【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』―太鼓橋編―】

【『街道を(ちょっとだけ)ゆく』―太鼓橋編―】

 

(『電脳六義園通信所』アーカイブに加筆訂正した 2004 年 10 月 10 日の日記再掲)

母親の介護帰省などといっても、余程元気のない時を除いて母は日常生活動作も自立しているので、「お母さんの枕元に貼り付きっぱなしではかえってお母さんも負担に思うから、適当に自分の時間を作った方がいいですよ」などとありがたいアドバイスを貰う事もあり、「そうかもしれないなぁ」と思うことにして適当に散歩に出る。

旧東海道、静岡鉄道狐ヶ崎駅入り口をちょっと過ぎたところに右折する道があり、その先に静岡鉄道を跨ぐアーチ状の橋が架かっており、上原跨線橋(うわはらこせんきょう)通称太鼓橋といった。太鼓橋健在なりや、と見に行ったら真新しい橋に架け替えられていた。

太鼓橋を渡ってぐんぐん坂を下って直進すると、国道1号線にぶつかり、その交差点角には国道警邏(けいら)隊がある。幼い頃、東京から清水に帰省すると「 1 号線小糸の先の警邏隊を右に入って堀込橋の方へ行って」などと母は言っていた。そこに祖父母の暮らす母の実家があったのである。

警邏隊のある場所は吉川(きっかわ)といい中国地方の武将吉川氏のルーツがここにあるわけで歴史のある土地である。警邏隊の角を右折する道は今では広い直線道路になっているが、昭和 30 年代は細くてうねうねと曲がった道であり、車一台がやっと通れるくらいに幅員が狭く夜になると真っ暗で、タクシーのエンジン音に驚いて養鶏場のニワトリが騒ぎ、ヘッドライトに浮かび上がるのは梨畑だったりし、夏は野壺の臭いと虫の声で溢れていた。

堀込橋を渡ると、細道は古道北街道まで続き、その先には大内の観音さんと愛称で呼ばれる「霊山寺」や梶原一族滅亡の舞台「梶原山」、太田道灌が陣を張ったという「“本当の狐ヶ崎”」があるわけで、何が言いたいかというと、静鉄狐ヶ崎太鼓橋から元祖狐ヶ崎まで延々続いていた細道は、かなりの古道ではないかと思うのだ。幼い頃は道端に道祖神を見たような記憶もあるのだが、警邏隊から先の道は区画整理でとうの昔にない。

旧太鼓橋は幅員の狭い華奢な橋だったが取り壊してみると大変面白い橋だったらしい。華奢なはずで、使われなくなった鉄道レールで構築されていたそうで、解体後の部材を使って橋のたもとにモニュメントが建てられていて、解説板には次のように記されている。

旧上原跨線橋
(きゅううわはらこせんきょう)
横長 22.5m・幅員 4.2m・架設期間:昭和 2 年~平成 14 年
 旧上原跨線橋は、昭和2年に当時の安部郡有度村の南北を結ぶ主要な道路として、「太鼓橋」などの愛称で親しまれていました。
 橋が架けられた当時は車の少ない社会で、人と荷車の往来が主目的であったため、構造も鉄道レールを用いた簡単なものでした。
 正面に立ててある部材は橋脚に使用されていた鉄道レールで、右側横置きの部材は橋桁に使用されていた鉄道レールです。
 右側のレール正面には「 DICK. KEER. SANDBERG. D. K. 1911 」と刻印されており、1911 年(明治 44 年)にドイツの製造メーカーであるドイチェカイザー社が、サンドバーグ法というレールの硬頭処理で製造された事がわかります。

平成 16 年 3 月
静岡市

[Data:SONY Cyber-shot DSC-W1]

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