Various Topics 2

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※旧Various Topics(OCN)

イディッシュ・コネクション-5(トニー・ジャットを継ぐ者たちの出現を願う)

2024年08月10日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

トニー・ジャットというニューヨーク大学教授だったユダヤ系イギリスの歴史学者がいました。

残念なことに、彼は2010年に62歳で亡くなりましたが、彼はユダヤ人名誉棄損防止連盟-ADL-等が、イスラエル以上に米国を支配していることを批判してきました。

トニー・ジャット - Wikipedia

Tony Judt - Wikipedia

Google翻訳:

トニー・ロバート・ジャット(FBA、/dʒʌt/ JUT; 1948年1月2日 - 2010年8月6日)[1]は、ヨーロッパ史を専門とするイギリスの歴史家、随筆家、大学教授であった。ジャットはニューヨークに移り、ニューヨーク大学でヨーロッパ研究のエーリヒ・マリア・レマルク教授を務め、ニューヨーク大学レマルク研究所所長も務めた。彼はニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスに頻繁に寄稿していた。1996年にアメリカ芸術科学アカデミーのフェローに選出され、2007年には英国アカデミーの対応フェローに選ばれた。

(中略)

ジャットの両親はイギリス国籍で世俗的なユダヤ人だった。[4] 彼は15歳の時に熱狂的にシオニズムに傾倒した。一時期、彼の学業を心配する両親の意に反してイスラエルへの移住を希望した。1966年、ケンブリッジ大学キングス・カレッジの展覧会で優勝した彼は、夏の間マハナイムのキブツで働いた。

1967年にナセルが国連軍をシナイ半島から追放し、イスラエルが戦争に動員されると、彼は召集されたキブツのメンバーの代わりとして志願した。6日間戦争中および戦争後には、イスラエル国防軍の運転手兼通訳として働いた。[31] 戦争後、ジャットのシオニスト事業に対する信念は崩れ始めた。

2003 年 10 月、ニューヨーク レビュー オブ ブックスの記事で、ジャットはイスラエルが「好戦的で不寛容な、信仰に駆り立てられた民族国家」になりつつあると主張した。

彼は「イスラエルをユダヤ人国家から二国間国家に」転換し、現在のイスラエル、ガザ、東エルサレム、ヨルダン川西岸のすべてを含むようにすべきだと訴えた。この提案された新国家は、イスラエルとパレスチナ領土に住むすべてのユダヤ人とアラブ人に平等な権利を与えることになる。[32] 米国の主流メディアではほとんど取り上げられなかった中東の歴史と政治の見解を提示したこの記事は、肯定的、否定的を問わず爆発的な反響を呼んだ。

この記事は、そのような計画はイスラエルを「破壊」し、パレスチナ人の多数派が統治するパレスチナ人主体の国家に置き換えるものだと考えた親イスラエル派の作家から強い批判を浴びた。[33][34] NYRB は、記事の掲載から 1 週間以内に 1,000 通を超える手紙で溢れかえり、「反ユダヤ主義者」や「自己嫌悪のユダヤ人」などの言葉がちりばめられ、この記事が原因で、ジャットはニュー リパブリックの編集委員会から外された。[35]

2004 年 4 月、ジャットはコロンビア大学で演説を行い、そこで自身の見解をさらに展開した。[36] 2006 年 3 月、ジャットはニューヨーク タイムズに、ジョン ミアシャイマーとスティーブン ウォルトの論文「イスラエル ロビーと米国の外交政策」に関する論説記事を書いた。ジュドは、「[論文の] 挑発的なタイトルにもかかわらず、この論文はさまざまな標準的な情報源に基づいており、ほとんど議論の余地がない [...] イスラエル ロビーは米国の外交政策の選択に影響を与えるか? もちろん、それがその目的の 1 つである [...] しかし、イスラエルを支援する圧力が米国の決定を歪めるか? それは判断の問題である」と主張した。

彼はミアシャイマーとウォルトの論文に対する評価を次のように要約した。「パレスチナ人にまったく関心のない 2 人の「現実主義者」政治学者によるこの論文は、風前の灯火だ」。彼は「米国の帝国の力と国際的な評判が、1 つの小さな、物議を醸す地中海の従属国とこれほど密接に結びついている理由は、将来の世代のアメリカ人には自明ではないだろう」と予測した。[37]

2006 年 5 月、ジャットはイスラエルの新聞ハアレツに「成長しない国」という長編記事を寄稿し、同様の論調を続けた。イスラエル独立記念日の前日に発表されたこの記事は、イスラエルの短い歴史を要約し、1967 年の 6 日間戦争に始まったイスラエルの信頼性の着実な低下をジュドが見たと説明した。[38]

2006年10月4日、ニューヨークで予定されていたネットワーク20/20でのジャット氏の講演は、ポーランド領事クリストフ・カスプジク氏が名誉毀損防止連盟とアメリカユダヤ人委員会からの電話を受け、突然講演会場の申し出を取り下げたため、突然キャンセルされた領事は後に記者に対し、「私は憲法修正第1条に従う必要はない」と語った[39]。ニューヨーク・サン紙によると、「ポーランド政府がジャド氏のイスラエル批判的な見解はポーランドとユダヤ人国家との友好関係にそぐわないと判断したため、ポーランド領事館での講演はキャンセルされた」[40]。

ワシントンポスト紙によると、ADLとAJCはポーランド領事に、ジャットが「イスラエルと米国ユダヤ人に批判的すぎる」と苦情を申し立てたが、両組織は講演のキャンセルを求めたことを否定している。ADLのエイブラハム・フォックスマン会長は、ジャットの干渉の主張を「荒唐無稽な陰謀説」と呼んだ。

カスプリクはワシントンポスト紙に、「電話は非常に上品だったが、微妙な圧力をかけていると解釈される可能性がある。それは明らかだ。我々は大人であり、それを理解できるほどIQが高い」と語った。米国のイスラエルロビーはしばしば率直な議論を抑圧していると主張する予定だったジャットは、講演キャンセルの影響を「深刻で恐ろしい」と呼んだ。

彼はさらに、「これはアメリカでのみ問題であり、イスラエルでは問題ではない」と述べ、イスラエルでは容認されているイスラエル政策に対する激しい批判がアメリカではタブーであると非難した。ADLとAJCについては、「これらは、中東問題で自分たちと意見の異なる人々を、耳を傾けるかもしれない人から遠ざけるべきだと信じているユダヤ人組織だ」と述べた。[41] このキャンセルは、自由な議論を脅迫し、封じ込めようとする試みがあったと述べる学者や知識人の名簿からの抗議を引き起こした。[42]

マーク・リラとリチャード・セネットはフォックスマンに抗議の手紙を書き、114人が署名してニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスに掲載された。[43]後にニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス誌でこの件について論じたリラとセネットは、「ADL と AJC からの『親切な』電話の内容を知らなくても、公平な立場の観察者なら誰でも、それがそれほど微妙ではない形の圧力だと認識するだろう」と主張した。[44] ADL と AJC は、ポーランド領事館に連絡を取った決定を擁護し、ジャットの描写を否定した。

フォックスマンは、批判者たちが「『脅迫』『圧力』『威嚇』といった扇動的な言葉を使っており、実際に起こったこととは全く関係がない」と非難した。フォックスマンは、「ADL は誰かを脅迫したり威嚇したり圧力をかけたりはしていない。ポーランド総領事は、トニー・ジャットの出演に関する決定を、完全に独断で下した」と書いた。フォックスマン氏は、ジャットは「イスラエルは存在すべきではないという立場を取っており、それが彼を我々の監視対象にしている」と述べ、一方AJCの事務局長デイビッド・A・ハリス氏は、ジュド氏の講演の主旨は「ポーランドの外交政策の精神全体に反する」と領事館に伝えたいと述べた。[40]

2007年3月のインタビューで、ジュド氏は、米国がイスラエル批判をブロックする必要があるのは、米国におけるアイデンティティ政治の台頭に起因すると主張した。「イスラエルに対するいかなる批判もブロックするというこの執着がどれほど根深く、いかに米国特有のものであるか、私はそれまで知らなかったと思います。それは米国特有のものです。」彼は悲しげにこう付け加えた。

「どうやら、イスラエルに対するあなたの態度は、人生における他のすべてに勝るようです。」[45] 死の直前、NPRのインタビューで論争好きについて尋ねられたジャットは、「私は生涯にわたって本を書いたり、講義や教育をしたりしてきましたが、たった4つの短いエッセイしか出版していません。いわば他人の身体の痛ましい部分に触れて物議を醸した短いエッセイ4本です。そのうち2本はイスラエルに関するものでした」と答えた。[8]


参考:

名誉毀損防止同盟 - Wikipedia

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イディッシュ・コネクション-4(乗っ取られたホロコースト)

2024年08月09日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

イスラエル、ノルウェー大使館に対パレスチナ外交活動停止を通告(AFP=時事) - Yahoo!ニュース

【AFP=時事】イスラエルは8日、パレスチナ自治政府で活動するノルウェー外交官の権限を取り消すと発表した。ガザ紛争をめぐる「反イスラエル行為」に対する公式な抗議だとした。

【写真】スペインなど欧州3か国、パレスチナを国家承認

 イスラエル・カッツ(Israel Katz)外相は同日、「在イスラエル・ノルウェー大使館がパレスチナ自治政府で行っていた、いかなる代表活動も停止するよう通告した」と述べた。ガザ紛争をめぐる「反イスラエル行為」を理由としている。

(後略)

 

今年のアカデミー賞受賞式で、ジョナサン・グレーザー監督が言った言葉「乗っ取られたホロコースト」についていくつか生地を書きました。

ジョナサン・グレイザー監督のアカデミー賞スピーチ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

今考えると、グレイザー監督は単に、「ナチスがやってきたホロコーストを今度はイスラエルがやっている」と言う意味で言ったのだろうと思えてきます。

しかし、イスラエルはナチスのホロコーストだけでなく、「ホロコーストの被害者を利用して、”イスラエル・ユダヤ人全体=ホロコーストの生還者”という構図を作ってきた」と言う意味でも、「ホロコーストを乗っ取った」ともいえるのではないか、と気が付かされます。

