◉されど われらが時代

2018年7月7日
僕の寄り道――◉されど われらが時代

仕事で届いた編集者のメールにポツリと「オウム真理教の一挙死刑執行、驚きました。」と書き添えられていた。

オウム真理教事件のこと、死刑制度のことなど、そういう「終わったわけじゃない」課題の断片が存在することとは別に、「されど われらが時代」などと懐かしい柴田翔的な題名を冠したひとくぎりの終わりが思い浮かんだ。

これからは個人個人がコンピュータで仕事をするようになるに違いないと確信し、発売になる新 OS を搭載した米国製パソコンを 200 万ほど払って予約した時代、白い服を着た集団が日本各地に出没して気味悪がられていた時代、秋葉原に行くとマハーなんたらというヘンな名前を冠した手作りパソコンのチラシが路地裏で配られていた時代、電気街で買い物客に声かけて一本釣りするおっさんが突然「お客さん!ドスが新しくなって安いよ!」などとハイテクネタを囁いてドキッとした時代、そんな記憶が死の瞬間のパノラマ視もかくありなんと思えるように去来する。きっと皆が負った時代の痛みがその頃にあるからだ。

秋葉原 2018 年夏

やってきたパソコンで起きるエラーの原因究明情報、集団の知を求めてパソコン通信を始めたのもその頃で、もう「匿名の群衆の時代」が始まっていた。やがて高速インターネットの時代になり、それ以来コンピュータネットワークを通じて流れ込む情報で溢れかえる海を、溺れるように泳ぎながら四半世紀を過ごしてきたことになる。

それは一貫して個と社会が分裂して「気が散っていた時代」だったのではないか、そう気づき、そういうネットワークからプッシュ配信される「匿名の群衆のつながり」サービスをやめて一カ月が経った。

まるでマインドコントロールを解かれたかのように静かで穏やかで清々しい日々の中にいて、突然こういう日がやってきた。少なくとも自分の中ではひとつの塊として捉えられる時代が終わっていく。(2018/07/06)


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