いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

主張しないセーフティ

2019-09-25 19:26:48 | 超・いぶたろう日記
「何を言ったか」よりも「誰がどんな風に言ったか」で腐したり、
背後の何かを訳知り顔に疑ったりすることで、
語られた問題の本質には眼を向けず、
都合の悪い事情や具体的な解決策には触れないでいるのが、
この国の「地位ある大人」の流儀であるようだ。

Twitterなんかを眺めていても、
言い方がどう、怒りでは変えられない、背後が云々…等の「批評」は多く見かけるが、
当の環境問題そのものに対する異論反論、自説開陳はとんと見当たらない。
少なくともこの点で日本の大人の多くは、
スウェーデンで自分の考えをはっきり述べるという教育環境のもとに育ち、
それを実践した16歳の少女に及ばない。

自分の考えを明確に主張することよりも、
空気を読み、波風を立たせないことが優先される。
明確な批判や反論は遠ざけられ、エライ人の立場を慮る方が重んじられる。
具体的な方針や施策よりも雰囲気・イメージが大事。
そんなだから、あんな政権が維持され、あんな環境大臣が生まれるわけだ。

怒りや悲しみだけで突き進むのはもちろん危険だが、
かといって理性や論理だけで片付ける小利口さは何らの解決ももたらさない。
大概は冷笑や皮肉でしかなかったりもする。

「唯一の正解」があることを前提とする日本の教育では、
みんなと違うことが「間違い」であり「恥」だとして極端に恐れるマインドを生む。
だから環境問題のように「唯一の正解がない」ものについては、
「自分が正解だと信じるもの」を主張するよりないのだが、
日本人は少数派に陥ることで「不正解」とされることを忌避してか、
その立場や主張を明らかにすることが少ない。
「どちらとも言えないですねえ」「今後も話し合って…」みたいなグレー決着を好む。
そんな誰の顔も潰さない、誰の恨みも買わない、「調整」に慣れた日本の大人達には、
あれほど鋭く明確に主張する若者が目障りに映るのかもしれない。
「何にも知らないで」「感情的に喚いてる」と上から腐すしかないのだろう。

本当の知性とか理性のもたらす余裕って、
年齢・性別・立場・肩書き・学歴・表現の巧拙・国籍・人種などを超えて、
相手を正しく理解しようと努める姿勢にあるはずだ。
あるいはそこから泥臭く解決策を模索していく根気と知恵か。
僕にそれがあるかと言われると甚だ心許ないが、
お手本になる人は必ず居るので、見倣いたいとは思っている。
そういう謙虚さくらいは、誰でも心がけていていい。