Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

「アジアの平和と繁栄よ永遠なれ~法の支配は、われわれすべてのために」by 安倍総統

2014年06月27日 | 国際・政治

 以前こんな記事がありましたが、

東京新聞(2014611日)
解釈改憲」公明けん制 飯島氏「政教一致」持ち出す
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014061102000237.html

ワシントン=竹内洋一】飯島勲内閣官房参与は十日、ワシントン市内で講演し、集団的自衛権の行使容認に慎重な公明党と支持母体の創価学会の関係をめぐり、これまで「政教分離原則」に反しないとしてきた政府の解釈について「もしも内閣法制局が答弁を一気に変え、政教一致ということが出てきてもおかしくない」と見直しの可能性に言及した。

 創価学会広報室は従来の集団的自衛権の憲法解釈を支持するコメントを五月に発表。飯島氏の発言はこれに歩調を合わせて解釈改憲に反対する公明党をけん制したものとみられる。飯島氏は「公明党あるいは創価学会の幹部の心理を推測すれば、そのこと(政教分離)を一番気にしているのではないか」とも述べた。

こうなりました。

ハッフィントンポスト(2014626日)
集団的自衛権、公明党・山口代表が自民党案受け入れを表明「拡大解釈のおそれがない」
http://www.huffingtonpost.jp/2014/06/26/right-of-collective-self-defense-komei_n_5535057.html?utm_hp_ref=japan

そのほか、今日はこのようなニュースもありましたが、

Japan Today (ロイター)(20146.27
Advisers urge Japan to offer foreign aid to richer nations
http://www.japantoday.com/category/politics/view/advisers-urge-japan-to-offer-foreign-aid-to-richer-nations

・・・きれいごとを言っても、ODAで大企業を潤わせ(中国に対抗するために、武器の輸出も・・・)しようとするためでしょう。増税もそのために必要。

以下、外務省のHPから。

13回アジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)安倍内閣総理大臣の基調講演 

アジアの平和と繁栄よ永遠なれ 

日本は,法の支配のために

アジアは,法の支配のために 

法の支配は,われわれすべてのために 

http://www.mofa.go.jp/mofaj/fp/nsp/page4_000496.html

 

それにしても、この副題の時代錯誤さ(大日本帝国時代?)。「法の支配」?この副題の「われわれ」は「安倍帝国」を差していることでしょう。

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日本会議と安倍政権

2014年06月24日 | 国際・政治

日本会議ってご存知ですか?

ウィキペディア
日本会議
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9A%E8%AD%B0 

宗教界、経済界、政治家たちの仲良しクラブorカルト集団のようなものでしょうか。 (現在の会長は最高裁判長官を務めた三好達氏。法曹界もお仲間?)

「日本会議が掲げる目標」=「安倍政権の目標」になっています。

 

先日、都議会でのセクハラ野次だって、この会の会員(安倍、石破、麻生、菅外は日本会議国会議員懇談会の役員)だったら、野次には違和感もないでしょうね。

追記:野次を飛ばした鈴木章浩都議自身も日本会議の会員のようです。

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スロベニアのペンフレンドと話して思うこと

2014年06月21日 | 友人・知人

今までも、アメリカ、ドイツ、スペイン、イタリア、日本のペンフレンド、そして友人たちと、人類にとっての戦争、平和にについて話してきました。

そのなかで、やはりアメリカ人の友人がいう『アメリカの善』というものに反発もし、欧州人の友人の『戦争』のとらえ方に違和感を覚え(まあ、これはお互い様です)。

しかし、こうした意見交換は、歴史、社会、政治、異文化を知るうえでも重要、そしてこういう話を交わすだけで、なんとなく『平和貢献』をしているような気分になることさえありました。

ところが先月から文通を始めたスロベニア人のTさん(男性、40代後半)とメールを交わしだし、彼の話しを聞き、そして質問を受けたりしているうちに、今までの自分たちが『豪華な食事とお酒を楽しみながら、飢えている農民のことを口で案じているだけの貴族』のような気分にもなったりしだしました。

それは、私と友人達は、戦争も爆撃も迫害も、これは本や映画、はたまた戦前生まれの人達の話を聞いたことしかないのに対して、(いくらスロベニアはひどい状況ではなかったとはいえ)、Tさんがそれを経験しているからです。

(戦争経験者といえば、数年前に何度かメールを交わした韓国系アメリカ人の男性が、永住権をとるためにイラクに戦争に行った人でした。が、彼と私は文通目的でメールを交わしていたわけではなかったので、彼と戦争について話したり、質問を受けたりすることはありませんでした。しかし、短い期間のやり取りでも、十分彼の心の傷は理解できました。)

