電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【そうだ、草薙行こう…2】
(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2007年 10 月 21 日の日記再掲)
草薙(くさなぎ)神社大鳥居から草薙神社へと上る道は草薙川沿いにある。
左手に清水市街地ではもう見かけることの少ない木造本殿の立派な寺があり、その名を曹洞宗鷲峰山冷泉寺といいこの寺では梅花講がしっかりと根付いているらしい。
■静岡県草薙。曹洞宗鷲峰山冷泉寺の裏山から遠望する清水市街地。旧有度郡草薙神社の山から旧廬原郡東久佐奈岐神社あたりの山も見える。
撮影日: 07.10.15 11:24:08 AM
RICOH Caplio R2
芝が植えられてのどかな境内を抜け、墓地のある裏山に登ると一段低まった清水平野越しに庵原方面の山並みが見え、かつて低湿地だった清水平野を通過する西ルートにあたる旧有度郡草薙神社の山と旧廬原郡東久佐奈岐(くさなぎ)神社あたりの山の位置関係がよくわかる。
■森元温(もり・もとはる)の墓入り口。
撮影日: 07.10.15 11:37:51 AM
RICOH Caplio R2
草薙川沿いの道をさらに遡ると左手に森元温(もりもとはる)の墓がある。
森元温(森斉宮の名もある)は 1837(天保八)年~ 1884(明治十七)年の人であり、駿府浅間神社宮司の息子として生まれ草薙神社神主の養子となったという。慶応四年京都に倒幕の気運が高まった際に大宮浅間神社宮司冨士赤八郎らと謀って駿州の神職者や国学者を糾合し、駿州赤心隊(しゅんしゅうせきしんたい)を結成して東征軍の護衛に当たった。同年改めて官軍に編入され江戸攻略に参加し上野彰義隊攻撃にも加わっている。元号が明治と改まって帰郷したが、旧徳川幕臣に襲われ京へ逃れて官途に就いたという。
■墓所へ向かう畑の中の道。
撮影日: 07.10.15 11:38:15 AM
RICOH Caplio R2
森元温は片腕を失い、同じく赤心隊に加わった三穂神社神主太田健太郎は斬殺され、次郎長の妻 2 代目お蝶が殺害された事件も一連の出来事らしく、次郎長翁を知る会会報第 5 号「矢田部盛治日記と次郎長―明治元年の赤心隊事件をめぐって―」に詳しい。
■森元温の墓。枝先から落ちた秋が墓の上で落ちずに転がっている。
撮影日: 07.10.15 11:39:03 AM
RICOH Caplio R2
激動の時代に思いをはせながら空を見上げると、さまざまな陰影を伴って秋の日の田園風景との明暗対象が鮮やかに胸を打つ。
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