【曹洞宗江岸寺】

【曹洞宗江岸寺】

愛する者を亡くして埋葬すると、最初のうち墓石は地中にある骨のありかを示す目印のような気がして、下にある骨壺を想像して手を合わせたりする。けれど、何年かたつうちに、墓石の下に骨があろうがなかろうが、そういうことは気にならなくなって、大地の下に茫漠としてある無の存在を思い浮かべたりするようになる。骨壷→墓→大地→地球→宇宙というマトリョーシカのように、世界は果てしなく広大な骨壷になっている。墓前はそのブラックホール式骨壷の入口である。

それでもなぜ墓所に行って特定の墓石に向かって手を合わせるかと言えば、墓石はブラックホール式骨壷の中から記憶の索引カードを引っ張り出すための小さな検索窓になっているからだ。


本郷通りから続く曹洞宗江岸寺の石畳

Data:SONY Cyber-shot DSC-S85

六義園正門から最も近い寺が曹洞宗江岸寺である。開基は鳥居忠正であり鳥居元忠の息子である。鳥居元忠は歴史小説好きには馴染み深い人物で、徳川家康が駿府の今川義元の人質であった時代から仕え、姉川・三方ヶ原・長篠などの戦に功があり、家康が上杉討伐で東征中、伏見城の留守居をし、石田三成方の城明け渡し要求を拒み、激しい攻防の後、落城とともに自刃している。


墓所にて。江岸寺は文京区本駒込2-26-15

Data:SONY Cyber-shot DSC-S85

この件が関ヶ原の戦いのきっかけになったのであり、続く江戸時代から現在の日本にいたる歴史の運命の転換点だったのかもしれない。家康も元忠も覚悟の上の結末だったとする歴史書もある。そんな祖先の霊への手がかりとして息子忠正によって建立された江岸寺には、歴史を生きた人々へ思いを馳せる小さな索引カードがある。

現在、忠正の供養塔とその子孫、愛唱歌『箱根八里』を作詞した東京音楽学校教授鳥居忱(まこと)の墓が残されている。

( 2009 年 3 月に閉鎖した電脳六義園通信所 2004 年 5 月 7 日、18 年前の日記に加筆のうえ再掲載。)

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