【春の牛にのる】

 【春の牛にのる】 

1 万例にのぼる夢の統計をとった研究者によれば、夢の 64% は悲しみ、不安、怒りなどに結びついているそうで、他人に対する敵意のある夢は友好的な気分の夢の 2 倍に達するという(★1)

★1 養老孟司『唯脳論』青土社 P.131

そういう理由もあってか、ほのぼのとして友好的な夢を見てめざめた朝はなんだか得した気分になる。

郷里清水に帰省したら実家の母親がまだ健在で、最近和牛をペットとして飼い始めたという。
ちょうどいいところに帰ってきた、ちょっとこの牛を散歩させてこいというので、引き綱をつけて引いて歩くのかと聴いたら
「ちがう、あんたがのって歩くだよ」
と言う。

ああそうかと思い、鞍もなしの裸牛に跨ったら股間がぽかぽかと温かく、これは馬の乗り心地と同じだなと思う。
おとなしく聞き分けのいい牛の背に揺られ、春の有東坂池をぐるっとひと回りし、入江南の実家に戻ったところで目が覚めた。

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【この芽なんの芽】

【この芽なんの芽】

幼いころは「木」はたんに「木」であって名前などなかった。

子ども一人ひとりが驚くほど個性的であるように、木々の芽吹きもまた個性的であり、加齢とともに自分ではなく他人が個性的であることを愛おしく思えるようになってきてからは、春の散歩がとても楽しい。


トウカエデの芽吹き


カツラの芽吹き


エノキの芽吹き


イヌシデの芽吹き


ウツギの芽吹き


ハゼノキの芽吹き

芽吹いた木の葉が大きく育ち、太陽の高度が高くなり、生い茂った木の葉が木陰を作る頃には、暑くて暑くて木々のことなどどうでもよくて「木」は「木」でしかない日々が続き、また落ち葉一つひとつが個性的であることに気づいて愛おしく思えるようになる頃は、身勝手な人間にまた秋が訪れている。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2007 年 4 月 10 日、15 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【黙読と音読 2 】 

 【黙読と音読 2 】 

05
本を読んでいたらさらにびっくりすることが書いてあった(★1)。孫引きだけれどこんなことだ。物理学者のファインマンは頭の中で 60 まで数えながら本が読め、彼の友だちは 60 までの数字を数えるように思い浮かべながら喋り続けることができた(★2)。自分にはどちらもできないのでびっくりである。

★1養老孟司『唯脳論』青土社 P.157
★2リチャード・P・ファインマン「ワン・ツー・スリー、ワン・ツー・スリー」『科学』58‐5、岩波書店

06
ファインマンの実験から人間は視覚言語と聴覚言語の並行処理ができるらしいということがわかる。自分にはそれができなくて、コンピュータにたとえればマルチタスクではない。けれど十代の頃はラジオの深夜放送でお喋りを聴いたり、イヤホンで音楽を聴きながら受験勉強ができていた。

07
いつのまに並行処理ができなくなったのだろうと考えると、自分がマルチタスク人間じゃなくなったわけではなくて、もしかすると言語についてのみ視覚的な認識と聴覚的な認識の並行処理ができなくなったのかもしれない。もうちょっと考えよう。(つづく)

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【黙読と音読 1 】

 【黙読と音読 1 】 

01
黙読と音読について東大生が書いたネット上の研究論文を読んでいたら思いがけないことが書かれていた。高校男子が「黙読だと意味がとれないけれども音読すると理解できる」と文章読解について言及した例が研究のきっかけだという。なんと!

02
なぜ「なんと!」なのかというと自分の場合、声に出して音読することはできるけれど、音読を終えてからその読んだ本に何が書かれていたかを答えることができない。声に出して音読しながらの文章読解ができないのだ。

03
黙読も人によって違うかもしれない。声に出しての音読では文章読解ができない自分の場合、頭の中では声に出して音読をしている。しかも抑揚をつけて他人に読み聞かせをするように丁寧に読んでいる自分の声が聞こえている。黙読でも声を出さずに音読しているのであり、そういう音読で文章を読解している。黙読内の音読でないと読解ができない。

04
そういうことに着目すると面白いことに気づく。自分はこうやって文章を書きながらでも文字を逐次音韻変換して自分の文章を音読している。やったことがないけれど文章の音声入力のようなものだろう。というか心の中で声にしながらでないと文章が書けないのだ。(つづく)