 

こちらは今年1月29日のNHKのインタビュー記事です。

ナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺ホロコースト アウシュビッツ生存者の子がパレスチナのために声をあげるわけ | NHK

「収容所から解放されたとき、父の体重は32キロでした」

両親がナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺「ホロコースト」を生き抜いたという、77歳のユダヤ人男性は、50年以上にわたってパレスチナの人たちのために声を上げ続けています。

その原点は建国まもないイスラエルで10歳の時に経験した、ある出来事にありました。

(ロンドン支局記者 松崎 浩子)

アウシュビッツから生還した両親
イスラエル出身のユダヤ人、ハイム・ブレシートさん(77)。

イギリスでパレスチナ人との連帯を掲げるユダヤ人団体の共同代表を務めています。

ブレシートさんの両親は、ナチス・ドイツによるユダヤ人の大量虐殺「ホロコースト」の生き残りでした。

600万人を超えるユダヤ人が組織的に殺害され、世界史上、例のない大虐殺とされるホロコースト。ポーランドに住んでいたブレシートさんの両親も1944年、アウシュビッツ強制収容所に送られました。

(中略)

収容所から解放された両親はイタリアの難民キャンプに向かい、そこでブレシートさんが生まれました。

1948年、イスラエルが建国。それに伴って、アラブ系の住民、パレスチナ人の多くがイスラエルによって住まいを追われました。

一方、ブレシートさん一家はこの年、イスラエルに渡り、テルアビブの南にある海沿いの町で新たな生活を始めたのです。

ブレシートさん
そこに住んでいたユダヤ人は、強制収容所から来た人たちだけで、町全体が収容所からの難民、いわば“生存者”でした。あとは、イスラエルに土地を追われ難民となった『ナクバ(大惨事)』を生き延びたパレスチナ人たち。
そこは“生存者”の町だったのです。どちらも、大きなトラウマを抱えながら生き残った人たちでした

ただ、ホロコーストを生き延びた人たちの多くは、ナチスと戦わなかった「弱者だ」とみなされることを恐れ、イスラエルではほとんど、過去の経験を語らなかったといいます。

ブレシートさん
「イスラエル人は生存者の話にとても鈍感で、耳を傾けようとしませんでした。それは私たち家族をイスラエルで孤立させることになりました。
私たちはヘブライ語を話し、イスラエル人でありたいと思いましたが、よそ者であると感じました。私たちは基本的に必要とされていない少数派でした」

そんなブレシートさんにとって、今も忘れられない出来事があります。

当時一家が住んでいたのは、もともと、パレスチナ人が暮らしていた家でした。母親からは、いつもこう聞かされていたといいます。

ブレシートさん

「私が5歳か6歳の頃から『ここは私たちの家じゃない。あなたが赤ん坊の時に追い出されたパレスチナ人の家なの。いつか彼らは戻ってくるから、私たちは彼らにこの場所を返すのよ』と母は言っていました。
そして彼らが残していった荷物を全部まとめて、きれいに保管していました。
私はイタリアで生まれましたが、自分が住んでいたローマの家を覚えておらず、イスラエルの家が私が知っていた唯一の家だったので、非常にショックを受けたのを覚えています。
母の言っていることが理解できず、自分の家がなくなってしまうのではないかと心配していました」

ブレシートさんが10歳になったある日、明らかにアラブ人だとわかる女性2人と3人の子どもが路上から家の方を見ているのに気付き、母親に「彼らが帰ってきた」と伝えました。

ブレシートさん

「彼らに家の中を見てもらった後、母が『あなたたちが戻ってきた時のために全部取っておきました。荷物は全部ここにあります』と言って保管していた荷物を見せると、彼らは泣き始めました。
母親たちが泣いていたので、私と妹、3人のパレスチナ人の子どもたちもみんな泣いてしまいました。
年配の女性が私の母に『あなたはとても特別な女性です。私たちのものを守ってくれて、とても感動しています』と言いました。

私が10歳だったこの日は、おそらく私の人生で最も重要な日でした。


なぜなら、『この人たちは敵ではない、私や妹や父を殺したいわけではない』とわかったからです。
私たちイスラエル人が、この2人の女性と3人の子どもたちにしたこと、それこそがひどいことだということを理解したのです」

このとき、パレスチナ人の親子はガザ地区から数時間だけ出る許可がおりて、自分たちの家に戻ってきていました。

その日、一緒に食卓を囲んだ親子は「また戻ってくる」と言ってガザ地区に戻りました。しかし、再び家を訪ねてくることはありませんでした。

(続きはリンクからお読みください。)

 

今や、イスラエルだけでなく、強いイディッシュ(ジューイッシュ)・コネクションが、米国を動かしている事実を隠さなくなっています。

(多くの善意のユダヤ系の人々が立ち上がったのが救い)

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イディッシュ・コネクション-3(Zwi Migdalとは)

2024年08月07日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

「ユダヤ人」であると常に「かわいそうなユダヤ人」となりますが、同胞から搾取したユダヤ人もいました。(います。)

犯罪人であっても、強いネットワーク-イディッシュ・コネクションに彼らは守られています。

前回の記事

イディッシュ・コネクション-2(ジェフリー・エプスタイン~19世紀の暗黒街) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で書いた、Zwi Migdal(ツヴィ・ミグダル)について。

 

Emerging Journalists Award: 2nd Prize — Jewish Renaissance

Zwi Migdal - Wikipedia

国際空港に到着すると、「現代の奴隷制度」に関するポスターが目に入ります。ユダヤ人は奴隷制度についてよく知っています。過ぎ越しの祭りのたびに、自分たちが奴隷だった物語を語ります。ほとんどの人にとって、物語はそこで終わります。しかし、すべてのユダヤ人にとってそうではありません。

聖書(創世記 24 章)には、アブラハムが息子イサクの妻を探すために召使いを遣わした様子が記されています。富を背負った召使いはアブラハムの甥に会い、イサクと結婚するためにカナンまでリベカと一緒に行くよう頼みます。リベカは喜んで行き、家族は贈り物を受け取ります。二人は結婚し、物語はハッピーエンドを迎えます。

東ヨーロッパのシュテットル(ユダヤ人居住区)のユダヤ人はこの物語をよく知っているので、アルゼンチンの裕福なユダヤ人の代理人で、美しいユダヤ人女性と結婚したいと言っている、きちんとした服装をした男性が現れると、彼らは彼を信じます。特に、その男性が家族の娘の一人に贈り物を差し出すときはそうです。一方、娘は村の荒涼とした環境から逃れるチャンスだと気づき、数日のうちに「スティレ・フッパ」(結婚の記録が残らない「静かな天蓋」)として知られる場所で結婚する。

このおとぎ話は、ブエノスアイレス、サンパウロ、リオなどに到着した娘が裸にされ、地元の売春宿で働くために最高額の入札者に売られることですぐに終わる。彼女を強要した男は、中央ヨーロッパからユダヤ人女性を人身売買する犯罪組織、ツヴィ・ミグダルのメンバーだった。 このような少女の人身売買は秘密ではなかった。1910年、少女と女性の人身売買の取り締まりに関するユダヤ人国際会議で、オーストリアの社会の先駆者でありユダヤ人女性協会の創設者であるベルタ・パッペンハイムは次のように書いている。

「間違いなく、経済的必要性がこの問題の大きな要因である」。また、会議では、1898 年にチーフ ラビ アドラーと西ヨーロッパの同僚が東ヨーロッパのラビに送った手紙が出席者に思い出されました。「悲しい知らせですが、あなた方の国々では、町から町へ、村から村へと邪悪な男女が歩き回り、偽りの宣伝で若い乙女を誘惑して故郷を離れ、遠い国へ行かせ、商売場で良い報酬の得られる仕事が見つかると告げています。」

ツヴィ ミグダルは、もともとヴァルソヴィア (ワルシャワ) ユダヤ人相互扶助協会と呼ばれていましたが、1927 年にアルゼンチン駐在のポーランド大使が協会名に「ワルシャワ」を使用していることに関して公式に苦情を申し立てた後、名称を変更しました。新しい名称は、創設者の 1 人であるルイス ツヴィ ミグダルに敬意を表して選ばれました。この組織は 1860 年頃から 1930 年代まで運営されていました。1900 年代初頭の年間売上高は 5,000 万ドルと報告されています。その本部はブエノスアイレスにあり、ブラジル、ニューヨーク、ワルシャワに支部があった。1920年代までに、アルゼンチンだけで400人以上のポン引きが約2,000軒の売春宿と3万人の女性を支配し、大きな売春宿には80人もの性奴隷が住んでいた。

組織のメンバーは「秩序、規律、誠実さ」に基づく規則に縛られ、すべての取引を細かく記録していた。従わなかったり客を満足させなかった女性は殴られ、ポン引きは役人に賄賂を贈って免責を得た。 アルゼンチンのコミュニティの残りの人々はポン引きと女性を排除しようとしたが、お金が勝った。裕福なツウィ・ミグダルのメンバーはユダヤ人劇場のパトロンとなり、シナゴーグやコミュニティの建物の建設に寄付した。最終的に、彼らはシナゴーグから追放され、地元の墓地への埋葬さえ拒否され、「トメイム」(不浄)として知られるようになった。これに対処するため、ポン引きたちは独自のシナゴーグや墓地を設立し、安息日や祭り、カシュルート(食事に関する戒律)を守る者もいた。サンパウロではミクヴァまで建設された。

