Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

Grasia Mendes Nasi-2(コンベルソ脱出ルートとユニテリアンとルナーソサエティ)

2023年01月29日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

Grasia Mendes Nasi-1(欧州ユダヤ人ビジネスネットワークの始まりはナシ家(=メンデス・ベンヴェニステ家)か?) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

でコンベルソを逃すルートは、そのまま第二次世界大戦にもつかわれたと思います。

第二次世界大戦中、ポルトガルが中立国であったからと言わればそれまででしょうが、ポルトガルは「著名なユダヤ人」を米国に逃げさせる重要な場所となっていました。

この経路でユダヤ人を逃す手伝いをした一人は、ウルズラ・ハーシュマンの弟アルベルト。

Albert O. Hirschman - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

1936 年の夏、ハーシュマンはスペイン内戦でスペイン共和国を代表して戦う志願兵として 3 か月を過ごしました。 第二次世界大戦中、フランスが 1940 年にナチスに降伏した後、彼は緊急救援委員会のバリアン フライと協力して、ヨーロッパの主要な芸術家や知識人の多くが米国に逃亡するのを助けました。 ハーシュマンは、占領下のフランスからピレネー山脈の小道を通ってスペインへ、そしてポルトガルへと彼らを導く手助けをした[5][8]。 救出された人々には、マルク・シャガール、ハンナ・アーレント、マルセル・デュシャンが含まれていた[8]。

参考:

クロコダイルクラブースピネッリグループとハーシュマン姉弟 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

それに協力したのは、ユニタリアンの組織。

Unitarian Universalist Service Committee - Wikipedia

ユニテリアン ユニバーサリスト サービス委員会 (UUSC) は、災害救援を提供し、世界中で人権と社会正義を促進するために活動する、ユニテリアン ユニバーサリスト協会の非営利の無宗派準会員組織です。 UUSC は 1940 年 5 月にユニテリアン サービス委員会として設立され、ナチスの迫害によって危険にさらされたヨーロッパの難民を支援することを目的としていました [1]。

創設者のロバート・デクスターは、10年以上アメリカ・ユニテリアン協会の外交官を務め、特にユニテリアン信者が多いチェコスロバキアでの難民の窮状に心を動かされていた[2]。 ] 組織はリスボンに事務所を設立し、そこに配置された最初のアメリカ人ユニテリアンは、マサチューセッツ州ウェルズリー ヒルズのユニテリアン教会の牧師であるウェイトスティル ヘイスティングス シャープ牧師とその妻マーサでした。

(中略)

今日、UUSC は人道的取り組みの調整と世界中の人権侵害の記録に関与しています。 そのプログラムは、移民の正義、気候/災害の正義、および国際的な正義と説明責任に焦点を当てています。 近年、この組織は、米国の移民政策、気候変動、先住民コミュニティの環境正義、ハイチの市民社会組織の支援、ロシアによるウクライナ侵攻の影響を受けたコミュニティへの支援など、さまざまな問題に積極的に取り組んでいます。 ロヒンギャ人口を含む少数民族に対してビルマ軍が犯した人権侵害と戦争犯罪の説明責任を主張する。

ユニテリアンについては過去これらの記事を書きました。

ユニテリアンと科学と政治-1(ダーウィン&ウエッジウッド) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ユニテリアンと科学と政治-2(エラスマス・ダーウィンとマシュー・ボールトンとLunar Society) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ユニテリアンと科学と政治-3(ジョセフ・プリーストリーとギロチンで命を落としたアントワーヌ・ラヴォアジエ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ユニテリアンと科学と政治-番外編(トランシルバニアのユニテリアン創設者とエリーザベト・バートリの叔父) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

この2本目の記事に、ルナーソサエティ

ルナー・ソサエティ - Wikipedia

抜粋:

ルナー・ソサエティ(ルーナー・ソサエティ[1]、The Lunar Society of Birmingham)はバーミンガムを中心としたミッドランド地方において有力な学識者、自然哲学者、事業経営者、発明家、化学者、作家らが組織した非公式の交流団体であり、会合が1765年から1813年までの間に定期的にバーミンガムのソーホー・ハウスで開かれていた。当初ルナー・サークルと呼ばれていたが、1775年に正式にルナー・ソサエティとなった。

ルナー・ソサエティという名称は、その会員たちが月に一回満月の夜に集会を開いていたことから由来している。

グラシア・メンデス・ナシの結婚前の苗字はLunaでした。(旧、クリスチャン名は、Beatriz (Beatrice) de Luna Miques)

 

仮置き:

イビサ島における隠れユダヤ人の歴史について — Tetrahedron Institute of Human Relations

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イエズス会の神父が作った外交学院がCSIS・参考にされたカール・ハウスホーファー(?)

2022年08月13日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

前回、

岸田首相の背景・ワールドメイトとパシフィックフォーラムCSIS - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

を書きましたが、なんで新興宗教の教祖がCSISに食い込んでいるのか不思議に思い、改めてCSISのウィキペディアを調べてみると、そもそもCSISがイエズス会の神父が作った「外交学院」であったというのに気づき、驚かされます。

 

戦略国際問題研究所 - Wikipedia

戦略国際問題研究所(せんりゃくこくさいもんだいけんきゅうじょ、英語: Center for Strategic and International Studies, CSIS)は、アメリカ合衆国のワシントンD.C.に本部を置くシンクタンクである。

(中略)

「ジョージタウン大学戦略国際問題研究所」は、イエズス会の神父エドマンド・アロイシャス・ウォルシュ(英語版)(Edmund Aloysius Walsh、1885年10月10日 - 1956年10月31日)が、1919年に同大学内に創った「エドマンド・A・ウォルシュ外交学院」が改組されたものである。ウォルシュは地政学者カール・ハウスホーファーの弟子であり、その学問をアメリカに移植することを目的とした組織であった。

設立にあたっては、アーレイ・バークおよびデイビッド・マンカー・アブシャイア(David Manker Abshire)[注釈 1]が主導[注釈 2]。1987年にジョージタウン大学から独立した研究機関となった。設立の経緯から、アメリカ陸軍などアメリカの国家安全保障グループとの繋がりを強みとする。

(中略)

日本との関連

日本人では小泉進次郎や、浜田和幸、辻清人、渡部恒雄などが一時籍を置いた。現在では日本から多くの将来有望な若手官僚や政治家(候補含む)がCSISに出向して学んでくる慣習が確立している。日本部には、防衛省、公安調査庁、内閣官房、内閣情報調査室の職員の他、日本貿易振興機構や損害保険会社、日本電信電話の職員も、客員研究員として名を連ねている。

CSISは日本では公益財団法人東京財団(日本財団の下部組織)と協力関係にある。東京財団の他にも笹川平和財団、特定非営利活動法人世界開発協力機構が、パシフィックフォーラム CSISを通じてフェローシップ・プログラムの提携を行っている[6]。また、2011年には日本経済新聞社と共同で「日経・CSISバーチャル・シンクタンク」の創設を発表し、2012年に立ち上げた。

稲盛財団理事長の稲盛和夫は国際評議員を務め、2002年4月1日には政界・経済界等の若手リーダーを養成するための設立基金500万ドルを財団から寄付し、「アブシャイア・イナモリ リーダーシップ・アカデミー」(Abshire-Inamori Leadership Academy:略称AILA)をCSIS内に共同で設立した[7]。パシフィックフォーラム CSISでは、半田晴久と稲盛の他、オリックス元会長の宮内義彦が日本在住の理事を務めている[8]。

CSISは日本の子宮頸がんワクチンの接種、推進に関する報告書[9]の発行なども行ってきている。

(後略)

 

Edmund A. Walsh - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

神父。 Edmund Aloysius Walsh、S.J. (1885 年 10 月 10 日 - 1956 年 10 月 31 日) [1] は、アメリカのイエズス会のカトリック司祭、作家、地政学の教授、および米国で最初の国際問題の学校であるジョージタウン大学外交学校の創設者でした。 彼は 1919 年 (米国外務省自体が存在する 6 年前) に学校を設立し、最初の摂政を務めました。

(中略)

国際情勢
ウォルシュは 1922 年にローマ教皇飢饉救援団をロシアに派遣し、バチカンに聖アンドリュー ボボラの聖遺物を確保することに成功しました (これらは実際にはウォルシュの助監督ルイス J. ギャラガーによってローマに運ばれ、彼は後に本を書きました)。ウォルシュとボボラの両方について)[7][8]

その後、ウォルシュはバチカンを代表して、1929 年にメキシコの教会と国家の間の長年の問題を解決するために働き、1931 年にバグダッドにアメリカの高校、バグダッド カレッジを設立するためにイラク政府と交渉しました。

第二次世界大戦で連合国が勝利した後、ウォルシュはニュルンベルク裁判で合衆国法務長官の顧問を務めました。彼の任務の 1 つは、ドイツの地政学者カール・ハウスホーファー将軍を尋問して、彼が戦争犯罪で裁かれるべきかどうかを判断することでした。国際政治に関するハウスホーファーの理論は、ホロコーストを正当化するのに役立ったと言われています。

ウォルシュは、1922 年の飢饉救援活動の影響もあり、強い反共産主義者でした。ウォルシュは、反共産主義の作家および修辞学者として広く知られるようになり、誤って、上院議員を最初に説得した人物であると噂されました。マッカーシーは、共産主義者が合衆国政府と娯楽産業に侵入したこと、そして彼が政治的重要性を得るために反共産主義の問題を利用すべきであると述べた[9]。ウォルシュはキャリアを通じて反共産主義思想を精力的に推進した[10]。

 

なんと、掲げた目標はヒトラーと同じだった?(しかも、彼も神秘主義ですか…。)

ヒトラーもウォルシュも反共だたので、その辺は相反しますが。

カール・ハウスホーファー - Wikipedia

抜粋:

カール エルンスト ハウスホーファー (1869 年 8 月 27 日 – 1946 年 3 月 10 日) は、ドイツの将軍、教授、地理学者、政治家でした。 彼の学生ルドルフ ヘスを通じて、ハウスホーファーの地政学の概念は、アドルフ ヒトラーの拡張主義戦略の発展に影響を与えました。 彼は、ヒトラーが我が闘争で採用し、世界的なナチスの拡張主義と大量虐殺を動機づけるために使用された、レーベンスラウムという用語の政治的使用を作り出しました.[1] ニュルンベルク法の下では、ハウスホーファーの妻と子供たちはミシュリンゲに分類されました。 彼の息子、アルブレヒトは、ヘスの助けを借りてドイツの血液証明書を発行されました。(注:ミシュリンゲ:ユダヤ人の血をひくもの)

