Various Topics 2

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※旧Various Topics(OCN)

ユニテリアンと科学と政治-2(エラスマス・ダーウィンとマシュー・ボールトンとLunar Society)

2022年12月12日 | 人物

チャールズ・ダーウィンの二人の祖父-エラスマス・ダーウィンとジョサイア・ウエッジウッドが主要メンバーだったものに、ルナー・ソサエティというものがありました。

会員であるウエッジウッドにも、そしてジェームズ・ワットに注目していたロシアのエカテリーナ2世。

ワットの場合は、(エラスマス・ダーウィンと共に筆頭メンバーの)マシュー・ボールトンがエカテリーナ2世のお誘いを断らせたようです。

ヴォルガ・ドイツ人とエカテリーナ2世とジョン・ジュリアス・アンガースタイン - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ルナー・ソサエティ - Wikipedia

ルナー・ソサエティ(ルーナー・ソサエティ[1]、The Lunar Society of Birmingham)はバーミンガムを中心としたミッドランド地方において有力な学識者、自然哲学者、事業経営者、発明家、化学者、作家らが組織した非公式の交流団体であり、会合が1765年から1813年までの間に定期的にバーミンガムのソーホー・ハウスで開かれていた。当初ルナー・サークルと呼ばれていたが、1775年に正式にルナー・ソサエティとなった。

ルナー・ソサエティという名称は、その会員たちが月に一回満月の夜に集会を開いていたことから由来している。というのも、それは当時はまだ街灯が整備されていなかったため、自然の月明かりで家まで帰れるようにという理由によるものであった。 メンバーは自らのことをlunatics(変人) をもじってlunarticks(どちらも語源は「月の」という形容詞) と呼ぶこともあった。拠点としてはエラズマス・ダーウィンのリッチフィールド(Lichfield) の自宅、マシュー・ボールトンのソーホー・ハウス、ダービシャーにあるBowbridge House、バーミンガム北西部のGreat Barr Hallなどがある。

この団体は日本語で月光協会と訳されることもある[2]。

メンバー・概要

マシュー・ボールトン
ルナー・ソサエティは50年の間に様々な組織形態をとりながら発展していったが、非公式という性格はずっと変わらなかった。会則、議事録、出版物、会員リスト等はどの時期のものも残っておらず、その存在や活動は関係者らの手紙や手記からのみ裏付けられている[3]。 研究者の間でも会員の条件、そもそも誰が会員か、組織自体がいつ存在したと言えるのか、等については意見が一致していない[4]。例えばジョサイア・ウェッジウッドは組織の「主要メンバー」5人のうちの一人と言われる[5] 一方、「確かな会員だったとは認められない」とする見解もある[6]。組織設立の日付も「1760年以前のいつか」とする場合[7] から1775年とする場合[8] まである。活動停止時期についても1791年以前とすること[9] も、1813年頃とすること[8] もある。

このように活動実態には不確かさはあるものの、以下の人々が確実にこの組織の最も活発な活動時期に会合に参加していたとされる。最初の5人は主要メンバーと考えられている。

エラズマス・ダーウィン - 医師、詩人、チャールズ・ダーウィンの祖父
マシュー・ボールトン - 金属製品業者、ワットとの共同経営者
ジェームス・ワット - 蒸気機関の発明家、企業経営者
ジョサイア・ウェッジウッド - 陶芸デザイナー、食器製品実業家、パイロメーターの発明家
ジョセフ・プリーストリー - 神学、化学、酸素の発見
ウィリアム・スモール(William Smalll) - 自然哲学者
ジョン・ホワイトハースト - 時計職人、地質学研究者
ウィリアム・ウィザリング - 実験薬理学の祖。ジギタリスの薬効効果の発見者
リチャード・ラヴェル・エッジワース(Richard Lovell Edgeworth) - 馬車の緩衝装置の考案者、政治家
ジェイムズ・キア - 化学工業の創業者
サミュエル・ガルトン Jr.(Samuel Galton Jr.) - クエーカー教徒、銃製造業者
トマス・デイ(Thoams Day) - ルソー教育論の崇拝者奴隷廃止論者、作家
ジョナサン・ストークス - 医師、博物学者。ウィザリングの共同研究者

ベンジャミン・フランクリン
ただし、この組織において会合の開催以上に、それ以外での活動や情報交換が活発に行われていたことが重要である。バーミンガム在住のメンバーは日常的に連絡を取り合っており、遠方の人間同士でも毎週手紙のやり取りをしていた[3]。この組織の実態をより緩やかに捉えるなら、バーミンガム以外の広範な地域とより長期的なスパンで、上記メンバー以外の様々な人間がそこに関わっていたことになる。研究文献では以下の人物が関係者として挙げられている。