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【パリのおのぼりさん】

【パリのおのぼりさん】

先日の日記で浜松町駅前界隈を寸歩してみた日記を書いたら、10歳年上で長いこと勤めた都内の出版社を定年退職した友人からメールをもらった。

就職のため地方から上京したばかりの頃、浜松町の船宿通りで友人たちと早朝待ち合わせしては乗り合いの船釣りに出かけた話、管理職以上しか飛行機での出張が許されていなかったので浜松町駅が羽田空港へ向かう東京モノレール始発駅であることすら知らなかったなどという青春時代の思い出が綴られていた。

最後に
「今は昔,おのぼりさんだった頃の話だけど,最近は都心に出かけると,またおのぼりさんに戻ってる気がする」
と久しぶりに出た都会(池袋)で道に迷った話が書かれていて笑ってしまう。


東大正門前の小さなパリ(どこが?)

東京都文京区本郷六丁目。
カレーで名高い喫茶『ルオー』の隣は長いこと空き店舗のままで、いつも美術展のポスターが貼られており、おかげで東大正門前のこの一角だけ、なんだかパリの裏通りにいるような気分になる。

東大正門前の出版社で打ち合わせを終え、お茶の水行きの都営バスに乗ったら、本郷二丁目バス停を過ぎて湯島一丁目バス停方向に向かわず斜めに右折してしまい、順天堂病院前に停車して御茶ノ水駅前に向かうのでびっくりした。乗り慣れた「茶51系統」の都営バスが思いがけない方向へ暴走しただけであっという間に自分もまたおのぼりさん状態になる。


定年退職した友人が去って何となく寂しくなった本郷通り

御茶ノ水駅前バス停のまだ先があるようなので興味津々で終点まで乗ってみたらなんと外神田二丁目、万世橋バス停を経由して、再開発により駅前ロータリーができた秋葉原駅東口、ヨドバシカメラ前が終着駅になるのだった。ちょうど秋葉原ヨドバシカメラに行きたかったのであっけにとられてしまい、帰りもまた東大正門前に用事があるので秋葉原駅前ロータリーの新しいバス停から駒込行きバスに乗ってみた。

ヨドバシカメラの巨大ビルができたあたりは神田花岡町とか神田松永町とか神田のつく古い町名が入り組んだ場所だったけれど、ビルの脇に拡張された広い道を通り、いったん昭和通りに出てぐるっと回って駒込行きバスはお茶の水方向へ引き返して行くのだった。


茶51系統路線変更のお知らせ

都営バス運転席脇にある一番前の席に座り、心の中で「(へえ~っ)」と呟きながらきょろきょろする様はまさにおのぼりさんそのものである。いつもリュックサックを背負ってカメラをぶら下げているし。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2007 年 4 月 9 日、15 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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 【眠りの快楽】 

 【眠りの快楽】 

ヒトは毎日寝たり起きたりの昏睡と覚醒を繰り返して生きている。寝起きの悪い妻は「眠い、起きたくない、一生眠っていたい」などと言い、眠れないと悩む母は「眠りたいのに眠れない、このままじゃ死んじゃう」などと言っていた。

眠いけれど寝てはいけない状況でなければ、眠いとき眠ることには快楽がある。雪山で遭難した人たちはドラマの中で「眠っちゃだめだ、眠ったら死ぬぞ」などと言って励まし合っているけれど、ほんとうにそういう現場でそういう事態に遭遇したとして、眠りに落ちる瞬間に快楽はないのだろうか。

妻は「眠い、起きたくない、一生眠っていたい」と言うけれど、自分は眠くてたまらないとき「眠い、いますぐ眠れるなら死んでもいい」と思う。そして眠りの快楽の先に目覚める自分がいないとしてもそれは知ったことではない。

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【春の認証】

 【春の認証】 

スマートフォンの起動に四桁や六桁の暗証番号を登録してあって、それをPIN(Personal Identification Number)という。その程度の簡単な番号でも気が焦るととっさに思い出せないことがある。

指紋認証機能(fingerprint authentication)がある場合は押しやすい指の指紋を登録しているのだけれど、指紋認証のセンサーが押しにくい場所にあると指の当て場所を探してかえってめんどくさい。