(中略)

第二次世界大戦期を通じて連合国の間では、ハウスホーファーがヒトラーの侵略政策に大きな影響を与えたという見方が広まった。ドナルド・ノートンはこうした見方をされたハウスホーファーを「ヒトラーの悪魔的天才(Hitler's evil genius)」と評している。ドイツ敗戦後のニュルンベルク裁判でも重要戦争犯罪人としてハウスホーファーを裁く動きがあったが、高齢の上に病身であったこと、ヒトラーの政策への関与の立証が困難であった事などから見送られた[5]。ハウスホーファーは、自らの理論がナチス・ドイツに用いられたことについて「自分は科学者であるよりもドイツ人であった」と述懐している[6]。

1946年に妻とヒ素を飲み、服毒自殺をした。

思想と影響
ハウスホーファーはソビエト連邦とドイツの同盟の主唱者の一人であり、グレゴール・シュトラッサーらナチス左派やエルンスト・ニーキッシュのようなナショナル・ボリシェヴィズムの哲学、一部のドイツ共産党幹部までにも大きな影響を与えた。

日本については、日本にヨーロッパにおけるドイツの役割を与えた著作『太平洋の地政学』(Geopolitik des pazifischen Ozeans) を残した。日本滞在中に日本語はもちろん、朝鮮語や中国語を修め、広くアジアを旅しヒンドゥー教や仏教の経典、またアーリア民族が多く住む北インドやイランにも詳しく、アジア神秘主義の権威でもあった。ヒトラー及びナチス党はハウスホーファーの理論に少なからぬ影響を受けた。

ハウスホーファーは、以下を主張した。

ラッツェルの「レーベンスラウム」(生存圏)と国家拡大理論
チェーレンの「アウタルキー」(経済自足論)
マッキンダーのハートランド論による「ランドパワーとソフトパワーの対立」
パン・リージョン理論(統合地域)
ソ連とのランドパワーによる世界支配
ハウスホーファーは世界をいくつかのブロックにわけて、アメリカ、ソ連、日本、ドイツなどがそれぞれの地域で主要な地位を占め、秩序を維持すべきとした。勢力均衡理論に基づいて世界視野での勢力均衡を確立することを提唱しているものといえるが、それらをとりまとめる国がドイツであるとした。

Karl Haushofer - Wikipedia

 

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国連と宗教団体

2022年07月07日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

国連とは、国の連合だと思っていましたが、いつの間にか、宗教団体の連合にもなっている気がしてきました。

改めて国連と宗教団体について調べてみると、2000年くらいから、このようなことがあったようです。

 

UPFが目指す国連改革とは 「国連に超宗教議会の設立を」 – UPF-Japan (upf-jp.org)

 

UPFについて – UPF-Japan (upf-jp.org)

抜粋:

ユニバーサル・ピース・フェデレーション(Universal Peace Federation=UPF)は国連経済社会理事会の総合協議資格(カテゴリー1)を有する国際NGO団体です。

UPFは2005年9月、文鮮明・韓鶴子総裁夫妻によって、米ニューヨークで創設されました。現在、日本を含め世界150カ国に支部を拡大し、国連改革や持続可能な開発目標(SDGs)の達成に貢献しながら、世界平和実現のための活動を推進しています。

ビジョンと活動

UPFのビジョンは「One Family Under God(神の下の一家族世界)」です。
UPFは、他者への奉仕と協力、国家・宗教・人種・民族間の和解と調和を促進する活動を通じ、平和文化の創造に貢献します。
 
 
もともと宗教を弾圧してきた共産圏の国で、UPIに加盟するところは少ないでしょうでしょうね。
 
さて、UPFは統一教会が旗振り役のようですが、1948年の時点で国連にNGO登録していたバハイ教と目指す「人類の統一」というところが同じ。
 
 
  • 一つの神
  • 一つの宗教
  • 人類の統一
  • 多様性の中の統一
  • 男女の同等性
  • あらゆる偏見の形の除去
  • 世界平和と新しい秩序
  • 科学と宗教の調和
  • 真理の探究の独立
  • 常に進歩する文明の原理
  • 普遍的な義務教育
  • 普遍的な補助言語
  • 政府に従うこと
  • 富と貧困の格差の解消
  • 経済問題に対する霊的な解決策

 
参考:
 
 
 
 
 
 
 
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「宗教」と「戦争」

2022年07月05日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

最近もまた、宗教系のことを書いていますが、宗教について、私は「人に押し付けたり、危険なカルトでなければ、基本的にOK.」

でした。

これは2014年に書いたものです。

『負』を追い払う人、集める人 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

(前略)

Aさんは元カトリック教徒でしたが、大人になってプロテスタントに改宗した人。 

改宗したくらいですから、それなりに信仰心は厚かったのですが、彼は異教である仏教や神道にも興味を持ち、寺院などを訪れる人であったし、「信仰を持つことは大切」と言いながらも無宗教の私をも理解してくれていました。

だから、プロテスタント関係の話をしたりすることもあったのですが、あまりこれは障害になりませんでした。

しかし、そんな彼も、不幸が続くころから、カトリックの悪口、カトリックの不祥事の記事も送ってくるようになりました。 

私はそれらの記事を読むこともなかったですし、それについてはスルーで何もコメントは返さなかったのですが、それを諌めもしなかったからか、何度か。

そう対応していた私も、今回は流石に耐え切れず、

「何度も言いますが、私はカトリック教徒でもないし、特別の信仰を持っているわけではありません。 

しかし、どの信仰に対しても、それと違う信仰の人が悪口を言うことを、私は受け入れません。

私には、カトリックの友人、ロシア正教の友人、ヒンズーの友人、イスラムの友人、いろいろいますが、彼らは自分の伝統やイヴェント、芸術の説明として彼らの宗教の話をしてくることはありますが、誰ひとりとして、他の宗教や宗派の批判を私に書いてきた人はいません。

私が言うことを理解してくれることを望みます。」

と、彼にはっきり書きました。

このAさん、人種差別者、民族差別者、あらゆる差別を憎み、非民主的、不寛容を嫌う人でした。

が、その彼は今自分が『宗教差別』なるものをしてしまっていることに気が付かないばかりか、リンブルクとイヴェントの写真を観ながら、その感想がカトリックの悪口だけなんて、軌道を逸しています。

これは、彼の状況が好転したら、私の言葉に自分のことを恥じることがあるのかもしれませんが、今のところ、彼からのメールはありませんので、それはまだまだ先か。

上のAさんからはその後まったくメールが来ることもなくなり、残念な気持ちはあったものの、反面ほっとした面も。

このあと、シャルリ・エブド事件が起こり、カトリック教徒の友人が「イスラム教叩き」を始めたりもしましたが、幸いこの友人は私が辟易していることに気が付いてくれたので、再び友人を減らすことはありませんでした。

「第三次世界大戦は始まっている」という言葉を私が無視する理由 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

2014年から8年-

「宗教とはどこまでが宗教なのだろうか。カルトとカルトでない宗教の違いはなんだろう。」

というような疑問から、まずはユダヤ人のことを調べているうちに、

「ユダヤ人とは、「ユダヤ教の信徒」といわれるけど、ユダヤ教を信じない人も「ユダヤ人」と呼んでいるのはなぜか。「シオニズム」は「ユダヤ教」を利用していないか?」

となり、

ユダヤ人→コンベルソ→イエズス会と来て、イエズス会→イルミナティ→ゲルマン騎士団→トゥーレ協会→ナチスドイツ

トゥーレ協会 - Wikipedia

と繋がることを思えば、「宗教」は人を幸せにしているとは思えなくなってきます。

 

追記:

ちなみに、トゥーレ協会を作った人物からは、これがトルコとイギリスを結び、ヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスはエジプトとイギリスにつながります。

ウクライナ関係でキー国となっているトルコ、そして英国のジョンソン首相の曽祖父がトルコの重要人物だったこと-一見イスラム教は関係なさそうに見えて、欧州にとってのイスラム国の関係も、さぐれば新しい事実がありそうです。

 

Rudolf von Sebottendorf – Wikipedia

ルドルフ・ヘス - Wikipedia

なお、ナチスには、二人のルドルフ・ヘスがいたことを、昨日初めて知りました。

ルドルフ・フェルディナント・ヘス - Wikipedia

 

ジョンソン首相の曽祖父

Ali Kemal - Wikipedia

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イエズス会のドイツ人修道士が作った秘密結社イルミナティ~人智学協会

2022年07月03日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

ネットの陰謀論にでてくる「イルミナティ」。

「イルミナティ」=「爬虫類型異星人」とするものがよくあるので、ほとんどこの言葉を使うサイトは素通りしてきました。

ところが「イエズス会」を調べていくうちに、修道士のドイツ人が作った秘密結社が「イルミナティ」で、一旦禁止されたイルミナティを19世紀後半に復興させたのもドイツ人、というのを知りました。

 

イルミナティ - Wikipedia

から派生した

イルミナティ(ラテン語: Illuminati[14][注 4]、ドイツ語: die Bayerischen Illuminaten[1], Illuminatenorden[7]、英語: the Illuminati of Bavaria, the Bavarian Illuminati[1])は、イエズス会の修道士だったインゴルシュタット大学教授のアダム・ヴァイスハウプトが1776年に創設した秘密結社である[6]。

(中略)

前史

アダム・ヴァイスハウプト(1748-1830年)
1775年、インゴルシュタット大学の教会法教授[7]で法学者のアダム・ヴァイスハウプトが哲学・政治理論に関して知的な議論を行う私的サークル「完全論者の教団」を結成する[1]。

誕生と最盛期
翌年5月1日、完全論者の教団は「バイエルン啓明結社」(ドイツ語: die Bayerischen Illuminaten)へ改称するとともに、3つの位階を持つフリーメイソンリー的組織に生まれ変わった[1][15]。この位階はヴァイスハウプトがフリーメイソンの組織を参考にしたものであるが、魅力がなく会員は増えなかった[16]。当初のイルミナティはヴァイスハウプトが自身の生徒の中から慎重に選んだ限られた弟子集団[12]、秘密の学生団体だった[8]。ヴァイスハウプトはイエズス会の大学教育に反対し[17]、国家や教会により排除された全ての教科を学生たちに学ばせるとともに、政治・社会に対する批判の力をイルミナティで養わせようとした[15]。