リチャード・カーワン、ジョン・スミートン(John Smeaton)、Henry Moyes、ペトルス・カンパー(Pieter Camper)、R.E.ラスペ[10]、ジョン・ミッチェル[11]、John Baskervilleジョン・バスカヴィル[8]、トーマス・ベドーズ、ウィリアム・トムソン、シリル・ジャクソン[12]、John Wyatt、ジョン・ウィルキンソン[13]、Jean-André Deluc、John Ash [14]、Samuel More、James Brindley、Ralph Griffiths、John Roebuck、Thomas Percival、ジョセフ・ブラック、ジェームズ・ハットン [15]、ベンジャミン・フランクリン[16]、ジョセフ・バンクス、ウィリアム・ハーシェル、ダニエル・ソランダー、John Warltire、George Fordyce、Alexander Blair、Samuel Parr、Johann Gottling、Louis Joseph d'Albert d'Ailly、William Emes、バルテルミー・フォジャ・ド・サン=フォン、Grossart de Virly[17]、Robert Bage[18]、ジョセフ・ライト[19]。

産業革命期にその中心地の一つであったバーミンガムにおいて、こうした人々がお互いの研究・実験・調査結果や知識、見聞を活発に交換しながら、科学技術、製造、企業経営、公共事業、教育等様々な領域で大きな成果を生み出してきた。ただし、明確な会員規則がないために、その組織の活動を、18世紀のミッドランド地域での知的・経済的活動の成長そのものと同一視してしまう「ルナー・ソサエティ神話」を批判する学者もいる[20]。逆に、この団体が地域の発展に貢献したことを事実と認め、そこに組織としての意義を見出す見解もある。Robinson(1962-3) では「あらゆる地方の哲学的組織のうちでこれ(ルナー・ソサエティ) が最も重要なのは、おそらくその組織が単なる地方に留まるものではなかったからである。ヨーロッパやアメリカ中の科学の中心人物達とつながりのあったボールトン、ワット、スモールのいたソーホーに、あらゆるものがやってきたのである。この組織が本質的に社交的であると言えるのは、いかなる人間でもその会合に招かれうるという点にあった。」と論じられている[21]。

初期 1755年-1765年

エラズマス・ダーウィン (ジョゼフ・ライト作、1770年)
ルナー・ソサエティの起源は、1750年代後半に様々な形で現れた友人関係の中にある。マシュー・ボールトンとエラズマス・ダーウィンは1757年から1758年の間に出会った。二人の出会いは、おそらく家族のつながりを通して(ボールトンの母はダーウィンの患者であった)、あるいは共通の交友関係(ともに印刷業者John Baskervilleを慕い、またリッチフィールド (Lichfield) のダーウィン宅を定期的に訪れていた天文学者・地質学者のジョン・ミッチェルの友人であった)を通して、生まれたものであった[22]。ダーウィンはケンブリッジ大学とエジンバラ大学で学び、内科医を営みながら詩作も行っていた。ボールトンは14歳で学校を出た後21歳で金属製品の事業を営む父の下で働き始めた。経歴は異なるものの、二人には実験や発明に対する共通の関心があり、二人の活動においてダーウィンの理論肌とボールトンの実務経験が相互補完的な関係にあった[5]。二人は定期的に交流をするようになり、電気、鉱物学、地質学といった学問において共同研究をするようになった[23]。

その頃、ダービーを拠点にしていたジョン・ホワイトハーストがボールトンの製造する合金製品(ormolu) に時計仕掛けの技術を提供したことがきっかけで、ボールトンとダーウィンの友人になった。ホワイトハーストは1758年にはボールトンに対して手紙で、自分で制作したパイロメーターをボールトンに手紙で紹介し、バーミンガムで「必要な実験は全て試すためにあなたと一日過ごす」ことを楽しみにしていると興奮気味に伝えた[24]。

1758年7月、ボールトン、ダーウィン、ホワイトハーストはミッチェルから、「影響力のある人々との知己を広げ、高めるために」バーミンガムに来ていたベンジャミン・フランクリンを紹介される[25]。フランクリンは1760年にボールトンとともに電気と音の実験を行っている[26]。ミッチェルは1767年にデューズベリー(Dewsbury) 近くのソーンヒル(Thornhill) に移住してからは組織から若干疎遠になる[11] が、フランクリンは初期メンバーの多くと共通のつながりを持ち続けることになる[3]。

 

マシュー・ボールトン - Wikipedia

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