DATA : SONY Cyber-shot  RX100 ll 

先日の清水帰省で 91 歳の御老人を訪ねてお会いし、互いの連絡先交換で電話番号をお聞きしたら、十桁の固定電話と十一桁の携帯電話番号がすらすら出てくるので感心した。すごい。

自分は数字の記憶による認証に自信がない。思い出せずに困った時のため虹彩認証(iris authentication)を設定してみたら便利だ。最初のうちは画面を見つめていてもなかなか認証されないのが不審だったけれど、フロントカメラのレンズが「私の目を見て」と無言で語りかけているのに気づいてからは快適になった。何もせず見つめるだけでいい。

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【春の匂い】

【春の匂い】

小学生時代は春休みになると母親の郷里静岡県清水にあった祖父母の家に預けられた。接する隣家のない田んぼの中の一軒家で「退屈に満たされて充実した春」を過ごした。

田んぼの真ん中に盛り土された小さな畑があり、稲作農家が自家消費用の野菜や花を作っていた。
夕暮れが近づき、畑仕事を終えたお百姓が帰ったあと、畦道を伝って畑まで歩き、お百姓が一日そこで何をしていったのかを見るのも好きだった。

掘り返された土の匂い、間引きされ畑の脇にうち捨てられた野菜が腐っていく匂い、鎌で刈り取られた雑草の切り口の匂い、畝の脇に施された人肥の匂い。さまざまな臭気が入り混じった春の匂いを嗅ぎながら、お百姓というのは気味が悪いほど不思議な力で自然を操る、奇妙な力を持った魔法使いだなと思った。かつて、狩猟民も農耕民をそんな目で眺めたのだろうか。

昔むかし、子どもは狩猟民のように生まれ、おとなという農耕民の見よう見まねで農耕の秘密をまなび、一丁前の立派な農耕民に育っていった気がするのだけれど、いまは逆なような気もするし、狩猟的な暮らしぶりのままで一生を終える人も多いかもしれない。


本郷台地から神田へと下る石段
Data:MINOLTA DiMAGE 7

広大な田畑の真ん中にあるお百姓の農作業小屋を見るのも好きだった。何に使うのか、丸太や竹竿や藁縄とともに、使い道のわからない道具も納められており、扉の隙間から匂いを嗅ぐと土と黴臭い古い空気の匂いがした。何とも妖しげに思えた農作業小屋の思い出もまた春の匂いとともにある。


キノエネ醤油の行灯がある駒込の大黒神社
Data:MINOLTA DiMAGE 7

桜の花びらが舞う季節に、椿が花を落とす姿も懐かしい。
落ちた花びらが土に戻り始め、しんしんと桜の花びらが降り積もり、タンポポのロゼットから黄色い花が開き始める。こういう季節は土も匂いを放ち、そのドキッとするような光景と匂いは、お百姓に手をかけられた春の畑に似ている。自然はそもそもお百姓仕事に似ているし、実は逆で、きっと子どもの頃の妖しげなお百姓の姿は、上手に自然を模倣する祈りに似た儀式だったのだろう。

妖しげな春の匂いが終わると、焼けるような日ざしとともに草いきれの夏がやってくる。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 4 月 8 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【 NO CARD 】

【 NO CARD 】

『季刊清水』の編集会議で日帰り帰省した。静岡駅前からしずてつジャストライン北街道線に乗り、大内観音前で下車して保蟹寺に行き、91 歳になられる檀家総代を訪ねて郷土史の話をうかがった。墓参りと掃除を終えたら正午近かったので、セブンイレブン大内店でおにぎりとお茶を買い、大内公民館隣接の大内公園で満開の桜を見ながら休憩した。出がけに手近にあったカメラを持ってきていたので写真を撮った。幼いころ泳いだプールにも桜の花びらが浮かんで見事な花筏(はないかだ)ができており、見上げた青空にはもうツバメが飛んでいた。

帰京してそれらの写真をパソコンに取り込もうとしたらデータがなく、電池室を開けた SD カードが入っていなかった。持って行った SONY の RX100 ll は撮影時にメモリーカードがありませんと警告が出ずに撮影できてしまい、撮影後のプレビューの右下隅に「 NO CARD 」と表示されるだけでなにも記録されず、プレビューが出るので記録されたものと思ってしまう。

右下隅の「 NO CARD 」に気づかないまま空しくシャッターを切り続けていたわけだ。(写真はスマホ内にあった今回の帰省、ただ一枚の記録)

