「原始共産主義」という言葉を聞いたことがあるだろうか。
共産主義というのは、要するに計画的に生産し、
平等に分け合いましょうというモノの考え方。
どうも旧ソ連とか北朝鮮とか、
「悪い国のヒドイ制度」のイメージがあるけれど、
一党独裁のもとで理想が歪められた結果であって、
もともとの考え方自体はそんなに悪いもんでもない。
資本主義が自由という名の弱肉強食に過ぎないことを思えば、
むしろはるかに理性的だ。
ただし、理想より自分の欲求を優先させてしまう現実のもと、
厳格に適用されれば、の話だが。
で、原始共産主義。
マルクスやレーニンが長い思索の果てにたどり着いた複雑な近代のそれと違い、
単純に「みんなで協力して、分け合おう」というシステムだ。
大昔、まだ農業による計画的な食糧生産が始まる前は、
狩猟と採集が食糧獲得の中心的な方法で、
個人単位では非力な人間が、大型の動物を捕獲するためにも、
また多くの木の実を拾い集めるにも、
数の力、一致団結が必要だったわけだ。
で、その収穫はみんなで平等に分け合う、と。
そこには身分の差や戦争はなかったと言われる。
まだ自然と共生していた無欲な人類の理想社会のように語られることもある。
さて、本当だろうか。
弥生時代以降、農業を覚えた人類が、土地の所有を始めると、
集落ができ、統率の必要性が生まれ、指導者が登場する。
指導者の下、集落は別の集落を襲うことで、
「より効率のいい」富の集積をはかるようになる。
勝った集落は負けた集落の構成員を奴隷として支配し、
そこから身分支配と戦争の歴史とが始まったと教科書なんかには書かれている。
うーん。それ以前には本当に戦争とかなかったんだろうか。
俺、絶対、縄文時代にもケンカやいじめがあったと思うんだけど。
だってさ。
小学校の頃、体験学習みたいので、「縄文土器」作らされたこと、ない?
粘土こねこねして、のばしてまるめて、ロープ状にして、
それをくるくると巻いて外壁を作っていくのね。
で、上手い人がやると見事に壺の形になって、
表面を水でなでてる間に平になっていくんだけど、
俺、何回やり直しても「うんこ」になるんだよ。
どうやっても、うんこ。
色といい、形といい、これに飯入れて食うのはイヤだナーと思わせるに十分な、
もはやどうしようもないほどの、うんんこ。
あ、勢い余って「ん」がふたつ。
これが多様な価値観の現代社会だからいいようなもののさ、
縄文時代なんて時代に土器の名前ついてるくらいだから、
やっぱ土器作れなきゃダメなわけでしょ。
するってえと、いじめられるわなあ。
「おまえ、土器も作れねえのかよ~!」
「ウンコマーン!」
って。
まだ子供のうちはいいわ。
大人になってからは悲惨だぜ。
多分、一人前として扱ってもらえない。
就職できても、仕事が出来ても、
言葉遣いやマナーがなってないとバカにされるのと同じで、
狩りとか洞穴堀りでいくら活躍しても、
でもあいつは土器作れねえからなー、と後ろ指を指されるだろう。
結婚にも苦労しそうだ。
土器も作れない不器用なあなたが好き、とかいう、
奇特な女性の登場を待つ他はない。
アイロンもかけられない、
ボタンも付けられない、
焼き魚の骨もまともにとれない、
エビカニに至っては手も足も出ない、
それらすべてについて理解ある女性(もはや介護)
を待つ21世紀の俺と大差ない。
かろうじて結婚できたとして、なおかつ苦難は続く。
うんこ土器しか作れぬ世帯主の家族だ。
きっと子供はいじめられる。
父親の代わりに母親がきれいな土器を作れたとしても、
そこにはやはり「専業主夫」のような、
甲斐性コーナーギリギリ低めいっぱいをつく劣等感がついてまわる。
この母親が早世しちゃったりなんかすると非常にマズイ。
代わって子供に持たせるお弁当を父親が作ったりするわけでしょう。
ここが非常にマズイ。
何せ、お弁当箱がうんこ形状なのだ。
「お前の弁当箱、うんこー!」
「お前の父ちゃん、うんこ土器~!」
子供の流す血の涙が目に見えるようだ。
というわけで、人間が人間である限り、
いつの世にもどこの世界にも、いじめや闘いはあったはずなのだ。
それら全ての争いごとをなくそうなんて、どだい無理な話なのよ。
何も殺さずに生きていきたいと願うがごとし、だな。
誰とでも仲良くなんて、難しいし、
個人の好き嫌いをなくしてしまおうなんて恐ろしい話だぜ。
嫌いな奴を好きになれったって、なあ。
所詮うわべだけ上手くやれるかどうかの話じゃねえか。
だから大事なのは、人は人、自分は自分、
という自立したスタンスの持ちようなんじゃないのか?
