先日WOWOWで「カート・コバーン~All Apologies」(05年、英)が放映された。27年の生涯に自らピリオドを打ったカートの素顔に迫るドキュメンタリーである。2年前の当ブログでは遺体発見の日と混同して「4月8日」と記していたが、正しくは今日(5日)が命日に当たる。訂正も兼ね、本作を下敷きにカートとニルヴァーナについて書くことにする。
80年代のアメリカは現在の日本の予告編で、中産階級崩壊と地方都市荒廃が進行していた。カートが育ったアバディーンも同様で、貧困に両親の離婚が重なり、ダウナーな思春期を過ごす。家を飛び出し、橋の下や病院待合室で眠ることもあったという。孤独を癒すために読み漁ったブコウスキーやバロウズが、喪失感に満ちた詞の原形になる。
ロックだけが這い上がる手段だったカートは、クリス・ノボセリックとニルヴァーナを結成する。彼らを見いだしたのは英誌NMEで、渡英中に最初のテレビ出演を果たした。欧州全域を席巻した「オルタナツアー」(91年=後にビデオ化)にも参加して注目を浴びたものの、本国では無名のままだった。2nd「ネバー・マインド」録音後、カートはアパートを追い出され、車中で生活していたが、アルバム発売(91年9月)を機に状況は一変する。卓越したメロディーと破壊的リズムの融合が、核分裂並みのケミストリーを引き起こした。ビートルズ登場、パンク革命に次ぐ3度目のルネッサンスが世界中に伝播し、<ニルヴァーナ以前/以後>がロック史の時代区分になった。
若者にとってニルヴァーナは、自らの傷を投影であり、救いであり、カタルシスでもあった。<偶像>に祭り上げられたカートは、次第に追い詰められていく。遺書には自責、罪の意識、自嘲を示す言葉がちりばめられていた。<創作に意欲を感じなくなった俺は、君たちをこれ以上、騙すことができない>、<情けなくて神経質なジーザス野郎>……。カートと同じ立場に置かれたモリッシー(スミス)は、<聖>と<俗>を使い分け、<情けなくて神経質なジーザス>を演じることができた。コクトーやワイルドに心酔していたモリッシーは、名声を得る前に<偶像>たる準備を整えていたのだろう。
双極性障害と慢性的腹痛に苦しみ続けたカートは、「死にたくなることが何度もあった」とインタビューで告白している。幼年期に多動性障害の治癒のためリタリンを処方されたことが、薬物依存の遠因になったとする声もある。心身の苦痛を和らげるため、鋭敏過ぎる感性を磨耗させるため、ファンの過大な期待から逃れるため、カートはヘロインに溺れていく。
世紀を越え、カートとニルヴァーナは普遍的なイメージとして定着した。純粋かつ繊細な者には<カート・コバーンのように>、革命的変化をもたらす集団には<ニルヴァーナのように>……。それだけで余分な形容詞はいらない。映画「死ぬまでにしたい10のこと」(02年)も、<ニルヴァーナ神話>を利用していた。アンとドンがニルヴァーナのラストライブで出会ったという設定が、2人の生死を超えた絆の伏線になっている。ラストライブの場所はミュンヘンで、「死ぬまでに~」の舞台(カナダ)と遠いなんてケチを付けたって仕方ないけれど……。
レディングフェス'92のライブを収録したブートレッグDVDを購入した。自らを浄化するようにシャウトするカートの姿に胸を打たれる。ラストでは、デイヴ・グロールが大暴れするのを横目に、カートがアメリカ国歌をかき鳴らしていた。フーとジミ・ヘンドリクスを足したような破壊衝動が、画面から伝わってくる。ニルヴァーナの本質が浮き彫りになる、ピーク時のパフォーマンスだった。
カートは心身を刻み、血を吐きながら、<刹那>と<永遠>を同時に作り上げた奇跡のアーティストだった。カートに言葉を贈るとしたら、「安らかに眠ってくれ」しかない。