ツヴィ・ミグダルは1930年まで栄えていたが、ラケル・リーベルマンの勇気ある行動によって終焉を迎えた。1900年にベルディチェフで生まれたリーベルマンは性的搾取の被害者だった。1919年にワルシャワの仕立て屋ヤアコフ・ファーベルと結婚し、1921年に2人目の子供を妊娠中にファーベルはアルゼンチンに移住し、ブエノスアイレス近郊で妹とその夫のもとへ移った。リーベルマンは2人の息子を連れて1年後に合流したが、結核を患っていたファーベルはその後まもなく亡くなった。

23歳のラケルは、自分と子供たちを養うためにお金を稼ぐため首都に移り、子供たちは信頼できる隣人に預けた。彼女は裁縫師として働こうとしたが、結局売春に引き込まれてしまった。1929年12月31日、リーベルマンはエズラット・ナシム(少女と女性保護協会)に助けを求めた。彼女は警察の主任警部に告発状を提出し、1930年にズウィ・ミグダル本部が捜索され、売春宿は閉鎖され、多くのポン引きやマダムが国外追放され、組織は解体された。アルゼンチンでは1936年に売春が禁止されたが、これはリーベルマンが人身売買業者やマダムの名前を挙げたためでもある。 有罪判決を受けたズウィ・ミグダルのメンバーはごく少数だった。

1960年までに、ラテンアメリカのユダヤ人売春婦はほとんど姿を消し、大半が死亡した。ズウィ・ミグダルの記録は、1994年にブエノスアイレスのAMIAセンターが爆破されるまで保管されていた。ズウィ・ミグダルの影響は今日でも見られる。ポン引きを意味するブラジルポルトガル語のカフェタオは、東欧のユダヤ人が着用していたカフタンに由来している。ポラカ(ポーランドの女性)は売春婦の俗語(そしてミルタ・シャロムによるリーベルマンについての歌のタイトル)である。

悲劇なのは、ツヴィ・ミグダルは過去のものかもしれないが、イスラエルを含め、人身売買による奴隷化が続いていることだ。現代の奴隷制の根絶に取り組んでいる国際人権団体ウォーク・フリーは、2021年のイスラエルでは1,000人あたり3.8人の奴隷がいたと述べている。つまり、33,000人が強制労働、結婚、売春に関わっているということだ。イスラエルは他の多くの国よりも人身売買の撲滅に優れているが、米国国務省の人身売買(TIP)報告書では、イスラエルは犯罪撲滅の最低基準を満たしていないとして、3段階のうちレベル2に位置付けられている。

2022年、イスラエルは国家人身売買対策諮問委員会を設立し、2023年のTIP報告書では、国は改善していると述べられている。政権交代と、10月7日の残虐行為の結果、合法的な外国人労働者が減少する可能性があるにもかかわらず、人身売買の根絶は2024年以降も優先事項であり続けることを期待します。

アーサー・ワイス著

 

Zwi Migdal - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

このグループの主な活動は、中央ヨーロッパ(主にワルシャワ)[1] のユダヤ人女性を性奴隷や強制売春に人身売買することだった[2]。この組織の運営者はユダヤ人で[3]、1860 年代の設立から 1939 年まで活動していた。 この組織の年間売上高は、20 世紀初頭には 5,000 万ドルだった[4]。第一次世界大戦後、アルゼンチンには 400 人のメンバーがおり、ブエノスアイレスが主な活動拠点だった。ブラジル(リオデジャネイロ、サンパウロ、サントス)、米国(ニューヨーク市)、ポーランド(ワルシャワ)、南アフリカ、インド、中国に支部があった[5]。

 

参考:

クリスチャンのHuman Trafficing Documentary・フェミニスト運動が盛り上がっても触れられない事実 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

約20年前にイタリアに来たウクライナ人妊婦 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

『あなたになら言える秘密のこと』-3(※ネタバレあり) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

売買春を奨励する英エコノミスト誌ーアングロサクソン資本主義者たちの本音 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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イディッシュ・コネクション-2(ジェフリー・エプスタイン~19世紀の暗黒街)

2024年08月07日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

こちらのWikipediaに書かれていることは、「ヘブライの館」さんの説明を読んでくださる方が、より詳しいと思います。

Jewish-American organized crime - Wikipedia

アメリカの暗黒街のユダヤ紳士たち ~知られざるユダヤ・ギャングの実態~ (client.jp)

 

私がこのWikipediaで興味をもったのは、末尾の”See also”にある

Zwi Migdal - Wikipedia

これは、現代のジェフリー・エプスタインと関係が疑われるだけでなく、19世紀から現代までのキャバレー、カジノ、芸能界、芸術家ともつながる欧州のネットワークと関係していると思うからです。

たとえば、こんな事件-

White slave trade affair - Wikipedia

Google翻訳:

白人奴隷貿易事件は、L’affaire de la tradete des blanches、De handel in blanke slavinnen、Affaire des petite Anglaises としても知られ、1880年から1881年にかけてベルギーのブリュッセルで起きた有名な国際スキャンダルでした。[1] この事件は、性的人身売買の問題に国際的な注目を集め、性的人身売買に反対する国際キャンペーンの出発点となりました。

事件

1880年、約50人の外国人少女がブリュッセルの売春宿で働くために違法に人身売買されていたことが明らかになりました。この事件は、当局内の何人かの人物がこの取引に関与していたことが明らかになったため、国際的な悪評を呼ぶ大スキャンダルとなりました。このスキャンダルは、ブリュッセル市長と市警察の長官の両方が辞任を余儀なくされるという結末を迎えました。

余波

このスキャンダルは、進行中の性的人身売買の問題に国際的な注目を集めました。マスコミの集中的な報道により、この問題に対する世間の関心が高まり、性的人身売買に反対する国際的な運動が起こり、性的人身売買は白人奴隷貿易とみなされるようになった。性的人身売買に反対する運動は、1880年のスキャンダルの後、ベルギーで始まり、1885年にはイギリス、1902年にはフランス、1907年にはアメリカへと広がった。[2]

これは、たとえばユダヤ人犯罪者側をあげるだけでも、

映画『17歳の肖像』の原作とユダヤ系ギャング-2 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で書いたピーター・ラックマンや、

『ミュンヘン』から『ボルサリーノ』そしてアルジェリアとコルシカ-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で書いたポール・カルボーネなど。

 

ジェフリー・エプスタインのつながりは本当、どうなのでしょうか。


Jeffrey Epstein’s heritage: Zwi Migdal, a Jewish global crime syndicate trafficking Jewish women as sex slaves – Redress Information & Analysis (redressonline.com)

Google翻訳:

ジェフリー・エプスタインの物語は謎を失っている。エプスタインはシオニスト政治組織やイスラエル、あるいは少なくともいくつかの情報機関と提携している犯罪組織と関係があった可能性が高いという考えを表明する評論家が増えているからだ。 ホイットニー・ウェブらは、考えられるシナリオについて優れた研究を行っているが、私は文化的な観点からこのテーマに取り組みたい。

エプスタインは最初のユダヤ人の性的人身売買業者ではない。今こそ、1世紀前に活動し、何万人ものユダヤ人女性や未成年の少女を性奴隷として人身売買したユダヤ人の世界的な犯罪組織、ズウィ・ミグダルを振り返るのに良い時期のように思える。現代のユダヤ人作家ジュリア・モーパーゴによると、ズウィ・ミグダルはアルゼンチンを「売春と搾取の悪夢」に変えた。

20世紀の最初の30年間、アルゼンチンは豊かな国だった。人口、総所得、一人当たり所得でカナダやオーストラリアを上回った。第一次世界大戦直前、アルゼンチンは一人当たりの富で世界第10位の裕福な国でした。アルゼンチンが裕福な国だった頃、その経済、文化、政治の大部分は犯罪シンジケート、特にツヴィ・ミグダルと呼ばれるユダヤ人の組織犯罪組織によって支配されていました。

2009年、国際ユダヤ人性的虐待・暴行反対連合(JCACA)は、「ツヴィ・ミグダル協会を理解する」と題したツヴィ・ミグダルに関する包括的な記事を発表しました。ここからは、その一部を引用します。

ツヴィ・ミグダル

ツヴィ・ミグダルは、ユダヤ人のギャングの組織で、「世界規模で展開されたユダヤ人女性と子供の性的搾取」に関与していました。どうやら、ツヴィ・ミグダルは当初、「ワルシャワ・ユダヤ人相互扶助協会」というかなり無害に聞こえる名前を選んだようです… しかし、ワルシャワ・ユダヤ人相互扶助協会はまったく無害ではありませんでした。この組織は何千人もの女性や少女を性奴隷にし、彼女たちの人生を破壊した。

1906 年 5 月 7 日、ポーランド駐アルゼンチン大使が「ワルシャワ」という名称の使用に関してアルゼンチン当局に公式苦情を申し立てたため、ユダヤ人組織は名称を変更せざるを得なくなった。明らかに、ポーランド政府はユダヤ人犯罪組織と関係を持ちたくなかった。この点で、アメリカ政府とその政治家が AIPAC (アメリカ・イスラエル公共問題委員会) の最初の頭文字「A」を削除するよう要求するか、新保守主義の「新アメリカ世紀プロジェクト」が名称から「アメリカ」を削除するよう命じられるまで、どれくらいの時間がかかるのかを問うのは適切だろう。

(後略)



参考:

性的人身売買提訴のアバクロンビー&フィッチの元CEOとジェフリー・エプスタイン人脈 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ジェフリー・エプスタインは児童買春以前の1980年代から負うべき - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ジェフリー・エプスタインのユダヤ人(シオニスト)人脈-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ジェフリー・エプスタインのユダヤ人(シオニスト)人脈-2 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ジェフリー・エプスタイン~メラニー・ウォーカー~ビル・ゲイツ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ジェフリー・エプスタインとローレンス・サマーズ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ジェフリー・エプスタイン-大学・研究機関への莫大な寄付は賄賂となりうる - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

マッキンゼーとサックラーファミリーの製薬会社・サックラーファミリー、レオン・ブラック&ジェフリー・エプスタイン - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

