免許証返納

免許証返納

外出時はなるべくバスに乗るようにしている。バス停には次のバスが今どの辺まで来ているかがわかる機能つきの物まで現れ、待つことが苦手なお年寄りも安心して待てる工夫がされている。健康のため歩いた方がよいと思ってもバスが来れば乗っており、お年寄りに席を空けておくため立っていればそれなりの運動になる。それよりも皆がバスに乗らなくなって赤字を理由に路線が廃止されたら、大切な生活の足がなくなって自家用車を持たない人が困るからだ。

郷里の港町に帰省すると、驚くほどバスの便が悪くなっており、バス路線自体がなくなっているか、路線はあっても一時間に一本あればまだましな方などという状況になっている。知り合いや親戚の者を訪ねると、八十近い高齢になってもまだ自家用車のハンドルを握っており、帰りは車で送ってやるなどと言われると、失礼のない口実を考えて断るのに苦労する。二度も倒れて最近は左目が見えにくいとか、オートマチック車は運転したことがないので、いまだにマニュアルの軽トラを運転しているけれど、最近は交差点内でエンストしたりすると笑って言われると、命あっての物種なので助手席に座りたくない。他人にとっては笑い事ではないのだ。

仕事で郷里の山間地域に行ったら帰りのバスがない。仕方がないので山道を歩いていたら、軽トラを運転したおじいさんが通りかかり、脇に車を止めて

「富士山の写真を撮りに来た?」

と聞くので違うと答えたら

「バスが無くなっちゃって悪いね」

と言い、乗っていくかとも聞かずに走り去ったので安心した。山道の助手席はさらに怖い。

「高齢者の免許証返納を勧められているけど、バスもない田舎で自家用車がなかったら生きていけない、こんな町でどうやって生きて行けっていうんだ」

とお年寄りたちは言う。モータリゼーション社会が陥る悪循環の末路だ。彼らも若い頃はモータリゼーションを謳歌した人々であり、そういう社会を推進するのに一役買い、近所の個人商店がなくなって遠くの駐車場つき大型店ばかりになった社会で、高齢ゆえにモータリゼーション社会から見捨てられようとしている。

親の看取りを終え、無人となった実家片づけも済んだので、自動車を処分して自家用車の世界を卒業した。バスに乗り吊革につかまって揺られながら、モータリゼーション減速のためにもう一度乗合バスの時代にするのがよいと思っている。免許証返納を勧められるような年になってからでは遅すぎるし、返納すべきものは免許証ではなく乗合で支え合う地域人の心の方であるような気がするのだ。

 

|静岡県立中央図書館にて。バスを待つより歩いた方が早いので歩いた。本当は歩くより便利でなくてはいけない|

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