【秋ふかき隣はなにをする人ぞ】

【秋ふかき隣はなにをする人ぞ】

松尾芭蕉は、元禄 7 年 10 月 12 日、51 歳で亡くなっている。
その直前、9 月 29 日、堺の商人芝白の芝柏亭(しはくてい)で開催された歌仙に参加できないため、病床で詠んだ絶唱が「秋ふかき隣はなにをする人ぞ」である。
 
子のない息子にとって、両親はいつまでたっても「お父さん・お母さん」なのだけれど、他人に「おじいちゃん・おばあちゃん」などと呼ばれる光景を目にすると感慨深い。

だがその前に両親が「おじいちゃん・おばあちゃん」と呼ばれてもおかしくない歳になってきたな、と思える前兆もあった。
家族の会話について来られなくなり、それでも口を挟みたがり、聞き間違いによる誤解が多くなり、人の目・世間体を気にするようになり、やがて他人への被害妄想を抱き、涙もろくなり、怒りっぽくなり、そのくせ寂しがり、自制を失うと身体が幻想に支配されて錯乱する夜も増えてきた。


秋の富山にて(2001)

老人の看護・介護が始まると、子ども夫婦、二人だけの会話の時間を持つことが難しい。深夜、二人きりになりたいのだけれど、老人が、茶の間の扉を開けたままにして眠りたいなどと言う。若夫婦の会話に耳をそばだて、妄想で頭をいっぱいにして起き出し、会話の内容を問いただしたりすることも増えてきた。安らかな寝息を立て始めるまで、夫婦の会話は筆談で行わなければならない。

夫婦共働きしている友人のメールに、同じ職場の別セクションで働く妻への、カーボンコピー送信の心配りがされていたりするのを見ると微笑ましい。一緒に暮らす夫婦間でメールのやりとりをしている夫婦って世の中にどれくらいいるのだろうか。わが家では夫婦間でのメールのやりとりなど、ついぞしたことがない。


秋の富山にて(2001)

心ならずも、筆談によるチャット状態を体験することになったのだけれど、手書きの文字列を書きなぐるのは疲れる。けれど、読むのは楽しく、文字だけを追っていると妻とは別人のように思えたりもする。
「こんなことになるなら、手話を真剣に学んでおけば良かったね」
などと書き、開け放した扉の向こうで老人が息をつめ聞き耳を立てている気配を感じながら、声を殺して笑い合う。
時計はまもなく午前0時を過ぎようとしている。

秋ふかき隣はなにをする人ぞ

我が家にも、深まり行く秋に煩悶しつつ衰え行く魂がひとつ、寝室の闇の中、息を殺してまんじりともせずに横たわっている。

(閉鎖した電脳六義園通信所 2002 年 10 月 20 日、19 年前の今日の日記より。)

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