核開発疑惑でイランへの圧力は増すばかりだ。2度の原爆投下を悔いることがないアメリカ、イラクと同じ轍を踏みたくないイラン……。スケールは異なるが、悪同士のチキンゲームは当分続く。
ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマを経験した日本は、<原発にせよ兵器にせよ、すべての核を放棄すべし>と国際社会に発信すべきなのに、アメリカの顔色を窺っている。イランがホルムズ海峡封鎖を実行すれば、最も影響を受けるのは外交力ゼロの日本というのも皮肉な構図だ。
遠くて近い国イランで圧政の下、優れた映画が次々に生まれている。先日、WOWOWで「彼女が消えた浜辺」(09年、アスガー・ファルハディ)を見た。
当ブログではアッパス・キアロスタミ、モフマン・マフバルマフ、バフマン・ゴバディら、〝映画の都〟の巨匠たちを紹介してきた。イラン映画の特徴は、物語が神々しさを纏う奇跡の煌めきを提示すること。「彼女が消えた浜辺」は芸術性を保ちながら、サスペンス色の濃いエンターテインメントで、日本公開時(10年秋)に見逃したことが残念でならない。
マフバルマフやゴバディの作品と異なり、「彼女が消えた浜辺」は国内で大ヒットした。国民の普遍的な感覚に沿っていることが<検閲逃れ>の理由なのだろう。とはいえ、裕福で欧米化された登場人物は一様に非イスラム的で、ストーリー的に必要とさえ思える祈りのシーンも、意識的? にカットされている。以下に、簡単にストーリーを。
日本でいえばお盆のような時季、2台のワゴンが海辺の別荘に向かう。学生時代の友人たちとその家族で、主要な登場人物はセビデー、アーマド、エリの3人だ。イランは男性上位という先入観はあるが、ロックをテーマにした「ペルシャ猫を誰も知らない」(09年、ゴフティ)でも、主役ネガルは活発な女性だった。本作でもリーダー役は女性のゼビデーで、子供が通う保育園の先生エリを連れてきた。ドイツで離婚した傷心のアーマドの再婚相手としてである……と書いたが、彼女の真意は言葉と裏腹に謎めいてくる。
本作は表地と裏地が異なる生地で織られたペルシャ絨毯だ。ゼビデーは巧みな織り手だが、想定外の事態が起きる。少年が沖合に流され、同時にエリも消えたのだ。エリは少年を助けようとして溺れたのか、ひとりでテヘランに戻ったのか、計算ずくで身を隠したのか……。ゼビデーの台詞から準備されたシナリオは想像できても、打ち揚げられた水死体をどう捉えるかは見る側に委ねられている。
イスラム的な結婚観が、本作の背景にある。進歩的イラン人にとっても結婚は神聖な儀式で、男の面子も重要な位置を占める。恋愛遍歴、バツの数、出来ちゃった婚、不倫が当たり前の日本とは土壌が大きく異なる。ババ(悪い男)を引きそうになった女性が軛から逃れるためには、命懸けの決断が必要になる。
本作のハイライトは、エリが画面から消える直前、少女に頼まれて凧を揚げるシーンだ。表情から慎みが消え、嬌声を上げながら凧を揚げるエリは、少しずつ海に近づいていく。「行かなきゃ」と糸を少女に返し、舞う凧がアップになった刹那、鈍い音が響いた。
ファルハディ監督の次作「別離」(11年)は、ベルリン映画祭で主要3部門を含む5冠を達成する。今春公開を心待ちにしているが、当のファルハディにも弾圧が及んだ。「国外にいる映画関係者が帰国して、イランで活動できることを願う」(論旨)との発言が当局の怒りを買い、新作の撮影許可を取り消されたのだ。ゼビデー役のゴルシフテ・ファラハニも海外組(パリ)のひとりである。
「別離」は恐らくアカデミー賞外国語映画賞受賞の栄誉に浴するだろう。<自由を希求するイラン人監督が受賞>というニュースは、政治的な色彩を帯び世界を駆け巡るはずだ。ちなみにマフバルマフは、「イラン映画が高い芸術性を維持しているのは、ハリウッドと無縁だったから」と語っていたのだが……。
ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマを経験した日本は、<原発にせよ兵器にせよ、すべての核を放棄すべし>と国際社会に発信すべきなのに、アメリカの顔色を窺っている。イランがホルムズ海峡封鎖を実行すれば、最も影響を受けるのは外交力ゼロの日本というのも皮肉な構図だ。
遠くて近い国イランで圧政の下、優れた映画が次々に生まれている。先日、WOWOWで「彼女が消えた浜辺」(09年、アスガー・ファルハディ)を見た。
当ブログではアッパス・キアロスタミ、モフマン・マフバルマフ、バフマン・ゴバディら、〝映画の都〟の巨匠たちを紹介してきた。イラン映画の特徴は、物語が神々しさを纏う奇跡の煌めきを提示すること。「彼女が消えた浜辺」は芸術性を保ちながら、サスペンス色の濃いエンターテインメントで、日本公開時(10年秋)に見逃したことが残念でならない。
マフバルマフやゴバディの作品と異なり、「彼女が消えた浜辺」は国内で大ヒットした。国民の普遍的な感覚に沿っていることが<検閲逃れ>の理由なのだろう。とはいえ、裕福で欧米化された登場人物は一様に非イスラム的で、ストーリー的に必要とさえ思える祈りのシーンも、意識的? にカットされている。以下に、簡単にストーリーを。
日本でいえばお盆のような時季、2台のワゴンが海辺の別荘に向かう。学生時代の友人たちとその家族で、主要な登場人物はセビデー、アーマド、エリの3人だ。イランは男性上位という先入観はあるが、ロックをテーマにした「ペルシャ猫を誰も知らない」(09年、ゴフティ)でも、主役ネガルは活発な女性だった。本作でもリーダー役は女性のゼビデーで、子供が通う保育園の先生エリを連れてきた。ドイツで離婚した傷心のアーマドの再婚相手としてである……と書いたが、彼女の真意は言葉と裏腹に謎めいてくる。
本作は表地と裏地が異なる生地で織られたペルシャ絨毯だ。ゼビデーは巧みな織り手だが、想定外の事態が起きる。少年が沖合に流され、同時にエリも消えたのだ。エリは少年を助けようとして溺れたのか、ひとりでテヘランに戻ったのか、計算ずくで身を隠したのか……。ゼビデーの台詞から準備されたシナリオは想像できても、打ち揚げられた水死体をどう捉えるかは見る側に委ねられている。
イスラム的な結婚観が、本作の背景にある。進歩的イラン人にとっても結婚は神聖な儀式で、男の面子も重要な位置を占める。恋愛遍歴、バツの数、出来ちゃった婚、不倫が当たり前の日本とは土壌が大きく異なる。ババ(悪い男)を引きそうになった女性が軛から逃れるためには、命懸けの決断が必要になる。
本作のハイライトは、エリが画面から消える直前、少女に頼まれて凧を揚げるシーンだ。表情から慎みが消え、嬌声を上げながら凧を揚げるエリは、少しずつ海に近づいていく。「行かなきゃ」と糸を少女に返し、舞う凧がアップになった刹那、鈍い音が響いた。
ファルハディ監督の次作「別離」(11年)は、ベルリン映画祭で主要3部門を含む5冠を達成する。今春公開を心待ちにしているが、当のファルハディにも弾圧が及んだ。「国外にいる映画関係者が帰国して、イランで活動できることを願う」(論旨)との発言が当局の怒りを買い、新作の撮影許可を取り消されたのだ。ゼビデー役のゴルシフテ・ファラハニも海外組(パリ)のひとりである。
「別離」は恐らくアカデミー賞外国語映画賞受賞の栄誉に浴するだろう。<自由を希求するイラン人監督が受賞>というニュースは、政治的な色彩を帯び世界を駆け巡るはずだ。ちなみにマフバルマフは、「イラン映画が高い芸術性を維持しているのは、ハリウッドと無縁だったから」と語っていたのだが……。