いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

"Broken Japan"

2020-02-26 17:35:11 | この国の憂鬱
自分の眼が正しかったことが、実社会の壊れっぷりで証明されていくのには、
何とも複雑な気持ちでいる。
ここまで来ないとわからないのかと。

以前は反安倍を表明すると、
無知で理想主義、お花畑の左巻き呼ばわりされたもんだった。
最近では反安倍を語ると、
いまなら誰でも言えるよな、とか言われてしまうのだろうか。

就任前から変わらない彼のあの人間性、語り口、語彙の乏しさ、学のなさを見れば、
彼に中身のないことは最初から誰でも解りそうなもんだと思うのだが。
いや、中身がなくたって人望があるとか優秀な人材を使いこなすとか、
そういう宰相としての器量があればいいわけだが、それさえないのだ。
とことん場当たりで、公私の別がなく、反知性的で、感情も抑制できない。
もっとも権力を握らせてはいけない人物。
それは既に政権の発足直後から顕著だった強引な手法や、
高圧的でご都合主義的な物言いにも表れていたはずだ。

無学な層に支持の厚いことで有名な現政権だが、
結構な学のある人でも一時は随分もちあげて賛美していた気がする。
なんだろう、
学のある人ほど自分の感情的な好き嫌いを別にして論理構築できるからなのか、
それとも一周回って肯定的な意味を見いだすことに長けているからなのか。

僕は単純に彼の人間性が嫌いで信頼できないという極めて感覚的な理由だったが、
女性の間でもともと支持が薄かったことと合わせて考えると、
意外にそういった非論理的に見える部分での印象や評価が、
正鵠を射るということがあるのかもしれない。

情理のバランスはかくも奥深い。
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ググる嗜み

2020-02-26 11:06:19 | 超・いぶたろう日記
PCR検査についての解説Twitter。

例えばここに書かれているようなことを、
医療関係者以外でどれくらいの人が知っているだろうか?
僕は恥ずかしながらまったく知らなかった。勉強になった。
考えてみればこの程度の基礎知識(高校生物でも習うことだそうだ)もないのに、
感染症についてさもわかっているかのような言説を振りまくなんて恥ずかしいことだ。
僕にはちとできない。

さてそんな素人の僕でも、検査はあくまでも検査であって、
予防にも治療にもならないことくらいは予想がつく。
みんながみんな病院に殺到すればえらいことになるのだって簡単に察しはつく。
タダでさえ待合室であれだけ待たされるのだ。
不安なだけの人を相手にしていて、
重症者の対応に手が回らないなんてあってはならないことだ。

この点、別に医療の専門知識がなくたって、
ちょっと落ち着いて考える、調べてみるという「知的謙虚」の姿勢さえあれば、
こんな集団ヒステリーみたいなことにはならないのにな、と残念に思う。
僕は幸いにして、医療に従事する畏友たちの冷静な分析や説明に触れる機会が多いけれど、
もし周りがみんなヒステリックな反射人間だらけだったら、
やはり我を見失ってしまっていたかもしれない。
畏友たちの論理的な言説に触れるにつけ、
自分が浮き足立って不勉強なことを言い散らかしてたら、
彼らに対して恥ずかしいという思いが生まれる。
物言いも慎重になる。つくづく環境とか人間関係は大事だ。

そしてこの問題、医療の問題という以外に、
政治的にも社会的にも経済的にも文化的にも捉えられるから厄介だ。
政治で言えばこれまでに積み重ねた不法や不作為、
姑息でいい加減な答弁、改竄隠蔽体質、反知性主義、
それらの「実績」を考えると、
今回のウイルス対策にだけ適切な対応ができているなんてとても考えにくい。
少なくとも政治的不信感が社会不安を増幅していることは間違いない。