Tさんとのやり取り、他の海外の友人達のものと違って、ここで紹介させてもらうような類ではありません。

彼の住む国、昔はユーゴスラビア社会主義連邦共和国という国は、民族、宗教、政治的立場で憎しみあい、殺し合いをした国。

彼の親族はカトリック信者がほとんどでしたが、彼自身は、特別な信仰を持つことをやめました。それは、『神』を信じないということでなく、彼は『何かしらの神』は信じるけど、宗教が生む対立に翻弄された当事国という場所で、絶望を感じ、特別の宗教を持つことをやめたということです。

彼の親族の中には旧ユーゴ時代に悲惨な体験をした人もいますが、彼は、「個人的な感情よりも、歴史的検証を優先したい」と言います。

このTさんが、日本を好きになったきっかけは、彼が尊敬してやまないお父様が、彼が子供のころに、黒沢明監督の映画『影武者』に連れて行ってくれたのがきっかけです。

彼はこの後、武道や盆栽さまざま日本の伝統、そして歴史に興味を持ちだしました。

そしてまた、彼が「日本という国は武士道の残る国。そして、宗教や民族対立もない、平和で穏やかな国。」という、一種の理想郷のように感じていた(いる?)ということも、彼の話から伺えます。

しかし今、彼が私にしてくる質問のいくつかからは、日本に対する失望感もみてとれます。

平和な国日本で、戦争をする国にしようとする政治家、そしてそれを支持する少なくない人達、ほとんどが『戦争体験者』ではないでしょう。

戦争ゲーム、戦闘ヒーローもの映画やアニメ、漫画・・・すべてバーチャル世界。

しかし、バーチャルであっても、それは人の想像力を破壊するには十分の力をもっていると感じます。

現在、戦闘をしている国に行くことは不可能。しかし、それらを体験した人達の声を聞いてみてください。

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Making Peace with the Guilty (旧ユーゴスラビア)

2014年06月19日 | 戦争・紛争

前回、旧ユーゴスラビアのことを書きました。

実はスロベニアのペンフレンドTさんと先月のバルカン半島の洪水の話をしていたときに、たまたま話がチトー大統領の話になったことから、ここしばらくチトー及び旧ユーゴスラビア関係の資料を読み漁っていました。

チトー大統領-第二次世界大戦時のパルチザンの英雄、そして戦後は民族、宗教、言語が違う6つの国をまとめあげ、冷戦中は旧ソ連とは一線を引き、西側諸国との間に中立を保ってきた彼。旧ユーゴスラビアでも人気があり、そして西側諸国でも評価が高かった人物です。

が、チトー大統領にも当然暗部もありました。 

しかし、クロアチアと同じく、チトー大統領についても悪い話は、あまり西側メディアは書き立てませんでした。

 

たとえばチトー時代の暗黒部分の一つ、ゴリ・オトク島の強制収容所。これは仮にメディアが情報をつかんでいたとしても、報じられたかどうかは疑問です。

IPS 

名簿公開で蘇るチトー、スターリン時代の埋もれた歴史 

http://www.ips-japan.net/index.php/news/human-right/1930-living-ways-tito-stalin-2

 

ところで、ユーゴスラビアの歴史は、本当に読んでいるとつらくなりますが、そのなかで少し救われた気分になるものがあります。

 

これなどもその一つ。

 

フォーリン・アフェアーズ日本語版(199511月号) 

ボスニア紛争の「真実」 

Making Peace with the Guilty: The Truth about Bosinia 

チャールズ・G.ボイド/前欧州駐留米軍・副司令官 

http://www.foreignaffairsj.co.jp/essay/199511/boyd.htm

 

「人道主義的で改革主義志向の英国人は、誰が誰に対してひどい扱いをしているのかを見極めようとつねにバルカン半島に赴くのだが、完璧主義への思い込みゆえに、全員が互いにひどい扱いをしているという忌むべき仮説を受け入れられず、結局、彼らの心のなかにある愛すべきバルカンの人々は、無実であるにもかかわらず苦しみ、永久に殺戮される側で、殺戮する側ではないと思いこんで帰国することになる」  Rebecca West : Black Lamb and Grey Falcon,1938

 

一体誰が悪者なのか

 

