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いぶろぐ

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まだ国が人を殺すよ21世紀JAPAN

2018-07-08 01:00:02 | 超・いぶたろう日記
死刑制度をなくせとか、残せとか、
そう簡単に言いきれるような問題じゃないんだよなあ。

様々なケースについて慎重に検討を重ねないと死刑制度の実像は見えてこないし、
右寄りで父性的な処罰感情と左寄りで母性的な生命礼讃感情(=実際の性別とは無関係)
がぶつかり合うだけでは、まったく建設的な方向に向かわない。
そしてこの国ではどうも最近、
「勇ましい」前者が「軟弱な」後者をバカにする空気が強いようで、いかにも焦臭い。

日本人がどういう死生観・国家観で制度設計をするかということについて、
主権国家なのだから外国に口出しされるようなことではない、
というのは原則論としてはわかるんだけど、
世界の大勢に目をつむって「日本流」を意地になって貫いた結果が先の大戦だったことを思うと、
そうそう意固地になってばかりもいられないような気もする。

Twitterなんかでは欧州からの反対意見に対し、
「テロ犯を射殺するおまえらはどうなんだ」と息巻いて反論する声が目立つ。
そこには「もう日本は外国に何を言われても怯まないぞ」的な、
きわめて感情的な虚勢が反射している感じがする。
それはまさに戦前の日本の姿に重なる。

そもそも、法体系の中での死刑制度の存廃と、テロリストへの現場対応とは別問題だ。
司法手続を経て行われる死刑制度の議論は、
冤罪の可能性を無視して進めるわけにはいかないし、
犯罪の抑止とか犯罪者の改心や償いという点でも他の選択肢について考え得る。
が、テロ行為はまさに現行犯として行われていることへの緊急・正当防衛対応だ。
したがって、その場では他に手段がない。
オウムがテロ組織であったことを考えても、
緊急対応と死刑制度の存廃とは同列には考えられない。

こういうと誤解されそうだけど、別に僕はオウムを擁護するような気は全くないし、
彼らの行いはその後の悔悛を含めても決して正当化できるようなことじゃないと思っている。
執行の時期、判断、手続についての情報公開と詳細な検証は必要だろうが、
現行制度下で死刑判決が下った以上、刑死もやむを得ないことだろう。
でも、そのことと今後の死刑制度の議論とはまた別だ。
もちろんオウムへの怒りとも区別されなければならない。

そもそも、死刑が確定してから、
執行されるまでの時間が恣意的(刑訴法の規定が普通に無視されている)というのは、
運用上の大きな欠陥としか言いようがない。
法務大臣によって執行されたりされなかったりする。
冤罪の可能性を否定して死刑判決を確定させたなら、
時限を定めて速やかに機械的に執行されるべきではないのか。

今回の死刑執行だってなぜいま突然という疑問は残る。
しかも執行を予告し、リアルタイムで情報を小出しにし、
テレビがみんなそれを追っかける…という完全にSHOW化されたここまでの流れは実に醜悪だ。
政権の数々の腐敗を、
パン(=官製相場)とサーカス(=公開処刑)で誤魔化しているようにも映る。
国家による殺人がこんな感覚で運用されるなんて、背筋が寒くもなる。
みんなどうしてそこまで国家権力を盲信できるのか。
我が身に降りかかったときのことを考えてはみないのか。

もちろん、被害者感情は充分に理解する。
僕だって家族や親友や教え子がオウムの犠牲になっていたら極刑を望むだろう。
でも、それでも人間はそういった感情をも超克した社会制度を
実現していくべきではないのだろうか。
死刑判決を出す裁判官、ハンコを捺す法務大臣、
実際に死刑囚と向き合う看守、そして死刑執行人。
誰もが国家の名前で殺人に荷担していることに後ろめたさを感じているはずだ。
生活の場からがアウトソーシングされて、
自分が手を汚さなくとも牛や豚の肉が食える、
それと同じような感覚で無邪気に死刑を支持していていいのだろうか。

十数年前に手に取った一冊の本をきっかけに、
僕はどうしても死刑制度への疑問が拭えないでいる。
死刑制度を肯定する冷徹な論理性よりも、
死刑制度に違和感を覚える軟弱な人間性を僕は信じる、とでも言おうか。

『死刑執行人の苦悩』大塚公子
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