お寺さんぽ Ver.03

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秀吉の威を借る義宣さま (佐竹三代:佐竹義宣編)8

2009年11月15日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”そこそこ名前を知っていながら、いまいちどんなだったか知らない戦国武将”という一人。
常陸は佐竹氏についてお送りしております。

若くして十八代当主となった「佐竹義重(さたけ・よししげ)※写真」
父の代より勢力を拡大させた義重ですが、北方の伊達氏・南方の北条氏には手を焼き、摺上原合戦の敗北によって東北地方への影響力を失うと、国人衆らが反乱。
この危機を関白「豊臣秀吉」の支援と決死の防衛によって領国維持を成功させたのでした。

さて、時代はちょっと戻って元亀元年(1570)
太田城で誕生した、幼名「徳寿丸」こと義重の嫡男「佐竹義宣(さたけ・よしのぶ)」
天正十年(1582)に十七歳で元服し、同時に鹿沼・壬生氏(みぶし)攻めにて初陣。

天正十七年(1589)
家督は義宣に譲り、十九代当主となりました。
義重は隠居していますが、多くの例と同じく実権は持ち続けていたようです。
なお、この際に北・南・東という佐竹一門での政治体制を改め、当主の権限を強化する体制としたのでした。

前回書いているように伊達勢に敗れ、また伊達・北条が同盟を結んだことで挟撃されることとなっていた佐竹勢。
後継者となった途端に絶体絶命です。
ここで父・義重は、「織田信長」の死後より着々と天下人への道を進んでいた「豊臣秀吉」に目をつけます。
プライドを棄て、当時関白となっていた秀吉に頭を下げるという、離れ業を演じるのでした

隠居の父に代わり、関白「豊臣秀吉」に謁見することとした義宣。
北条氏の征伐の知らせを「石田三成」より受け、在陣中の会津を出て下野は「宇都宮国綱」と合流。
小田原に至り、関白「豊臣秀吉」にいち早く謁見したのです。
この戦術は功を奏し、常陸・下野という約二十一万七千石を安堵されました。

天正十八年(1590) 小田原征伐
関東の情勢に疎い秀吉軍の道案内を務めた佐竹勢は武蔵方面へ出陣し、支城の攻略に参加。
さらに奥州征伐にも加わって信頼を勝ち取り、佐竹氏は徳川、毛利、上杉、前田、島津らと並んで、”天下六人の大名”、あるいは”豊臣政権の六大将”などと呼ばれるに至るのでした

こうして、豊臣政権下にて公認領主となった佐竹氏。
当時佐竹氏に属していた江戸氏は一門衆と同等の扱いをされていましたが、水戸城の「江戸重通」は小田原へ参陣せず、わずかな家臣を同行させただけでした。
居城を太田城から水戸城へと移すべくその明け渡しを要求した義宣でしたが、重通はこれを拒否。
関白秀吉の権威を背景とする佐竹勢は”領内統治”の名目で出撃しました。

有力な国人衆であった江戸勢は百あまりの軍勢で迎撃したもののこれに敗れ、下総へと逃れています。
こうして義宣は水戸城を攻略。
続いて、大掾氏「大掾清幹」ほか鹿島・行方郡など国人衆三十三家を饗応の名目で呼び寄せ、これらを謀殺しております
一網打尽という戦国武将らしいエピソードですね。
こうして、疑わしい国人衆を掃討した義宣は常陸国を自身が望む支配体制としたのでした。

⇒ つづく。
  次回は「三成と仲良し義宣さま (佐竹三代:佐竹義宣編)」(9/9)

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※できれば、ぜひ三成と共に戦ってほしかったです。
また全然歴史が変わったのではないかなぁ。