自分とは異質な人間を攻撃してしまうのは本能みたいなもんだし、
問題は攻撃を受けている側が孤独であることにあるのであって、
そいつらはそいつらなりに連帯できれば、
そもそもいじめは成立しないんじゃないだろうか?
いたずらにキレイゴトを吹き込むよりも、
親や教師が無闇に介入して強制力働かせるよりも、
早いうちから集団安全保障体制を学ばせればいいんじゃないだろうか。
だって、国際社会はそうしてるもんねえ。
大人はなんだかエラそうに子供に説教してるけど、
イラク問題って、いじめだよね?
北朝鮮って、問題児だよね?
アメリカって、いじめっ子だよね?
多重債務者や年金未納者らを啓蒙しようとする国自体が、
何百兆円の公債しょってたり、ずさんなデータ管理だったりするように、
子供を教育しようっていう大人の社会がどうしようもなく生々しいんだから、
まわりくどいことしないで、
最初からちゃんと本当のこと教えてやりゃあいいのにな、と思う。
まあ、教え方がへたくそなヤツが多いんだろうな。
さて、髪でも切ってくるか。
共産主義というのは、要するに計画的に生産し、
平等に分け合いましょうというモノの考え方。
どうも旧ソ連とか北朝鮮とか、
「悪い国のヒドイ制度」のイメージがあるけれど、
一党独裁のもとで理想が歪められた結果であって、
もともとの考え方自体はそんなに悪いもんでもない。
資本主義が自由という名の弱肉強食に過ぎないことを思えば、
むしろはるかに理性的だ。
ただし、理想より自分の欲求を優先させてしまう現実のもと、
厳格に適用されれば、の話だが。
で、原始共産主義。
マルクスやレーニンが長い思索の果てにたどり着いた複雑な近代のそれと違い、
単純に「みんなで協力して、分け合おう」というシステムだ。
大昔、まだ農業による計画的な食糧生産が始まる前は、
狩猟と採集が食糧獲得の中心的な方法で、
個人単位では非力な人間が、大型の動物を捕獲するためにも、
また多くの木の実を拾い集めるにも、
数の力、一致団結が必要だったわけだ。
で、その収穫はみんなで平等に分け合う、と。
そこには身分の差や戦争はなかったと言われる。
まだ自然と共生していた無欲な人類の理想社会のように語られることもある。
さて、本当だろうか。
弥生時代以降、農業を覚えた人類が、土地の所有を始めると、
集落ができ、統率の必要性が生まれ、指導者が登場する。
指導者の下、集落は別の集落を襲うことで、
「より効率のいい」富の集積をはかるようになる。
勝った集落は負けた集落の構成員を奴隷として支配し、
そこから身分支配と戦争の歴史とが始まったと教科書なんかには書かれている。
うーん。それ以前には本当に戦争とかなかったんだろうか。
俺、絶対、縄文時代にもケンカやいじめがあったと思うんだけど。
だってさ。
小学校の頃、体験学習みたいので、「縄文土器」作らされたこと、ない?
