電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
▼ゆく年くる年
【1月】
義母と一緒に昼食を食べ終え、窓から遠くを見たら赤い実をつけたイイギリにヒヨドリが群がっていた。一月も終わりに近づき街に鳥達の餌がなくなるころに食べ頃となるのでお腹を空かせた鳥達の食堂になっている。今頃このイイギリ脇の建物で、義父も地域のお年寄り達と一緒に賑やかな昼食を食べている。
【2月】
2月27日午前10時過ぎに雨が雪に変わった。温暖な太平洋側で育ったので雪が降ると嬉しくてたまらないが、日本海側で生まれ育ち豪雪に苦労したはずの妻も大喜びしている。雪が降るのを見ていると「時間」が凍り付いて降っているように見え、今この時に対する実感が人を活性化させるのかもしれない。
【3月】
3月27日、六義園のしだれ桜が満開になった。毎年開花前から朝の散歩を兼ねて定点観測しているのだけれど、満開直前、門前に「五分咲き」「見頃」と開花状況が掲示される頃が、空いている事とも相まって、しだれ桜が一番美しいと思う。満開になって散り始めるところを見るからいいという人もいるが。
【4月】
4月18日、清水から国宝阿修羅展を見るために上京した友人夫妻ともんじゃを焼き、ドロドロの物体をかき回しながら四人で食べたら、「五十数年待った甲斐があった、うまい~っ!」 と奥さんが叫んでいた。そうか子ども時代あまり美味しいと思わなかったのは、ビールを飲みながらじゃなかったからだ。
【5月】
5月7日、『季刊清水』の編集会議が葵区であるので、実家片付けを兼ねて6日から帰省した。屋根を叩く雨音で目が覚めたら震え上がるほど寒い。布団の中でメール受信したら新潟の友だちから「暑い」という便りが届いていた。フェーン現象だ。寒さを口実に実家片づけから逃げ出したことが日記でわかる。
【6月】
6月15日、2005年8月に母が他界してから無人となり、丸四年近くかけて片付けていた実家の売買契約を終えた。解体作業が始まり清水に家がなくなったが、地震や火災でご近所にかける迷惑が心配だったので、正直ほっとした気持ちの方が強い。片付けを手伝ってくれたたくさんの人たちに感謝したい。
【7月】
母親が他界し、墓を建ててから4年目の夏になり、帰省時の墓参りコースもようやく定まった。JAしみず『ふれっぴー』高部店で地元農家が栽培した花を買って塩田川沿いを歩く。その季節にその土地で育った花をその土地に供えると長持ちするし安いので、吝嗇な母も満足しているだろうなどと考えながら。
【8月】
8月は三度清水に帰省している。8月8日は母の命日で墓参り、15日は売却した実家解体が終わり更地になったので土地境界線確定作業、19日は『季刊清水』の編集会議が葵区であるので日帰り帰省をし、それぞれ墓参りをしている。新宿発駿府ライナーで帰省すると墓の前に停車するようなものだからだ。
【9月】
今年の夏は、梅雨明けが8月にずれ込み、夏の始まりが遅かったせいか、六義園のセミたちが菊の節句を過ぎても元気だった。そして、いつも呆けて大騒ぎする義父が異様におとなしく、ぎすぎすとして家族関係を刺々しくする生活態度だった義母が、この頃からぼんやりと呆けてきた、と日記に書かれている。
【10月】
9月30日に今年最後の『季刊清水』編集会議が葵区であったので墓参り帰省をした。そして10月が始まり、義母の呆けが加速してきた。年をとるとだんだん文章が指し示す意味がわからなくなり、文章自体が読めなくなり、文字のつながりを理解しなくなって文字自体が読めなくなる…と日記に書いている。
【11月】
11月21日、清水の友人達とオフ会があったので帰省して墓参りをした。塩田川土手から見る富士山も白く冠雪していた。5次会まで飲んで友人宅に泊まり、翌日、新潟から清水に来ていた友人を手みやげにして帰京した。東京駅に家人を呼び出して合流し、就寝介護までのわずかな時間を使い6次会をした。
【12月】
そして12月。今年もあっという間に師走は過ぎていき明日はもう大晦日。今年も一年お付き合いありがとうございました。来年が皆様にとってよりよい年でありますよう、この場を借りてお祈りします。12月28日16時47分、六義園上空から見る富士山夕景。あの夕暮れの向こうに郷里清水があります。
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あれもこれもとやっていく内にズルズルと夏になり、自分の誕生日と翌日のママさんの命日が来て、猫の家族が増えた~と思っていたらもう師走。
この一年にどれだけのお葬式に参加したことでしょうか・・・。
年なら諦めもつくけど病気はやっぱりね・・・。
コバルト兄さんも大変でしたね!
ウランも大変でした!
来年は悲しみの無い年になるよう祈っています!?
ありがとうございます。
一年が「あっ」という間に過ぎ去り、
時間の経つのが年々早まっています。
人生噛み締めながら生きたいと思うのでした。
それでは良い年末年始を。
仕事で東京の地に居る時は、昼休みを利用し、毎日の様に清水目玉焼きで精神を安定させておりました。
今は、そちらから見える富士山の向こう側の地である清水で年の瀬を迎えておりますが、来年も東京での生活はまだまだ続きそうです。
また来年も何かありました時は、一筆書き込みさせて下さい。
つたない書き込みにも、ご返信頂きありがとう御座いました。
それでは、良い年をお迎え下さい。
サッカーおやじさん
風八さん
まとめレスで失礼します。今年もあと四時間足らずになりました。
東京で過ごした小学生時代、年末になって清水帰省するたびに、東京で生まれ育って東京で過ごす同級生たちが「帰る田舎があるやつはいいなぁ」とうらやましがったものですが正直ピンときませんでした。
実家の片付けと整理が終わって清水に家がなくなったら、やっと彼らの気持ちがわかった気がします。親がいなくなって無人になっても家がある限り帰るべき場所があると思えたのでしょう。帰れる田舎があるっていいものですね。
今年もお付き合いいただいて楽しかったです。
どうか清水で迎える新年がすばらしいもののでありますように。
明日は富士山がきれいに見えるといいね。
本日は麦の会の創立者のOさんのお宅で恒例の新年会でした。麦の会の元のメンバーである某防災センターの元所長さんのOさんやWさん、Nさんなどが集合しました。
なぜか私以外は六さんと面識があるようで、話を聞いていると季刊清水の話題になり六さんのことを皆さんで話しておられました。
東京の紀伊国屋ホールで大学の後輩に遭遇したときも思いましたが、世間は狭い、と実感しました。
昨日清水宛の年賀状を投函しました。
創立者のO先生は中学2年生の担任で、母の店に家庭訪問してそのまま常連となられ、麦の会の皆さんも足繁く通ってくださいました。大学の同級生と結婚が決まってO先生に仲人をしていただきました。
そんなわけで僕はmcberryさんにお会いしたことがないのかしらと地震防災アドバイザーになられたOさんに尋ねてみようと思っていたのですがやはりお会いしたことはないのですね。
実家片づけが終わったので、今年こそ墓参り帰省時はO先生を尋ねてみたいと思っています。
正月の残り物が片付いたら鶏の砂肝料理に挑戦してみますね。