落下


SIGMA DP1 Merrill

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電車の席で居眠りしていると、突然車内の人たちが一斉に
「あっ!」
と叫んだ。

「あ」というより、「あ゛」に近い音だ。
何か由々しき事態が発生したのがわかった。
僕の隣に座っていた人などは、叫びながらソファーから立ち上がりかけた。
大勢の人がまったく同時に大きな声で叫んだ為、居眠りしていたこちらは飛び起きて思わず身構えた。

ちょうど電車が駅について、ドアが開いた直後だった。
ホームから車内に乗り込もうとした、幼稚園児くらいの小さな女の子が、車両とホームの15cmほどの隙間にストンと落ちたのだ。
僕が見た時は、腕のところで引っかかっていて、胸から下は隙間に消えて見えなかった。

周りの乗客が急速に動いた。
何人かは子供を救おうと手をのばし、他の数人は両手をあげて駅員に緊急事態の合図を送り、ドアの前に体を入れて閉まるのを防ごうとした。
抱きかかえられた子供は、恐らく落ちた時と同じように、隙間からスルリと引き上げられた。
特に怪我は無いようで、キョトンとしている。

騒然とした中で、狼狽しきった母親が、周りの人たちにお礼とお詫びを言いながら、我が子を抱きしめた。
女の子はしばらく呆然とした顔で立っていたが、そのうちに表情が歪み、泣き出すそぶりを見せた。
隙間に落ちた痛みというより、自分が引き起こした騒動に驚いてしまったのだろう。

いち早く察した母親が、子供の前にしゃがみこみ、「大丈夫よね。何ともないものね。痛くないでしょ?」と早口で話しかけ、子供が泣き出すのを、何とか阻止しようとした。
この上大声で泣き出し、回りに迷惑をかけるのを防ごうとしたのだ。

「もう大丈夫、何ともないでしょ? ねっ? ねっ?」
半ば強引に泣かせまいとする母親の言葉に、どうしようか迷っていた女の子は、どうやら泣くのをやめることにしたようだ。
崩れかけた顔が、すっと普通の表情に戻った。
ビックリはしたが、ここは無理して泣きわめいて見せる必要はなさそうだ・・と判断したらしい。

ほっとした母親が立ち上がると、いきなり子供が言った。
「ねえねえお母さん、今日のお昼はハンバーグだよね?」
その場の空気をまったく読めていない、素っ頓狂な子供の言動に、母親が一瞬絶句した。
そして今度は母親が切れて、大声でわめきだした。

「あ・・・あんたって子は、ボケッとして穴に落ちて、あんな騒ぎを起こしたのに、何をとぼけたことを言っているの! 」
逆上した母親の言動は止まらない。
「あんたのオネーちゃんも一緒よ! あんたのお父さんの家系は皆そうなのよ! 周りを巻き込んで騒ぎを起こして、自分では全然理解せずに変なことを言い出すのよ!」
恥ずかしさと怒りで顔を真っ赤にした母親を、周りの乗客は苦笑しながら見ている。
女の子は状況をまったく理解していない様子で、黙って母親の顔を見つめていた。
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