他の誰をも非難するような話ではないけれど、
何によらず、正確な定義を持ち出したり、言い分を数値や記号に落とし込んだり、
やたら細かい知識にこだわってふんぞり返ったり、
常に「合理的」な思考の中にあることを要求され続けていると、
企業的ではあっても、人間的ではなくなるような気もしている。
だからというべきか、
企業の中で、高すぎる自己評価と周囲の評価の温度差に逆ギレし、
あまりにも幼稚で身勝手な言動が災いして人間関係を築けず、
「超高知能者」や「特殊能力者」あるいは「精神疾患」を自称して、
寂しく自衛するしかない、可哀想な人も少なくない。
その点、いまの僕の職場は、
日常的に半人前でちょっといい加減な子どもたちと触れ合うから、
理屈と情動のバランスを取らせてくれる。
彼らには理屈だけじゃダメ。
もちろん、感情だけでもダメ。
どう評価し、どう言葉をかけ、どう現状を認識させ、どこへ向かわせるか。
いずれにしても理屈で納得するだけでなく、気持ちが動き、
そして行動が伴わなければならない。
方法はひとつではない。
つくづく、奥の深い仕事だと思う。
僕の仕事は人を導くために、人を評価することだ。
これが本当に難しい。
自分ごときが、という気持ちは常にあるけれど、
そうとばかりも言ってられない立場だ。
自分なりの軸をもって、座標を描いていくしかない。
ただ、偏見とか先入観による決めつけだけは、
なるべく持たないように気をつけている。
迷ったときは、直接話すようにしている。
何ごとも、色で考えるのがいい。
赤か青か、黒か白か、物事はそう簡単にうまく片付かない。
どれくらいの混ざり方で、おおよそ何色で、というくらいしか言えない。
人によって、眼によって見え方も違うのだし、光の加減によっても違う。
そもそも光がなければ真っ黒で何色でもないし、
眼を閉じてアタマの中だけで色を浮かべたって、実際の色とは違う。
ホントか嘘か、正常か異常か、善か悪か、愛か憎しみか、
みんな同じだと思う。
抽象的な話だけどもね。
僕は何ごともそう考えるようにしている。
何によらず、正確な定義を持ち出したり、言い分を数値や記号に落とし込んだり、
やたら細かい知識にこだわってふんぞり返ったり、
常に「合理的」な思考の中にあることを要求され続けていると、
企業的ではあっても、人間的ではなくなるような気もしている。
だからというべきか、
企業の中で、高すぎる自己評価と周囲の評価の温度差に逆ギレし、
あまりにも幼稚で身勝手な言動が災いして人間関係を築けず、
「超高知能者」や「特殊能力者」あるいは「精神疾患」を自称して、
寂しく自衛するしかない、可哀想な人も少なくない。
その点、いまの僕の職場は、
日常的に半人前でちょっといい加減な子どもたちと触れ合うから、
理屈と情動のバランスを取らせてくれる。
彼らには理屈だけじゃダメ。
もちろん、感情だけでもダメ。
どう評価し、どう言葉をかけ、どう現状を認識させ、どこへ向かわせるか。
いずれにしても理屈で納得するだけでなく、気持ちが動き、
そして行動が伴わなければならない。
方法はひとつではない。
つくづく、奥の深い仕事だと思う。
僕の仕事は人を導くために、人を評価することだ。
これが本当に難しい。
自分ごときが、という気持ちは常にあるけれど、
そうとばかりも言ってられない立場だ。
自分なりの軸をもって、座標を描いていくしかない。
ただ、偏見とか先入観による決めつけだけは、
なるべく持たないように気をつけている。
迷ったときは、直接話すようにしている。
何ごとも、色で考えるのがいい。
赤か青か、黒か白か、物事はそう簡単にうまく片付かない。
どれくらいの混ざり方で、おおよそ何色で、というくらいしか言えない。
人によって、眼によって見え方も違うのだし、光の加減によっても違う。
そもそも光がなければ真っ黒で何色でもないし、
眼を閉じてアタマの中だけで色を浮かべたって、実際の色とは違う。
ホントか嘘か、正常か異常か、善か悪か、愛か憎しみか、
みんな同じだと思う。
抽象的な話だけどもね。
僕は何ごともそう考えるようにしている。
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