 (英国人ジャーナリストで批評家としても有名な)レベッカ・ウエストはバルカンの人々を愛していた。だが、バルカン半島を旅し、シニカルな感情を抱いて帰国したのは何も彼女だけではない。この二年以上にわたって、私自身、旧ユーゴスラビアでの出来事をめぐってはしだいに憔悴し、挫折感を抱きつつある。私は旧ユーゴ地域を何度か訪問し、そこで、国連防護軍(UNPROFOR)の一員として、あるいは、クロアチアとボスニアの難民高等弁務官事務所員としてクロアチアやマケドニアにいる若い米国人男女の個人的な意見に耳を傾ける機会があった。

 

 私が彼や彼女らと共有しここに述べる見解は、バルカンでの戦争の醜悪な様相すべてをほぼ間断なく目撃した上でのものである。この見解は、ワシントンの一般的認識のほとんどと異なっている。ワシントンの認識は、現状をめぐる理解が限られ、バルカンの歴史への無知と無視のために、ゆがめられてしまっている。なかでも問題なのは、ワシントンが公言している政策とバルカンでの米国の行動とが、一致していないことだ。

 

 米国のアプローチは、この戦争が、善と悪の戦争、侵略者と被侵略者の間の戦争だという、現実とはそぐわない認識を前提としている。米国はこの間違った認識をもとに、国連やNATO(北大西洋条約機構)による、平和維持(防護)軍を守るためという中立的な表現で取り繕われた解決策を支持し、その後は立場を変えて一方を罰する姿勢をみせ、戦争の行方を左右するような態度をとっている。

 

(続きはリンクからどうぞ。)

 

これを書いたボイド氏は、ベトナム戦争も体験したお方。

 

これは、過去の戦争も、そしてシリア、ウクライナなど、現在の戦争や紛争についてもいえることだと思います。

 

いつになったら、こうした声をリーダー達が参考にしてくれるのでしょうか。 

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バルカン半島の悲劇

2014年06月17日 | 戦争・紛争

ワールドカップ、夫と息子はテレビにかじりつくことが多くなりました。

今はもうあまり関心を払われなくなった、旧ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成していた国々の名前が、二人が観ているTVから聞こえてきます。

セルビア、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア、モンテネグロ、コソボ(コソボは承認していない国もあります。)、独立した今でも、戦火はまじえないものの、今も対立が続いている国(民族)同士もあります。

先月のバルカン半島を襲った洪水では、被害の大きかったセルビアやボスニアに、他の国々が救援に駆けつけて、美談として報じたマスメディアもありましたが、本当に憎しみの連鎖や民族・宗教差別が本当に消えるのかどうかは、難しそう。

さて、旧ユーゴスラビアの1990年からの紛争では、セルビア人のミロシェビッチ大統領が『極悪人』として一番の憎まれ役を押し付けられました(彼もひどいことをしてきて、擁護はできません。)。

しかしこの時代、クロアチアなどはナチスがユダヤ人にとった政策と同じようなことをクロアチア内のセルビア人や他民族にしていました。

ユーゴスラビアに興味があったり、何ら関係がある人でなければ、クロアチアのファシスト集団ウスタシャのことは知らないでしょう。

ましてやウスタシャとカトリック教会との繋がりなども、思いもよらない。

とはいっても、ウスタシャはともかく、「一番悪いのは、クロアチアだ」とジャッジすることもできません。

以下のもの、ユーゴスラビアに興味がない人も、歴史と戦争、戦争の中の正義、報道について・・・いろいろ考えさせられると思います。

長いですが、是非どうぞ。 

クルト・ケプルナー著 

『戦争の国への旅―ユーゴスラビアでの一外国人の体験』 

抄訳(4)元吉瑞枝

 http://www.pu-kumamoto.ac.jp/~tosho/file/pdf/kb/13/KJ00004799820.pdf#search='%E3%83%81%E3%83%88%E3%83%BC+%E5%B0%8A%E6%95%AC

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Welcome to Japan, Alien!(ようこそ、外国人(!?))

2014年06月16日 | R.Dore

週末は、現在来日中の英国人社会学者D氏の滞在先に友人達と夫ででかけてきました。

D氏はご高齢であるにもかかわらず、今もひとりで世界各地を飛び回っています。

世界各国にご友人や知人も多いとはいえ、しばらく滞在先に自炊しながら1か月以上滞在することもざら。

ただし、普段はご家族がしてくれていることを一人でするとなると・・・冷蔵庫の中身をチェックすれば、消費期限済のものがあったり、焦がした料理が残っていたり。

オマケに、通販で買った椅子が組み立てられずにおいてあったりして、部屋についた途端、椅子組立チームと化した男性陣は大奮闘(この組立椅子。男3人が格闘してやっとなんとか組立てられる代物でした。)。

