第3回「銀座ハイカラ寄席」(銀座ブロッサム)に足を運んだ。柳家花緑と柳家三三の二人会で、三三「金明竹」⇒花緑「宮戸川」⇒三三「締め込み」⇒花緑「妾馬」の順で進行する。動の花緑、間の三三の持ち味が発揮され、登場人物がシンクロするという粋な趣向が凝らされていた。
俺はといえば睡眠不足、発熱と風邪薬の副作用、満腹が重なって絶不調……。演目に馴染みがあったこともあり、緊張が途切れて何度も夢の世界に落ちてしまう。真摯に対峙できず、反省しきりの夜だった。
「冷血」(12年、高村薫著)を彷彿させる事件が起きた。田園調布で起きた女子中学生誘拐である。主犯格の男がネットで呼びかけ、2人の男が応じた。「冷血」のような悲惨な結末に至らなかったのは幸いといえる。格差拡大で蔓延する怨嗟、絶望、閉塞がネットの闇で煮詰まれば、同様のケースは増えるのではないか。
日比谷で先日、「ある愛へと続く旅」(12年、セルジオ・カストリット監督)を見た。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を起点に、現在と過去をカットバックして描く壮大な物語である。テンポの良い演出で、129分は瞬く間に過ぎた。
サラエボは悲劇の象徴として人々の心に記憶され、後のコソビ紛争と合わせ、深い傷はいくつかの作品に示されている。代表格は「アンダーグラウンド」(95年、エミール・クストリッツァ)だ。別稿(9月6日)で紹介した「虐殺器官」(伊藤計劃)では、サラエボへの核兵器投下がストーリーに組み込まれている。ユーゴ紛争で噴出した宗教、民族、文化間の対立は、「文明の衝突」(96年、ハンティントン)に影響を与えたに違いない。
公開直後でもあり、ストーリーは最低限に記したい。前々稿「そして父になる」、前稿「複製された男」に続き、<家族・絆・アイデンティティー>を追求した作品といえる。
ローマで暮らすジェンマ(ペネロペ・クルス)の元に、サラエボに住む旧友ゴイゴ(アドナン・ハスコヴィッチ)から電話が入る。元夫ディンゴ(エミール・ハーシュ)が遺した写真が展示されるので、息子ピエトロを連れ現地に来ないかいう提案だった。
ジェンマは過去に生きる女で、夫ジュリアーノと息子ピエトロとのよそよそしさが冒頭で描かれる。ジェンマは20年前、サラエボ留学中に写真家ディンゴと出会い、恋に落ちた。仲介役はボヘミアン的な暮らし(ロマ?)を享受する通訳のゴイゴだ。ゴイゴは様々な分野の路上アーティストとコミュニティーを形成している。
ジェンマとディンゴは紆余曲折を経て結婚したが、子供を授からないことで亀裂が生じる。ディンゴは使命感でサラエボに赴き、ジェンマも後を追う。代理母としてゴイゴに紹介されたのが、ニルヴァーナの大ファンであるアスカ(サーデット・アクソイ)だった。
ロックファン以外は気に留めないだろうが、本作にはニルヴァーナ、とりわけ自殺したカート・コバーンへのオマージュに溢れている。思い出したのは「死ぬまでにしたい10のこと」(03年)で、アンとドンが出会ったのはニルヴァーナの最後のライブという設定だった。カート・コバーンの死が多くの言葉を省略する<喪失のイメージ>として成立していることを、本作で改めて思い知った。
ゴイゴに導かれたジェンマは、衝撃的で胸に迫る真実を知る。過去から解放されたジェンマは、宿命と悲劇の歴史に彩られた新しい絆を心に刻んだ。20代前半から40代までを演じ切ったペネロペ・ロペスとサーデット・アクソイに拍手を送りたい。ジュリアーノとピエトロを演じたのはカストリット監督とその息子だった。
