 猪瀬都知事が失言をしてオリンピック誘致に黄色信号がともった、という報道がしばらく続いた。けしからんという意見ももっともで、既に多額の誘致の資金をどうするのかという問題とか、政治家の資質がどうかということなども議論があった。そもそもルール違反をするような発言をしてしまうというのは、まずいことなんだろう。記者の誘導にまんまとはまったということも言われているし、脇が甘いという視点からはどうにもならんかもしれない。
 僕自身は失言問題をあれこれ言う時点で、またか、という気分だし、それで資質がどうだという意見も、なんだかな、という気持ちがあるのは確かだ。そういう資質が政治家に要るというのは、まったくどうでもいい議論だとも思う。単に面白くない意見を言う人こそが、本来的な政治家の資質なら話が別だが…。
 そもそも東京オリンピックってどうなのよ、という人からは、撤退出来て大変によかったとも聞いている。事実上選ばれることが無くなった(ってホントかね)事で、さらに資金が消えなくて良かったとも聞く。そういうのを狙った発言だとは分からないけど、もう猪瀬知事本人もだいぶ嫌になったことは間違い無かろう。辞める理由も出来たし、気楽になればいいとも思うが。作家の力量のある人だから、そういう仕事をした方がいいんじゃなかろうか。
 実はどんな失言をしたのかと言ったらあんまりはっきりしないが、「イスラム教国が共有するのはアラー(神)だけで、互いにけんかしており、階級がある」ということらしい。トルコに対する中傷につながるというのは確かそうだけど、まあ、その通りだね。政治家としてはドボンかもしれないが、間違ったこととは言えそうにない。日本も近所の国とは仲が悪いし、神様はごっちゃだし、はっきりした階級は無いけど格差はあるよ、といったお互いさまではあるにせよ。
 早いところ東京を諦めてトルコの支援に切り替えるってのも良さそうだけど、やはりこれは立場上できない問題なんだろうね。それができないのなら、やはり政治家としての資質がありそうである。
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遠足は終わってしまったが…   夜のピクニック

2013-05-08 | 読書

夜のピクニック/恩田陸著(新潮文庫)

 最初に断わっておくと、特に感心した訳ではない。むしろ我慢して読んだかも。それは僕には合わないというだけのことで、ちょうどこの本しか手元に持っていなかったので読んでしまったにすぎない。まあ、そうではあるんだけれど、この本の評判などを考えると思うところは無い訳ではない。むしろ僕に合わないのは当然のことのように思える。
 実を言うとなんで買ったのかも失念した。手に取ろうと思ったのは、息子が学校で遠足をするということだったので、気分的にその関連だろう。僕はきついことは大嫌いだけど、遠足は好きである。息子が遠足を好きなのかは知らないが、遠足では特に目立つ子であるらしい。そういう生徒の気分というのも久しく忘れている。まあ、忘れてしまってもかまわないことではあるけれど、ひょっとするとまた楽しいことが起こるかもしれない。
 一晩歩くだけのことだけど、そこにドラマがある。いろいろ仕掛けがあって、いろいろもつれていた糸が、この晩をきっかけにほぐれていくということかもしれない。生徒であっても、学校社会での人間関係というのがほとんど主だということが分かる。僕にはそういう意識が無かったから、たぶんこれらの会話がどうでもよかった。鈍感でもあったし、しかし、やはりどうでもいいような感じだ。物語のスジとしての興味があるから、先を進めることは出来たが、最終的にはだいたい読めた通りではある。幽霊の仕掛けなど、上手くピースのハマるものはあるにせよ、男だった僕にとって、学校の風景はまったく別のものだったのだろう。
 確かに遠足でいろいろ話をする。若い頃にはどうでもいいことでも、本当に延々と話をしてちっとも飽きない。そういうことはあったかもしれない。自分の精神がどこにあるのか、いちいち確認が必要なこともあろう。遠足のようないわば強制の時間で、しかし自分たちの関係性が自由になっていく。そういう体験は本当に必要な時間ということなのかもしれない。舞台はあって、だから伝統は廃れない。修学旅行より夜間歩行。それもかなり過激に。誰の体験なのか、もとになる題材があるのかは知らない。むしろ不思議な行事のようにも思うが、そういう学校があっても不思議ではない。そういうものに身をまかせて、ひょっとすると自分の人生が変わるかもしれない人間関係が構築される。やはりドラマとして設定が良いということなのだろう。
 本来は思惑があっても、かなりの偶然もあったはずだ。もちろん小説だから仕組まれてはいる。本当はギリギリのところで出来上がる一晩のことだが、そういうことが気になったのかもしれない。感想としてはそれがすべてだが、そういう構成が多くの人にウケたのであろう。
 大人になった今でも夜間歩行をやりたいと思うか。答えは断然イエスである。競技としてはどうかとも思うが、近所の寄り合いで企画されれば参加するかもしれない。もっとも現実にはそのような企画があって、参加する機会も十分にあるのだが、実際には参加したことは無い。たぶん僕の動機なんてそんなもので、やはり一人で歩くより他になさそうだ。そういう意味ではやはり青春は終わった訳で、思いだせない記憶に過ぎないのだろう。
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ちゃんぽんを語る(語れない)悲しさ