さらには国際的な批判、インバウンドの激減、オリンピックとの兼ね合いなど、
「陰謀論」かどうかスレスレの言説が紛れ込む余地もたくさんある。
僕はなんでもかんでも「陰謀論」と切って捨てるのは好きじゃないし、
逆に何でも訳知り顔でうがった見方をすればいいとも思わない。
あらゆる可能性を排除せずに、慎重な議論を望む。
ただ権力に対してはとことん懐疑的であっていいと思う。
政治の問題とごっちゃにするななんていう声もあるけれど、
いやそれはそれ、切り分けた上で、
キッチリ政府の無為失策はただされなければならない。

ともあれ、個人でできることは知れている。
そして本当に深刻な(それこそペストクラスの)社会を崩壊させるような疾患ならば、
マスクしようがアルコール消毒しようが逃れる術はない。
今回の場合、不幸にして亡くなる人はあっても、
致死率という点ではそれほど深刻なものではないし、
罹ったとしても通常の風邪やインフルエンザと同じ程度、
対策も同様で充分だと複数の専門家が教えてくれているのだから、
素人が大騒ぎせずに、正しく恐れて、
できることをやっておこうじゃないか。

ていうか騒ぐ前に、デマを撒き散らす前に、
ちょっとググるくらいはしようじゃないか。

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「正しいこと」くらいで傷ついてられるか

2020-02-26 09:24:37 | 特選いぶたろう日記
コロナウイルスをめぐるネット上の一連の言動に思う。
なかでもヒステリックな反応や、逆に根拠のない「大丈夫論」の跋扈に思う。
君たちはもっと「正しいこと」にこだわる必要がある。
それは簡単には見つからない。わかりやすいとも限らない。
「正しいこと」を見つけるためには、慎重であることだ。
すぐに答を見つけた気にならないことだ。
そして謙虚であることだ。
専門家の重みを知り、人の意見に耳を傾けることだ。
最後に、柔軟であることだ。
いまは正解に見えてもあとで間違っていることがわかるかもしれない。
逆にいまは間違っているようでも、あとで正しいと証明されるかもしれない。

これらを探っていく上で、必要なものは2つ。
できるだけ広く深く知識を求める姿勢と、他者と思考を交換するための論理だ。
知識とは何も難しい専門的なものだけとは限らない。
素人でも理解できる範囲で、きちんと根拠が示されているものを選べばいい。
論理とは何も冷たく機械的なものではない。
自分ひとりの思索には限界がある。視点を変えないと解らないこともある。
そこで他者と知識や意見を交換し、共有し、
さらに思考を深めていくための共通の形式・手法が論理だ。
いわば、相互理解のために必要なものだ。

「正しいことは人を傷つける」という言辞がある。
僕は正直、この表現が好きになれない。
いや、厳密に言うと、
したり顔でこういうことをしれっと言える人の感覚が理解できない。

多くの場合において、この言葉は、

「あなたの言っていることは論理的には正しいようだけれど、人の気持ちが分かってないよ」
「いくら知識があっても、論理的に正しくても、それだけじゃわからないこともあるよ」

という意味合いで(しかもなぜか上から目線で)遣われている印象がある。
それも、たいてい知識が乏しく、論理的な思考ができず、
不確かで曖昧な自分の感覚や気分を価値判断の中心に据えている人が好んで遣う。
さらに言えば、自分よりも知識がある人や言語化に長けている人に対して、
否定的な意味で、自分が論理的に抗弁できない場合に、
いわば「負け惜しみ」として遣われていることが多い。

元は吉野弘の『祝婚歌』らしい。
しかし彼は果たしてそんな意味合いでこの言葉を残したのだろうか。
抜粋して引用すると、たしかに、

「正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい」

とある。
ただし、一行目には

「二人が睦まじくいるためには」

とある。
つまり、あくまでもこれは新婚の二人に向けて、
夫婦仲を円満に保つ秘訣として語られたものであって、
いつでもどんなときでも人間はこうあるべきだ、
なんていう趣旨ではないことは明らかだ。

夫婦の間とか友人の間とかで関係をうまく保つために、
主義主張を抑えてある程度妥協して、仲良く気分良くやる工夫は必要だろう。
でも、それが議論の場に持ち込まれたら、何らの建設的な意味を持たなくなる。