イルミナティは次第にその人材採用活動をインゴルシュタットからアイヒシュテット・フライジング・ミュンヘンなどに広げていく[12]。また、フリーメイソンへ加入することで自らの組織を強化する戦術を取ったり[15]、ドルフ・フォン・クニッゲ男爵の尽力によって精緻な位階制度の整備(#位階構成)や儀礼次第、各種用語法が考案される[1][16]など、教団内のシステム改革によってイルミナティは新しく構築された[8]。例えば、ヴァイスハウプトはスパルタクス、クニッゲはフィロンというようにギリシア・ローマの歴史上の人物にあやかった教団名が会員に与えられ[16]、地名を呼ぶにもインゴルシュタットをエレウシス、ミュンヘンをアテネ、バイエルンをギリシアなどと隠語を使った[18]。その他、位階ごとに特殊な暗号による通信を行ったり、相互認知のための独特の仕草やジェスチャー、また一説にはペルシア暦を使っていた[18]。

クニッゲの考案したこれらの制度・用語法のおかげで、イルミナティは1780年代初頭からドイツ・オーストリアを中心に一大ブームを起こし、急速な勢力の拡大をみせた[11]。その最大の発展期には、ワルシャワからパリ、イタリアからデンマークまでに及ぶ広範囲で活動していた[12]。イルミナティの独自ロッジは数こそ多くなかったが、ドイツ南部・オーストリアのフリーメイソンロッジの大半がヴァイスハウプトやイルミナティの思想を受け入れ、儀礼も自発的に取り入れてくれたので、イルミナティは勢力拡張に苦労せずして成功した[19][20]。イルミナティの会員数として資料に挙げられる600、2000などの数は、会員の大半がフリーメイソンの正規派ロッジに所属するシンパであったことから鵜吞みにはできない[20]。なお会員の大部分は官吏・教授・教区司祭から成り、商人や小ブルジョアは少なかった[8]。

凋落と崩壊
バイエルン政府は、為政者らの中で定着してた陰謀史観から、このような有閑階級で爆発的ブームになっていた秘密結社に危機感を思えた[19]。そして1784年6月22日、カール・テオドール選帝侯の勅令で秘密結社の会合が禁止にされる[20]。これはイエズス会、ローマ・カトリック教会、黄金薔薇十字団(英語版)[注 7]がイルミナティの危険性を喧伝していたことによる[20]。会員は地下に潜ったが、翌1785年には名指してイルミナティの解散が命じられ壊滅的な打撃を受けた[23]。会員は投獄・公職追放・資産没収に遭い、関係者宅も家宅捜査の対象となり、設立者のヴァイスハウプトはゴータに亡命した[18][19]。これによってイルミナティの実体は消滅した[19]。存続期間はわずか9年間[2]の短命な運動だった[12]。

19世紀末から20世紀初頭のドイツでは、レオポルド・エンゲル(ドイツ語版)なる人物によるイルミナティ復興運動があり、東方聖堂騎士団を組織するテオドール・ロイス(ドイツ語版)もこれに関与していた[24]。

陰謀論として
1785年以降、それ以上の活動は歴史的文献には含まれていないが、イルミナティはその解散後何世紀にもわたって陰謀論において絶大な存在感を誇った[12]。

イルミナティ崩壊の後に勃発したフランス革命に狼狽えた貴族や聖職者らは「イルミナティやフリーメイソンは大衆を革命へ扇動した黒幕」と主張する反フリーメイソン(英語版)の陰謀論者であったバリュエル神父(フランス語版)やジョン・ロビソン(英語版)の陰謀史観にすぐ飛びつき[18][25]、イルミナティは革命の首謀者と見なされた[26]。その他、破壊活動・瀆神・乱交・嬰児嗜食などワンパターンな嫌疑をも受ける[18]。各国語に翻訳されたバリュエルらの著作は世界に拡散され、諸悪の根源を秘密結社に帰する陰謀史観はこうして大衆的に定着した[25]。

イルミナティが世界史の裏で暗躍しているなどという「世界征服を企むイルミナティ」というイメージを現代的な形として復活させたのはネスタ・ヘレン・ウェブスターの著作群だが、それを素地に陰謀論者らも独自の荒唐無稽な尾ひれ[注 8]を付け加えた「陰謀本」を次々と世に出している[27]。陰謀史観の定番ともいえるイルミナティを警告・糾弾する書籍は日本でも欧米でも山ほど存在している[2]。

(後略)

太字にした部分のにある、レオポルト・エンゲルとテオドール・ロイス。

Leopold Engel – Wikipedia

抜粋Google翻訳:

1858年4月19日サンクトペテルブルク。 †1931年11月8日、ベルリン)は俳優、オカルト、スピリチュアリスト、神智学者、秘教作家、そしてイルミナティの世界同盟の創設者でした。

Theodor Reuß – Wikipedia

抜粋Google翻訳:

カール・アルバート・テオドール・ロイス(1855年7月28日アウグスブルク– 1923年10月28日ミュンヘン)は、ドイツのオペラ歌手、過激な政治活動家、ジャーナリスト、セックスマジシャン、神智学者、フリーメーソン、そしてオカルト秩序の創設者でした。。

とくにテオドール・ロイスはなかなか興味深いです。

まあ、イエズス会も(そしてユグノー(非カトリック)の多くが)、「オカルト」に行きつきます。

神智学協会 - Wikipedia

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イエズス会とコンベルソ-2(ルイ=ル=グランとヴォルテール、オランダのIsaac de Pinto)

2022年07月01日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

リセ・ルイ=ル=グラン(仏: Lycée Louis-le-Grand、略称: LLG)は、フランスはパリにある、古い歴史をもつ公立の後期中等教育機関である。ルイ=ル=グラン高校、あるいはルイ=ル=グラン学院ないしルイ大王学院とも訳す。

イエズス会が設立した教育機関は日本にも上智大等がありますが、フランスでは1563年にありました。

リセ・ルイ=ル=グラン - Wikipedia

ルイ=ル=グランは1563年、イエズス会によりパリ大学(ソルボンヌ大学)に附設する学寮(ないしカレッジ)の一つとして、パリの伝統的な学生街であるカルチエ・ラタンの中心に設立された。この地域にはパリ大学の他、コレージュ・ド・フランス等があり、歴史、建築、文化に富んだ、フランスで最も古い名門教育機関が集中する地域である。

後期中等教育課程を教えるリセとしては800人の生徒が在学しており、大学レベルのカリキュラムを教えるPSL研究大学と共同CPGE(グランゼコール準備級、Classes Préparatoires aux Grandes Écoles) には900人の生徒が学んでいる。バカロレアに加えてエコール・ポリテクニークやパリ高等師範学校などグランゼコールへの合格率の高さで名高い。ルイ=ル=グランの生徒はマニョリュドヴィスィヤン (magnoludoviciens) と呼ばれている。


ルイ=ル=グラン校の中庭。かつてはパリ大学に附設する校舎だった。
ルイ=ル=グランはフランスのエリート教育に主導的な役割を果たしている。卒業生に無数の政治家や外交官、高位聖職者、アカデミー・フランセーズ会員、文学者などを輩出している。「このパリのイエズス会学校は」と、1862年にエリ・ド・ボーモンが書いている―「永きにわたり、偉人をはぐくむ国家機関でありつづけてきた」。

モリエール、ヴォルテール、ヴィクトル・ユゴーらの他、詩人でネグリチュード運動家のエメ・セゼールがこの学校から巣立ち、偉大な文学者となった。フランス大統領のジョルジュ・ポンピドゥー、 ヴァレリー・ジスカール・デスタン、ジャック・シラクやセネガル共和国初代大統領のレオポール=セダール・サンゴールなどがかつてこの学校で学んでいる。モンテネグロ王ニコラ1世などは留学生としてルイ=ル=グランで学んだ。

もちろん、上智大学の教師や学生がイエズス会はもちろん、クリスチャンでない学生は多いのと同じで、ルイ=ル=ルグランで学んだからと言って、かならずしも「イエズス会の信者」であったわけではないと思います。

が、ここで気になる人が-それはフランス革命をしらべていたとき、何度も現れたヴォルテール。

ヴォルテール - Wikipedia

フランス革命とユグノー&18世紀のアカデミックな業界人たち - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

こちらは、ヴォルテールと接点がなさそうな、コンベルソのIsaac de Pinto。

彼がイエズス会の信者であったかどうかはわかりませんが、彼はイギリスのために、フランス革命を起こすのに協力はしていたようです。
その彼の書いたものを批評

 

Isaac de Pinto - Wikipedia

本文Google翻訳、おかしな部分もありますが、とりあえずそのまま:

Isaac de Pinto(アムステルダム、1717年4月10日– 1787年8月13日ハーグ)は、ポルトガルのセファルディム出身のオランダ系ユダヤ人であり、商人/銀行家であり、オランダ東インド会社の主要投資家の1人であり、学者であり、哲学者でした。 ユダヤ人解放と国家債務に集中した。 ピントは主にフランス語で出版され、ポルトガル語で一度出版されました。 「彼は、モーゼス・メンデルスゾーン以前の18世紀の数少ないユダヤ人の一人であり、ヨーロッパ文化の主流で活動し、表現することができました。」[1]

アイザックは1717年4月18日に彼のブリットミラ(割礼)を持っていました。これはおそらく、彼が4月10日に生まれ、1730年にバルミツワーを受け取ったことを意味します。17歳のピントは1734年12月29日にレイチェルヌニェスエンリケスと結婚しました。その夫婦には子供がいなかった。 1748年、ピントは、オレンジの総督ウィリアム4世を助け、ベルヘンオプゾームでフランス人を倒すために彼にお金を送ったり貸したりしました。その見返りに、彼はユダヤ人の商人が路上で衣服、ガーキン、魚を売ることを禁じている措置の撤廃を求めた。彼はギルドをユダヤ人に開放し、最貧層をスリナムに送ることを提案した。 1750年に彼はオランダ総督からオランダ東インド会社の社長に任命されました。 1755年に彼はフリードリヒ大王の訪問を受け、オランダを無意識のうちに旅しました。一緒に彼らはGerritBraamcampを訪れました。

ピントは幅広い学識のある人でしたが、ヴォルテールから共宗教主義者を擁護することで評判を得た45歳近くまで書き始めませんでした。 1762年に彼はアムステルダムで彼のEssaisurleLuxeを出版しました。同じ年に、彼の謝罪は、Nation Juive、ouRéflexionsCritiquesに登場しました。著者はこの作品の原稿のコピーをヴォルテールに送った。 AntoineGuenéeは、彼のLettres de Quelques Juifs Portugais、Allemands et Polonais、àM.deVoltaireの頭で謝罪を再現しました。