粘土こねこねして、のばしてまるめて、ロープ状にして、
それをくるくると巻いて外壁を作っていくのね。
で、上手い人がやると見事に壺の形になって、
表面を水でなでてる間に平になっていくんだけど、
俺、何回やり直しても「うんこ」になるんだよ。
どうやっても、うんこ。
色といい、形といい、これに飯入れて食うのはイヤだナーと思わせるに十分な、
もはやどうしようもないほどの、うんんこ。
あ、勢い余って「ん」がふたつ。
これが多様な価値観の現代社会だからいいようなもののさ、
縄文時代なんて時代に土器の名前ついてるくらいだから、
やっぱ土器作れなきゃダメなわけでしょ。
するってえと、いじめられるわなあ。
「おまえ、土器も作れねえのかよ~!」
「ウンコマーン!」
って。
まだ子供のうちはいいわ。
大人になってからは悲惨だぜ。
多分、一人前として扱ってもらえない。
就職できても、仕事が出来ても、
言葉遣いやマナーがなってないとバカにされるのと同じで、
狩りとか洞穴堀りでいくら活躍しても、
でもあいつは土器作れねえからなー、と後ろ指を指されるだろう。
結婚にも苦労しそうだ。
土器も作れない不器用なあなたが好き、とかいう、
奇特な女性の登場を待つ他はない。
アイロンもかけられない、
ボタンも付けられない、
焼き魚の骨もまともにとれない、
エビカニに至っては手も足も出ない、
それらすべてについて理解ある女性(もはや介護)
を待つ21世紀の俺と大差ない。
かろうじて結婚できたとして、なおかつ苦難は続く。
うんこ土器しか作れぬ世帯主の家族だ。
きっと子供はいじめられる。
父親の代わりに母親がきれいな土器を作れたとしても、
そこにはやはり「専業主夫」のような、
甲斐性コーナーギリギリ低めいっぱいをつく劣等感がついてまわる。
この母親が早世しちゃったりなんかすると非常にマズイ。
代わって子供に持たせるお弁当を父親が作ったりするわけでしょう。
ここが非常にマズイ。
何せ、お弁当箱がうんこ形状なのだ。
「お前の弁当箱、うんこー!」
「お前の父ちゃん、うんこ土器~!」
子供の流す血の涙が目に見えるようだ。
というわけで、人間が人間である限り、
いつの世にもどこの世界にも、いじめや闘いはあったはずなのだ。
それら全ての争いごとをなくそうなんて、どだい無理な話なのよ。
何も殺さずに生きていきたいと願うがごとし、だな。
誰とでも仲良くなんて、難しいし、
個人の好き嫌いをなくしてしまおうなんて恐ろしい話だぜ。
嫌いな奴を好きになれったって、なあ。
所詮うわべだけ上手くやれるかどうかの話じゃねえか。
だから大事なのは、人は人、自分は自分、
という自立したスタンスの持ちようなんじゃないのか?
自分とは異質な人間を攻撃してしまうのは本能みたいなもんだし、
問題は攻撃を受けている側が孤独であることにあるのであって、
そいつらはそいつらなりに連帯できれば、
そもそもいじめは成立しないんじゃないだろうか?
いたずらにキレイゴトを吹き込むよりも、
親や教師が無闇に介入して強制力働かせるよりも、
早いうちから集団安全保障体制を学ばせればいいんじゃないだろうか。
だって、国際社会はそうしてるもんねえ。
大人はなんだかエラそうに子供に説教してるけど、
イラク問題って、いじめだよね?
北朝鮮って、問題児だよね?
アメリカって、いじめっ子だよね?
多重債務者や年金未納者らを啓蒙しようとする国自体が、
何百兆円の公債しょってたり、ずさんなデータ管理だったりするように、
子供を教育しようっていう大人の社会がどうしようもなく生々しいんだから、
まわりくどいことしないで、
最初からちゃんと本当のこと教えてやりゃあいいのにな、と思う。
まあ、教え方がへたくそなヤツが多いんだろうな。
さて、髪でも切ってくるか。