キッチンを整理している女性陣とD氏は、「もう、これは捨ててしまいますよ!」「いや、捨てないで」などというやり取りをしたりして、本当にひとり暮らしの父親を訪問した息子、娘達になった気分でした。

さて、ところでこの日は久しぶりにD氏とお話できたのですが、その中の一つが『外人』と『外国人』のニュアンスについてでした。

日本語は堪能、本も日本語で書くD氏(英語で書いたものを、日本語に翻訳してもらったこともあったそうですが、そちらの方が神経を使うようでした。)、書いているものに『外人』という単語を使いたかったそうなのですが、出版先に『外国人』と改めさせられてしまったということにちょっと不満そうでした。

(D氏はこの『外人』ということば、自嘲、皮肉を込めたユーモアを込める為に使いたかったようです。)

そこで私が、 

「『外人』という言葉は確かにちょっと問題ありでしょうね。

そういえば、昔、成田空港での出入国管理のブースの案内で、外国人専用がAlienになっていて評判が悪くて変わりましたよね。Foreignerに変わったんだったか。

 

イメージとして、私の中では、『外人=alien  『外国人=foreigner という感じでしょうか。

 

しかしまあ、EUの出入国管理のブースのEUNon-EUに倣って、日本も、Japanese, Non-Japanese にすればよいのに。」

 

というと、D氏が、英国では、外国人のブースには、Others となっていると教えてくれました。

 

世界各国の飛行場がどのようになっているのか調べることはできませんが、それでも以下のサイトなどを見ても、出入国ブースでalienはもちろん、foreignerもあえて使わないでもよさそうな気がします。(※今はまた変わってNon-Japaneseになっているかも。) 

 

アルコムワールド 

alienforeign(er) 

http://alcom.alc.co.jp/questions/show/9583

 

最近、外国の友人達と、日本の江戸、明治維新についての話をしていましたが、日本の外国人に対する感覚って、『鎖国』という歴史があるなかでちょっと特異なのかな、とも考えてしまいました。

 

(『鎖国』イコール異国人が少ないという物理的理由と合わせ、心理面でも。)

 

そういえば、昔は外国人(白人)を見かけると、「外人だ」と騒ぐ日本人の子供もいましたが、欧米などでは、日本人を見て、「日本人だ」(アジア人として見分けがつかなくて)「中国人だ!」という欧米人の悪ガキはいても、「外人だ!」というのはいませんからね。 

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国民に「パンがなければお菓子を食べればよいのに」と言いそうな安倍首相

2014年06月11日 | 国際・政治

本日、港区虎ノ門に『虎ノ門ヒルズ』がオープンしました。 

以下、先週のブルームバーグの記事から。

 

ブルームバーグ 

虎ノ門ヒルズ開業へ、都心大型開発加速し10年1兆円規模-森ビル (2) 

http://www.bloomberg.co.jp/news/123-N6BUBM6JTSER01.html

 

6月4日(ブルームバーグ):都内2番目の高さの超高層ビル「虎ノ門ヒルズ」が11日、開業する。森ビルが開発し、虎ノ門地域再開発の中核施設として丸の内や大手町に迫るオフィス街構築を目指す。4日に記者会見した辻慎吾同社社長は、虎ノ門など港区で今後10年で約10件(事業規模1兆円)の大型プロジェクトを計画していると述べた。 

 

虎ノ門ヒルズは地上52階建てで、高さは247メートルと、東京ミッドタウンに次ぐ。同社としては六本木ヒルズ以来、国内最大の延床面積を持つ。オフィス、住宅、ホテル、商業施設、会議場などで構成される複合施設だ。主要テナントは国内広告大手のアサツー・ディ・ケイや西松建設などで、米ホテルチェーン大手のハイアット・グループで日本初進出の「アンダーズ東京」も高層階に入る。 

 

辻社長は「虎ノ門ヒルズを起爆剤にして、周辺エリアの都市づくりを加速させる」と述べ、他社とも組んで大型開発プロジェクトを加速させる方針を明らかにした。

 

虎ノ門地区は、霞が関の中央官庁街に隣接しながらも、丸の内や大手町などに比べ大型オフィスビルが少なかったが、5月には規制を緩和する国家戦略特区の一つとして、港区も指定を受けた。また、東京都は新橋・虎ノ門地区を外国企業誘致を目指す「アジアヘッドクォーター特区」の一つに位置付けている。 

 

虎ノ門ヒルズのほか、森トラストが虎ノ門パストラル跡地で大規模複合施設を開発するほか、都市再生機構は虎の門病院などビル3棟を一体整備、高層ビル2棟に建て替える計画だ。