スタヴィスキー事件-2(ジョルジュ・マルケとフィリッポ・ナルディ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

スタヴィスキー事件-4(「国際決済銀行」とフランス、マルト・アノー) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

フィリッポ・ナルディ-6(ジョルジュ・マルケとの取引) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

仮置き:

Benveniste-東ヨーロッパの渡ったエプスタイン家 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

シャネルを中心に眺めれば-3(シャネルとミシア・セールとナチス) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

バレエ・リュス人脈-1(モナコをギャンブルとエンターテイメントの国にしたポリニャック家の子孫) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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アレマン/シュヴァーベン系ユダヤ教徒・非ユダヤ教徒

2023年04月29日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

「ロスチャイルド家はアシュケナジム」と言われています。

(彼ら一族はセファルディムとの婚姻を繰り返しているので、彼らを「アシュケナジム系」と分類しても意味はない、と思うのですが・・・。)

個人的には、アシュケナジム・ユダヤ人の多くが、セファルディム・ユダヤ人であったと思う私は、ロスチャイルド家などは「セファルディム系ユダヤ人」とする方が正しいのではないかと思っています。

Grasia Mendes Nasi-1(欧州ユダヤ人ビジネスネットワークの始まりはナシ家(=メンデス・ベンヴェニステ家)か?) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ユダヤの血がながれている欧米人は多数のはず - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

なお、いろいろ調べていくと、「ユダヤ教徒」ではないと言われながら、金融業をやってきた「ランゴバルト(ロンバルド)人」の子孫たちや、後にドナウシュヴァーベン、バナト・シュヴァーベンとして移住した「アレマン(シュヴァーベン)人」の子孫たちが、「ユダヤ教徒」になったり、その後今度は弾圧されて改宗ユダヤ人となったケースがあったのではないか、とも、私は思うようになりました。

つまり、「セファルディム」「アシュケナジム」以外に、「アレマン/シュヴァーベン系(ユダヤ教徒・非ユダヤ教徒)」と言うものがあってもよさそうな気がするのです。

イディッシュ語がドイツ語ベースであるのはなぜか。

(現在の世界経済フォーラムを率いている「クラウス・シュワブ」、(クラウス・シュワブの英語からドイツ語訛りが消えないのは、語学の才能の前に、「シュワブ(ドイツ人)」アピールか・・・

The State of the World - YouTube


ドイツとユダヤ人・イディッシュ語のベースがドイツ語である理由 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

ランゴバルトとアレマン、シュヴァーベンのウィキペディアを。アレマンは本文もコピペ。

ランゴバルド人 - Wikipedia

アレマン人 - Wikipedia

アレマン人(アレマンじん、ドイツ語: Alemanne, Alamannen, 英語: Alemanni, ラテン語: Alamanni)は、ドイツ南西部のライン川上流地域を原住地とするゲルマン人の部族連合。アレマンネ人(アレマンネじん)、アラマンネン人(アラマンネンじん)、アラマンニ人(アラマンニじん)とも表記される。

概要

3世紀から6世紀にかけてのアレマン人の活動範囲及びローマ帝国との交戦地
紀元前後にスカンジナビア半島あるいはユトラント半島から南下し、ローマ帝国の皇帝・アウグストゥスが遠征させた将軍・ウァルスとのトイトブルク森の戦いで名を轟かしたゲルマン部族連合の盟主だったケルスキー族首長のアルミニウスの傘下に属したランゴバルド人とともにゲルマン系の連合部族の一派に遡るという。

このゲルマン系民族は後に東部ドイツのエルベ川の流域に移住したと伝わる。3世紀中頃から度々ローマ帝国領内への侵入を試みた。皇帝ガッリエヌスの治世には、ローマ帝国がライン川及びマイン川の流域に防壁を設けていたため、エルベ川から民族移住して、リーメス内への居住が認められ、ラエティアを経て一時はアルプスを越えイタリア本土への進入もみられたが、続く皇帝クラウディウス・ゴティクス治下の268年のベナクス湖の戦い(英語版)で敗北し、撤退を余儀なくされ、同時に古くからライン川流域にいたケルト人、または侵略者のローマ人との混血を繰り返して、アルプス山脈北西部にあるライン川上流にて「アレマン人」として、民族形成がなされ、同時にアレマン諸語も誕生した。さらに系統不詳のスエビ人とも混血して、アレマン系からシュヴァーベン人(ドイツ語版)を派生させた。

271年には、プラセンティアの戦い(英語版)(現・伊ピアチェンツァ)に勝利し同都市を一時占領したものの、皇帝アウレリアヌスが率いるローマ帝国軍にファーノの戦い(英語版)で敗れて、敗走した。

367年には、ローマ帝国の属州であった高地ゲルマニアの中心地モングンティアクム(現・ラインラント=プファルツ州マインツ)を占拠したが、皇帝ウァレンティニアヌス1世が指揮するローマ帝国軍に敗れ、その後、374年には、アレマン王マクリアヌスとウァレンティニアヌス1世との間で和平が結ばれた。

5世紀に入ると、その領域はアルプス地方からライン川中流域にまで拡大した。しかし、496年から497年にかけてシュパイアーからハイデルベルク周辺のトルビアックの戦い(英語版)でメロヴィング朝フランク王国を創始したクローヴィス1世(クロートヴィヒ)に敗れ、その支配下に入ると、キリスト教(カトリック)への改宗が進んだ。

やがて、アレマン人有力貴族は、神聖ローマ帝国の部族大公としてのツェーリンゲン家のバーデン辺境伯、ホーエンシュタウフェン朝のシュヴァーベン公国として発展させたのである。

さらにアルザス系スイスの小貴族であり、神聖ローマ帝国・オーストリア帝国の君主となったハプスブルク家(アルザス系スイス貴族)、ニュルンベルク城伯・ブランデンブルク公・プロイセン王、さらにドイツ帝国の君主となったホーエンツォレルン家、ドナウヴェルトに起源を持つリヒテンシュタイン家も、元来はアレマン人の有力貴族であった。

現在では、バーデン=ヴュルテンベルク州西部からアルザス~スイスのドイツ語圏はプロテスタントが多く、東部のシュヴァーベン地方(バイエルン・シュヴァーベンを含む)からリヒテンシュタインとオーストリア西端部のフォアアールベルク州では、隣接するバイエルン州のバイエルン人同様にカトリックが多い。

シュヴァーベン - Wikipedia

参考:

ワルド派、ユダヤ人、ドナウシュヴァーベン - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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1950年代&60年代のリビアのユダヤ人コミュニティ

2023年04月14日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

以前、フランキストを調べていつ時に見つけたサイト

Levantine Journal

Being Frank? Discovering My Frankist Roots | Journal of Levantine Studies (levantine-journal.org)

から、今度はリビアの裕福層のユダヤ人コミュニティについて書いてある記事を見つけました。

Sophia Loren and Little Tony: The Leisure Life of the Jews of Tripoli, Libya, in the 1950s and 1960s | Journal of Levantine Studies (levantine-journal.org)

Google翻訳:

「六日戦争の最初のニュースがトリポリに届いた 6 月 5 日、暴動が勃発した (…) きれいなユーソーンの快適な都市であるトリポリは、ダンテのインフェルノのようなものになりました。 空気は重く、煙のようでした。 ライフルと短機関銃で武装した警察と兵士がいたるところにいました。 通りには、割れたガラス、壊れた物、壊れた木、店から略奪された商品が散らばっていた(…) 暴徒が最初にユダヤ人に向かったのは明らかだったが、今では彼らはすべて外国のものを求めている…」

銀行の窓口係の証言から得られたこの引用は、1950 年代と 1960 年代にトリポリに残っていた小規模で裕福なユダヤ人コミュニティの生活における不協和音の最終的なメモを明らかにしています。それは、6 日戦争後の 1967 年に排除されたということです。 戦争は暴力的な暴動を引き起こし、リビアの将校によって殺害された 2 つの家族を含む 17 人のユダヤ人が殺害されました。ルソン家と私の祖父の妹の家族である Baranes-Raccah 家族です。 このポグロムは 20 年間で 3 回目であり (以前のポグロムは 1945 年と 1948 年に発生)、何年にもわたる政治的および経済的制限により、都市の経済的および商業的生活におけるユダヤ人の活動が制限されていました。 何世代にもわたってリビアの社会構造の不可欠な部分であったコミュニティのメンバーであるユダヤ人は、身を隠し、すぐに国を離れ、家とすべての所有物を放棄しなければなりませんでした。 1969 年のムアンマル・アル・カダフィの軍事クーデターまで少数が残ったが、カダフィは一連の措置と規則を通じて、彼の支配下にある「新しいリビア」には外国人とユダヤ人のための場所がないことを即座に明らかにした。

1949 年から 1951 年にかけてのイスラエルへの移民の大波の後、少数のユダヤ人がベンガジに残りましたが、リビアに残った小さなユダヤ人コミュニティのほとんどは、首都トリポリに集中し、4,000 人以上を数えました。 いくつかの報告によると、当時は世界で最も裕福なユダヤ人コミュニティの 1 つでした。 これらのユダヤ人は主に、イドリス王の独立したリビア政権(1951年12月から)の下で国に留まることを選択した中流階級のメンバーであり、去る機会を見越してバッグを詰めていませんでした. それどころか、彼らはすべて同じ社会環境の一部であり、財産、資産、および経済的利益によってトリポリに根ざしていた、外国人およびイスラム教徒のエリートの狭い階層に統合されました。

トリポリのユダヤ人の生活は常に矛盾に満ちており、意識的か無意識的かを問わず、彼らは卵の殻の上を歩いていたようです。 一方では、彼らは地元の人でした。 その中には、50 年代後半に石油が発見され、外国からの投資があった後も、国内の経済シーンで重要かつ安定した役割を果たし続けた古い家族の末裔でさえありました。 しかしその一方で、彼らの振る舞いや服装において、彼らは自分たちがアラブ人ではないことを明らかにしました。 エリートの他の外国人メンバーと同様に、彼らのアイデンティティはヨーロッパ、特にイタリアに根ざしていたため、アフリカでもアラブ世界でもありませんでした. 彼らの中には、主にイタリア人ですが、フランス人やイギリス人など、ヨーロッパの市民権を持っている人もいました。

