【日本の本】

【日本の本】

仕事中、聞くともなく国会中継のラジオ放送を付けっぱなしにしていたら小泉総理が「 Book 」という英語の意味を問われて「本」だと答え、「英語の Book の意味するものは本だけではないんですよ」とやりこめられていた。

装丁した本は必ず一冊寄贈を受けるので、あらためて通読するようにしている。著者と仕事以外の付き合いがある場合はなおさらで、お会いすれば新しい本を上梓されたお祝いぐらい言わなければならないのだけれど、できあがった本を読んで「よい本ができましたね!」という感慨の湧かない「本」があるのが不思議だ。

そういう本はたいがい、さまざまな雑誌や新聞等に書かれた原稿を寄せ集めて単行本化したもので、本のあちらこちらに隙間風が吹き、国産大豆を使ってしっかり固めた豆腐みたいな持ち重りのする物質感がなく、要するに「本の力」が感じられない、「本の体裁はとっていても本とは思えない紙束」にしか思えないことが多い。こういう紙束も英語では「 Book 」と呼ぶのだろうか。

「本」を読んでいたら面白い記述を見つけた。

ところが、イギリスなどでは、こういう寄せ集めの本は本(ブック)とは言わない。T.S. エリオットと言えば、二十世紀イギリス文壇の大立者で、われわれから見れば著書もたくさんある。ところが、イギリス人からは「エリオットは一冊も本を書かなかった」と言われた。エリオットは珍しく日本流の書きためたものを集めて本にすることを一生続けていたのである。(『日本語の個性』外山滋比古著、中公新書433)

なるほど。だけど、こういう「書き下ろし至上主義」的な見方をされると日本人はつらい。著者は「日本語の特性」から日本人にとっての「書き下ろし至上主義」の困難さを説かれている。けれど、物書きの友人を見ていて、余程のベストセラー作家でない限り、書き下ろしのみで食べて行くのは、日本じゃ無理だよなと思う。あちらの雑誌、こちらの新聞に小文を発表し、講演もテープ起こしし、それなりの稿料や講演料をいただきながら名を売り、ファンをつかみ、単行本にまとめてもう一度金を稼ぐくらいのことをしないと「日本語で文章を書いて」ペン一本で身を立てることなど不可能に思えるのだ。

反面、一冊読み終えて感慨深くあとがきから奥付、巻末広告まで読み進めると、初出一覧で様々な雑誌や新聞に掲載された原稿の寄せ集めであることを知って感心させられ本もある。「本」全体の主張が首尾一貫し、文体にもしっかり骨格があるのは、著者の力量によるところも大きいけれど、編集者の助力によるところがかなりあるのではないか。

親しくさせていただいている編集者に赤字を入れた原稿の山を見せていただいたけれど、よほどの自信とそれを支える集中力がなければできることではない。

この編集者に原稿を渡すとどんな文章も〇〇さん流に料理され、たとえ寄せ集めであっても首尾一貫した体裁をもって文章が立ち現れて来るので面白いし、それもまたひとつの才能だと思う。この編集者に揉まれた書き手が「あれはもう〇〇さんの文章ですよ」などと泣き言を言うのを聞かされると、「私は本を書く力がありません」と白状しているに過ぎないので哀れだ。おそらく寄せ集めた原稿に「本の力」を再注入し「本」として再構築する日本の優れた編集者は、少なくともイギリスのそれの比ではない資質が求められる職業なのではないだろうか。まさに著者との協同作業なのだけれど、給与の面でそれに見合った報酬を受けていない事も容易に想像できるので、著者共々お気の毒なことである。

今夜は家内が留守なので、缶ビール片手に酔っ払って好き勝手なことを書きちらしてみた。写真はお気に入りの恵比寿さま。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2001 年 10 月 27日、20 年前の今日の日記に加筆のうえ再掲載。)

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