電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
対称と非対称
2012年7月1日
赤瀬川原平ではなく尾辻克彦名で書かれた小説だったと思うのだけれど、父子家庭でかわされる会話のなかで、対象な存在であるシンメトリーを「シントメリー」と娘が覚え間違えしているという微笑ましい話があった。娘の名は確か胡桃子だったと思う。
確かに「ケンとメリー」とか「トムとジェリー」とか「安寿と厨子王」とかを思い浮かべると、「シンとメリー」の方がシンメトリーより対称性を感じる。
|ノウゼンカツラと書く人がいるのは愛染かつらの影響かもしれないノウゼンカズラ|2012年6月30日|東大宮にて|
自分もまた初めて覚えたシンメトリーを「シントメリー」と覚えそうになったことがあったのでなおさら笑えたのだけれど、なぜ覚え間違えをしそうになったかというと、生まれた町の名にちょっと似ていたからだ。
「シントメリー」に似た名の町には、かつて差別的な扱いを受けることの多かった人々が暮らしていたそうで、認知症が出て特養ホームに入所した祖母が大声でその話を始めて母を困らせていた。とはいえ
「あの町は昔○○○の人々が住んでいてなぁ…」
などという話も、当時を知る老人たちが亡くなるとともにだんだん聞かなくなっているし、住居表示で消えた町名も多いせいか聞いても若者たちはキョトンとしている。
|これはノウゼンカズラより赤くてラッパ状なのでアメリカノウゼンカズラだと思う|2012年7月1日|北区西ヶ原にて|
隆慶一郎『吉原御免状』では、吉原が遊女たちを身分差別社会から救済するための洗浄機関役も果たしていたというユニークな着眼に驚いたが、「地名殺し」ともいわれた住居表示にも、地名の呪縛から忌まわしい歴史を抹消する効果はあったわけで、この国においてはその恩恵も意外に大きかったのかもしれないと、古い地名を惜しみつつ思っている。
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