いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

対峙

2002-10-26 22:45:29 | 似非哲学の部屋
音楽が無限の可能性を秘めたものだと信じていた時期もあった。
だからこそ無条件で情熱を注ぎ込んでこられたんだろうなと思う。
しかし音程や音色、アレンジ等による組み合わせは無限に近いかもしれないけど、
結局「心に響くかどうか」ということを考えたら、
生み出すことの出来る音楽というものは有限で、
そして既にその殆どは出尽くしてしまったのではないかと疑った時期もあった。
だからこそこうして苦しんでいるのだと思う。

単なる周波数の羅列に過ぎないはずのものが、何故にこんな力を持ちうるのか。
「ド」とか「レ」とか短音をただ聴いただけでは何も感じないのに、
どうしてそれが組み合わさると美しさを伴うのか。

また、
いい曲=今までにない新しい曲ではなく、
いい曲=どこかで聴いたような気がする曲。
それこそは一面の真実であり、つまらない現実でもある。
日本のヒットチャートなどを見ていると失望を通り越えて絶望的な気分にさせられる。
音楽の可能性とは一体どれほどのものであるのだろうか。

これが音楽と対峙するときの俺の思索だ。

音楽は「言葉」をも内包することによって「歌」となり、
より深く味わいのある感動を生み出すこともできる。
しかし、昨今の「ヒット曲」はこの「言葉」、
すなわち「歌詞」があまりにも軽んじられている。
有線で流れる曲、ちょっといいメロだなと思って聴いていると、
惨憺たる歌詞が曲の良さをぶち壊しにしていることが多々ある。
自分が音楽を創ることに携わる上で、もっともこだわりたいと思うのはここだ。
「歌詞なんかどうでもいい」
そううそぶく人間も少なくない。
しかし俺に言わせれば、それは歌詞の書けない人間あるいは、
いい歌詞を生み出すための苦労から逃げている人間の言い訳だ。
せっかくいい曲が生まれたのにクズみたいな歌詞を乗せちゃあ、
せっかくおいしい料理を作ったのに地べたに置くようなもんだ。
でも、現実に数字の出ているものを見ると、そういうものが無批判に受け入れられている。
それを根拠に歌詞なんかどうでもいいから売れ線のウケそうなのを書け、
という意見にふれるたんびにとても絶望的な気分にさせられる。

でも「本物」に触れた時、そういう迷いは吹き飛ぶ。
聴いたことがないのに、何故か耳に馴染みがいい。
確かな実力と練りに練られたアイデア、そして作品に込められた気持ち。
そういう作品やアーティストに出会うたびに、
まだまだいけるじゃないかとも思うのだ。
俺がSteven Tylerを神と仰ぐのはその超人的な才能や実力のみならず、
作品や姿勢を通して俺に希望をくれるからだ。

アーティストとは、とても不安定なところからメッセージを発することでこそ、
受け手の心の琴線に触れることが出来るのだろうと思う。
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