2013-05-07 | 

 長崎出身であるというと、ちゃんぽんの話題を振られることは多い。それだけ有名なのであろうことは理解しているが、有名になると通り一辺倒でいいものかどうか、ふと考えることはある。厳密にいうと長崎と長崎市という距離感の問題があって、ちゃんぽんの成り立ちそのものがかなり違う。さらにちゃんぽんは長崎が発祥というのは定着したことだろうけれど、九州にはさまざまなちゃんぽん文化がある。それは長崎ちゃんぽんでは厳密には違う可能性が高い。別段コピーしたり真似したりしてそうなったということでは無く、その土地で発展したものではないかということでもある。そういう多様性があって初めて、総体としてのちゃんぽんという姿がある。しかし出身が長崎(県)である人にはそのことを尋ねられている訳ではなかろう。そうしてさらに長崎に期待されているちゃんぽん像の、どこに焦点を絞ったものだろうか?ということを考えるわけである。
 ちゃんぽんの記憶としては、まず家庭料理という人が長崎には多いのではないかと思う。少なくとも僕にとってはそうだ。おふくろの味としてのちゃんぽんだ。母は長崎人としての正当なちゃんぽんを作る人では無いので(たぶん)、これは正当なちゃんぽんでは無いのか。そうではないという意見があってもかまわないが、しかし事情は違ってそうとも言えない気がする。というのは、やはりちゃんぽんは家庭料理としての顔がちゃんとあるからだ。もともと中華料理屋のまかない飯ということだろうから、基本的に客に出すよそ行きのものでは無かったのではないか。具だくさんでごちそうではあるけれど、家庭で手軽に食べられる味がベースにあって、そこで初めてさまざまなバリエーションのちゃんぽんを楽しめるという気がする。
 ちょっと違うかもしれないが、フランス人などは家庭でもワインを日常的に飲んでいるだろうけど、それは外で飲んだり友人と飲んだりするときとは違うベーシックなものを飲んでいるという話を聞いたことがある。おそらくそのような素地があって、さまざまなワインを楽しむ能力が事前に身についていくのではあるまいか。
 まずはそのような家庭文化というか食材文化というか、スーパーで食材を手軽に買えて、そうして大人から子供達まで家でちゃんぽんを食べるという体験がベースに無いと、ちゃんぽんという総体を語る出発点にたどり着けない気がする。
 だから僕らはついつい、ちゃんぽんの観光客向けと地元向けと別に物語を語らなければならないという複雑なことを普段からしている。リンガーちゃんぽんも新地のちゃんぽんもまちの大衆食堂のちゃんぽんも皆ちゃんぽんという名前をもちながら、一緒に語るのには本来は無理があるものなのである。それはそれぞれにおいしく魅力的だが、しかしやはり乱暴なくくりなのである。
 でもまあそんな面倒なことを言っているうちに、人々の軽い興味はそがれてしまうかもしれない。通り一辺倒にちゃんぽんを語らざるを得ない悲しみは、そうして心の中にひそかに折り重なって沈んで行ってしまうのかもしれない。
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相手があるから進めない件

2013-05-06 | 音楽
Pearl Jam: All Along The Watchtower [HD] - 2010-05-15 - Hartford, CT


 まあ、楽しそうで何より、である。
 最初にこの曲を知ったのはジミヘン。その後ボブ・ディランの原曲を聴いて、まあ、なるほど、とも思った訳だ。もちろん原曲がいいので誰がやっても良いということになるんだろうけど、だいぶ前にアマチュアバンドがこれをやってて何となく滑っていた。冒険には拍手を送りたいが、なかなか難しいもんだということは身にしみた。ギター一本だと様になるが、バンドだとあんがい上手くいかない曲かもしれない。