刹那的で人生を変える愛、癒やしと自己犠牲に満ちた愛……。愛にはいろいろな形があるが、俺が本作で<至高の愛>を選べば、ジュリアーノの控えめな見守る愛である。エンドマークの後、ジェンマは夫の寛容さに気付くのだろうか。
俺はといえば睡眠不足、発熱と風邪薬の副作用、満腹が重なって絶不調……。演目に馴染みがあったこともあり、緊張が途切れて何度も夢の世界に落ちてしまう。真摯に対峙できず、反省しきりの夜だった。
「冷血」(12年、高村薫著)を彷彿させる事件が起きた。田園調布で起きた女子中学生誘拐である。主犯格の男がネットで呼びかけ、2人の男が応じた。「冷血」のような悲惨な結末に至らなかったのは幸いといえる。格差拡大で蔓延する怨嗟、絶望、閉塞がネットの闇で煮詰まれば、同様のケースは増えるのではないか。
日比谷で先日、「ある愛へと続く旅」(12年、セルジオ・カストリット監督)を見た。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を起点に、現在と過去をカットバックして描く壮大な物語である。テンポの良い演出で、129分は瞬く間に過ぎた。
サラエボは悲劇の象徴として人々の心に記憶され、後のコソビ紛争と合わせ、深い傷はいくつかの作品に示されている。代表格は「アンダーグラウンド」(95年、エミール・クストリッツァ)だ。別稿(9月6日)で紹介した「虐殺器官」(伊藤計劃)では、サラエボへの核兵器投下がストーリーに組み込まれている。ユーゴ紛争で噴出した宗教、民族、文化間の対立は、「文明の衝突」(96年、ハンティントン)に影響を与えたに違いない。
公開直後でもあり、ストーリーは最低限に記したい。前々稿「そして父になる」、前稿「複製された男」に続き、<家族・絆・アイデンティティー>を追求した作品といえる。
ローマで暮らすジェンマ(ペネロペ・クルス)の元に、サラエボに住む旧友ゴイゴ(アドナン・ハスコヴィッチ)から電話が入る。元夫ディンゴ(エミール・ハーシュ)が遺した写真が展示されるので、息子ピエトロを連れ現地に来ないかいう提案だった。
ジェンマは過去に生きる女で、夫ジュリアーノと息子ピエトロとのよそよそしさが冒頭で描かれる。ジェンマは20年前、サラエボ留学中に写真家ディンゴと出会い、恋に落ちた。仲介役はボヘミアン的な暮らし(ロマ?)を享受する通訳のゴイゴだ。ゴイゴは様々な分野の路上アーティストとコミュニティーを形成している。
ジェンマとディンゴは紆余曲折を経て結婚したが、子供を授からないことで亀裂が生じる。ディンゴは使命感でサラエボに赴き、ジェンマも後を追う。代理母としてゴイゴに紹介されたのが、ニルヴァーナの大ファンであるアスカ(サーデット・アクソイ)だった。
ロックファン以外は気に留めないだろうが、本作にはニルヴァーナ、とりわけ自殺したカート・コバーンへのオマージュに溢れている。思い出したのは「死ぬまでにしたい10のこと」(03年)で、アンとドンが出会ったのはニルヴァーナの最後のライブという設定だった。カート・コバーンの死が多くの言葉を省略する<喪失のイメージ>として成立していることを、本作で改めて思い知った。
ゴイゴに導かれたジェンマは、衝撃的で胸に迫る真実を知る。過去から解放されたジェンマは、宿命と悲劇の歴史に彩られた新しい絆を心に刻んだ。20代前半から40代までを演じ切ったペネロペ・ロペスとサーデット・アクソイに拍手を送りたい。ジュリアーノとピエトロを演じたのはカストリット監督とその息子だった。
刹那的で人生を変える愛、癒やしと自己犠牲に満ちた愛……。愛にはいろいろな形があるが、俺が本作で<至高の愛>を選べば、ジュリアーノの控えめな見守る愛である。エンドマークの後、ジェンマは夫の寛容さに気付くのだろうか。