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【浜松町寸歩】

【浜松町寸歩】

港区浜松町2丁目。
長崎から学会出席のため上京された脳外科の先生と仕事の打ち合わせがあり、その日のうちに羽田から飛行機で長崎に帰られるというので浜松町駅で待ち合わせした。浜松町といえばJRの改札を出て隣接した国際貿易センタービルから羽田行きモノレールに乗り継いだことがあるくらいで、一度もちゃんと下車したことのない駅だったので、待ち合わせ時刻までのわずかな間に駅周辺をちょっとだけ歩いてみた。
 
郷里静岡県清水への行き帰りに車窓から眺める浜松町駅は、JR在来線、東海道新幹線、東京モノレール、首都高速道路、巨大横断歩道橋などが入り乱れており、錯綜した駅前という印象だけがある。


船宿のある町並み

金杉橋口から地上に出て路地を歩いていたら人が大勢立っており、こんな場所に行列ができる店でもあるのだろうかとそばに行ってみたら船宿が集まっている一角があり、乗り合い屋形船に乗って東京湾遊覧に出かける人々の一団だった。それらの人々が案内の若者に先導されて狭い路地にどんどん入って行き、なんとその路地の奥が乗船場所になっているらしい。

ということは家並みの裏まで東京湾が入り込んでいるのだろうかと帰宅後地図を見たら、家並みの裏手には古川という川があり、浜松町駅前は川や橋まであってさらに錯綜しているのだった。


乗船場所へ向かう路地

東京湾にそそぐその河口から遡り港区内天現寺までの 4.4 キロを古川といい、その上流渋谷区内宮益橋までの 2.6 キロを渋谷川といい、さらにその上流は暗渠になっている。古川橋河口付近は江戸時代将軍に魚を献上した漁師町だったとそうで、それで現在もここに屋形船を営む船宿が集まっているらしい。


半地下道入口

船宿前の道を駅の方に引き返したら線路に突き当たって道は L 字型に曲がり、線路の下になんと人だけが通れる古びた半地下通路があり、半地下通路入口に小さな延命地蔵尊が祀られていた。どうしてこんな場所に延命地蔵尊があるのだろうと考えると、この場所は郷里静岡県清水に似ている。

静岡県清水真砂町には駅前銀座脇の路地を入り、東海道本線を渡って海辺へ近道できる人だけが渡れる小さな踏切があり、通称漁師の踏切という。
鉄道敷設によって海辺へ仕事で向かう漁師の道が分断されたために仕方なしに設けられたもので、今までどれだけの人が踏切事故で命を落としたか知れない。おそらく漁師町古川の人々も海辺へ向かうためにこの場所で錯綜する鉄道の線路を渡っていた時代があり、ダイヤ過密化のために半地下通路ができるまではその踏切を渡って海辺へ向かったのではないだろうか。尊い人命が失われることもあったに違いなく、誰かがここに延命地蔵尊を祀ってその霊を慰めたのではないかと思う。


不思議な証明に照らされた半地下道

そんなことを考えながら潜る半地下道は、東海道本線に分断された漁師町という意味で、どこか郷里の船溜まりに続いているような不思議な感覚がある。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2007 年 4 月 7 日、15 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【四季報】

【四季報】

雑誌が毎月発行されることを月刊といい英語では Monthly 、一ヶ月おきに発行の隔月刊を Bimonthly と言う。そして年四回発行の雑誌はラテン語で「 1 / 4 」を意味する Quarter から Quarterly(クオータリー)と呼ばれる。

「 1 / 4 」を意味する Quarter のそれぞれはファースト・クオーター、セカンド・クオーター、サード・クオーター、ラスト・クオーターと言うけれど、日本では Quarter のそれぞれを春号、夏号、秋号、冬号と呼び、そういう雑誌を季刊という。いかにも四季がある国の美しい言葉だと思う。

年四回発行の刊行物には四季報という名もあるけれど英語ではやはり Quarterly である。Seasonal や Seasonally という呼び方はしないのかしらと辞書を繰ってみたが、Seasonal laborer が季節労働者を意味するので、Seasonal Magazine では季節雑誌というちょっと乾いた雑味のある名前になってしまう。