そのため、彼らは西洋の文化的な罠や社会的地位の象徴を採用し、周囲のイスラム社会から切り離されました。 彼らは独立したアラブの国に住んでいましたが、ほとんどの場合、アラビア語ではなくイタリア語で生活していました。 さらに、彼らを差別する法律に直面しても、高度な宗教的柔軟性を持っていたにもかかわらず、彼らはユダヤ人としてのアイデンティティを維持していました。 そして一般的に、彼らはリビアの多数派であるイスラム教徒の人口から距離を置いていました。 イスラム教徒は、ユダヤ人がイタリアの文化と言語と明確に同一視しているため、リビアのアラブ社会に背を向けていると認識していました。 さらに、ユダヤ人の高い社会経済的地位は、長年のイスラム教の慣習に従って彼らが持つべきであった低い地位、つまり特定の制限のある保護された宗教的少数派である「アハル・アル・ディマ」の地位とはまったく対照的でした。

さらに、ラジオや新聞、モスクでの説教における反ユダヤ主義のプロパガンダは、アラブとイスラエルの紛争が続くにつれてますます激しさを増し、ユダヤ人に対する敵意を高めました。

ユダヤ人が当時直面していた制限、禁止、嫌がらせ、および彼らの一部が感じた自然な恐怖にもかかわらず、彼らはトリポリの狭いブルジョア社会層の特徴である快適で活気のある生活を続けました. 私がイスラエルとイタリアの共同体のメンバーに行ったインタビューと、この主題について書かれたわずかな文書から、娯楽とレジャーの場所は彼らの逃避であり、ますます社会的現実の中での正気の島であることが明らかになりました。 彼らに背を向けます。 これらの場所は、幻想的でつかの間ではありますが、安定したアンカーを彼らに与えました.

コミュニティは余暇をトリポリのビーチ、イタリア語でリドと呼ばれる場所で過ごし、ハウス パーティー、コーヒー ショップ、イタリア映画だけでなくフランス映画やアメリカ映画も上映する現代的な映画館で過ごしました。 トリポリのアッパーミドルクラスのユダヤ人は、市内のイタリアとイギリスの高級クラブにも見られました。 これらの最も有名なものの 1 つは、イタリアの支配下でビーチの近くに建てられた印象的で美しい遊歩道 Il Lungomare の前に立っていたイタリアのクラブ (Il Circolo Italia) でした。 バスケットボールやボクシングのチーム、演劇やバレエのクラス、ブリッジ トーナメントなど、さまざまなスポーツやエンターテイメントを提供する名門の会員制クラブでした。 その名前が示すように、クラブは街のイタリア人コミュニティのために指定されていましたが、そのメンバーには裕福なユダヤ人が含まれていました。 彼らは、イスラム教徒はクラブにまったく通っていないことを強調しました。 クリスチャンとユダヤ人だけがメンバーであり、イタリア国籍の人だけではありませんでした。 彼らは、子供たちをクラブで開催されたクラスに送り、イタリア語でコンサートやショーがあったとき、クリスマスと新年のお祝い(イタリア語でカポダンノ)のためにクラブを訪れたと言いました。 インタビュー対象者の一人は、「クリスマスになると、裕福なユダヤ人がテーブルを埋め尽くし、イタリア人は動揺しました。『何が起こっているのか? これは私たちのお祝いで、ユダヤ人がすべての場所を占領している?!」

プロムナードにあるホテルは、パーティーや祝賀会のための追加の会場でした。 最も魅力的なのは、1935 年に設立され、「現代アフリカ建築の宝石」と評されたウアダン ホテルでした。 ホテルでは毎日カクテル パーティーが開催され、大晦日の舞踏会、「真夜中過ぎまでたむろするのに十分な理由を提供する」土曜の夜のパーティー、コスチューム パーティー、そして ユダヤ人を含む金持ちの結婚式として。 ウアッダンはまた、ソフィア ローレン、リトル トニー、ペッピーノ ディ カプリ、リタ パヴォーネなど、音楽、演劇、映画の有名なイタリア人アーティストをホストし、トリポリの裕福な住民は彼らの公演を見逃すことはありませんでした。 さらに、ホテルには大きなプールがあり、町で唯一のカジノを収容していました。 カジノでの毎晩の娯楽は、平日だけでなく土曜や休日にも訪れ、しばしば多額のお金を失う少数のユダヤ人に好まれました。

他の余暇の場所は、売春宿やナイトクラブでした。 インタビュー対象者は、2 つの主要なナイトクラブについて言及しました。 もう 1 つは、旧市街内の市場の 1 つである Suq al-Mushir (sوق المشير) にありました。 これらのクラブは、あるインタビュー対象者が説明したように、「豪華な」キャバレーを提供していました。「汚いものではなく、クラスのあるもの」であり、そこに来る人々は「お金を持っている人々であり、アラブ人でもありました」。 彼らは、「アラブ人ではなく美しい女の子によるダンスパフォーマンスとストリップショーを主催しました。 彼らはすべて外国人で、ヨーロッパ人で、ほとんどがイタリア出身でしたが、ユーゴスラビア人、ドイツ人、イギリス人、スペイン人、フランス人もいました…」

結論として、1949 年から 1951 年にかけての大規模な移民の波の後にリビアに残ったユダヤ人のほとんどは、生活を続け、多くの快適さを享受していましたが、それが存在していた社会空間が徐々に縮小したため、分裂したアイデンティティを維持するのに苦労していました。 これは、生活条件が耐えられなくなり、立ち退きを余儀なくされるまで続きました。 すぐに、彼らはこれまでの豊かで充実した生活を捨て、新しい国で移民としてやり直さなければなりませんでした。 1960 年代後半にイタリアに移住したコミュニティの約半分、主に大人だけが後にイスラエルに移住しました。 移民の初期と最後の波から、米国、フランス、イギリスなどの他の国に到達した人もいます。

 

History of the Jews in Libya - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

1969年にムアンマル・カダフィ大佐が権力を握るまでに、約100人のユダヤ人がリビアに残っていました。 彼の支配下で、ユダヤ人の財産はすべて没収され、ユダヤ人に対するすべての債務は帳消しになりました。 1970 年、リビア政府は国民の祝日であるリビアからのユダヤ人とイタリア人の追放を祝う復讐の日を宣言しました。 移住が禁止されていたにもかかわらず、残ったユダヤ人のほとんどは国外脱出に成功し、1974 年までにリビアに残ったユダヤ人は 20 人だけでした [13]。

2002年、リビアで知られている最後のユダヤ人、エスメラルダ・メグナギが死亡した。 しかし、同年、トリポリで生まれ育った当時 80 歳のユダヤ人女性であるリナ デバッハが、ローマの家族によって死亡したと考えられていたが、今もローマのナーシング ホームに住んでいることが判明した。 国。 彼女がローマに向けて出発した後、この国にはユダヤ人はいなくなった[16][17]。

2004 年、カダフィ大佐は、リビア政府が、国を離れることを余儀なくされ、所有物を剥奪されたユダヤ人に補償することを示唆しました。 その年の 10 月、彼は補償について話し合うためにユダヤ人組織の代表者と会いました。 しかし、彼は、イスラエルに移住したユダヤ人は補償されないと主張した[18]。 これらの動きは、父親の後継者である可能性が高いと考えられていた息子のサイフ・アル・イスラム・カダフィ大佐によって動機付けられたのではないかと疑う人もいました. 同年、サイフはイスラエルに住むリビア系ユダヤ人をリビアに呼び戻し、彼らはリビア人であり、「パレスチナ人から奪った土地を去るべきだ」と述べた[19]。

12月9日、カダフィ大佐はクネセト副議長でリビア移民の息子であるモーシェ・カーロンをトリポリに招待し、リビアにおけるユダヤ人の所有物について話し合うようにした[20]。 2010年、カダフィ大佐はユダヤ人の祖先を持っていると主張された[21]。 祖母と孫娘である、リビア系ユダヤ人のイスラエル人女性 2 人が、カダフィ大佐の親戚であると主張して名乗り出ました。 祖母はカダフィ大佐の2番目のいとこであると主張した. 彼女によると、彼女の祖母にはユダヤ人の男性と結婚していた姉妹がいましたが、彼が彼女を虐待した後に逃げ出し、その後イスラム教に改宗し、カダフィ大佐の祖父であるイスラム教徒の首長と結婚しました。 この結婚の娘は、カダフィ大佐の母親でした[22][23]。

2023年4月15日追記:

リビアのカダフィ大佐殺害以降のブログ記事 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

仮置き:

Giuseppe Volpi - Wikipedia

エンリコ・マッテイ - Wikipedia

Enrico Mattei the Founder of Eni - English Subtitles (Potere e Petrolio ISTITUTO LUCE) - YouTube

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「反ユダヤ」は時に便利に使える言葉・ケイト妃にユダヤ系親族がいると困る?

