いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

人生なんて大げさな話

2006-11-10 00:42:51 | 似非哲学の部屋
やはり、
人生はただ見渡す限りの闇なのだと、思う。
歓びや楽しみはたた街灯のように遠く輝き、
みんなそれに向かって歩いて行かざるを得ず、
すると不幸や悲しみといった落とし穴にハマったりもする。

俺は本当に運良くここまで、
大した穴にハマることもなくやってこられたもんだと思う。
ハマってもなんとか大けがに至らず済ませられるだけの、
運と人間関係とに恵まれた。
感謝感謝だ。

でも、生きている時間が30年も越すと、
自分以外の誰かが街灯の下に佇んでいるところも、
穴にハマって身動きがとれないでいるところも、
はたまた闇に呑み込まれて消えていくなんてのまで、
たくさん見るようになってくる。
安易に結論づけたくない一心で意識的に避けている、
「無常」という言葉が首をもたげてくる瞬間だ。

本当に、一寸先もわからない。
何かを描きたくて空に手を伸ばしても、
震える足元からがらがらと崩れ落ちていくのも人生だ。
調子よくステップアップを繰り返しても、
いつの間にか梯子が外されていたりもする。
それでいてすべてを悲観するのは許さないとばかりに、
不意に大きな評価や支持や好意が集まったりもする。

悩ましくてしょうがない。
悩んでもしょうがないんだが。
こんなことで悩んでいること自体が、お人好しなのかも知れないね。
俺も母親のこと言えねえな。

10年先に明確な成功を手にしようと思った。
1年前を振り返ってみれば、確かな上積み、前進を感じてはいる。
しかし、未来は来年ですら見えない。
それが「楽しみ」だと言い切れたのはやはり若さあってのことだったのか。
少し「怖さ」にも変わりつつあるのじゃないか。
それは成長といえるのか。
俺は結局どこへ向かおうとしているのか。
5年後は。
10年後は。

そういうことを考える時間すら与えない忙殺は、
少し問題があるようにも思う。
ちょっとささくれているようにも感じる心を、
夜中のスイートポテトとかで解いてみる。

なかなか旨かったりもする。
Comment (1)
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