凸版印刷板橋事業所正門。

「さん・ろく・きゅう・じゅうに」という言葉を耳にし、季刊誌の仕事に関わると三月、六月、九月、十二月はそれぞれ夏号、秋号、冬号、春号の制作で忙しい。

三人の親たちの看護介護が始まってから、雑誌の仕事はせいぜい表紙を引き受けるくらいでややこしい本文がらみの仕事はお断りしている。親たちが突然体調を壊したりした際に、迷惑をかけるからである。それでも数えてみると月刊誌 4 冊、隔月刊 1 冊の表紙をいま現在引き受けており、不定期刊や年鑑を含めると定期刊行物の仕事は思ったより多い。

そんな中に数少ない季刊誌の仕事があり、「さん・ろく・きゅう・じゅうに」はずるずるとずれ込んで「よん・なな・じゅう・いち」で進行したりしている。母親の介護帰省の間にも「さん・ろく・きゅう・じゅうに」はやって来たわけで、厳しく拘束される雑誌の仕事をよくこなしていられたものだと思う。


東京都板橋区志村一丁目。凸版印刷板橋事業所正門前、志村第二小学校脇の桜並木。

今年もまた季刊誌の春がやってきて、昨日の夜、5 月発行になる夏号の納品を済ませてぐったりと疲れた。
「毎年そうだったなぁ」と毎年思うのだけれど、今年もまた志村坂上凸版印刷正門前の桜並木が満開になっており、春の年度末仕事が終わったことをいつもこの場所で確認している。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2007 年 4 月 6 日、15 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【座右のメモ】

【座右のメモ】

むかし本を読みながら感心したり考えたりしてスマホにとっていた「座右のメモ」を読み返したら、なかなかいいことが書いてある。

・関係の生成変化を動かず受け流し、言葉・表情・動作などに現わして「態度」をつくらない

・トインビーは「遊牧民とは動かない者たちのことである」という

「あれこれの論点についてどんな意見も見解ももたない」(ドゥルーズ)

・関係していると考えるのが窮屈なら、関係ないと結論づけられる関係を探そう

・「正常であること」と「異常であること」は対極ととらえても閾値のスライダーで調整できる差ににすぎない

座右は身近すぎて忘れやすい。読み返したついでにまた続けよう。忘れたころに見つけると役に立つ。

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【一里塚】

【一里塚】

季刊誌の仕事で年 4 回だけ訪れる志村 1 丁目。
地下鉄都営三田線志村坂上駅で下車し地上に出ると中山道沿いに志村一里塚がある。日本橋から数えて三番目の一里塚(一里=三十六町= 4km 弱)であり、この手前が板橋宿平尾、そしてその手前が東大正門前で『食堂もり川』がある本郷森川宿だったのである。

江戸時代につくられた一里塚には榎が植えられたそうで、四月の空に新芽が芽吹いて美しかっただろう。
今の日本社会はすべてどんどん平板になる仕組みになっているようで、過半数の人が残したら良いと思うものが失われ、過半数の人がつくらない方が良いと思うモノがつくられ、社会の舵取りの意図が見えにくい。行政側に立つ人間が責任を取らない仕組みにも首を傾げるけれど、一般市民側の責任ある民意というのも実感しがたくて、行政も市民も暗黙の合意の元で平板な社会を目指しているような気がしてしまう。

箱モノ乱立で立体的に見えながら、実はどんどん社会は平板になっていく。
都内で江戸時代のまま完全に保存されているのは北区西ヶ原にある岩槻街道西ヶ原一里塚のみだけれど、力ずくで撤去してしまおうという行政に対して、市民有志と渋沢栄一が強く運動した末にかろうじて保全されたものである。志村一里塚が中山道拡張により両脇に移動されたとはいえ、それでもこうして一里塚らしい一里塚として中山道沿いに保全されたのは奇跡に近いことかもしれない。

妙な無力感を感じる暮らしの中で、志村一里塚脇にある『斎藤商店』の風情を見るのが楽しみだ。
志村一里塚と共に都市景観に関する賞を受賞したこともあるそうで、一里塚が保全されなければ、この商家もこうして残っていなかったような気がする。一里塚が保全されたことに力を得た個人の強い意志を見るようで気持ちがいい。