「まあまあ考え方は色々、みんなお互いにガマンしましょう」
「一生懸命やってくれているんだからその言い方はどうか」
「傷つく人もいるのだから正しいデータを出さないで」

なんてことを言い出したら、そもそも議論も科学も成り立たない。
政治や経済や社会問題、医療などを論じる場で、
情緒的な言葉ばかりがひとり歩きして、批判や異論反論を封じ込めたり、
科学的な知見を無視して、都合のいい解釈を重ねていくとどうなるか。
現政権の無為・失策・無責任、不法、改竄隠蔽体質、反知性主義、
これらが7年間に亘って日本に与えたダメージの大きさを考えて欲しい。
国のトップが無知・無学・無能で恥じるところもないから、国中に似たようなのが跋扈する。
情緒的・感動的な同調圧力は、思考を停止させる。
一時の感情や好悪に左右されない冷静な論理こそが、安定と改善の礎となる。

何でもかんでも卑近な友人関係や男女関係に置きかえて理解し、
ことの本質を見ようとせず、
自分の経験や感覚の範疇でだけ捉えようとする人がいる。
そしてこの「経験」に基づく「感覚」が、さも絶対的なものであるかのように過信する。
そこに大した根拠はないし、他者に説明できる論理さえもない。
論理や根拠がないということは、他者が理解できないということだ。
似たような体験をした者同士で偶然「共感」することはできても、
それを捨象して言語で説明できないのだから「共有」はできない。

だから、
「これは言葉ではうまく言えない」とか、
「なんていうか、とにかく何かが違うんだよ」とか、
「もっと大事な何かが見えてない気がする」とか、
そんな安直な言葉に頼るし、「共感したフリ」をして差し上げないと、
「わかんない人には言っても無駄だ」「わかってくれないならもういいよ」となる。
身の回りに居ません?このタイプの人(笑)。

「自分にしか解らない感覚」を、
ひと足飛びに「共感してくれる」相手ばかりを求めているから、
人間関係も自分に都合良く使い捨てにする。
「この人は自分をわかってくれる!」と簡単に飛びついてしまう。
しばらくすると自分の思惑と違うところも出てくるから、
そうすると「やっぱりなんか違う!」と簡単に切り捨ててしまう。
全肯定と全否定の間で続けられる終わりなき反復横跳び。

なぜこんなことになるかと言えば、論理による相互理解を怠って、
一時の感情や不確かな感覚だけで判断してしまうからだ。

「だって人間はそういうものだからしょうがないでしょう?」
「人間はそんなに強くなれないよ」

などという言い訳にもよく出くわすが、努力を放棄しているだけだ。
甘えた自分を正当化しているだけだ。
生きていたら誰だって辛く厳しいことにもぶち当たるのは当たり前だ。
癒やしを求める気持ちも解るが、
いつまでも肩寄せ合って慰め合っていて、何になるのだろうか。
生きていくためには少しずつ強くなることだって必要なのだ。
そのためには耳の痛いことでも耳を傾けなければならない局面もあるし、
目を背けたくなるような事実にも目を向けなければならないことだってある。

もちろん弱い者にだって生きていく権利はあるし、守るべき弱者への配慮も必要だ。
しかし、それを楯に自分の思考的怠惰を正当化しようなどと、姑息にも程がある。
百歩譲って、どうしても「正しいこと(=自分に都合の悪い指摘)」に背を向けていたいならば、それでもいい。
しかし「正しいことを言う」こと自体を否定するのは愚かなことだ。
賛成できなくてもいい、納得できなくてもいい、
でもそれは正しいことを言う者の責任ではない。
理解するに十分な知識と思考が自分に備わっていないだけのことだ。
分かった風なことを言いたい、知ったような顔をしていたい、
自分の無知を認めたくない、何より単純に「負けたくない」。
そんな自分の幼児性を開き直ってないで、
成年には成年相応に知的謙虚であることを求めたい。

何より、不勉強な人間が大きな顔して、自分の不確かな感覚を盲信して、
誠実に勉強や思索を重ねた人の言葉を軽々しく馬鹿にすんなよな、と言いたい。
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