2023年02月27日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

「ユダヤ人、ユダヤ系」と表明することが、「反ユダヤ」を無くし、同時に、ユダヤ人、ユダヤ系の人たちがどのように世界に影響を与えてきたかを検証し易くするのではないかーという結論が私の中で出来上がっています。

「ホロコースト」は悲惨な話ですが、対象となったのは、ユダヤ人以外にも、ロマであったり、共産主義者、同性愛者、障害者、おそらくハンセン氏病患者もそうであったと思うにに、「ホロコーストの犠牲者=ユダヤ人」となってしまいました。

ユダヤ人といっても、おそらく一般市民が憎んでいたのは、もう多国籍に渡ってビジネスを展開していたようなユダヤ人たちと、たぶん、フランキストのような、過激派的自由主義者ユダヤ系。
憎しみではなく差別し、疎ましく感じていたのには、自分たちから見て異様な格好をしていた正統派ユダヤ人たちや、社会主義者や小金持ちのユダヤ人たちなど。

第二次世界大戦後、多国籍にビジネス(メディアも含む)を展開するになったユダヤ人、ユダヤ系は、米国やイギリスに逃れ、ホロコーストの被害にあった家族は非常に少なく、武器で儲けたユダヤ人もいるくらいなのに、戦後は「ユダヤ人、ユダヤ系」ということで、政治の世界では特別扱いを受けるようになりました。

参考:

現在のウクライナ危機と「生贄」 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ランベール邸とポーランドとフランキスト - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

子宮移植一回目は1931年ドイツで・ナチスとKurt Warnekros - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナチスドイツとホロコースト-4(「ホロコースト」という言葉・1978年米国ミニシリーズ『ホロコースト』) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナチスドイツとホロコースト-13(ユダヤ系アメリカ人バーナード・バルークにとっての戦争) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

欧州とユダヤ人-2(ナチスドイツとOtto Heinrich Warburg) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

アンネ・フランクとハアレツの記事 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

オットー・フランクとネイサン・ストラウス・Jr - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

アンネ・フランク密告者とVan den Bergh家 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

ウルズラ・フォン・ディア・ライエンのスピーチとリン・フォレスター・ド・ロスチャイルド - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

 

現在は、第二次世界大戦前と同じように、「ユダヤ人たちが世界を牛耳っている」と思う人達が増えて(実際多国籍企業や資本家、政治家には、ユダヤ系,もしくは本人や家族がユダヤ系の人たちと結婚しているケースが非常に多いと思います。)、その都度、「反ユダヤ」ということがが出てきます。

行く考えてみると、「ユダヤ人」のレッテル貼りは、実は「世界に影響を与えるユダヤ系、ユダヤ人」にとって、ありがたいのではないでしょうか?

そもそも、「ユダヤ人」「ユダヤ系」の「特別枠」を外していくことが、「ユダヤ人、ユダヤ系」を盾に使う人たちにとって、一番やってほしくないことなのではないかとも、思います。

 

ところで、こちら、イギリス皇室のケイト妃に「ユダヤ系」の親族がいるという噂、検証記事。

ケイト妃の親族にユダヤ系の血が入っているかいないかでなく、「ユダヤ系」の血が入っているかいないかが問題になることが、「反ユダヤ」と私は思うんですが、こういうのは問題にならないですね。

No, Kate Middleton isn't Jewish but here's why people think so (jewishunpacked.com)

抜粋Google翻訳:

ケイトの疑惑のユダヤ人家系に関する憶測は、主に元BBC王室特派員に端を発しています。 マイケル コールは 2013 年にタイムズ オブ ロンドンに掲載された手紙を持っていて、すぐに世界中の見出しになりました。 この手紙は、ケイトとウィリアムの最初の子供が誕生した直後に届き、コールは王位継承者が実際にはユダヤ人である可能性があると推測しました。 手紙の中でコールは、ケイトの母親であるキャロル・ミドルトンは「ユダヤ人のロナルド・ゴールドスミスとドロシー・ハリソンの娘です。 ドロシーの両親はロバート・ハリソンとエリザベス・テンプルで、どちらもユダヤ人でした。 エリザベスは、19 世紀の著名なユダヤ人家族であるマイヤーズ家の子孫でした。」 コールはその後、「ケンブリッジ公爵夫人は母系のユダヤ人であるため、ユダヤの法律と伝統によれば、彼女の赤ちゃんはユダヤ人になります」と主張しました。 彼は、名前の「賢明な選択」はソロモンであるとさえ提案しました。 問題は、これはどれも真実ではないということであり、コールは後にタイムズ・オブ・イスラエルに「それは状況証拠にすぎない」と認めた. 事態をさらに奇妙にしているのは、さらなる証拠を求められたとき、コールは証拠として一般的なユダヤ人の比喩に手を出した. "夫人。 ゴールドスミス生まれのミドルトンは才能のあるビジネスウーマンです…ユダヤ人がビジネスに長けていることを知るために、修道院に住む必要はありません。」 問題は、英国では、ゴールドスミスという姓がユダヤ人と非ユダヤ人の両方に使用されていたことです。また、ケイトの母親の家族が炭鉱労働者であり、事業を行っていなかったという事実もあります。

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銀行とユダヤ人-1

2023年02月24日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

60年代ー

私が小学生のころ、授業で「公的機関」を順番に答える授業がありました。私の順番になる前は粗方答えは出尽くして、私があてられた時に私が答えたのは「銀行」。

当時の私の「銀行」のイメージは「お役所」。「銀行」は母と一緒に行くだけの、ちょっと緊張する空間であり、そこではお金を預かり、そして利息もつけてくれるところ。「利息」がどうやって生み出されるのか知らなかった小学生の私には、「銀行」の利息は国がくれるもの、と思い込んでいました。

先生は「銀行には公的なもの、例えば「日本銀行」というものもあって、これは公的機関だけど、あなたのお母さんたちが行く銀行は「民間」の会社。」とだけ説明。
私はそれを聞いて、自分の思い違いを改めましたが、「銀行」がどうして利息を付けられるかは、わからないままでした。

70年代前半-

中学生になって、英語の授業だったか、社会の授業であったのかは覚えていませんが、雑談で、
「「銀行員」という職業は日本では「良い職業」と思われるけど、欧米ではむしろ低くみられる職業」
と教師が言ったことがありました。(考えてみると、銀行員の親がいる子供もいたはずなので、それだけを考えてもこの発言は問題だったと思います。)

70年代末-

高校生で、「株」を買ったつもりになる授業があって、生徒たちは新聞を見ながら「購入するつもりの株」を選びました。

私がその時選んだの「住友銀行」の株。なぜ「住友銀行」にしたかというと、製造業より金融業の会社をなぜか選びたかったこと、そして「住友」のイメージが良かったからです。

(その当時の株価は1株数百円。就職した80年代はたぶん20倍以上になっていて、「もしあの時私がお金があったなら・・」とふざけて行っていました。バブル崩壊したあとでも、あの70年代末の時点にかっていたのなら、確実に大金をてにしていたんですよね。)

80年代-

その後就職をしましたが、銀行は日銀から民間銀行までかかわるようになりました。
私の職場は高卒+学校の推薦で就職した一般職員も、職場で語学の授業も受けることができたし。それだけでなく、同僚も、上司も、自分の時間を割いて、いろいろ知識の補充をしてくれました。

中堅のころ、新人さんに金融機関、利息の説明をするという課長クラスの男性がいて、一緒にレクチャーを受けさせてもらいました。

詳しい内容は忘れましたが、彼の言葉で印象に残っているのは、
「銀行の利息が付いて「それを喜んではいけない。利息が単に、現金の価値が下がった部分をもらうということなので、とんとん。」

当時は銀行の利率は高く、それはバブルのものだったので、あの時は「とんとん」ではなかったのではないか、と思います。(預けた側葉「得」、借りた側は「損」。)


この80年代から90年段半ば過ぎまで、日本人の私にとっては、「銀行」そして金融機関は「品のある」ものでした。

アジア金融危機、リーマンショック、つづく0金利-そこから中学の頃の、
「「銀行員」という職業は日本では「良い職業」と思われるけど、欧米ではむしろ低くみられる職業」
という言葉がよく浮かんでくるようになりました。

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ドイツとユダヤ人・イディッシュ語のベースがドイツ語である理由

2022年11月30日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

ロシア語を話すドイツ人(ヴォルガ・ドイツ人) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

からの関連もあって。

 

私が12,3年前にペンフレンドとして知り合ったの同年代の女性Bさんは、オスナブリュック近郊に住んでいます。

オスナブリュック - Wikipedia

知っているようで知らないドイツの街 欧州はここから始まった!(その1)オスナブリュック(シュピッツナーゲル典子) - 個人 - Yahoo!ニュース

 

彼女は敬虔なクリスチャンだったので、彼女から届いた彼女の写真がイスラエル旅行のものだったので、ちょっと驚きました。彼女の説明では、「ドイツはナチスの反省のために、若い人をイスラエル短期滞在に行かせるプロジェクトなどがあって、この写真はそれに息子が行ったときの写真です。」ということでした。

この時は、「ホロコーストの反省のため非ユダヤ人とイスラエルの親善プロジェクト」と思っていたので、彼女に、

「第二次世界大戦以前に、ドイツに多くのユダヤ人たちが集まっていたのはどうしてだと思いますか?」

と質問をしました。

Bさんは、「おそらく、ドイツがユダヤ人たちにとって住みやすい土地であったからだと思うわ。」と答えました。

(このころは「クリスチャンは非ユダヤ人」と思っていて無邪気な質問をた私ですが、Bさんはユダヤ系であった可能性は高いことに後に気づきました。)

 

アシュケナジムのユダヤ人が使うイディッシュ語はドイツ語に似ています。

そもそも、ナチスドイツが定義した「ユダヤ人」以上に、ドイツ(特にカトリックが少ない地域)は「ユダヤ系」の多い国だった(なの)のではないでしょうか。

ドナウシュヴァーベンやヴォルガドイツ人のように移住したドイツ人がいて、その中にユダヤ系の人も含まれていることも考えれば…。

イディッシュ語 - Wikipedia

イディッシュ語(イディッシュご、イディッシュ語: ייִדיש‎、ドイツ語: Jiddisch、英語: Yiddish、ヘブライ語: ייִדיש‎)は、東欧のユダヤ人の間で話されていたドイツ語に近い言葉である。ユダヤ語とも称される。インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派のうち西ゲルマン語群に属する高地ドイツ語の一つで、世界中で400万人のアシュケナージ系ユダヤ人によって使用されている。イーディッシュ語と表記されることもある。