文京区播磨坂環三道路が花見で賑わい通行止めになっているのを恐れて、毎週土曜日恒例の買い物は湯立坂を上り、母校跡地脇を通り、春日通り茗荷谷駅前に出てみたけれど、角にあった同潤会大塚女子アパートが跡形もなく撤去されて更地になっているのに驚いた。数日前、文化遺産を破壊した都に対する住民訴訟のニュースを見たけれど、なくなった現場を見て、なんとかならなかったのかなぁ、と今になってやっと思う。それくらい近所で暮らしながらも自分の住民意識も平板化しているのだろう。

人類は平板化を志向し、妙にいじらないで残した方が良いものを力試しに破壊しようとする欲望が、無意識に独裁的な悪意として働いているのではないかと感じる。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 4 月 5 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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【今ハ昔】

【今ハ昔】

今昔物語集の「今ハ昔」という書き出しに違和感があってしかたない子ども時代があった。どうして「今」という現在が「昔」という過去なんだろうと「言葉」に引っかかっていた。自分が持っていた今昔物語集の書き出しがそうなっていたからかどうかはわからない。ただ「むかし」と訳されていた書き出しが、原本では「今ハ昔」であることをどこかで知ったのかもしれない。

前提となる仮定を公理という。公理といえどもまた仮定であって真理であるかどうかはわからない。わからないことについて、水準を上げてさらに考えてみるためには仮の足場となる脚立を立てる必要があり、そのための地面というとりあえず最初の場所がいる。そうやってつくる足場が仮定なのは「自明」にすぎないからだ。

考える私があることを疑わない私という足場に脚立を立ててすべてを疑ってみようとした賢人がいた。ともかく今が昔であると思いなさいと着地させることで物語りを始めた古人がいた。自意識とは脳が脳を考えることで、そういう自明( self-evident )の意味がわかりにくい子どもだったのだろう。おとなでもわかりにくいけれど。

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【日暮里繊維街の春】

【日暮里繊維街の春】

ぶらりと大学の学生課に行ったら台東区浅草に小学生相手の家庭教師の口があり、文京区茗荷谷駅前から都営バスを乗り継いでアルバイトに通ったことがある。

勉強を教え終え、夕食をごちそうになり、帰りは日暮里駅前行きのバスに乗り、日暮里から山手線に乗って駒込まで帰っていた。
 
日暮里駅前行きのバスが終点に近づく頃、たいして広くもない道の右手にジーンズ EDWIN の本社が見え、意外な場所に若者相手の会社があることに驚いて町の様子を見ていると、そこから日暮里駅前までは両側にびっくりするほど繊維関係の店が多く、そこが今では東京名所のひとつになった日暮里繊維街だった。

そんな話を妻や母にしたら女性たちの日暮里通いが始まり、その当時の女性たちの熱中ぶりと時代背景を思い起こすと、町歩きに精を出せば出しただけいくらでも掘り出し物の発見があった時代だったのだと思う。

女性が男性の秋葉原ジャンク屋回り掘り出し物探索などを見て呆れるように、女性の生地屋回りも男性から見れば感心に値する行為であり、なんの変哲もないハギレを手にとってそれが有名デザイナーブランドの縫製過程で出たものだと見分けて買い込み、今日は思わぬ収穫があったと驚喜する姿に驚いたものだった。

大正初期、浅草方面で営業していた古繊維、栽落業者が、当時まだ閑散としていた日暮里、 三河島周辺に集団移動した、以後日暮里地区として繊維業者が集まる様になった. 大正12年の震災、昭和13年の日暮里大火を経て日暮里地区は区画整理が進み、道路も整備され、 三日小周辺に20店舗程の店売り業者が営業を始めておりました。 一方神田(岩本町)、浅草(寿町)には和歌山の染工所や大阪の紡績会社、 日本橋掘留の大問屋等から出る2等品(B・C反)、見切り品等を扱うハギレ問屋が多く、 日暮里地区の業者は、こうした問屋からハギレ、裁落、2等品(B・C反)或いは 縫製工場から出る余剰反等を仕入れ販売をしていた(東京日暮里繊維卸協同組合の公式サイトより)

母が他界してから初めて再訪した日暮里繊維街は新交通システム『舎人ライナー』開通を記念して大売り出しの最中であり、ファッションデザイナーを目指す若者たちが材料探しをする姿が目立ち、街と人生の春を祝うかのように通り沿いの桜並木が満開になっていた。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2008 年 4 月 4 日、14 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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