 

みずほ証券の石沢卓志氏は、虎ノ門ヒルズについて「繁華街の赤坂がオフィス街に生まれ変わるきっかけになったアークヒルズのようなものだ」と指摘。虎ノ門は「霞が関官庁街にも近い利便性を強みにして、オフィス需要が今後高まるだろう」との見方を示した。 

 

大型投資 

 

辻社長は、大規模投資に乗り出す背景について、国家戦略特区や東京五輪開催を挙げ、「この1、2年が計画を実行する重要な時期だ」などと述べた。戦略特区については、港区中心のエリアでプロジェクトを実施する事業者として公募したという。

 

景気の持ち直しを背景にオフィスビル市況が回復しているのに加えて、特区構想や五輪などで事業機会が拡大するとして、不動産業界では、大型投資に乗り出す動きが広がっている。 

 

三井不動産は日本橋、八重洲、日比谷地区などでオフィスや商業・物流施設の投資に充てるため、過去最大の3264億円規模の増資をする。三菱地所は5月、中期経営計画を策定し、オフィスビルを中心に投資額は1兆円を超える見通しだ。住友不動産も1315年度の3年間で過去最高業績の更新を計画している。 

 

(後略)

 

先週、東京駅の八重洲口に降り立ったのですが、1年ぶりくらいに利用した八重洲口駅前の変貌ぶりに驚きました。

 

そのほか、東京の大きな駅の前や周辺、すさまじい勢いで変化をしています。

 

まるでバブルの頃のようです。

 

消費税はじめ、庶民には増税、法人税は減税。補助金も政府はたくさん使っています。

 

虎ノ門ヒルズが建っても一生縁がない人達もいます。東北地方では今も仮設住宅の人達がいます。(ついでに言うと、東京の直下型地震のための補強工事の方が優先では?)

 

なぜか、お金がないのに宮殿を建て贅沢三昧し、軍事費に費やし、庶民を飢えさせて革命まで引き起こしたフランス王家が思い浮かびます。

 

また、税金の話は置いておいてもう一つ。

 

『日本』を愛するという政治家たち、『日本』をどこの国だかわからない無国籍風にするのはまったく気にならないのでしょうか?
(『カジノ』も、安倍政権のなかでは
議論なしに決定でしょうね。カジノのための都市開発みたい。)

 

「虎ノ門をシャンゼリゼみたいにする」というのだけでも恥ずかしいのに、東京をパリ、シンガポール、ラスベガスミックス都市にしたいというのでしょうか。

今からでも、日本を愛する外国人に都市計画をしてもらった方が良いようです。

首相官邸

虎ノ門ヒルズ オープニングセレモニー 

http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/actions/201406/10opening_ceremony.html

 

(前略)

総理は、あいさつの中で次のように述べました。

 

 「本日は、虎ノ門ヒルズのオープニング、誠におめでとうございます。
 
 東京が世界一の都市を目指す。その気概に満ちた新たなランドマークの誕生を、皆さんと共にお祝いしたいと思います。

 

 先月、パリに出向き、仕事の合間に、ほんの数分間ではありますが、シャンゼリゼ通りを散策いたしました。ゆったりとした歩道にカフェが立ち並ぶ。文化の香りとくつろぎの空間にあふれた、パリの街並みの風格を感じました。

 

 この虎ノ門ヒルズから新橋へとつながる新虎通りにも広い歩道が造られる。たくさんの人々が集まり、シャンゼリゼさながらに、このエリアが世界に向けた東京の魅力の新たな発信地となることは、間違いありません。

 

 さらに先日、シンガポールで統合型リゾートを視察いたしました。ビジネス施設だけでなく、カジノに、プールに、イルカもいるという、従来の発想に安住することなく、常に新たなチャレンジを続けていこう。シンガポールという街のそうした成長への熱い思いを、熱意を、感じたところであります。

 

 今や世界中の都市が、その魅力を競い合う時代です。東京も絶えず、新たなチャレンジを続けていかなければなりません。そうした意味で、ビジネス拠点だけでなく、都心の住居エリア、環境に配慮した芝生広場を併せ持つ、さらに、災害対応能力の高い、都市が直面する様々な課題にチャレンジしたこの虎ノ門ヒルズは、新たな都市づくりのモデルを世界に示すものであると考えます。

 

 政府も果敢にチャレンジをしていきます。

 

(後略) 