1761年にデピントと彼の兄弟アロンはおそらく1759年[2][3]または1761年にイギリス政府のために600万または660万ギルダーのローンを調達した結果として破産した[4]彼の兄弟はニーウェで彼の家を売却したヘレングラハト。デピントはパリに移り、そこでジェームズコックバーン、ハートフォード侯爵、マテウスレステベノン、デイヴィッドヒューム[5]、ジョンラッセル、ベッドフォード侯爵[6]、デニスディドロと会いました。それから彼はハーグに移り、ランゲ・フォールハウトの邸宅に住んでいました。若いモーツァルトと彼の妹が演奏したとき、彼と彼の家族は宮殿に招待されました。 1767年に彼はロンドンに行き、ビュート卿と会い、パリ条約(1763)に関する助言のために年金を受け取りました。イギリス人は彼の提案を通じて、インドのフランス人に影響力を与えました。 「彼は、イギリス軍がこの変更を取得しなかった場合、戦争はおそらく再び勃発するだろうと指摘した。」[7] 1768年、ピントはデュジュドカルテスのディドロに手紙を送った。 「イングランドは破産の危機に瀕していないことを多くの人々に確信させた」[8]という彼のTraitédelaCirculationet duCréditは、1761年に始まり、1771年にアムステルダムに登場しました。

ピントは、世界的な植民地化に関する本を出版した後、レイナルに反対しました。ミラボー彼の論文は、フィリップ・フランシス(政治家)[10]によって英語に翻訳され、プロシアの財務大臣であるカール・アウグスト・フォン・ストゥルエンゼーによってドイツ語に翻訳されたほか、2回再版されました。 1774年。彼はまた、ジャンポールマラーを階段から押し出して家を出るように命じたようだ。[11] 1776年に彼はアメリカの革命家に反対し、ボストンティーパーティーを承認した。1780年頃に彼はフォンテーヌブロー条約(1785年)で実現されたものの、フランスとのオランダ共和国。

(上の部分の原文:
Pinto opposed Raynal after he published his book on global colonization L'Histoire philosophique et politique des établissements et du commerce des Européens dans les deux Indes (Philosophical and Political History of the Two Indies.[9] He disagreed with Hume, Vivant de Mezague and Mirabeau. His treatise was twice reprinted, besides being translated into English by Philip Francis (politician)[10] and into German by Carl August von Struensee, the Prussian minister of finance. His Précis des Arguments Contre les Matérialistes was published at The Hague in 1774. He seems also to have had Jean-Paul Marat pushed from the stairs and ordered to leave his house.[11] In 1776 he wrote against the American revolutionaries; he did approve the Boston Tea Party. Around 1780 he disapproved an alliance of the Dutch Republic with France, though realized in the Treaty of Fontainebleau (1785).)

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イエズス会とコンベルソ-1(イエズス会と奴隷)

2022年06月30日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

キリスト教徒でなくても、日本史の授業で出てくるので、「イエズス会」や「ザビエル」の名はほとんどの日本人も知っているでしょう。

しかし、実はイエズス会がユダヤ人(コンベルソ)が作った組織で、奴隷貿易にかかわっていることは、ほとんどの人は知らないでしょう。

イエズス会はユダヤ教の組織である | millnmのブログ (ameblo.jp)

弁護士会の読書:隠れユダヤ教徒と隠れキリシタン (fben.jp)

 

「日本では、なぜ織田信長が人気があるのですか?」と数年前、日本史に興味があるスロベニア人から尋ね得られたことがあります。

「日本で人気がある歴史上の人物と言えば、織田信長と坂本龍馬でしょうか。信長は異端児、坂本龍馬は国を変えようとしたー彼らがドラマチックで、若くして亡くなったというところが、”桜を愛でる”日本人に受けるのでしょうかね。信長については、私は全く良さがわかりませんけど・・。」

と答えました。

 

織田信長や徳川家康より、人気がない豊臣秀吉-彼はキリシタン弾圧をしたということで評価は低いのでしょうが、こういう見方もできます。

「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース (toyokeizai.net)

 

参考:

隠れユダヤ(マラーノ)、コンベルソの子孫 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

コンベルソと『ベニスの商人』とシェークスピア - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ピクミンの『愛の歌』と16世紀の歴史のなかの『残酷』 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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南海会社バブル事件-株で儲けて王立音楽アカデミーを設立した(?)ヘンデル-2

2022年06月13日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

ドイツ人のヘンデルは、国を出て、最終的にはイギリスに永住しました。

 

宝塚混声合唱団|音楽会に寄せる随筆 (takarazukakonsei.com)

抜粋:

ゲオルグ・フリードリッヒ・ヘンデルは1685年2月23日に現在のドイツ、ザクセン州ハレで生まれた。早くから領主に音楽の才能を認められ、音楽の道を進むことになった。 最初の先生はツァハウといいドイツやイタリアの作曲家の膨大な楽譜を所有していた。ヘンデルはその写譜を許され、これが終生作曲家ヘンデルの財産となった。1702年ハレ大学入学。この時期にテレマンと 知り合いオペラの魅力を教わる。1年で大学をやめ、当時ドイツで最のオペラの盛んな自由都市ハンブルグへと向かった。

ハンブルグで、4つ年上の作曲家マッテゾンに出会い、劇場様式の音楽を教わると同時にイギリス駐在員の息子の音楽教師の職を紹介され、これが将来の ロンドン永住の伏線となった。マッテゾンとヘンデルは友人であったが一度ささいなことからけんかとなり決闘に及んだ。ヘンデルは死にかけたが命を取り留め、すぐに仲直りし、以前よりも友情を深めた。当時の ハンブルグオペラは経営危機に陥っていた。ハンブルグオペラ界の中心人物カイザーは事態打開のため、バレエ付きオペラ「アルミーラ」の上演予告をしてその作曲に取りかかっていたが、借金返済の督促に 耐えかねて夜逃げしてしまった。その後、曲折を経て19歳のヘンデルがこの仕事を引き継ぐことになった。1705年1月8日アルミーラ初演、その後20回演奏されるという大成功を収めた。ハンブルグには 国際的有名人が多く集まっていた。「アルミーラ」の成功によりヘンデルはイタリアの名流メディチ家の皇太子フェルディナンドの目にとまり、イタリア来訪を強く勧められ、費用援助の申し出を受けた。 フェルディナンドがヘンデルに目をつけたのは、音楽よりも彼の語学力(イタリア語、ラテン語)、弁論術など外交官的な才能であった。しかし、この時期ヘンデルはパトロンの目をかいくぐりフェルディナンドの 愛人でソプラノ歌手のビクトリアと恋仲になっている。ベートーベンと同様、ヘンデルは生涯独身で過ごすが、その内容は全く異なっている。ベートーベンは醜男で女性の心をつかむことができなかったが、 ヘンデルは美男子でジェームズボンドやナポレオンソロのように多くの女性の心をつかんだ。ヘンデルには外交官よりもスパイ的才能があったのかも知れない。

(中略)

公的には、楽長就任後のヘンデルは英国におけるイタリアオペラ熱の 高いことを知り、ロンドン遊学を切望し、慈悲深い選帝侯とその夫人キャロラインからの推薦も有り、これを許され、ということになっている。スパイや忍者や必殺仕事人の話は闇の物語であり、表舞台に 出てはいけない。よって、公文書に「ヘンデルは選帝侯の密命を受けてロンドンへ旅立った」とは書けない。余談ながら、この時期ヘンデルはキャロラインと恋仲になっている。

1710年12月、楽長就任後半年で1年の長期休暇を許されたヘンデルはロンドンに向かった。当時の英国はアン女王の治世であった。ヘンデルは英国王室に すぐに受け入れられ、要人たちと親しくなった。その中に侍医のアーバスノット博士も含まれていた。博士は音楽好きですぐにヘンデルの大ファンになった。アン女王の健康状態はヘンデルを通じてハーノファーに 筒抜けになった。

ドイツ人で、イタリア語とラテン語ができるヘンデルは英語はどの程度できたのでしょう?イギリス駐在員に音楽を教えた時に覚えたのでしょうか。

そもそもなぜロンドン?イギリス人のこの時代の音楽家はそうはいなかったのではないか、と思います。

(私が辛うじて知っているのは、ヘンリー・パーセルくらい。

Purcell: Overture to Dido & Aeneas - YouTube

ヘンリー・パーセル - Wikipedia

ヘンデルがパーセルに影響を受けていたとしても、彼は1695年に亡くなっていますし、当時の音楽家が祖国を捨ててイギリスに移住する、というのは不自然に思えます。)

 

上記コラムにも、「ヘンデル」のスパイ説のことが書いてありますが、スパイをしていたとして、彼はイギリスのスパイだったのでしょうか。

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南海会社バブル事件-株で儲けて王立音楽アカデミーを設立した(?)ヘンデル-1

2022年06月13日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

イヤーワーム(=音楽が勝手に脳内再生) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

を書いて、イヤーワームのことを気にしなくなったら、聴こえてくることもなくなった音楽。

今朝起きたら、なぜかクラシック音楽のイヤーワームがうっすら聴こえていました。

あこの音楽は聴いたことがあるけど、なんであったか忘れていました。バロック音楽であるだろうと想像できるくらい。

バロックと言えば、昨夜「ヘンデルのことを書こう」と思っていたこともあり、「この音楽はヘンデルでは?ラルゴかな?」と思い、朝パソコンをつけてから調べてみたら、正解でした。

ヘンデル「ラルゴ」(ロンドン交響楽団) - YouTube

すっかり忘れている音楽も、潜在能力で覚えていて、「ヘンデル」と考えたときにイヤーワームになるのではないか・・。そのように思えます。

ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル - Wikipedia

 

中学の時に音楽家を選んでレポートを書く宿題がありました。私はバッハが昔から好きなのでバッハを選び、その関係でヘンデルも一緒に調べてレポートにしました。

当時から現在まで、バッハとヘンデルは生まれた年が一緒であるとはいえ、バッハとヘンデルが同レベル扱いされる理由がわからない、音楽は聴くのだけ好きな私。(偉大さは二人一緒。ただ、「音楽の父」「音楽の母」という呼び名は日本だけのもののようです。)

全く興味のなかったヘンデルが気になったのは、実は、コルベルソ、ユグノー(クエーカー教徒メイン)のことで英国の17~18世紀のことを調べていた時に出てきたウィキペディアの一つに彼の名が出てきたからです。

