他の誰にも敷衍することなく、
あくまでも僕の個人的な感慨だけれども。
もしいま子供がいなかったら、
僕の場合は変わり映えのしない日々の繰り返しに、
屈託していたかもしれないなあ、と思う。
懐古趣味が強く、流行り物にもまったく興味ないし、
自分磨きとかそういう意識高い系の言動もすごく苦手だ。
ゴルフもしないしギャンブルもしない、タバコも酒もやらないし、
キャバクラなんかも行ったことない。
ただ、隙間の時間に好きな本を雑に読み、
たまの休みにどこともなく旅行に出かけるくらい。
幸せなことに仕事は楽しくやらせてもらっているけれど、
仕事以外での僕はなんだかまるで高齢者のような佇まいだ。
仕事にしても、僕はただ僕の教室に通ってくれている生徒たちが可愛くて、
彼らが少しでも楽しんで学べるようにと頑張っているだけで、
規模拡大とか売上倍増だとか、
はたまた有名難関校にバンバン合格独自メソッド!とか、
そういうのにはまるで魅力を感じない。
入会から卒業まで、生徒たちの笑顔が絶えない教室であってくれればいい。
その意味では経営的に安定してさえいればいいんだけれど、
同じことの繰り返しになってしまったらつまらない。
若い頃にあれほど肥大化していた自己顕示欲や自己承認欲求も、
最近は(これでも)ずいぶんと落ち着いてしまった。
いまや有名になろうとかこれっぽちも思わない。
ステイタスへの羨望なんて欠片もない。
僕にとっては地位や名声は意外なところで発言や行動を束縛するもの。
国民栄誉賞を打診された「世界の盗塁王」福本豊が、
受賞を辞退したときの名言、
「そんなんもろたら立ちションもようでけんようになる」
は正に我が意を得たりだ。
僕は何よりも自由でいることを喜ぶ。
自分を縛るルールは、すべて自分で納得ずくで決めていきたい。
服装や発言が社会人として失格でも、
ワガママ・非常識とされるスタイルが災いして高収入や名声に縁がなくとも、
僕は僕の自由を何より大事にしている。
でも、じゃあ自由に色んなことに積極的にチャレンジするかと言えば、
別にそんなこともない。
何か新しいことしなきゃと強迫観念に駆られたような挑戦に興味はない。
ただ心に波風を立たせず、
安穏と思索の日々にゆるりと絡め取られてゆく晴耕雨読の人生。
それが理想。
ロッカー気取りであらゆるものに噛みついて、
揉めなくてもイイところで、
揉めなくてもイイ相手とぶつかり続けてきた前半生が嘘のようだ。
我ながらなかなかに枯れてるよなあ、と思う。
でも、子どもが生まれたらこの辺りが根底から揺らぎだした。
毎日、毎週、毎月、成長という名の色鮮やかな変化を見せてくれる我が子たち。
同じ日が一日たりともない中で、見逃したくない瞬間がずっと続く。
自分の何を措いても彼らと一緒にいたい。
自由よりも優先したいものに初めて出会ってしまった。
彼らのために何かやりたいことができなくなっても、まったく不自由には感じない。
不思議でしょうがないけれど、自然とそうなってしまった。
来週も来月も来年も、いまと同じようなことをやっているんだろうな…と思う、
まるで農家のような人生になっていたのが、
気がつくと、来週が来月が来年が、
そして十年・二十年後が楽しみで仕方なく感じるようになった。
無理に趣味なんか探さなくてもいい、僕は我が子たちが何よりの生きがいだ。
もしも若い頃に子供たちを授かっていたら、また違ったんだろうとも思う。
僕はやりたいことをやり尽くしたこのタイミングがベストだった。
まさか自分がこんなに枯れようとは、
はたまたそこから自分の子供たちにこんなに潤されようとは。
若い頃の僕が何も知らずに凡庸だマンネリだとバカにしていた、
「どこにでもある普通の家庭」に、僕自身がここまで魅了されようとは。
十年・二十前には全く想像できなかった。
まったく、人生ってヤツは奥深いったらないよ。