刑事コロンボ・狂ったシナリオ/ジェームズ・フローリー監督
ハリウッドの人間ドラマと演出そのものという雰囲気を楽しめる作品。コロンボらしからぬところもあるんだけれど、良く出来ているので楽しめる。犯人が性格的にも問題があって、それにかなりドジを踏んでいるところがあって、次々にコロンボの罠にはめられていくさまが痛快でもある。ささやかな抵抗を試みているようでいて、段々詰められて行きながら生活の方も破綻していくさまが、人間ドラマとしても面白いのだった。
人生を上手く立ち回るというような事が可能な人もいるのかもしれないが、それがあたかもシナリオのごとく上手く機能しているのかどうかというのはかなり疑問だ。強烈な才能のある人が、その能力を駆使して地位を獲得するというのは分からないでは無い。しかしひとたびその地位に就いたものが、その才能以外のものを発揮しようとするならば、やはり上手くいくはずがないということかもしれない。その上に過去にキズのあるものは、忘れているようでいて、あとからそのことが持ちあがると簡単に崩壊してしまうということもあるのだろう。上り詰めるうちの誤りの度合いもあろうけれど、主人公の犯人の誤りというものが、あまりにも致命的に大きいというのが、まずは大きなポイントだろう。上り詰めているようでいて最初から破綻している。後になって考えてみると、そういう人物だったように思えてならなかった。
これはあてずっぽうの想像なのだが、たぶんハリウッドの特殊技術などの新しい分野での若者の台頭というのがあって、この主人公の様に多かれ少なかれ自己中心的で、しかし会社の中では成功しているという人が、モデルとしてそれなりに存在したんではなかろうか。一見して変な人で、しかし何となく傲慢で自信過剰だ。新しい映像を創作する才能は飛びぬけているが、人間的には未成熟なのだ。しかしエンターティメントの世界では、観る人間の度肝を抜ける斬新さが必要だ。旧態依然の創作手法でやり続けられるほど甘くは無いということなんだろう。
しかしながらそういう人間とコロンボの対比ということでも、感慨深いコントラストになる訳だ。エピソードの中に挿入されていたベテラン秘書のやり取りなど、年配者のしたたかな面にやり込められるということも印象的だった。日本に比べて米国というのは若い力に寛容という印象があるが、しかしながらこのような流れを見ていると、必ずしもそうではない、強力な保守的な精神性というものも垣間見ることができる。脚本は極めてお洒落だけれど、そういう背景も含めて溜飲を下げる人も多いことなのだろう。
犯人にとっては本当に嫌な人間としてのコロンボは、調子に乗ってしまいがちな若い力への戒めでもあるようなのだった。