それは、

南海泡沫事件 - Wikipedia

のなかに、

「当時王立造幣局長官を務めていたアイザック・ニュートンは南海会社の株で一時7,000ポンド儲けたものの、その後の暴落で結果として20,000ポンドの損害を被っている[注釈 3][1]。その一方でゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは南海株の売買で得た利益を元に王立音楽アカデミーを設立、自らの音楽活動の拠点としている[要出典]。」

という記述があったことからです。

「要出典」なので確かなことではないのでしょうが、それでもこういう話があるだけで興味がわきました。

追記:

友人からの情報

「そこにある「王立音楽アカデミー」とは、そういう目的で貴族らが一緒になって立ち上げた私企業であり、いわゆる音楽院としての「王立音楽アカデミー」とは(英語での名前も同一ですが)全く別物です。

ヘンデルの方のアカデミーは、その出だしもあぶく銭だったようですが、1719年に創立したものの、ずさんな経営の結果1728年に倒産します。なお、本当のアカデミーは1822年創立です。」

 

関連:

ロイズとジョン・ジュリアス・アンガースタイン-4(The South Sea Company) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

クエーカー教徒とコーンウォール(William Cookworthy) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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ヘンリー8世とトマス・クロムウェルの時代からセファルディム&ユグノーの家系を追う-2

2022年06月12日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

ユダヤ人関係のウィキペディアで、2004年から「ユダヤ人」の項目が作られていたのを、今朝気がつきました。

ユダヤ人 - Wikipedia

この中には、「ユダヤ人」の分類について、

同化ユダヤ人 - 全世界に散らばり、現地に「同化」した状態のユダヤ人。ユダヤ教以外の宗教を信仰する、シナゴーグ(ユダヤ教の会堂)以外で結婚式を挙げる、非ユダヤ人と結婚するなど。

両属性ユダヤ人 - ユダヤ教に興味がない、または無神論者でユダヤ教の生活習慣に従わないため、ユダヤ人からは「非ユダヤ人」と見なされるが、ユダヤのアイデンティティーを強く持っているユダヤ人。ユダヤ人と非ユダヤ人の境界線上にあるユダヤ人。

東欧系ユダヤ人(アシュケナジム) - ユダヤ系のディアスポラのうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々、およびその子孫。言語はイディッシュ語(ユダヤドイツ語)。

西方ユダヤ人 - フランスやドイツ語圏に居住し、イディッシュ語を話すアシュケナジム。

東方ユダヤ人 - 非ドイツ語圏に居住し、イディッシュ語を話すアシュケナジム。

スペイン系ユダヤ人(セファルディム) - ユダヤ系のディアスポラのうち、おもにスペイン・ポルトガルまたはイタリア・トルコなどの南欧諸国に15世紀前後に定住した人々、およびその子孫。言語はラディーノ語(ユダヤスペイン語)。

ナチズムによる定義

ユダヤ人 - 両親・祖父母のうち一人でもユダヤ教を信仰したことがある人。非アーリア人。

完全ユダヤ人 - 祖父母のうち3人以上が「人種上の全ユダヤ人」である人。信仰によらない。

非ユダヤ教徒ユダヤ人 - ユダヤ人と婚姻していた人。
古代ユダヤ人の生物学的子孫はパレスチナに住むユダヤ教徒やキリスト教徒やイスラム教徒である。

と(現在のところ)説明されています。

この中には、「セファルディム」についての説明には、コンベルソについての説明はありません。

 

フランクリン・ルーズベルトの母親はクリスチャンですが、彼女の家系はセファルディムです。

その母親は、ルーズベルトを支配し続けてきました。

Sara Roosevelt - Wikipedia

チャーチルの母親も息子に政治家としていろいろ指導してきていますが、彼女もユダヤ系(おそらくセファルディム)という話もあるようです。

ランドルフ・チャーチル夫人 - Wikipedia

 

彼女たちだけでなく、他のユダヤ系を追うことを、革新派ユダヤ人の人たちがしているようです。

Some fun Jewish facts! « Congregation Beth Mordecai

 

About Us « Congregation Beth Mordecai

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ヘンリー8世とトマス・クロムウェルの時代からセファルディム&ユグノーの家系を追う-1

2022年06月11日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

「ユグノーの始まりはユダヤ人」という説・ウルズラ・フォン・ディア・ライエンの先祖と奴隷 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

コンベルソと『ベニスの商人』とシェークスピア - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

イギリスのユダヤ人とオリバー・クロムウェル、そしてトマス・クロムウェル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

と、きての発見したこと。

 

ユダヤ人を単純にアシュケナジウムとセファルディムと分類するのがまず間違い。

アシュケナジウムと呼ばれているユダヤ人には、元セファルディムも多く、そのなかでも改宗ユダヤ人(コンベルソ)と改宗したふりをしたユダヤ人がいます。

アシュケナジム - Wikipedia

アシュケナジム(アシュケナージム、Ashkenazim [ˌaʃkəˈnazim], אשכנזים)とは、ユダヤ系のディアスポラのうちドイツ語圏や東欧諸国などに定住した人々、およびその子孫を指す[1]。語源は創世記10章3節ならびに歴代誌上1章6節に登場するアシュケナズ(新共同訳や新改訳での表記。口語訳ではアシケナズと表記)である。単数形はアシュケナジ(アシュケナージ、Ashkenazi[ˌaʃkəˈnazi], אשכנזי)。

アシュケナジムとセファルディムは、今日のユダヤ社会の二大勢力である。アシュケナージは、ヘブライ語でドイツを意味する。イスラエルでは一般に、前者が白人系ユダヤ人、後者がアジア人、南欧系及び中東系ユダヤ人を指す語として大雑把に使われる場合があるが、これはオスマン朝からイギリス委任統治期を経てイスラエル共和国建国後に至るユダヤ教の宗教行政において「オリエントのユダヤ教徒」(Yahudei ha-Mizrah)がセファルディムの主席ラビの管轄下に置かれていたことに起因する[2]。しかし、それ以前の歴史や人種的にはっきりしたことは不詳で、現在も論争がたえない。

セファルディム - Wikipedia

セファルディム(Sephardim, ספרדים)は、ディアスポラのユダヤ人の内、主にスペイン・ポルトガルまたはイタリアなどの南欧諸国や、トルコ、北アフリカなどに15世紀前後に定住した者を指す言葉。セファルディーム、スファラディ(Sephardi, ספרדי)、スペイン系ユダヤ人などとも言う。

 

 

イタリアの終身上院議員になったホロコーストのサバイバーのリリアーナ・セグレは、セファルディムでした。

リリアーナ・セグレー1(イタリア終身上院議員カトリックのユダヤ人) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

リリアーナ・セグレ(番外編)-リリアーナ・セグレとプリーモ・レーヴィの違い - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

ジャン・ポール・ベルモンドの家系も、おそらくセファルディムの家系だと思いますが、先祖がコンベルソになっていた場合は「ユダヤ系」「セファルディム」とは言われないです。(本人たちが知らないケースも多いと思う。そもそも、結婚で非ユダヤ系の血が混じっっていく。)

ジャン・ポール・ベルモンドの父親 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

セファルディムの家系は、おそらく奴隷貿易で財を成し、中南米から米国に渡った人たちも多かったと思います。つまり、

スペイン・ポルトガルからオランダや英国に渡って(場合によってはハンブルクあたりを拠点)、そこから中南米に渡った、奴隷船、プランテーション運営者。

この代表が、モンサント。

モンサント家のオルガ・メンデス・モンサントを調べてみたら - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ユグノーで「友愛」を挙げる人たち(フリーメイソンや騎士団)もまた、セファルディムと繋がりを持つ人がまた財を成し、仲間を増やしていく。

マルタ騎士団とモンサント・マルタ騎士団メンバーのロックフェラー親子とフレデリック・テイラー・ゲイツ氏 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

第二次世界大戦後、

大物ユダヤ人たちが、スペイン、ポルトガルを経由して逃げていきました。

ファシスト、ナチスを応援した企業が、戦後、復帰して行きました。

で書いたウォルバーグ家もセファルディムだったこともあります。

ウクライナ危機の理解は第二次世界大戦の裏を知ることから - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

「ユダヤ系」ということで、「民族差別」「タブー」とされて調べるのが難しくなっていますが、「ヘンリー8世」「トマス・クロムウェル」からの現代までのセファルディムのことを調べていこうと思います。

コンベルソと『ベニスの商人』とシェークスピア - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

イギリスのユダヤ人とオリバー・クロムウェル、そしてトマス・クロムウェル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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マルタ騎士団メンバーでオルガ・メンデス・モンサントの夫が創立した“モンサント”

2022年06月08日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

今は、モンサント自体のことを追っているのではなくて、「マイノリティ(弾圧されて共同戦線を張っていった人たち)とビジネス、そのつながり方」を追っています。

が、奴隷貿易、プランテーションで儲けた一族と結びついた化学会社がどのようになっていったかを知るのも意味があるとおもうので、昔紹介した記事の抜粋Google翻訳を張り付けます。

(サッカリンについては、今は「人間には害がない」ということになっていると思います。ただ、サッカリンはコールタールからできているので、本当に無害と言えるかどうか、個人的には疑問です。)

 

The Complete History of Monsanto, "The World’s Most Evil Corporation" - Global ResearchGlobal Research - Centre for Research on Globalization

Google翻訳:

アモックを実行しているすべてのメガコープの中で、モンサントは一貫してライバルを上回り、「地球上で最も邪悪な企業」として王冠を獲得しています。単に破壊の玉座に頼るだけで満足するのではなく、惑星とその人々に危害を加えるためのより新しく、より科学的に革新的な方法に焦点を合わせ続けています。

1901:同社は、モンサントケミカルワークスの名前が付けられたオルガメンデスモンサントと結婚した30年の製薬ベテランであるマルタ騎士団のメンバーであるジョンフランシスクィーニーによって設立されました。同社の最初の製品は化学サッカリンで、人工甘味料としてコカコーラに販売されています。

それでも、政府はサッカリンが有毒であることを知っており、製造を停止するよう訴えられましたが、法廷で敗訴しました。そのため、モンサントパンドラの箱を開けて清涼飲料で世界を毒殺し始めました。

1920年代:モンサントは工業用化学薬品や医薬品に拡大し、アスピリン、アセチルサリチル酸の世界最大のメーカーになりました。これはまた、ポリ塩化ビフェニル(PCB)の導入により、地球にとって事態が急いでひどく悪くなり始めた時期でもあります。

「PCBは工業用の驚異的な化学物質と見なされていました。これは、燃焼せず、劣化しにくく、ほぼ無限の用途を持つオイルです。今日、PCBは地球上で最も深刻な化学的脅威の1つと見なされています。潤滑剤、油圧作動油、切削油、防水コーティング、液体シーラントとして広く使用されており、強力な発癌物質であり、生殖、発達、免疫系の障害に関与しています。 PCB製造の世界的な中心は、イリノイ州イーストセントルイスの郊外にあるモンサントの工場でした。この工場は、州内で胎児の死亡率と未熟児の出生率が最も高い国です。」(1)

PCBは、そのような荒廃を引き起こしたために50年後に最終的に禁止されましたが、それでも世界中のほぼすべての動物およびヒトの血液および組織細胞に存在しています。後に法廷で紹介された文書は、モンサントが致命的な影響を完全に認識していたことを示しましたが、PCBグレイビートレインを全速力で走らせ続けるために犯罪的にそれらを公衆から隠しました!