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西欧では週数回、日本では毎日

2014年06月06日 | 生活・日常

半年前くらいでしたか、海外文通をしている日本人ペンフレンドと、西欧における、お風呂、シャワー、洗濯の話になりました。

西欧、特にフランスについて「フランス人はあまりお風呂に入らない代わりに、香水をよく使う」などという言葉を聞いた方は多いと思いますが(この言葉がフランス人全体に当てはまるかどうかはおいておいてください。)、これは『毎日お風呂派』が多い日本人にとっては受け入れがたいこと。

なのでこういうことを聞くと、「西欧では空気が乾燥しているので、あまり体が汚れない」「ホコリっぽくない」「水が硬水だから、頻繁にお風呂、シャワー、洗髪をすると皮膚や髪の毛がボロボロになる」と言い、「それと逆の日本では無理」という結論を日本人は出したがります。

洗濯の回数について-私の日本人ペンフレンドが、ドイツ人家庭で暮らしたことのある彼女の友人の話をしてくれましたが、彼女曰く、「家族(専業主婦がいます)と彼女、合わせて4人家族なのに洗濯は週一回。」。

このお宅はちょっと極端かもしれませんが、たとえばスペイン人の友人(3人家族)も、「洗濯は週に5回」と、毎日するわけではないようなことを言っていました。

 

西欧においては「水の節約意識」が日本と違って、とても高いのでしょう。

 

たとえば、食器の手洗いなど、「汚れた食器を洗剤が入った桶かシンクに突っ込み、水ですすがず、そのまま取り出して布巾で拭うだけ」っていうの、今でも一般的に行われているようです。 

(ドイツもフランスも、驚くほどシンクが狭いのはこのせいか。)

 

さて、私自身ですが、基本的には毎日お風呂に入り、洗濯も毎日します。

 

しかし、数か月前までは毎日洗っていた髪の毛ですが、年齢とヘアマニュキアをするようになって、パサつき、拡がりがひどくなったので、基本2日に一度(人と会う前日は洗う)にすることにしました。

 

髪を洗う回数を減らしたときは、しばらく不快感がありましたが、数週間後には、まったく気にならなくなりました。そして、髪の具合も毎日洗っていた時よりも落ちつくように。

 

2度、髪を3日目に洗うことを試したことがありました。結果をいえば、私は3日に一度の洗髪はやはり抵抗はあるものの、思ったより、髪は汚れませんでした。年齢と生活環境の変化故を実感。)

 

なので、真夏や特別汚れることをしない日、人と会う日以外であれば、洗髪のペースは自分には2日に一度で充分なのだろうな、と思ったのです。

 

これは、髪にも良ければ、節水にもなり、シャンプー剤等の節約、ドライヤーのための電気使用も少ない、洗髪やブローにかける時間も節約できる、一石五鳥以上。

 

もし、髪が傷まなかったら毎日の洗髪を続けていて、「毎日シャンプーしない」=「不衛生」という図式はいつまでも頭の中に残っていたと思います。

 

しかし、「不衛生」というのは、「フケだらけ、脂ぎっている、臭い頭になっていること」であって、「毎日シャンプーをしない」ということではないんですよね、よく考えると。

 

風呂好きの私、お風呂はリラックスのためにも毎日入りたいですし、洗濯も毎日したいです。 

しかし、洗濯についてだけは習慣を改めてみるのもありかな、と思います。

 

(洗剤を流さない食器洗い、これは絶対おかしいと思います。)

 

追記:洗髪について、こんなサイトがありましたので、ご参考まで。 

女性38歳からのアンチエイジング 

http://www.zenshindaiko.org/shampoo-kaisuu2.html 

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『冷戦の曲がり角』by佐々木毅氏、欧米人にとっての『戦争』

2014年06月02日 | 戦争・紛争

昨日の東京新聞に載った、コラムです。

時代を読む                         冷戦後の曲がり角
By 佐々木 毅氏 

世界中が、騒々しくなった。政治的にはウクライナの内戦やタイの内紛・クーデターなどはその例であるが、民主政体性が機能不全に陥り、直接行動が横行した結果、体制の行き詰まりが明白になっている。アラブ世界の民主化も宗教的原理主義と暴力の影に埋没し、楽観的な民主化論の勢いは衰えるばかりである。

 

当然それは軍事力ないしそれに類する手段の復権と表裏一体であり、テロ騒ぎはやむことがない。民主化が自由化につながるという期待の剥落である。一時期、平和のためには民主化が必要だという教説が繁盛したが、そうした議論の季節も終わったようである。

 

