酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「花を運ぶ妹」~癒やしと救いの物語

2010-03-22 00:39:36 | 読書
 将棋NHK杯決勝は羽生3冠が糸谷5段を下し、連覇を達成した。現役阪大生で〝哲学を語る怪物〟糸谷の強烈な個性が認知されたトーナメントでもあった。

 〝さばきのアーティスト〟久保が羽生の壁を打ち破って王将位を獲得し、同時進行の棋王防衛戦では〝定跡の破壊者〟佐藤9段と斬新な将棋を展開している。久保も糸谷も関西所属棋士だ。東高西低の勢力図は数年後、塗り変えられているかもしれない。

 さて、本題。今回は池澤夏樹著「花を運ぶ妹」を取り上げる。「マシアス・ギリの失踪」(09年12月13日の稿)では、<構造(世界の仕組み)を把握した池澤は、怜悧な俯瞰の目で物語を組み立てる>と記したが、早とちりの部分もあった。7年後に発表された「花を運ぶ妹」は、「マシアス――」とは異なる糸で紡がれていた。

 池澤の父福永武彦は、濃密な表現で読む者の魂を掴む作家だった。家族4人の主観を組み立てて人間の孤独を浮き彫りにした「忘却の河」は代表作のひとつだが、同様の手法が「花を運ぶ妹」で用いられている。

 兄哲郎は20代で名声を得たイラストレーターで、5歳下の妹カヲルはフランス留学の経験を生かしてメディアで活躍中だ。この兄妹のモノローグが交錯して物語は進行する。

 カヲルの元に兄逮捕の知らせが届く。場所はバリ、容疑はヘロイン持ち込みだ。兄を救うため、インドネシアに顔が利く〝黒幕〟稲垣老人に協力を依頼するが、好転の兆しはない。

 <後進国の歪んだ司法制度に陥れられた先進国の若者>という映画「ミッドナイト・エクスプレス」の図式は、次第にトーンを変えていく。哲郎のモノローグに頻繁に現れれる<幼い悲しみの天使>は贖罪のメタファーで、ヘロインに耽溺するきっかけでもあった。<死刑という罰>が現実になった時、哲郎は既に<死に値する罪>に苛まれていたのだ。

 三浦雅士氏は<人と人、人と自然は兄と妹のように繋がり合うべきではないか>(要旨)と本作の解説を結んでいた。哲郎とカヲルの間にも超えられぬ深淵が横たわっているが、窮地から逃れた時、兄妹は同じ地平で世界を眺めていた。〝パリ派〟だったカヲルは〝バリ派〟になって、西欧的価値観を克服する。哲郎はアンコール・ワットで魂を清められ、<幼い悲しみの天使>を内在化する。

 文明と自然、国家と個、法と逸脱、覚醒と耽溺、東洋と西洋、生と死、罪と罰、定着と放浪、希望と悔恨……。「花を運ぶ妹」に描かれた様々なコントラストは、純水で洗われて調和していく。柔らかな表現で兄妹の心情と絆にズームした、癒やしと救いの物語といえるだろう。

 優れた表現者は、常に時代を先取りする。発表から10年、本作を〝預言の書〟と感じるのは俺だけだろうか。恋愛に受動的で年上の女性に憧れる哲郎は草食系男子の範疇で、カヲルの行動力に頼りきりになる。薬物の蔓延、家族の崩壊は巷間伝えられる通りだし、バリ領事館の冷たい対応に、逸脱を許さない小泉政権時代の<自己責任論>を思い出した。

 哲郎には作者自身が投影されている。外側に立つからこそ見える真実があることを、池澤は教えてくれる。




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