1930年代:最初のハイブリッドシードコーンを作成し、洗剤、石鹸、工業用洗浄剤、合成ゴム、プラスチックに拡大しました。もちろん、すべて有毒です!

1940年代:彼らはマンハッタン計画の最初の原子爆弾に使用されるウランの研究を開始しました。この爆弾は後に広島と長崎に投下され、数十万人の日本、韓国、米軍の軍人を殺害し、さらに数百万人を毒殺しました。

同社は、食料と水の供給を害する致命的なダイオキシンを含む農業用農薬を作成することにより、衰えることなく殺害を続けています。後にモンサントは、ダイオキシンが地球上に環境地獄を作り出したことを認めざるを得ないため、ダイオキシンが幅広い製品に使用されていることを明らかにしなかったことが発見されました。

1950年代:ウォルトディズニーカンパニーと緊密に連携しているモンサントは、化学薬品やプラスチックの栄光を支持して、ディズニーのトゥモローランドにいくつかのアトラクションを作成しています。彼らの「未来の家」は、彼らが主張したように生分解性ではない有毒なプラスチックで完全に構築されています。なに、モンサントは嘘をついたの?私はショックを受けています!

「1957年から1967年にかけて合計2,000万人の訪問者を集めた後、ディズニーはついに家を壊しましたが、戦いなしでは倒れないことを発見しました。モンサントマガジンによると、鉄球は文字通りガラス繊維の強化ポリエステル素材で跳ね返った。トーチ、削岩機、チェーンソー、シャベルは機能しませんでした。最後に、チョーカーケーブルを使用して家の一部を少しずつ絞り出し、トラックで運び去りました。」(2)

モンサントのディズニー化された未来のビジョン:

1960年代:モンサントは、犯罪の化学パートナーであるDOWケミカルとともに、米国のベトナム侵攻で使用するためにダイオキシンを混入した枯葉剤を製造しています。結果? 300万人以上が汚染され、50万人のベトナム人民間人が死亡し、50万人のベトナム人の赤ちゃんが先天性欠損症で生まれ、数千人の米軍退役軍人がその影響で今日まで苦しんでいます。

 モンサントは再び法廷に持ち込まれ、内部メモは、彼らが政府にそれを売ったとき、彼らがエージェントオレンジのダイオキシンの致命的な影響を知っていたことを示しています。しかし、とんでもないことに、モンサントは、ダイオキシンは安全であり、健康への悪影響はまったくないと結論付けた独自の「研究」を提示することを許可されています。満足し、モンサントの裁判所側で購入および支払いを行い、訴訟を棄却しました。その後、モンサントが調査結果について嘘をついたことが明らかになり、彼らの実際の研究は、ダイオキシンが非常に効果的に殺すと結論付けました。

2002年の裁判で発表された後の内部メモが認められた

「これらの化合物の持続性と環境中の残留物としてのそれらの普遍的な存在を証明する証拠は疑問の余地がありません…地球規模の汚染を防ぐためにそれらを排除するという公的および法的な圧力は避けられません。主題はスノーボーリングです。ここからどこにいきますか?代替案:廃業する。私たちができる限り彼らから地獄を売り払い、他に何もしません。ビジネスを続けてみてください。代替製品があります。」(3)

モンサントはI.G.と提携していますバイエルアスピリンのメーカーであり、第二次世界大戦中に致命的なチクロンBガスを生産する第三帝国の頼りになる化学メーカーであるファーベン。両社は協力して、彼らの専門知識を駆使して、もう1つの非常に致命的な神経毒であるアスパルテームを食料供給に導入しています。サッカリンの毒性に関する疑問が表面化すると、モンサントはこの機会を利用して、疑いを持たない人々にさらに別の致命的な毒を紹介します。

1970年代:モンサントのパートナーであるG.D. Searleは、アスパルテームが安全であると主張する多数の内部研究を発表しました。一方、FDA自身の科学的研究は、アスパルテームがラットを殺す前に、ラットの脳に腫瘍と大きな穴を引き起こすことを明確に示しています。 FDAは、アスパルテームの安全性に関して「調査結果を故意に不実表示し、重要な事実を隠蔽し、虚偽の陳述を行った」として、G.D。サールの大陪審による調査を開始しました。

この間、サールは、ジェラルド・フォードとジョージ・W・ブッシュの大統領時代に国防長官を務めた著名なワシントンのインサイダーであるドナルド・ラムズフェルドを戦略的に活用して、CEOに就任しました。同社の主な目標は、ラムズフェルドに彼の政治的影響力と殺害事業での豊富な経験を活用して、FDAに油を差して彼らとボールをプレーさせることです。

数か月後、サミュエルスキナーは「拒否できない申し出」を受け取り、調査を取りやめ、サールの法律事務所に就職するために米国弁護士事務所の職を辞任しました。この暴徒の戦術は、時効が尽きるのに十分な長さで事件を停滞させ、大陪審の捜査は突然かつ便利に取り下げられます。

1980年代:アスパルテームの毒性効果を明らかにする議論の余地のない研究の中で、FDAのコミッショナーであるジェレ・ゴヤン博士が、アスパルテームを市場に出さないようにするための請願書に署名しようとしていたとき、ドナルド・ラムズフェルドはロナルド・レーガンに就任の翌日に恩恵を求めました。レーガンは非協力的なゴヤンを解雇し、アーサー・ヘイズ・ハル博士をFDAの責任者に任命し、FDAはすぐにサールに有利なように体重計を傾け、ニュトラスウィートは乾燥製品での人間の消費が承認されました。愛好家は、後にアスパルテーム消費の多くの恐ろしい影響の1つである、彼の2期目の間にアルツハイマー病に苦しんでいます。

サールの本当の目標は、アスパルテームを清涼飲料の甘味料として承認することでした。徹底的な調査により、華氏85度を超える温度では、アスパルテームは「既知の毒素であるジケトピペラジン(DKP)、メチル(木材)アルコール、およびホルムアルデヒドに分解される」ことが明らかになりました(4)。 )、粉末状よりも何倍も致命的になります!

全米ソフトドリンク協会(NSDA)は当初、毒を飲むことによって永久に負傷または死亡した消費者からの将来の訴訟を恐れて騒動を起こしている。サールが液体アスパルテームが信じられないほど致命的であるが、クラックコカインよりもはるかに中毒性があることを示すことができるとき、NSDAは、アスパルテームを混ぜた清涼飲料の販売からの急増する利益が将来の責任を簡単に相殺すると確信しています。それで、企業の貪欲が勝ち、無防備な清涼飲料の消費者は健康を害してそれを支払います。

遺伝子組み換え食品と知る権利:GMOラベルの下に隠されているものは何ですか?
コーラは再び道を切り開き(サッカリンを覚えていますか?)、1983年にアスパルテームでダイエットコーラを飲む人を中毒し始めます。残りの清涼飲料業界は、アスパルテームが致命的な化学物質であるという最初の予約をすべて忘れて、見た目が好きですぐに追随します。儲かるお金がたくさんあり、とにかく彼らにとって本当に重要なのはそれだけです!

1985年、サールが行った汚職の渦と不正な研究の複数の告発に臆することなく、モンサントは会社を買収し、ニュトラスウィートと呼ばれる新しいアスパルテーム子会社を設立しました。多数の独立した科学者や研究者がアスパルテームの毒性作用について警告し続けると、モンサントは攻撃を続け、国立癌研究所に賄賂を贈り、独自の不正な論文を提供して、NCIにホルムアルデヒドは癌を引き起こさないのでアスパルテームがとどまることができると主張させます市場。

アスパルタメ摂取の既知の影響は次のとおりです。「マニア、怒り、暴力、失明、関節痛、倦怠感、体重増加、胸痛、昏睡、不眠症、しびれ、うつ病、動悸、脱力感、痙攣、刺激性、吐き気、難聴、記憶喪失、発疹、めまい、頭痛、発作、不安、動悸、失神、けいれん、下痢、パニック、口の中での灼熱感。誘発/模倣される疾患には、糖尿病、MS、狼瘡、てんかん、パーキンソン病、腫瘍、流産、不妊症、線維筋痛症、乳児死亡、アルツハイマー病などがあります。出典:米国食品医薬品局(5)

さらに、食品添加物に関してFDAに寄せられた苦情の80%はアスパルテームに関するものであり、アスパルテームは現在、ダイエットおよび非ダイエットソーダ、スポーツドリンク、ミント、チューインガム、冷凍デザート、クッキー、ケーキ、ビタミン、医薬品を含む5,000を超える製品に含まれています。 、ミルクドリンク、インスタントティー、コーヒー、ヨーグルト、ベビーフード、その他多数!(6)ラベルをよく読み、この恐ろしいキラーを含むものは購入しないでください。

すべての死と病気の中で、FDAのアーサーハルは汚職の雲の下で辞任し、すぐにサールの広報会社に上級科学コンサルタントとして雇われました。いいえ、それは冗談ではありません!モンサント、FDA、および多くの政府の健康規制機関は、同じものになりました。 FDAコミッショナーになるための唯一の前提条件は、彼らがモンサントまたは製薬カルテルの組織犯罪部隊の1つで時間を過ごすことであるように思われます。

(続きはリンクからどうぞ。)

参考:

マルタ騎士団とモンサント・マルタ騎士団メンバーのロックフェラー親子とフレデリック・テイラー・ゲイツ氏 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

オルガ・メンデス・モンサントからMendes家について - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

カネミ油症事件-旧鐘淵化学工業(鐘紡系)の責任・PCBとモンサント - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

カネミ油症の健康実体調査は被害者や人類の為の調査か - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

本当に危ない人工甘味料(その1)|くにちか内科クリニック (kunichika-naika.com)