概要
イディッシュ語はドイツ語の一方言とされ、崩れた高地ドイツ語にヘブライ語やスラブ語の単語を交えた言語である。高地ドイツ語は標準ドイツ語の母体であるため、イディッシュの単語も八割以上が標準ドイツ語と共通しており、残りはヘブライ語やアラム語、ロマンス諸語、そしてスラブ諸語からの借用語である。初期にはヘブライ文字を伝統的に使用していたが、現在では標準ドイツ語に準じたラテン文字表記も存在している。

イディッシュのייִד(Yid)とはユダヤ人の意であり、それにיש(-ish; 「~語」「~的」)という語尾がついているため、イディッシュとはユダヤ語の意味である(ユダヤドイツ語とも呼ばれる)。したがってイディッシュ"語"という表現は重複表現(例:サハラ砂漠)といえる。

9世紀から12世紀の間にラインラント地方などで中高ドイツ語を基礎に興り、11世紀以降の大規模なアシュケナージ人口のポーランド・リトアニア地区への移動によりこの地域が文化の中心地となった。ドイツでも引き続きイディッシュは使用されたが、一般のゲルマン系ドイツ人たちからは「乱れたドイツ語」として蔑まれた。しかし、後には数多くの文学作品がイディッシュで書かれるようになった。

主にドイツや東欧諸国に住んでいたユダヤ系の人々が使用し、中東欧社会におけるイディッシュ文化を築き上げたが、第二次世界大戦中、その文化はナチス・ドイツのホロコーストによって激減し、イスラエルへの移住や中東欧社会そのものの共産化、アシュケナージ自体の言語変革・言語同化により基盤を失い、崩壊したとされる。しかし、アメリカ合衆国においてアシュケナージ系のドイツ系アメリカ人が300万人以上も使用している。イスラエルにおいてもアシュケナジームの高齢者のなかにはイディッシュ語の会話を行うことができる者もいる。

標準ドイツ語に近いため、移住するときに、ドイツ語を話せると主張したユダヤ人たちにドイツ語を話させてみると、ことごとく標準ドイツ語のつもりでイディッシュ語を話したというほどである。

また、イディッシュ語の新聞には、ロシア連邦ユダヤ自治州ビロビジャンで発行されている『ビロビジャンの星(ロシア語版)』 (ביראָבידזשאנער שטערן、露: Биробиджанер штерн、独: Birobidschaner Stern)がある。この新聞はすべてイディッシュ語ではなく、イディッシュ語とロシア語が半々で構成されている。

参考:

ラディーノ語 - Wikipedia

ヘブライ語 - Wikipedia

ハザール - Wikipedia

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ロシアのユダヤ人自治区とJDC

2022年10月19日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

前回の

ロシアのユダヤ人自治区、フィンランドとアジア国境の町のトラベル動画(イタリアのデイブさん) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で紹介したロシアのユダヤ人自治区の映像で、私がきになったのは、youtuberのデイブさんが門を開けてズカズカとシナゴークに侵入するは、シナゴークの人に質問したり撮影しようとしたこと、そして最後には「警察を呼ぶぞ」とまでガードマンに言われて追い出されたことで逆切れしてることです。

私がyoutuberに偏見があった理由の一つはこういう厚かましさです。

(コメント欄を見ると、ユダヤ人と言う人達を含めて否定的な人がいないのですが、単に批判的なコメントを消しているのか。)

しかし、彼のこういう図々しさがあったおかげで、ロシアのユダヤ人自治区に建っている一つのシナゴークがアメリカのJDCの援助で建てたものであることがわかりました。(建物は新しそうです。)

JDCの歴史:

Joint Distribution Committee (JDC) (jewishvirtuallibrary.org)

Google翻訳:

1914 年の秋、当時駐トルコ米国大使だったヘンリー モーゲンソーは、ニューヨークのルイス マーシャルとジェイコブ H. シフに電報を打って、パレスチナのユダヤ人 (当時トルコの支配下にあった) を飢餓から救うために 50,000 ドルを要求しました。

11 月までに資金が集められ、パレスチナと戦争で荒廃したヨーロッパの貧しいユダヤ人に配布するために JDC が設立されました。 第一次世界大戦は 1918 年に終結しましたが、ヨーロッパのユダヤ人の苦しみは続きました。ロシア革命の余波とオーストリア・ハンガリー帝国の解体により、ロシアとポーランドで反ユダヤ主義の敵意が新たに発生しました。何十万人ものユダヤ人がポグロムや病気や飢饉で亡くなりました。

生き残った人々は、家が破壊され、経済的および社会的制度が廃墟になっていることに気づきました。 JDC は、地元のユダヤ人コミュニティがポーランドとロシアで救援プログラムと新しい保健施設と育児施設を設立するのを支援しました。また、宗教、文化、教育機関も支援しました。 1921 年、JDC は地元の機関を通じて、ユダヤ人コミュニティを自立させるための作業を開始しました。

私たちは、ユダヤ人所有の企業を支援するために、300 を超える地元で運営されている東ヨーロッパの協同組合信用組合の設立を支援しました。 一方、アグロジョイントは、ウクライナとクリミアに約 600,000 人のユダヤ人を再定住させたソビエト政府と協力して、農民として働くように彼らを訓練しました。

アグロジョイントは 1938 年にソ連から追放されました。 第二次世界大戦 ヒトラーが 1933 年から 1939 年にかけて権力を強化したため、JDC はドイツのユダヤ人への援助を加速させました。 JDC は、250,000 人のユダヤ人がドイツから逃れ、125,000 人がオーストリアを離れるのを助けました。 1940 年にドイツ軍がパリに接近すると、JDC はその事務所をリスボンに移しました。

そこから、何千人もの人々がヨーロッパから脱出するのを助けました。 JDC は、戦争中、さらに何千人もの隠れ家を維持しました。 JDC の援助は、フランスの労働大隊にいるユダヤ人囚人に届きました。テヘランからの約 250,000 個の小包が、アジアのロシアでポーランド人とウクライナ人のユダヤ人を支えました。物資はユーゴスラビアにパラシュートで運ばれ、資金はポーランドのユダヤ人の地下組織に密輸されました。

JDC は、ラテンアメリカでの難民再定住の取り組みを支援し、上海で 20,000 人以上の難民のための救援プログラムを組織しました。真珠湾攻撃の後、JDC は、スイスの事務所が確立した中立大使館や国際赤十字社とのつながりを通じて、占領下のヨーロッパと上海のユダヤ人に援助を送りました。

(後略)

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ロシアのユダヤ人自治区の虹色の旗・2014年と今年のウクライナとロシア

2022年10月17日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%B9%E8%89%B2%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%84%E3%82%AD%E3%83%BC

なぜかリンクがうまく貼れないのですが・・・上記は2日前に書いた記事で、『ロシアに今もあるユダヤ人自治州(ユダヤ人の居住者は少ない)』のURLです。

※貼れるようになりました。

ロシアに今もあるユダヤ人自治州(ユダヤ人の居住者は少ない) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の続きです。

 

ユダヤ自治州 - Wikipedia

ロシアのユダヤ人自治州についてはそのうち追っていこうと思いますが、ウィキペディアを観て気になったのはこのユダヤ人自治区の旗。

LGBTの旗に似ていると思って調べてみたところ、英語版wikipediaにこのような説明がありました。

Flag of the Jewish Autonomous Oblast - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

ユダヤ自治州は、ロシアの極東連邦管区に位置しています。 その旗は、白地に虹と、赤、オレンジ、黄、緑、空色、青、紫の 7 つの細い横縞で構成されています。色の数は、7 つに枝分かれしたユダヤ教の本枝の燭台を象徴するものです。

(中略)

レインボー フラッグのデザインは 1996 年 10 月 27 日に採用された[2]。 

布の白い色は純粋さを表しています。虹は聖書の平和、幸福、善の象徴です。虹の帯の数は、ユダヤ教の国民的シンボルの 1 つである本枝の燭台のろうそくの数と同じです。本枝の燭台は 7 日間で世界が創造されたことを物語っており、虹の帯の数は古代ユダヤ人のシンボルとのつながりを強調しています。また、虹は七つのノアの法則を象徴しているかもしれません。

レインボーフラッグ論争

2013年、LGBT旗に似ているため、ロシアのゲイプロパガンダ法に従って、「ゲイプロパガンダ」の存在がチェックされました. JAO の旗は、背景が白、ストライプが白、7 色 (水色) であるため、安全であることが確認されました [3]。 JAOの旗の色も、基本的な分光色とはわずかに異なり、黄色の代わりに金、水色の代わりに鮮やかな青色、濃い青色の藍色が使用されています.[4]

 

LGBTの旗とは関係がなく(LGBTのシンボルカラーは70年代終わりからのよう。)1996年にこの自治州の旗が決まったらしいです。

スターリン時代からずっと「ソ連、ロシア=反ユダヤ」というレッテルが貼られているように思いますが、少なくとも実態は違うように思えます。

こちらは9月8日の時事通信の記事です。

ユダヤ人のロシア出国急増 ウクライナ侵攻に反発―「非ナチ化」主張を批判:時事ドットコム (jiji.com)

抜粋:

実業家ボリスさん(仮名=50=)は4月、サンクトペテルブルクからイスラエル中部テルアビブに移住した。もともとプーチン政権の長期化に懸念を抱き、出国を考えていたが、ウクライナ侵攻を受けて最終決断した。「ロシアのユダヤ人は国際的でリベラルだが、正反対のことがロシアで起きている」。6月に中部ホロンに来た学生ヨナさん(同=20=)は「隣国を攻撃する国は、私の価値観と相いれない」と語る。

 ロシアのユダヤ人は16万5000人とされる。イスラエル中央統計局によると、2月24日~7月31日にロシアから約1万9000人が移住。新型コロナウイルス禍前だった2019年同期の約7000人から大幅に増加した。イスラエルの当局者は「これほどの急増は予期していなかった」と驚き、「侵攻で孤立する国で暮らしたくないのだろう」と分析する。

