カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

ちゃんぽんを語る(語れない)悲しさ

2013-05-07 | 

 長崎出身であるというと、ちゃんぽんの話題を振られることは多い。それだけ有名なのであろうことは理解しているが、有名になると通り一辺倒でいいものかどうか、ふと考えることはある。厳密にいうと長崎と長崎市という距離感の問題があって、ちゃんぽんの成り立ちそのものがかなり違う。さらにちゃんぽんは長崎が発祥というのは定着したことだろうけれど、九州にはさまざまなちゃんぽん文化がある。それは長崎ちゃんぽんでは厳密には違う可能性が高い。別段コピーしたり真似したりしてそうなったということでは無く、その土地で発展したものではないかということでもある。そういう多様性があって初めて、総体としてのちゃんぽんという姿がある。しかし出身が長崎(県)である人にはそのことを尋ねられている訳ではなかろう。そうしてさらに長崎に期待されているちゃんぽん像の、どこに焦点を絞ったものだろうか?ということを考えるわけである。
 ちゃんぽんの記憶としては、まず家庭料理という人が長崎には多いのではないかと思う。少なくとも僕にとってはそうだ。おふくろの味としてのちゃんぽんだ。母は長崎人としての正当なちゃんぽんを作る人では無いので(たぶん)、これは正当なちゃんぽんでは無いのか。そうではないという意見があってもかまわないが、しかし事情は違ってそうとも言えない気がする。というのは、やはりちゃんぽんは家庭料理としての顔がちゃんとあるからだ。もともと中華料理屋のまかない飯ということだろうから、基本的に客に出すよそ行きのものでは無かったのではないか。具だくさんでごちそうではあるけれど、家庭で手軽に食べられる味がベースにあって、そこで初めてさまざまなバリエーションのちゃんぽんを楽しめるという気がする。
 ちょっと違うかもしれないが、フランス人などは家庭でもワインを日常的に飲んでいるだろうけど、それは外で飲んだり友人と飲んだりするときとは違うベーシックなものを飲んでいるという話を聞いたことがある。おそらくそのような素地があって、さまざまなワインを楽しむ能力が事前に身についていくのではあるまいか。
 まずはそのような家庭文化というか食材文化というか、スーパーで食材を手軽に買えて、そうして大人から子供達まで家でちゃんぽんを食べるという体験がベースに無いと、ちゃんぽんという総体を語る出発点にたどり着けない気がする。
 だから僕らはついつい、ちゃんぽんの観光客向けと地元向けと別に物語を語らなければならないという複雑なことを普段からしている。リンガーちゃんぽんも新地のちゃんぽんもまちの大衆食堂のちゃんぽんも皆ちゃんぽんという名前をもちながら、一緒に語るのには本来は無理があるものなのである。それはそれぞれにおいしく魅力的だが、しかしやはり乱暴なくくりなのである。
 でもまあそんな面倒なことを言っているうちに、人々の軽い興味はそがれてしまうかもしれない。通り一辺倒にちゃんぽんを語らざるを得ない悲しみは、そうして心の中にひそかに折り重なって沈んで行ってしまうのかもしれない。
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