別稿(12月7日)に記した「ご臨終メディア」を読むや、本屋に走り、森巣博著「非国民」(幻冬舎)を購入した。頁を繰り終えた今、胸を打つ清々しさで茫然自失状態にある。本作は心洗われるピカレスクであり、日本の荒廃を直視した社会派小説だった。
バルガス・リョサは、構造への理解が作品の質を規定するという「全体小説論」を打ち出した。南米文学の巨人ゆえ、説得力は十分だったが、「基準」を満たす作家は日本にだってゴロゴロいた。80年代以降の「合格者」を挙げるなら、船戸与一、高村薫あたりか。森巣氏の方法論も瞠目に値する。「非国民」ゆえ、高い志を獲得しうるという逆説は、価値観が崩壊した国でこそ成立するからだ。
東京・中野の薬物依存者更生施設「ハーフウエイ・ハウス・希望」が主要な舞台だ。証券会社で巨額の富を生んだ鯨、武闘派ヤクザとして鳴らしたスワード、暗い過去を持つ少女バイク、冤罪で少年院生活を経験した亮太の<悔悛を志す者>たちと、彼らをフィールドワークの対象にする豪州からの留学生メグの5人が、施設で共同生活を送っている。作者自身、ジャンキーの時期を経ており、依存者の描写は生々しい。<すべてが許される明日を夢見て、今日を耐える。忍ぶ。我慢する。凌ぐ。辛抱する。そして、打たれ越す>……。プロローグの一節は、言い回しを変えながら繰り返し現れる。心身を濾過し、純水の如き再生を目指す者と対照的に描かれるのが、二人の悪徳警官だ。芳賀と山折はギャンブルの魔力に魅入られ、役得で溜め込んだ黒い金を吐き出していく。
本作には、警察官、国会議員、官僚、財界人、大学教授といった「健常国民」の実態が、時に詳細に、時に暗示的に記されている。「噂の真相」や「日本のタブーシリーズ」(宝島社)でさえひれ伏すしかない迫力だ。作者は駆け引きを熟知したワ-ルドクラスのギャンブラーで、フィクションであることの強みを最大限に活用している。都知事と暴力団の癒着とか、護憲派大物と警察腐敗との因果関係を仄めかせたところで、実在する人物とは無関係と逃げられる。豪州移住も、ギャンブラーの嗅覚を生かした「保険の一手」かもしれない。
バブル処理が遅れた理由を鯨が語る場面が印象的だ。政官財トップクラスから逮捕者を出さないため、刑事責任の時効を待って着手したと指摘し、<今頃(03年4月初版)になって、「聖域なき構造改革」なんてほざいても遅すぎるな。おまけに、それを主張している連中こそが、本来今頃は塀の内側でしゃがんでなければならなかった奴らなのだから>と言葉を繋いでいる。フィクションであるゆえ、割引は必要だろうが、構造腐敗の実態に呆れ果ててしまった。
絶望の淵にあるバイクにメグが語り掛ける。<穢れきっているのは、この社会なんだ。(中略)どんなに社会が汚そうとしても、決して汚れないほど、バイクは奇麗なんだ>と。森巣氏は世の穢れを穿つ激しさと、身を震わせて喘ぐ者への優しい眼差しを併せ持っている。それこそが、「非国民」であることの証明なのかもしれない。鯨は亮太にエスポア(希望)という名を与える。差別と排除を否定し、共生する世界を構築していく世代への願いが込められていた。
日本再生の可能性について、森巣氏は一つの答えを提示している。即ち<底を打つこと>。浄化への道はどん底まで落ちてから開けるということか。底を突き抜ければ、破滅と地獄が待ち受けている。