酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「キツツキと雨」~緩くて温い土壌で生まれた優しさ

2012-02-19 22:16:18 | 映画、ドラマ
 上杉隆氏が「ニュースの深層」のキャスターに復帰していた。14日のテーマはチベットで、焼身自殺で中国に抗議する僧侶の映像に怒りと衝撃を覚える。ゲストのラクバ・ツォコ氏は「22人が焼身自殺を試み13人が死亡、残りの9人は警察や軍に連行され生死は不明」と語っていた。

 中国共産党ならぬ〝国家資本主義〟党の言論封殺は徹底しており、「反」「集会」といった言葉はたちまちネットから消去される。<資本主義⇒社会主義>が正しい道筋と考えたマルクスは、最初の革命候補地としてイギリスとドイツを想定していた。超格差社会の資本主義国中国で、革命の条件は整った。IT時代の毛沢東は現れるだろうか。

 寡聞にして中国映画の現状は知らないが、弾圧を逆利用した傑作が生まれるケースも多い。前稿で紹介した「彼女が消えた浜辺」で揚がった水死体を、検閲側は「神の教えに背いた者」と誤解? したはずだ。「灰とダイヤモンド」も同じ構図で、マチェークの死は権力者にとり<反逆者の哀れな末路>だったが、観客の感じ方は異なる。その散り際は美学に昇華して神話になり、世界中で語り継がれた。

 前置きは長くなったが、本題に。新宿で先日、「キツツキと雨」(11年、沖田修一)を見た。弾圧や検閲とは無縁だが、進んで自由から逃走している緩くて温い日本の土壌にピッタリの映画といえる。沖田監督の前作「南極料理人」と似たトーンで、心を癒やし、ほぐしてくれる作品だった。

 ストーリーや感想を以下に記すが、ネタバレの部分もある。いずれご覧になる方は、読むのをここで止めてほしい。

 主人公は木こりの克彦(役所広司)と、映画監督の田辺幸一(小栗旬)だ。2年前に妻を亡くした克彦は、仕事を辞めた息子の浩一(高良健吾)に手を焼いている。一方の幸一もまた、克彦の目に気合不足の若者と映る。ある種の父性愛からか、克彦は幸一の映画に協力するようになる。実と仮想の2人の息子と克彦を繋ぐツールの一つは将棋だった。

 本作の舞台は、旧来のコミュニティーが維持されている山あいの村だ。克彦の号令の下、ゾンビ映画の撮影に村人たちがこぞって参加する。ゾンビと一見ミスマッチに思える豊かな自然には、小泉八雲が魅せられた物の怪や行き場のない霊が宿っている。ゾンビ映画には格好のロケ地で、撮影は村を挙げての大イベントになる。

 ゾンビ映画の設定は荒唐無稽だが、生と死の境界線と至高の愛を描いている。だからこそ、妻を亡くしたばかりの克彦にとって、映画は〝自分のもの〟になった。自然と日々接する克彦の経験と知識が、雨のシーンで発揮されるラストが印象的だった。

 幸一のおどおどした態度に違和感を覚えた人も多いはずだ。カメラマンや俳優に軽んじられ、ポツンと離れて弁当を食べている。沖田監督が「気の弱い僕自身の反映」と語っていた幸一だが、克彦や村民との交遊で表情も明るくなっていく。クランクアップした時、スタッフと村民は気持ちを一つにした<柔らかな結晶体>になっていた。

 前作同様、後日談の描き方がいい。平田満、伊武雅刀、嶋田久作、そしてヘボ老優役の山崎努ら実力派が脇を固めていた。ラッシュ上映に誘われた時の克彦が典型だが、セリフや表情の逆を行って次のシーンと繋がる<逆手の話法>が多用されているのを見て、「丹下左膳余話 百萬両の壺」(1935年、山中貞雄)を思い出した。

 沖田監督作は、韓国映画のように鋭く重くはない。ハリウッド映画のように大掛かりでもない。イラン映画のような寓話性もない。それでも俺は、気分をスッキリさせてくれる消化剤を求め、次回作を映画館で見るだろう。

 最後に訃報を。「春との旅」(10年)が記憶に新しい淡島千景さんが亡くなった。享年87歳、映画黄金期を支えた女優の死を悼みたい。芸者蝶子役を熱演した「夫婦善哉」(55年、豊田四郎)は同年公開の「浮雲」(成瀬巳喜男)の陰に隠れる形になったが、俺の評価は真逆である。気丈さと脆さを併せ持つ蝶子、優柔不断なダメ男の柳吉(森繁久弥)……。淡島さんは天国で、ペーソス溢れる夫婦を森繁と楽しく演じているに違いない。

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