酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

没後32年~力道山というブラックホール

2005-12-15 02:47:25 | スポーツ

 今日(15日)は力道山の命日である。42年前のこの日、入院先で腸閉塞症を併発し、39年の人生を終えた。1週間前に刺された傷は深くなかったが、術後の不摂生で死に至った。東声会(山口組系)と住吉会の利権をめぐる争いに巻き込まれたというのが「公式見解」だったが、CIAをはじめ多くの組織が、謀殺説の主役に奉られた。

 1970年代後半、第2次プロレスブームが起きた。火付け役は「プロレス=プロセス」の視点を示した村松友視氏である。プロレスとは虚実ないまぜの境界で、演者(選手)の表現力が試される舞台であると力説していた。村松氏の著作に劣らず刺激的だったのは力道山を戦後史に組み込んだノンフィクションで、牛島秀彦氏らが健筆を振るっていた。

 力道山ほど数奇な運命に彩られたスターは稀である。朝鮮半島出身で、日本人の戸籍を与えられて二所ノ関部屋に入門する。差別を跳ね返して関脇まで番付を上げたが、唐突にマゲを切った。朝鮮人ゆえ横綱になれないと悲観した上での廃業というのが通説だが、旧態依然の相撲界に見切りを付けたのかもしれない。プロレス転向1年、年収は関取時代の20倍以上になったという。

 力道山の評価はデビュー時から高く、アメリカの専門誌でも上位にランクされていた。大関目前だったことを考えると、今でいえば琴欧州に相当する。ソップ型(筋肉質)でスピード、スタミナとも十分だった。強さなら引けを取らなかったのに、ショーに徹し切れず失速したのが、プロ柔道からの転向者たちである。そのうちの一人が大同山で、帰国事業で祖国に戻った後、金王朝入りした娘は後継者有力候補の金正哲氏を産んだ。

 「昭和史全記録」には60年12月の視聴率表が掲載されている。国民的番組の「ジェスチャー」、「お笑い三人組」、「私の秘密」が20~25%で上位を占める中、プロレス中継は40%弱でトップを独走していた。正力松太郎が発案した街頭テレビにより、力道山の知名度は飛躍的に高まった。汚い手でいたぶられた日本人(力道山)は堪えに堪え、我慢の限界に達する。空手チョップが爆発するや、悪い奴(アメリカ人レスラー)が白目を剥いてマットに沈む……。繰り返されるパターンは、自信を失くした日本人にとって無上のカタルシスだった。力道山は朝鮮人でありながら、屈折したナショナリズムの核に据えられたのである。

 力道山を支えた両輪は、児玉誉士夫と田岡一雄山口組組長だった。大野伴睦ら児玉の影響下にある大物政治家は、日韓条約批准の地均しに力道山を利用する。山口組傘下のプロダクションは美空ひばりらトップスターを押さえていたが、最大のドル箱はプロレス興行だった。マスコミとの癒着も甚だしかった。力道山は韓国で国賓級の歓迎を受けたが、AP打電の記事は三大紙に掲載されなかった。力道山に近い読売、毎日は当然のように黙殺し、朝日までも自粛する。背後にいる大物政治家を恐れたのが実情だろう。闇世界の結び目だった力道山が死ぬと、軌を一にして党人派の力が衰え、彼らと気脈を通じた暴力団への締め付けが強まった。死を悼む鐘は、新時代の訪れをも告げていたのだ。

 力道山は日本人になり切ろうとしたが、その一方で、金日成首相(当時)の親書を渡され感動したというエピソードもある。「金のなる木」に群がる有象無象に囲まれ、誰にも本音を明かすことなく、絶対的な孤独のうちにあの世に旅立った。力道山は個人的な思い出とも繋がっている。父は力道山の大ファンで、場外乱闘中に肩を叩いたことを自慢していた。父はお堅い公務員で、警察関係者からプロレスの内幕を聞かされていたが、目くじらを立てることなく、筋書きのあるドラマを楽しんでいた。

 力道山亡き後、プロレス人気は後退したが、質的には進歩を遂げた。オフステージの見せ方、軍団抗争、巧みなストーリーラインと、「猪木=新間コンビ」が確立したエンターテインメント路線は逆輸出され、アメリカのプロレスに多大な影響を与えた。ビンス・マクマホンは新間氏の貢献に感謝し、短期間ながらWWF(現WWE)会長に据えたほどである。力道山が蒔いたプロレスの種は、日本で大輪の花を咲かせた。最近しおれ気味だが、関係者が土壌改良に努めれば、瑞々しさを取り戻すことも可能だと思う。


コメント (5)
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