酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「ソクチョの冬」~リアルとフィクションの境界を彷徨うアイデンティティー

2023-09-07 19:47:44 | 読書
 ジャニー喜多川氏の史上最悪レベルの性加害は事務所ぐるみで隠蔽されたが、忘れてならないのは共犯者の存在だ。立花隆氏が文藝春秋誌上で田中角栄元首相の金脈を追及した際、記者たちは「そんなこと知ってるよ」と吐き捨てた。BBCのドキュメンタリーと国連の動きがなければ、悪魔の所業は闇に葬られたままだった。強い者に媚びるメディアの体質は半世紀後も変わっていない。新社長に就任した東山紀之だが、自身の性加害を指摘する声が上がっている。

 暑さは続いているが、タイトルから涼感を期待して「ソクチョの冬」(早川書房)を購入した。著者のエリザ・スア・デュサパンはフランス人の父と韓国人の母の間に生まれたフランスとスイスの国籍を持つ女性作家だ。2016年、デュサパンが24歳の時に発表した本作はフランス語圏のみならず、全米図書賞翻訳部門など世界の文学賞を席巻した。

 韓国人の遺伝子を持ち、フランスで評価された女性作家といえば、デビュー作「砂漠が街に入りこんだ日」の著者であるグカ・ハンが思い浮かぶが、両者の事情は大いに異なる。フランスで生まれ育ったデュサパンは10代の時、初めて韓国を訪れ、その際に感じたことをベースに「ソクチョの冬」を書き上げた。

 一方のグカ・ハンは2014年、26歳で韓国から渡仏し、フランス語を初歩から学んでから6年で「砂漠が街に入りこんだ日」を書き上げた越境作家だ。最も著名な越境作家は多和田葉子で、グカ・ハンもあとがきでオマージュを表していた。デュサパンは自身のルーツを知るため韓国を訪れ、グカ・ハンは韓国や家族からの解放を志向してフランス語で書いたのではないか。両者のベクトルは逆向きなのかもしれない。

 舞台のソクチョ(束草)は南北軍事境界線から60㌔にある避暑地で、夏には多くの観光客が訪れる。氷点下20度以下になる極寒の舞台に重なったのは映画「告白、あるいは完璧な弁護」だった。主人公(わたし)はソウルの大学でフランス語を学んだがUターンし、パク老人が経営する旅館で働いている。そこにヤン・ケランというフランス人の中年男性がやってきた。ケランはバンド・デシネ(フランス語圏の漫画)の作家で、主人公に考古学者を据えた連作集を執筆中だ。

 バンド・デシネは日本では絵本にカテゴライズされているようだが、実物は見たことがない。本作でわたしはケランが執筆している様子を壁一枚隔てて窺っているが、インクがギシギシ擦られる音に単色系の画集を想像していた。ケランに頼まれ、わたしは観光地を案内する。戦争を結び目に、ケランは故郷のノルマンディーとソクチョを重ねていたが、わたしは戦争が過去になったノルマンディーと、現在も〝継続中〟で傷痕が残っているソクチョとの違いを説明する。

 デュサパンが本作を書くきっかけになったのは、韓国の整形文化だった。他国では考えられないぐらい、韓流では整形が一般的になっている。わたしが働く旅館にも整形手術を受けたばかりの若い女性が滞在しているし、母や伯母、そして恋人のジュノまでもわたしに整形を勧める。淡々と進む本作の底に流れるのはアイデンティティーの模索なのだ。整形は本来の自分と変わり得る自分の橋渡しをするツールなのだから。

 わたしは父の面影をケランに重ねていたが、愛ではない。隣室で自慰をするが欲望でもない。ケランは「韓国料理は辛い」といってわたしが作る料理を食べなかった。だが、ともに時を過ごすうち、「君の物の見方が気に入っている」とわたしに言う。わたしはインクを軋ませるケランの創作の苦しみの一端を知ることになる。

 わたしはケランが女性を描くのに慣れていないことを直感する。進行中の作品で描いている女性が、永遠と確信出来ず、最後はインクで消してしまう。その音が、わたしには責め苦になった。わたしはケランが思い浮かべている女性が実在しているように感じ、自分と重ねている。わたしはリアルとフィクションの境界を、時に官能的に彷徨ったのだ。

 近くの魚市場で働く母とわたしには微妙な距離がある。一緒に暮らすのは無理だが、母を置いてソウルで生活することは出来ない。父に去られ、シングルマザーとして育ててくれた母との絆が興味深かった。
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