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オルガ・メンデス・モンサントからMendes家について

2022年06月08日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

モンサント家のオルガ・メンデス・モンサントを調べてみたら - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「ユグノーの始まりはユダヤ人」という説・ウルズラ・フォン・ディア・ライエンの先祖と奴隷 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

隠れユダヤ(マラーノ)、コンベルソの子孫 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

イギリスのユダヤ人とオリバー・クロムウェル、そしてトマス・クロムウェル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の続きです。

オルガ・メンデス・モンサントの「メルデス家」についてわかりました。

Wikiwandの抜粋を張り付けさせてもらいますが、全文どうぞ。

実はこのWikiwandは、フレスコバルディ家を検索しているときに出てきたものなので、メルデス家はフレスコバルディ、トマス・クロムウェルの接点が見つかるかもしれません。

 

Benveniste - Wikiwand

抜粋1Google翻訳:

ベンベニステ家は、11世紀に設立された、フランスのナルボンヌとスペイン北部の古くて高貴で裕福で学術的なユダヤ人の家系です。家族は11世紀から15世紀にかけて、フランスのハッハメイプロヴァンス、バルセロナ、アラゴン、スペインのカスティーリャに住んでいました。

家族は当局から名誉称号を授与され、アラゴン王国とカスティーリャ王国の政権のメンバーでした。彼らはベイリー(「ベイル」)-税務官兼会計、アルファキム-12世紀と13世紀のバルセロナとアラゴンの王と王立医師の上級顧問でした。彼らは「ナシ」(ヘブライ語で王子)の称号を持っていました。なぜなら、彼らはユダヤ人の伝統によって、ダビデ王の子孫であり、ユダヤ人コミュニティ(主にバルセロナ)のダビデ家のメンバーであり、 11世紀から14世紀。

14世紀から15世紀にかけて、彼らは「Benveniste de la Cavalleria」、「騎士団」(テンプル騎士団が会計係や収税人に付けた名前)と、アラゴンとカスティーリャの高貴な人物であるドンの称号を保持しました。 1391年6月6日にスペインで始まったユダヤ人の虐殺の余波で、カルタヘナ家などの一部がキリスト教に改宗し、ブルゴスで強力な会話を始めました。 1492年にスペインからユダヤ人が追放された後、非改宗者は主にポルトガル、ギリシャ、オスマン帝国の他の地域のサロニカ、および北アフリカ諸国に分散しました。ポルトガルでは、彼らは1497年にキリスト教への改宗を余儀なくされ、ヨーロッパで最も裕福な貿易業者および銀行家(メンデス家)の一部になりました。今日、この名前はヨーロッパ、南北アメリカ、アジア、イスラエルの家族によって付けられています。プラエノーメンとしても使用されました。[2]

 

抜粋2の本文とGoogle翻訳:

Francisco Mendes (Tzemah Benveniste in Hebrew) one of the wealthiest traders and bankers in Europe in the first half of the 16th century. He was the great grandson of Abraham Benveniste. His family was forcibly converted Jews known as Conversos (also called Crypto-Jews, Marranos and Secret Jews). While still Jewish, they had fled to Portugal when the Catholic Monarchs, Queen Isabella I of Castile and King Ferdinand II of Aragon, expelled the Jews in 1492. Five years later, in 1497, they were forcibly converted to Catholicism along with all the other Jews in Portugal at that time. Francisco Mendes|Benveniste founded and directed the Mendes Bank, along with his brothers Diogo Mendes (Meir Benveniste) and Goncalo Mendes, from Lisbon and later from Antwerp,[15] a powerful trading company and a bank of world repute with agents across Europe and around the Mediterranean. The House of Mendes|Benveniste probably began as a company trading precious objects. Following the beginning of the Age of Discovery and the finding, by the Portuguese, of a sea route to India, Goncalo Mendes financed ships (and possibly participated) in the Vasco di Gama missions. They became particularly important as one of the six families that controlled the spice trade in the Portuguese India Armadas (the kings of black pepper). They established with the other families a trading post in Antwerp from where they controlled the distribution of black pepper in Europe. They also traded in silver - the silver was needed to pay the Asians for those spices.[16] They financed the kings and queens of Portugal, Spain, England, the Flanders and the popes in Rome through the Bank of Mendes, which became one of largest banks in the world of the 16th century along with the Fugger and Welser family[17]
Gracia Mendes Nasi - Benveniste - Beatriz de Luna - (1510–1569) (Dona Gracia) a Marrano-Jewish-Portuguese businesswoman. She was the daughter of Philipa Mendes|Benveniste and Alvaro de Luna. She was married to her uncle Francisco Mendes (Tzemah Benveniste), inherited the Mendes|Benveniste fortune and due to her exceptional business acumen, became one of the wealthiest women in Europe of the middle 16th century.[18] She returned to Judaism in Ferrara in the 1552 together with members of the He(E)nriques|Nunes(nuñez)|Benveniste family (Meir, Abraham and Reina Benveniste). In 1553/4 she left Ferrara together with her daughter Ana (Reyna), (soon to be) son in law Don Joseph Nasi and the Henriques|Nunes|Benveniste family to Salonika and Istanbul where they settled at the invitation of Sultan Suleiman I. They were very active in trade, finance and in local and international Jewish life.[19]

フランシスコメンデス(ヘブライ語でツェマベンベニステ)は、16世紀前半にヨーロッパで最も裕福な商人および銀行家の1人でした。彼はアブラハム・ベンベニステのひ孫でした。彼の家族は、コンベルソとして知られるユダヤ人を強制的に改宗させました(クリプトユダヤ人、マラーノ、秘密ユダヤ人とも呼ばれます)。カトリック両王、カスティーリャのイザベラ1世、アラゴンのフェルナンド2世が、1492年にユダヤ人を追放したとき、彼らはまだユダヤ人でしたが、ポルトガルに逃げました。5年後の1497年、彼らは他のすべての人々とともに強制的にカトリックに改宗しました。当時のポルトガルのユダヤ人。 Francisco Mendes | Benvenisteは、兄弟のDiogo Mendes(Meir Benveniste)とGoncalo Mendesとともに、リスボンから、後にアントワープから[15]強力な商社であり、ヨーロッパ中のエージェントと世界的に評判の高い銀行であり、地中海周辺。 House of Mendes | Benvenisteは、おそらく貴重な物を取引する会社として始まりました。大航海時代の始まりとポルトガル人によるインドへの航路の発見に続いて、ゴンカロメンデスはヴァスコディガマミッションに船に資金を提供しました(そしておそらく参加しました)。彼らは、ポルトガル領インド艦隊(黒コショウの王)の香辛料貿易を支配した6つの家族の1つとして特に重要になりました。彼らは他の家族と一緒にアントワープに交易所を設立し、そこからヨーロッパで黒コショウの流通を管理しました。彼らはまた銀と交換しました-銀はそれらの香辛料のためにアジア人に支払うために必要でした。[16]彼らは、フッガー家やヴェルザー家とともに16世紀の世界最大の銀行の1つとなったメンデス銀行を通じて、ポルトガル、スペイン、イングランド、フランダース、ローマの教皇の王と女王に資金を提供しました[17]。
グラシアメンデスナシ-ベンベニステ-ベアトリスデルナ-(1510–1569)(ドナグラシア)マラーノ-ユダヤ人-ポルトガル人の実業家。彼女はPhilipaMendes|BenvenisteとAlvarodeLunaの娘でした。彼女は叔父のフランシスコ・メンデス(ツェマ・ベンベニステ)と結婚し、メンデス|ベンベニステの財産を相続し、彼女の並外れたビジネス洞察力により、16世紀半ばのヨーロッパで最も裕福な女性の一人になりました。[18]彼女は、He(E)nriques | Nunes(nuñez)| Benveniste家(Meir、Abraham、Reina Benveniste)のメンバーと一緒に、1552年にフェラーラのユダヤ教に戻りました。 1553/4年に、彼女は娘のアナ(レイナ)、法の息子であるドン・ジョセフ・ナシとヘンリケス|ヌネス|ベンベニステ一家と一緒にフェラーラを離れ、サロニカとイスタンブールに行き、スルタン・スレイマン1世の招待で定住しました。彼らは貿易、金融、そして地元および国際的なユダヤ人の生活に非常に積極的でした。[19]

 

編集時期のずれで内容が違うところがあるかもしれませんが、たぶんほとんど同じでしょう。

Benveniste - Wikipedia

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フレスコバルディと"Brother John"

2022年06月06日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

イギリスのユダヤ人とオリバー・クロムウェル、そしてトマス・クロムウェル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で、フレスコバルディがでてきたので、ブリタニカからGoogle翻訳。

Frescobaldi Family | Italian banking family | Britannica

抜粋:

フレスコバルディは裕福な「大御所」階級に属し、12世紀からフィレンツェの公務において重要でした。 1290年代に、家族はWhitesとBlacksに分裂し、ギベリン(帝国)およびゲルフ党と同盟を結んだフィレンツェの派閥を代表しました。 14世紀初頭までに、白(ギベリン)フレスコバルディだけが残っていました。家族の保守主義は、​​1285年から1433年までそれを政府機関から事実上排除しました。

フレスコバルディは1270年代にイギリスに支店を開設し、20年後には、ウェールズとフランスでのエドワード1世の戦争への融資によって破産したルッカのリッカルディ会社がかつて占領していたロイヤルバンカーの地位にまで上昇しました。 。 1302年から1310年の間に、フレスコバルディはエドワード1世と2世に150,000ポンドを貸し出しました。その見返りに、彼らは造幣局や税関を含むイングランドの収入の事実上の支配権を与えられ、土地、名誉、特権を与えられました。 1310年、イタリア人の権力に嫉妬したエドワード2世の男爵は、外国人への税関の割り当てを禁止し、外国人商人の逮捕と彼らの商品の押収を要求する条例を作成しました。条例が施行される前に、フレスコバルディはヨーロッパ大陸に逃げ、アヴィニョン、そしてフィレンツェに避難しました。