 毎年言ってることだけど、ゴールデン週間というのが終わるのが待ち遠しい。普通の週間になってやっと休まるような気分になるらしい。もちろん僕んところの職場に祭日が関係ないこともある。週に40時間と決まってるので、そういうもんなんである。僕は守って無いけどさ。
 まあ、それでも人はこの時期に休みたくなるらしくて、やっぱり人数は減る。それで大変かというと、出先機関は休んでたりするんで、適当に暇なこともあったりする。僕のような立場だとよそと話が進まないで困ることも多いけど、まあ、そんなことがあっても自分のことを済ませるチャンスなんで割り切ることも出来る。ちょっとフル回転できないフラストレーションということなのかもしれない。特にバリバリ仕事が好きな人間でも無いけど、アクセル踏めないのは嫌だということなんでしょうね。人間の自分勝手さを見つめ直す週間であったということで、明けたらまた適当に頑張りましょう。
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良いペースとはいえない

2013-05-05 | 音楽
Willy Moon - Yeah Yeah


 微妙にダサいところが良いのかもしれないですね。

 昨年は20回ぐらい風邪をひいたとあてずっぽうに言ってたんだけど、今年既に9回を突破。自分で言うのもなんだけど、ウソにならずに済みそうですね。特に正直者であることを心がけている訳では無いんだけど、人一倍体が弱いのは間違いなさそうだ。
 見かけがどうなのか分からないけど、僕は子供のころから一貫してひ弱だ。気が小さいので無理を強いられても断れないが、すぐにつぶれるので当てにはならない。基本的に期待にこたえるのは嫌だから、そうやって被害が小さいうちにあてにされず落ちぶれていくというのが理想的である。誰も相手にしてくれないのは寂しいかもしれないけれど、大人になったのでそれでも何とかやっていけそうである。
 しかしまあ、相手も困るだろうけど僕だって困る。具合の悪いのは好きな訳ではない。体の痛みにはやはり弱いし、要するに天然の拷問を受けていることと同じである。少しくらいマゾっ気があると、そういうことも楽しめるのかもしれないが…。
 しかしながら具合が良くなる爽快感というのがあって、これはこれで気分がいい。やっぱり世界はいい気分でこそ過ごしやすい。年間の回数なんて本当はどうでもいいことだから、今後は増えないように祈ることにしよう。
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人間の賢さを量る

2013-05-04 | 散歩

 散歩をするにはちょっと温かくなり過ぎな季節になってきた。既に日中は暑くてやってられない。でもまあ朝早くだとか夜に飲んでからだとかはやはり億劫だ。意識がしっかりしている日中に歩数を稼ぐしかなさそうだ。
 犬と一緒にいる時間が多いので、犬という動物の賢さというのは日々実感している。しかしながら犬が賢いといっても、犬の世界の賢さというのは人間の世界の賢いという価値観ということとは本来何の関係も無いことだ。その様に考えたがる人間というのは本当に愚かであるという気もしている。
 先日テレビを見ていたら、やはり犬の賢さを確かめるために実験をしていた。目の前に食べ物をおいて「待て」をさせる。その間に飼い主は別室に消える。犬が待っている時に横から別に人間が食べ物を取ってしまう。そこに飼い主が現れて「待て」を守れなかったといって激しく犬を叱る訳だ。犬は言い訳ができないから情けない顔をしたり、おなかを見せて謝ったり(取り繕うというか)する。その行動を見て、犬というのは飼い主の怒った感情にだけ反応して対応しているにすぎないという解説があった。つまり、単純な対応しかできない賢さしか無いということを言いたいらしい。
 言いたいことは分からないでは無い。さて人間を同じように実験することは難しいが、想像でやってみよう。例えば宇宙人に隔離されて目の前に白身フライをおかれて「待て」らしいしぐさをされたとする(白身フライは僕の好物だ)。彼はそのまま別室に居なくなる。ところがそこで白身フライは指示をだした宇宙人の仲間が横取りしてしまう。そこで別室の宇宙人が現れて激しく叱責されたとする。僕ならどうするかというと、目をぱちくりさせて困惑するだろうと思う。言い訳しても意味が無いし、その場が怖いだけだろう。つまり僕ら人間(僕一人が代表するのもおこがましいが)は、その程度しか知的能力は無いわけだ。
 実は実験で分かることは、怒られた反応をおもしろがれるという人間の娯楽性や残酷性の証明だろう。特に西洋人の多くは、飲み物を遠慮して断れば自分は平気で一人分のコーヒーをついでくつろげる程度の考察力しかない。彼らには感情を読み取る能力に欠けている。知能が低いのかどうは分からないけれど、犬の知能を量れる能力には欠けている可能性は大きいだろう。
 人間のような知性というのは、動物よりも優れた賢さだとは限らない。ましてや人間の思惑通りに行動ができるような動物が、優れた知性の持ち主であるはずもない。むしろ犬は人間に迎合できる能力を少しばかり発揮できるというだけのことで、本当の賢さは人間に見せる必要性すら感じてはいないだろう。そのことが分からないとすれば、人間というのは底の浅い生物であるということになってしまうのではないだろうか。
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どれくらい旬じゃないのだろう

