昨日の東京新聞に載った、コラムです。
時代を読む 冷戦後の曲がり角
By 佐々木 毅氏
世界中が、騒々しくなった。政治的にはウクライナの内戦やタイの内紛・クーデターなどはその例であるが、民主政体性が機能不全に陥り、直接行動が横行した結果、体制の行き詰まりが明白になっている。アラブ世界の民主化も宗教的原理主義と暴力の影に埋没し、楽観的な民主化論の勢いは衰えるばかりである。
当然それは軍事力ないしそれに類する手段の復権と表裏一体であり、テロ騒ぎはやむことがない。民主化が自由化につながるという期待の剥落である。一時期、平和のためには民主化が必要だという教説が繁盛したが、そうした議論の季節も終わったようである。
米国が世界の警察官としての役割を放棄宣言する一方で、ウクライナや南シナ海などで他の大国が絡む紛争が目立つようになった。領土や領海が切り取り自由のように見える世界は騒々しいことの最もたるものである。国際紛争を処理すべき常任理事国自身が紛争に絡むようでは、国連が再び無力化する。これから国連にどれだけの機能が期待できようか。
旧先進国では民主政はかつてと異なり、社会的・経済的格差の拡大・再生産のメカニズムになった現実は否定できない。こうした現況への反応として、過日の欧州議会選における反欧州連合(EU)を掲げる極右勢力の躍進を挙げることができよう。金融主導型の市場経済とセットになった民主政において、金融危機が金融秩序維持を政府に促すとともに、政府の負担急増と歳出カットにつながることは広く知られている。
結果として経済環境は厳しくなり、不満をナショナリズムで埋め合わせようと試みる話になりやすい。日米欧の中央銀行は金融危機の後始末と称して際限なき通貨供給政策を続けているが、最後に誰がどう責任をとるかを棚上げにした市場原理信仰で場つなぎをしている。将来大きな変動可能性をはらむ無責任体制が実態であるという声もある。
冷戦後の二枚看板であった民主政と市場経済という原理は、金融市場に代表される経済力の膨張や軍事力の蓄積を世界規模で促進した一方、それらを管理する政治体制の基盤をむしばんできたことは否定できない。政治体制の崩壊や解体は、その極端な例であるが、国際紛争の処理能力にしても楽観は許されない。
実際、各国政治はかつて以上に難しい内政問題を抱えている。米国と中国を観ればよくわかる。基盤が弱い権力がしばしば「内憂を外患に転ずる」策に訴えやすい。利益政治の基盤が市場経済に浸食され、変動にさらされている中で、代替策としてナショナリズムなどに政治体制の基盤を移すことも、よくある安直な処方箋である。その結果、ハプニングに足をとられ、紛争の深みにはまりこんでいかない保証はない。
経済力や軍事力の過剰は安定した世界を保証するものではない。それらをコントロールする政治力がなえる時、目的と手段との転倒が起こる。日本ではこれまで憲法が転倒を防止する役目の大半を果たしてきて、その分、政治の負担を軽くしてきた。目下、議論が進む集団的自衛権問題は、軍事力のより積極的な運用に道を拓くものであり、いったん拓けば「限定的」などといった限定は早晩立ち消えとなることはあきらかである。
このことがわからない政治家には、この問題を論ずる資格がない。
このコラム、佐々木氏の意見に異論がある人もいることでしょう。(私はこのコラム、最初から最後まで頷きながら読みました。)
が、このコラムは反対意見の人にとっても、気が付かせてくれることがあると思いますので、書きおこしさせてもらいました。
さて、ところでコラムの最終は戦争について語られていますが、ここ最近欧米の友人達とカナリー諸島の9条の碑について話していたことから平和と戦争の話になりました。
基本的には私の海外の友人達も、私同様、平和・人道主義者でです。
なので、私は、
「戦いはDNAに刷り込まれているが、それは理性、知恵で回避できるもの」
「正義の戦争などはない」
「戦争で死ぬのは、一般人」
「戦争は不況の後に起こる」
「戦争はビックビジネスであることに、気が付くべき」
というようなことを書きました。
しかし、スペインの友人などは、「戦争が文明の発展に寄与」「戦争なしに不況を克服できたか」と、暗に「過去の戦争」に対しては一種の寛容さえうかがわせます。
また、彼女はローマ神話の軍神マルスが、数多くの芸術家のモチーフとなってきたことも付け加えます。(そういえば、西洋には戦の絵画も多いですね。)
他の友人達の受け取り方はさまざまですが、ただ共通しているのは、先の友人同様の一種の『寛容』。これは日本人(もしかしたら、非欧米人)の感覚からするとちょっと違和感を覚えます。
もちろん、私の友人達=欧米人の意見とは言いません。
けれども、『戦争』について書かれた書物、たとえば、ウィリアム・H・マクニール(カナダ人歴史学者)の『戦争の世界史』、
http://www.yomiuri.co.jp/book/column/press/20140212-OYT8T00875.html
のような本、日本でも読まれることはあると思いますが、こうした本を書こうとする日本人は非常に少ないのではないかな、と思います。
(戦争関係の本というと、日本の場合は、個別の戦争被害、反戦、もしくは軍事マニア向けのような本がほとんどではないでしょうか。
欧米にもそういう類の本はあるでしょうが、欧米ではそうした本などよりもむしろ『戦争と社会』を結びつける本が多そうな気がします。)
先のスペインの友人や、欧米の友人の言葉に違和感を感じた私ですが、本や研究について考えるとき、「戦争のメカニズム本を読むことが、政治家たちには必要かな」と思えてきました。
過去の戦争に対しドライ、もしくは寛容に感じる欧米の友人達ではありますが、彼らはそろって「21世紀の戦争は「マルスの戦争」にはならず「アレスの戦争」にしかならない」と思っています。
※マルスはローマ神話の軍神。勇敢な戦士マルスはギリシャ神話の軍神アレスと同格にされていますが、アレスは「狂乱と破壊」を現し、粗野で残忍。