なぜ、16世紀に、経済力の中心が南ヨーロッパから北ヨーロッパに、地中海からアントワープ、ロンドン、アムステルダムに移ったのでしょうか。アメリカとイーストインディーズの発見は答えではありません—ハンブルクはヴェネツィアよりも本当に極東に近いのでしょうか?他の説明が必要です。ウェーバーは1つのイデオロギー的説明を提供しました:プロテスタントは北の資本主義を作成しました。別のものを探して、ゾンバルトは歴史の必死に不十分な理解の上に一時的にホバリングし、それからそれを見るか、彼がそれを見たと思って飛び跳ねました。 1492年にユダヤ人はスペインから、1495年にポルトガルから、そして後にいくつかのイタリアの都市から追放されました。彼らはどこへ行ったのですか?何人かは北ヨーロッパに行っていました。さらなる議論の必要性は何ですか?論文は次のように証明されています。「現代の資本主義は、ユダヤ人の精神の表現に他なりません」。説明する必要があるだけです。 1911年にライプツィヒに登場したゾンバルトの著書「ユダヤ人と現代資本主義」は、その実例であり、豊かで、示唆に富み、知的に無責任であり、その政治的結果は最終的に悲惨なものです。彼自身、ユダヤ人の崇拝者である異邦人であり、彼は無意識のうちに反ユダヤ主義の建国の父になりました。

 

ところで、最近なぜか4時くらいから、オルガンで「Are you sleeping?Are you sleeping?Brother John」を練習しているようなの音がかすかに聴こえます。

時間が一定しているので、どこか近所で練習をしている子供がいて、それがかすかに伝わってくるのかもしれないし、空耳・幻聴かもしれないです。(ある音を拾って、脳が勝手に曲をくみたててしまうもの。私は数年前に感音障害をやってから耳鳴りがあるし、20年前くらいにも、耳鳴りと音楽(その時は、夕焼け小焼けのチャイムの音や、石油販売者の音楽が耳の中で続くことがありました。)

空耳・幻聴だったら、なぜこの曲?と思い調べてみたら・・・

Frère Jacques - Wikipedia

抜粋:

この歌は、僧侶がマチネのために鐘を鳴らす義務に関するものです。フレール・ジャックは明らかに寝坊しました。早課の鐘を鳴らす時が来ました。誰かがこの歌で彼を起こします。[1]伝統的な英語の翻訳は韻律分析を保持しますが、ジョン兄弟が鐘によって目覚めているように意味を変えます。

英語では、修道士という言葉は古フランス語のfrere(現代フランス語のfrère;英語では「兄弟」)に由来します。これは、修道士の4つの偉大な命令が始まった13世紀に、フランス語がまだイギリスの公式サークルで広く使用されていたためです。フランス語のfrèreはラテン語のfrater(「兄弟」も意味します)に由来します。[2]

フランス語の名前ジャックは、通常、フランス語で「ジャン」である「ジョン」に翻訳されません。代わりに、ジャックという名前は、ラテン語のイアコブスとギリシャ語のἸακώβος(中隔ギリシャ語Ἰακώβ)に由来する英語名のジェームズまたはジェイコブに対応し、聖書の総主教ヤコブと英語でジェームズとして知られている使徒を指します。

(中略)

「フレール・ジャック」は、1615年頃に最初に出版されたトッカータ・ディンタヴォラトゥーラ、No.14、ジローラモ・フレスコバルディ作曲のカプリッチョ・フラ・ジャコピーノ・ソプラ・ラリア・ディ・ルッジェーロ[16]に似ています。 「フレール・ジャック」の1つの潜在的なイタリア語訳。[18] エドワード・キレニーは、「フラ・ジャコピーノ」は「フレール・ジャック」のようなメロディーを「シャンソン・デ・ランバート」と同じように共有していると指摘しました。

 

「ジョン」という朝寝坊の弟を姉が起こしに行く歌かと思っていましたが、Brotherは弟でなく、修道士だったことを初めて知りました。(修道女はシスター)

そして今フレスコバルディについて調べていて、その一番最初に見つかったジローラモ・フレスコバルディの名が出てきて、この偶然にびっくり。

Girolamo Frescobaldi - Wikipedia

 

オマケ:

音楽関係での不思議な経験

夢に出てきた巨大弦楽器は・・・ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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イギリスのユダヤ人とオリバー・クロムウェル、そしてトマス・クロムウェル

2022年06月06日 | コンベルソ、イエズス会、クエーカー、オカルティズム

コンベルソと『ベニスの商人』とシェークスピア - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

には、スペインとイタリアのコンベルソについてwikipediaコンベルソから張り付けさせてもらいました。

次はイギリスから。

先の記事で、「シェークスピアがコンベルソだった可能性があるのでは?」と書きましたが、オリバー・クロムウェルの家系もその可能性があるのではないか、と思えてきます。

下にオリバー・クロムウェルの先祖のトマス・クロムウェルのWikipediaをつけます。

Resettlement of the Jews in England - Wikipedia

Google翻訳:

イギリスでのユダヤ人の再定住は、1650年代半ばのイギリス連邦時代の非公式な取り決めであり、ユダヤ人は公然と信仰を実践することができました。 それはイギリスのユダヤ人の歴史の重要な部分を形成しています。 それは2つのイベントの直後に起こりました。 第一に、著名なラビのメナセ・ベン・イスラエルがユダヤ人の再定住を主張するためにオランダからこの国にやって来ました。 イギリスとスペインの間の戦争の間、スペイン人ではなくユダヤ人。

(中略)

主な記事:イギリスのマラノスの歴史
1492年にスペインからユダヤ人を追放した1492年のアランブラ勅令と、1496年にポルトガルで同様の措置がとられた後、一部のコンベルソ商人(ユダヤ人はキリスト教に改宗し、しばしば秘密裏にユダヤ教を実践しました。 )ロンドンとブリストルに定住しました。[注1]小さなコミュニティは、貿易によってアントワープと大部分が結びつき、1609年に完全に追放されました。オランダからのユダヤ人が国に定住し始めたのは、貿易都市としてのロンドンの重要性の高まりとともにでした。 1630年代からもう一度。英国の現在のユダヤ人の人口が増加したのは、この最初からです。[10]

(中略)

 17世紀初頭から中期には、ヘブライズムの台頭、君主制や共和国の存在、宗教的寛容などの政治的問題を議論するためによく使用されたユダヤ教の経典の研究も特徴でした。この議論は、その結論を正当化するためにユダヤ人の情報源を使用しました。[15]この分野で最も著名な学者は、MPで法学者のジョン・セル​​デンであり、その思想はエラストスとグロティウスの影響を受けていました。セルデンは、ヘブライ連邦をモデルにした見解である、宗教問題に対する政府の最小限の介入を提案しました。彼は次に、ジョン・ミルトン(報道の自由を訴えるアレオパギティカ(1644)、直接彼に名前を付けた)、トーマス・ホッブズ、ジェームズ・ハリントン(後者は彼の著書The Commonwealth ofオセアナ)。[16] [17]

(中略)

1653年、オリバー・セント・ジョンの提案で、クロムウェルは、「ユダヤ人国家のラビであるメナセ・ベン・イスラエルは、アムステルダムからこれらの地域にやって来ることを、彼の学習と国家への愛情で高く評価されている」と承認する公式指令を出しました。戦後すぐに地元の反英意見を恐れて、ベン・イスラエルは招待を断った。しかし、10年の半ばまでに、クロムウェルはマラーノのトレーダー、サイモン・デ・カセレスからアドバイスを受けていました。カセレスの提案で、クロムウェルはマラーノの医師アブラハム・デ・メルカードと彼の息子のラファエルをバルバドスに派遣しました(数年前にすでにユダヤ人がオランダ植民地のポルトガル再征服から逃れることを認め始めていました)。そこで彼らは完全な公民権と土地の助成金さえも提供されるでしょう。[29][30]

ユダヤ人の再入国に関するオリバー・クロムウェルの意見については、意見の相違があります。彼は、千年王国時代のユダヤ人の再入国と回心に関して、多くの同じ希望を抱いていたことが指摘されています。後にスマーナ港の大使であったポール・リコーは、ホワイトホール会議を回想しました。「彼ら全員が会ったとき、彼(クロムウェル)はユダヤ人に自分たちで話すように命じました。聖職者への彼の答えの中でクロムウェルは彼らを「神の人」と呼び、ユダヤ人がいつか教会に呼ばれるのは彼らの意見ではなかったかどうかを知らされることを望んだ。すべてのクリスチャンの人がその良い終わりを彼ができる限り前進させることは義務ではありませんでしたか?…それは私たちの義務ではありませんでした…彼らが木を教えられる場所に定住することを奨励すること…クロムウェルはより実践的な信念を持っていた。

クロムウェルは、ユダヤ人が外国の諜報機関の熟練した提供者として使用できると信じていた(それは彼の領土の野心を助けるだろう)。[32]さらに、プロテスタント派の寛容は、混乱を防ぎ、調和を促進するため、クロムウェルにとって政治的に理にかなっています。彼は、これと同じ寛容なアプローチを使用してユダヤ人の再入国を正当化し、それが貿易を改善すると信じていました(彼はユダヤ人をアムステルダムの経済的成功の重要な部分と見なしました)

貿易をめぐるオランダとの競争と、1651年10月の航海条例につながった保護貿易主義の高まりにより、オリバークロムウェルは、オランダからスペイン本土との重要な貿易利益を移転するために、アムステルダムの裕福なユダヤ人をロンドンに引き付けたいと考えました。イギリスへ。オリバー・セント・ジョンのアムステルダムへの使命は、航海条例に代わるものとして英語とオランダの商業的利益の間の連立を確立することはできなかったが、メナセ・ベン・イスラエルとアムステルダムのコミュニティと交渉した。

(後略)

 

トマス・クロムウェル - Wikipedia

抜粋:

1485年、ロンドン郊外のパトニー(英語版)で、ウォルター・クロムウェル(1463年 - 1510年)の子として生まれる。ウォルターは鍛冶屋・ビール醸造家・毛織物仕上げ工・旅館業など職業を転々とし、町の治安官を務めたことがあったが、文書偽造や酒乱で罰金を科せられるなど素行が悪く貧しい暮らしだった。トマスは父への反発から1503年頃に早くから故郷を離れヨーロッパ大陸へ渡航、フランス王国軍の兵士となりイタリア戦争にも従事、第二次イタリア戦争における1503年12月29日のガリリャーノ川の戦い(英語版)に参加したという[1][2][3][4]。

その後1512年まではフィレンツェの有力な富豪にして銀行家のフレスコバルディ家に雇われ、ネーデルラント(オランダ)のミデルブルフ織物市場で商事に従事していた。クロムウェルはこれらの活動を通じて国際的商取引の実務知識を身に付け、ラテン語・イタリア語・フランス語に堪能となり、ローマ教皇庁の枢機卿クリストファー・ベインブリッジ(英語版)に仕えた[4][5][6][7]。バチカン図書館の史料によればベインブリッジの代理人となり、イングランドに関わる教皇庁控訴院の案件に従事していたという。

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