80年代のアメリカは現在の日本の予告編で、中産階級崩壊と地方都市荒廃が進行していた。カートが育ったアバディーンも同様で、貧困に両親の離婚が重なり、ダウナーな思春期を過ごす。家を飛び出し、橋の下や病院待合室で眠ることもあったという。孤独を癒すために読み漁ったブコウスキーやバロウズが、喪失感に満ちた詞の原形になる。
ロックだけが這い上がる手段だったカートは、クリス・ノボセリックとニルヴァーナを結成する。彼らを見いだしたのは英誌NMEで、渡英中に最初のテレビ出演を果たした。欧州全域を席巻した「オルタナツアー」(91年=後にビデオ化)にも参加して注目を浴びたものの、本国では無名のままだった。2nd「ネバー・マインド」録音後、カートはアパートを追い出され、車中で生活していたが、アルバム発売(91年9月)を機に状況は一変する。卓越したメロディーと破壊的リズムの融合が、核分裂並みのケミストリーを引き起こした。ビートルズ登場、パンク革命に次ぐ3度目のルネッサンスが世界中に伝播し、<ニルヴァーナ以前/以後>がロック史の時代区分になった。
若者にとってニルヴァーナは、自らの傷を投影であり、救いであり、カタルシスでもあった。<偶像>に祭り上げられたカートは、次第に追い詰められていく。遺書には自責、罪の意識、自嘲を示す言葉がちりばめられていた。<創作に意欲を感じなくなった俺は、君たちをこれ以上、騙すことができない>、<情けなくて神経質なジーザス野郎>……。カートと同じ立場に置かれたモリッシー(スミス)は、<聖>と<俗>を使い分け、<情けなくて神経質なジーザス>を演じることができた。コクトーやワイルドに心酔していたモリッシーは、名声を得る前に<偶像>たる準備を整えていたのだろう。
双極性障害と慢性的腹痛に苦しみ続けたカートは、「死にたくなることが何度もあった」とインタビューで告白している。幼年期に多動性障害の治癒のためリタリンを処方されたことが、薬物依存の遠因になったとする声もある。心身の苦痛を和らげるため、鋭敏過ぎる感性を磨耗させるため、ファンの過大な期待から逃れるため、カートはヘロインに溺れていく。
世紀を越え、カートとニルヴァーナは普遍的なイメージとして定着した。純粋かつ繊細な者には<カート・コバーンのように>、革命的変化をもたらす集団には<ニルヴァーナのように>……。それだけで余分な形容詞はいらない。映画「死ぬまでにしたい10のこと」(02年)も、<ニルヴァーナ神話>を利用していた。アンとドンがニルヴァーナのラストライブで出会ったという設定が、2人の生死を超えた絆の伏線になっている。ラストライブの場所はミュンヘンで、「死ぬまでに~」の舞台(カナダ)と遠いなんてケチを付けたって仕方ないけれど……。
レディングフェス'92のライブを収録したブートレッグDVDを購入した。自らを浄化するようにシャウトするカートの姿に胸を打たれる。ラストでは、デイヴ・グロールが大暴れするのを横目に、カートがアメリカ国歌をかき鳴らしていた。フーとジミ・ヘンドリクスを足したような破壊衝動が、画面から伝わってくる。ニルヴァーナの本質が浮き彫りになる、ピーク時のパフォーマンスだった。
カートは心身を刻み、血を吐きながら、<刹那>と<永遠>を同時に作り上げた奇跡のアーティストだった。カートに言葉を贈るとしたら、「安らかに眠ってくれ」しかない。
>レディングフェス'92のライブDVD
機会があれば、見てみようと思います。
テレビ中継用にプロのスタッフが撮影しているから画質はきれいだし、手が加わっていない分、臨場感がある。新宿がブートのメッカですが、3枚7000円と格安なのもいい。
ブートDVD収集マニアになるかもしれない。
ミューズもキュアーも大好きなので、嬉しくなっちゃいました。
ライブDVD見てみたいです。
フジロックに来るってのは、本当なんですか?
・・・でも毎年、仕事の関係で(絶対に)行けません・・・別の世界の出来事なのだ!と、思い込むことにしています。。
またお邪魔させてくださいね。
チケットは購入済みですが、日がずれたらと思うとぞっとします、