米国が世界の警察官としての役割を放棄宣言する一方で、ウクライナや南シナ海などで他の大国が絡む紛争が目立つようになった。領土や領海が切り取り自由のように見える世界は騒々しいことの最もたるものである。国際紛争を処理すべき常任理事国自身が紛争に絡むようでは、国連が再び無力化する。これから国連にどれだけの機能が期待できようか。

 

旧先進国では民主政はかつてと異なり、社会的・経済的格差の拡大・再生産のメカニズムになった現実は否定できない。こうした現況への反応として、過日の欧州議会選における反欧州連合(EU)を掲げる極右勢力の躍進を挙げることができよう。金融主導型の市場経済とセットになった民主政において、金融危機が金融秩序維持を政府に促すとともに、政府の負担急増と歳出カットにつながることは広く知られている。

 

結果として経済環境は厳しくなり、不満をナショナリズムで埋め合わせようと試みる話になりやすい。日米欧の中央銀行は金融危機の後始末と称して際限なき通貨供給政策を続けているが、最後に誰がどう責任をとるかを棚上げにした市場原理信仰で場つなぎをしている。将来大きな変動可能性をはらむ無責任体制が実態であるという声もある。

 

冷戦後の二枚看板であった民主政と市場経済という原理は、金融市場に代表される経済力の膨張や軍事力の蓄積を世界規模で促進した一方、それらを管理する政治体制の基盤をむしばんできたことは否定できない。政治体制の崩壊や解体は、その極端な例であるが、国際紛争の処理能力にしても楽観は許されない。

 

実際、各国政治はかつて以上に難しい内政問題を抱えている。米国と中国を観ればよくわかる。基盤が弱い権力がしばしば「内憂を外患に転ずる」策に訴えやすい。利益政治の基盤が市場経済に浸食され、変動にさらされている中で、代替策としてナショナリズムなどに政治体制の基盤を移すことも、よくある安直な処方箋である。その結果、ハプニングに足をとられ、紛争の深みにはまりこんでいかない保証はない。

 

経済力や軍事力の過剰は安定した世界を保証するものではない。それらをコントロールする政治力がなえる時、目的と手段との転倒が起こる。日本ではこれまで憲法が転倒を防止する役目の大半を果たしてきて、その分、政治の負担を軽くしてきた。目下、議論が進む集団的自衛権問題は、軍事力のより積極的な運用に道を拓くものであり、いったん拓けば「限定的」などといった限定は早晩立ち消えとなることはあきらかである。

 

このことがわからない政治家には、この問題を論ずる資格がない。

 

このコラム、佐々木氏の意見に異論がある人もいることでしょう。(私はこのコラム、最初から最後まで頷きながら読みました。)

 

が、このコラムは反対意見の人にとっても、気が付かせてくれることがあると思いますので、書きおこしさせてもらいました。

 

さて、ところでコラムの最終は戦争について語られていますが、ここ最近欧米の友人達とカナリー諸島の9条の碑について話していたことから平和と戦争の話になりました。

 

基本的には私の海外の友人達も、私同様、平和・人道主義者でです。

なので、私は、

 

「戦いはDNAに刷り込まれているが、それは理性、知恵で回避できるもの」 

「正義の戦争などはない」 

「戦争で死ぬのは、一般人」 

「戦争は不況の後に起こる」 

「戦争はビックビジネスであることに、気が付くべき」 

というようなことを書きました。

 

しかし、スペインの友人などは、「戦争が文明の発展に寄与」「戦争なしに不況を克服できたか」と、暗に「過去の戦争」に対しては一種の寛容さえうかがわせます。

 

また、彼女はローマ神話の軍神マルスが、数多くの芸術家のモチーフとなってきたことも付け加えます。(そういえば、西洋には戦の絵画も多いですね。)

 

他の友人達の受け取り方はさまざまですが、ただ共通しているのは、先の友人同様の一種の『寛容』。これは日本人(もしかしたら、非欧米人)の感覚からするとちょっと違和感を覚えます。

 

もちろん、私の友人達=欧米人の意見とは言いません。

 

けれども、『戦争』について書かれた書物、たとえば、ウィリアム・H・マクニール(カナダ人歴史学者)の『戦争の世界史』、 

http://www.yomiuri.co.jp/book/column/press/20140212-OYT8T00875.html 

のような本、日本でも読まれることはあると思いますが、こうした本を書こうとする日本人は非常に少ないのではないかな、と思います。

 

(戦争関係の本というと、日本の場合は、個別の戦争被害、反戦、もしくは軍事マニア向けのような本がほとんどではないでしょうか。 

欧米にもそういう類の本はあるでしょうが、欧米ではそうした本などよりもむしろ『戦争と社会』を結びつける本が多そうな気がします。)