2013-05-03 | ことば

「いつやるか、今でしょう」という言い回し(またはそれに類似する言い回し)がネット上に増えてきて、いったい何だろうとずっと不思議に思っていたのだが、林修という予備校の先生のCMだったんですね。遅ればせながらつい最近知りました。本家本元はさすがにインパクトがあって、流行るはずだなあと感心してしまった。多くの人が感じていることだろうけど、この先生の表情がなんとも「イラッ」とさせられるところがまた良いんだろうと思う。挑発させられてなお且つそうだよな、という説得力もある。素晴らしい。
 しかしながら言い回しは多少違うとはいえ、「やるなら今」だとか「今やらずにいつやるの?」とかいうような言い回しは、繰り返し聞かされ続けているように感じる。本当に繰り返し繰り返し聞いてきたから、僕も何かの折に使うことがあるようだ。
 古い話だが敬愛するTキくんは「今できるものであっても、明日に伸ばせるものは今やらない」と言って僕を呆れさせたが、人間の先延ばしの感情というのは、実際にはよく理解できることだ。〆切りギリギリの方が、刹那的な感情も集中力も十分の時間が無いといういい訳も揃っていて、都合がいい。今やるべきことを今やるというのは、実は大変にハードルが高く、なおかつ難しいことの様である。そこをイラッとする感じにつかれることで、かえって楽しい気分になってしまうのかもしれない。マゾっ気があるけど、なかなかの魔法の言葉遣いである。
 でもまあ、僕まで知ってしまったということを考えると、既に旬では無いんだろうな。かえって使いづらい言い方になってしまったのかもしれなくて、ちょっとだけ残念である。
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大国と小国とその狭間 アイアン・スカイ

2013-05-02 | 映画

アイアン・スカイ/ティモ・ブオレンソラ監督

 最初はなんだか見たこと無い俳優が多いから、よくハリウッドで企画が通ったもんだと思ったが、後で調べたらハリウッド映画では無かった。アメリカの自虐ネタもあけすけで良くやるもんだと思ったが、どおりで合点がいった。本音で語っていただけのことなんだ。要するに本当に自虐的なのは本国ドイツのナチス・ネタということであって、いまだにこのような病理が生きているかもしれないという恐怖が、どこかに潜んでいるものなのかもしれない。
 日ごろ見慣れている映画の常識とのずれがある。知らず知らずアメリカ・ナイズされているということなんだろう。行き過ぎ感や足りなさ感が両方ある。ピントのずれのような感じかもしれない。ふざけているが、どこか客観的になってしまうのかもしれない。見えている世界や、感じている常識が違うのであろう。結果的にはそれなりに面白いので、そのギャップを楽しむのも手かもしれない。アメリカ人には向かない話かもしれないし、しかし本当は日本にだって向かないかもしれない。そういう向かない文化を考察する。少しばかりは共感だって生まれないとは限らない。
 世界は狭くなったと当時に、やはりどこかわけのわからなさというのは分散しているようにも思う。極めてハリウッド的に作られていることがこれほど明確なのに、どうしてもいわゆるそれ的では無い。結果的にやはりずいぶん違う世界観の中に生きている訳だ。もちろん冗談だから共通のものが多い。そうでなければ笑えない。笑えるが、どこか不思議。そういう感覚を磨けるかもしれない。
 荒唐無稽な世界観だが、しかし背景のエネルギー問題もある。米国の大統領は選挙のためにやっているのだが、しかしそれを利用した国の協力者は折角だからエネルギーの調査をしようとしていたのだ。壮大な核戦争になってしまうが、悲惨な感じはあまりない。問題はその後の世界がどうなるかで、やはりエネルギーをどうにかしなければならない。荒唐無稽なぶっ飛んだ話の根拠が、そういうリアリティをもとにしているように見える。各国が協力しているのも、実は出し抜こうとしているのも、そのような利権が背後にありそうだ。厳密には何のリアリティも無いが、少なくとも風刺としては効いている。あんがい普段の生活は真面目な人たちが映画を作っているのかもしれない。それとも、大国に抗うための手段として、普段から意識にあがっている問題なのかもしれない。
 馬鹿げた映画を観て、結局そういうことを考えてしまう。風刺というのは、人間の想像力に火をつける作用があるのかもしれない。
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