 

先のスペインの友人や、欧米の友人の言葉に違和感を感じた私ですが、本や研究について考えるとき、「戦争のメカニズム本を読むことが、政治家たちには必要かな」と思えてきました。

 

過去の戦争に対しドライ、もしくは寛容に感じる欧米の友人達ではありますが、彼らはそろって「21世紀の戦争は「マルスの戦争」にはならず「アレスの戦争」にしかならない」と思っています。

 

※マルスはローマ神話の軍神。勇敢な戦士マルスはギリシャ神話の軍神アレスと同格にされていますが、アレスは「狂乱と破壊」を現し、粗野で残忍。

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助け合い、補い合い、そして成長

2014年06月01日 | 友人・知人

MATCHAの青木優さんが、ご自分のブログで書かれていたこと、なかなか良かったので貼り付けます。 

HIBILOG  

自分ができること、できないことを認めること 

http://www.aokiu.com/2014/05/31/dekinaikoto/

 

(抜粋)

 

人には誰しもができること、得意なことがあります。それは写真を撮ることや、文章を書くこと、翻訳をすることかもしれない。編集やイラストデザイン、サイト運営かもしれない。

 

人をつなぐこと、いい空気を作ることかもしれない。

 

自分ができることを認識して、それを自信をもって差し出していける。自分ができないことを認識して、それができる人に「ごめんなさい!これ教えてください!」そう言えるって、すごい大事なことだなーと思うんです。

 

ちょうど、これと似たようなことを、ふろしき王子こと、横山功さんも書いています。

 

ふろしき王子のブログ 

むすめっち。 

http://blog.goo.ne.jp/isamix99/e/c448d455c83285dfca6a4f6556b8bbe3

(抜粋)

 

やはり人は、一人ずつ完璧を目指すのではなく、それぞれの得意を世のために生かして助け合うものだと改めて感じます。

 

もちろん、同じことを小中学生や、何かを習得中、という、インプット中の人が書いたことであれば、 

「甘い!」 

と私は一喝したくなると思います。

 

が、アウトプットをするときは、これはとても大切なことだと思います。

 

さて、「各々の得意分野を生かして、助け合う」と言えば、地域通貨・エコマネーというものを思い出します。

 

マネー辞典:エコマネー(Eco-money 

http://m-words.jp/w/E382A8E382B3E3839EE3838DE383BC.html

 

環境問題や介護、福祉などに関して、特定の地域社会における一定の取り決めの下、その地域だけで通用するボランティア経済における擬似的な通貨のこと。人と人との交流を促進し、お互いが支え合うことを目的とし、現在約100地域が取り組んでいる。

 

NPO資格を持つ団体や商店主などが運営主体となり、サービスや感謝の気持ちが循環する仕組みを作る地域コミュニティ活性化支援のひとつとなっている。地域コミュニティ内であれば誰でもサービスを提供でき、誰もがサービスを受けることができる。

 

例えば、子どもがお年寄りの身の回りの手伝いをしてエコマネーをもらい、その子どもが女性にピアノを習ってエコマネーを渡す。そして、その女性が犬の散歩をお年寄りに頼んでエコマネーを渡す、というように循環する。

 

この取組が有名になってきたとき、視覚障害の年長の友人が、 

「私たち障害者は、エコマネー貧乏になりそう」 

なんて言っていたことがありました。

 

障害がある方でも、この友人のように、全盲ながら、華道、手芸、卓球、マラソン(東京マラソンも出場経験あり)等の趣味を持ち、障害者の相談役になっている彼女のような人が「エコマネー貧乏になることはない」とは思いましたが、私自身もこのエコマネーには、疑問がありました。

 

それは、「自分ができることをする目的が見返りを得ること、というさもしさを生むのではないか」、「きれいごとを言っているけど、結局は行政の支出を減らすためが一番の目的ではないか?」、「業者からも文句がでるかも」というようなものですが、それ以外にも何か説明がつかない違和感がありました。

今回、若者二人のブログ記事を読んで、ちょっとその正体がわかった気がします。

 

もちろん、「エコマネーと青木さんと横山さん」「青木さんと横山さん」を同列には扱うことには無理があるのですが、『エコマネー』は「一時的な助け合いであっても、補い合いとはならない」ということ、そして「かかわる人は歯車の一つにすぎない」ということに対し、青木さんと横山さんが差すものの場合はこの逆。

 

その欠陥故の違和感だったように思います。 

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