 ただ、ヨナさんは「ロシアで反ユダヤ主義を感じたことはなかった」とも話す。ボリスさんも「プーチン大統領自身はユダヤ人に好意的だ」と認めるが、「地方では反ユダヤ感情が根強い。爆発の引き金が引かれるのを待っている」と指摘。国内情勢が悪化した際、ユダヤ人に責任転嫁するのは「歴史上、何度も繰り返されてきたことだ」と懸念する。

 ウクライナ政権の「非ナチ化」について、ヨナさんは「洗脳に使われる恐ろしい言葉だ」と批判。「ウクライナでは、ナチスに協力した指導者の名前が通りに付けられているが、今の政権がナチスだとは思わない」と話す。ボリスさんは「教育を受けた人でさえ、ロシア政府のプロパガンダを信じている」と嘆き、「非ナチ化すべきなのは(プロパガンダの横行する)ロシアの方だ」と皮肉った。


 ウクライナの首席ラビ(ユダヤ教指導者)モシェ・アスマン師も、「非ナチ化」の主張をプロパガンダだと一笑に付す。「ユダヤ系のゼレンスキー大統領が支持され、首都キーウ(キエフ)中心部にシナゴーグ(ユダヤ教礼拝所)がある。誰もユダヤ人を追い出そうとしていない」。ネオナチとの関係が指摘される精鋭部隊「アゾフ大隊」についても「私の知る隊員たちは、愛国的な普通の人たちだ」と問題視していない。「反ユダヤ主義はどの国にもあるが、ウクライナは欧州やロシアよりも少ない」と言い切った。

蛇足ですが、上記の記事のモシェ・アルマン師は、2014年3月の記事に紹介したニュース記事に出ている方でした。

ウクライナ国民の悲劇ーハアレツとIPSの記事 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

抜粋:

つまり、ウクライナのラビが、ユダヤ人に「キエフ、もしくは国外へ逃げて」と言っています。ウクライナにおいて、ユダヤ人受難が繰り返されてきました。

そして今、ウクライナの反政府デモを主導した中にはネオナチも含まれていて ウクライナの暫定政権にはネオナチの中心となる自由党(スボボダ)も加わりました。これを西側は支援しています。

この中に紹介した記事は、2014年3月に時点のウクライナの様子が少しわかります。

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ロシアに今もあるユダヤ人自治州(ユダヤ人の居住者は少ない)

2022年10月15日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

昨日の記事で、

白青白旗の意味(ロシアの旗から赤を無くそうとする動きは「反戦」とは違うのでは?) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

先に、ロシアの旗から赤を取って白にするのは、赤軍から白軍の巻き返しに思えるということを書きましたが(フィンランドの国旗の色も確か白軍の意味があったのではなかったか?)、もう一つ気が付いたのは、たまたまにしろ、イスラエルの国旗も白と青であったな…ということです。

と書きましたが、ロシアのユダや自治州があります。

たまたま、ナターシャさんとグレッグ君の故郷のハバロフスクに近いところにこの自治州はあります。

メディアに翻弄される戦争と冷静なロシアの若者たち-4(20歳のザック君と白青白旗) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

ユダヤ自治州 - Wikipedia

ユダヤ自治州は、ロシア連邦を構成する唯一の自治州。首都はビロビジャン。極東連邦管区に位置する。面積3万6000km2で、2017年1月1日の人口は16万4217人[1]。民族構成はロシア人、ウクライナ人が多く、ユダヤ人は全体の1%強に過ぎない。鉱業、林業、農業が主要産業。

 

「ビロビジャン計画」と「イスラエル移住計画」 (client.jp)

現在、ユダヤ人の国イスラエルならいざ知らず、世界にイーディッシュ語(アシュケナジー系ユダヤ人の使用言語)を公用語として認めている国がある。しかも、この国は日本からもかなり近い、といえば人は驚くであろうか。

旧ソ連の「ビロビジャン共和国」はそのような国だ。

中東にイスラエルが建国される以前から、既に“ユダヤ人の国”は存在していたのだ。

(中略)

一応、現在もこの「ユダヤ人自治州」=ビロビジャン共和国は、ロシア連邦極東地方に残る唯一の自治州として存在する。面積は3万6000平方キロで、1995年現在の州人口は21万2000人。そのうちユダヤ人は7000人以下しかいないという。

1994年に、NHKの衛星放送でビロビジャンの様子が4回にわたって報告されたが、それによると、経済状態は相当悪いらしく、ユダヤ人が、列車で次々とこの町を離れているという。 

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「ウクライナにナチスいない」という証言・ソ連時代のウクライナ出身大物ユダヤ人

2022年10月08日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

「ウクライナにナチスいない」 ホロコースト生存者がプーチン氏に反論(AFP=時事) - Yahoo!ニュース

「この国にナチスはいません」──第2次世界大戦(World War II)中のナチス・ドイツ(Nazi)によるホロコースト(Holocaust、ユダヤ人大量虐殺)を生き延びたユダヤ系ウクライナ人のロマン・ゲルシュタインさん(83)はきっぱりと答えた。

 ロシアのウラジーミル・プーチン(Vladimir Putin)大統領の支持者は、ウクライナ東部ではロシア語話者に対する「ジェノサイド(集団殺害)」というナチス・ドイツ同然の弾圧が行われており、だからこそ「非ナチ化」が必要だと主張している。

 ゲルシュタインさんは、この主張を真っ向から否定する。

 ウクライナ中部クリビーリフ(Kryvyi Rig)のシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)でAFPの取材に応じたゲルシュタインさんは、丸眼鏡の奥で目を光らせ、自分は本物のナチスから逃げなければならなかったと語る。

「それどころか私は、チョルノービリ(チェルノブイリ、Chernobyl)から2回避難した数少ない人間の一人なんです」

 1度目は1941年、当時ソ連を構成する共和国の一つであったウクライナの故郷チョルノービリがドイツに占領された時。2度目は45年後の1986年、世界最悪の原発事故が起きた時だ。

 1939年生まれのゲルシュタインさんが2歳の時、父親はナチスから逃れるために家族を首都キーウ行きの船に乗せた。キーウからは一家でタジキスタン行きの列車に乗った。

 やがてチョルノービリに戻った時、ユダヤ人社会は消えていた。「避難しなかった人々は、永遠に地下で眠っています」とゲルシュタインさん。「700人はいました…女性と子ども、老人たちです」

■歴史の書き換え
 リュボフィ・ペトゥホバさんは11月で100歳になるが、ウクライナ中部ビンニツァ(Vinnytsia)からウズベキスタンに家族で逃れた時のことを今でもよく覚えている。地元の村ボツビノ(Botvyno)に残ったユダヤ人は一人残らず「拷問を受け、殺されました」と厳しいまなざしでAFPに語った。

(中略)

■ヒトラーよりひどい

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第二次大戦中ナチスやファシストが狙ったのはコミュニスト、そして“正統派”ユダヤ人では?

2022年07月29日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

ロレアル社が支援したファシストグループとファシスト - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

を書いたついでに-

 

イタリアのユダヤ人ファシストと、フランスのファシストは繋がっていたのではないか、と思います。

フランスのファシストのほうにユダヤ人がいたという事実は見つかりませんが、反ユダヤの中にはユダヤ人も含まれていたようですので、やはり、ナチスと支援者たちの目的は、正統派ユダヤ人撲滅だったのではないでしょうか?

こちら、ロレアル社創業者の婿が書いた記事のことが書いてあります。

 

André Bettencourt - Wikipedia

抜粋英語Google翻訳:

彼の若い頃、ベッテンコートは、暴力的なフランスのファシスト寄りの反共産主義グループであるラ・カグール(ザ・フッド)のメンバーでした。 L'Oréalの創設者であるEugèneSchuellerは、会社の本社でLa Cagouleの財政支援を行い、会議を開催しました。 1990年代、ロレアルの映画およびテレビ子会社であるパラビジョンの株主兼取締役であるジャン・フリードマンは、ロレアルの上級管理職がユダヤ人とのつながりを持つ企業のアラブのボイコットを回避しようとしたため、1989年に解雇されたと主張しました。フリードマンはフランスとイスラエルの共同市民権を持っていた。 Frydmanはまた、Bettencourtが第二次世界大戦中にナチスのプロパガンダオルガンのためにいくつかの記事を書いたという事実を明らかにしました。 1940年から1942年にかけて、ベッテンコートはラテールフランセーズに60以上の記事を書きました[2]。フランス占領中にナチスドイツの資金で栄えた新聞です。 1941年のイースターの特別号で、彼はユダヤ人を「偽善的なパリサイ人」と表現しました。彼らは呪われるでしょう」。ベッテンコートは、彼の判断がヴィシーフランスの宣伝によって曇ったと主張して、ジャーナリズムを「若者の過ち」として却下しようとした。 「私は公の場で彼らについて繰り返し後悔を表明しており、常にユダヤ人コミュニティに彼らのために私を許してくれるように頼みます。」[3]

 

André Bettencourt — Wikipédia (wikipedia.org)

抜粋フランス語Google翻訳:

 

1940年から1942年の間、彼は協力者の週刊誌La Terrefrançaiseを監督し、「Ohé!若い人たち! 「非難は義務でしょうか? 「若者は、各村で、革命の警察である元帥の代理人でなければならない2,6」と彼は断言します。1941年4月12日、彼はそこで「ユダヤ人、偽善的なパリサイ人はもはや望みません。彼らにとって、事件は終わった。彼らは信仰を持っていません。彼らは回復の可能性を持っていません。永遠に彼らの種族は義人の血で染まっています。 »»

後期抵抗
1930年代、アンドレベタンクールは、極右の秘密組織であるラカグールに頻繁に出入りしました。この組織の著名なメンバーの1人は、ロレアルの創設者であり、将来の妻であるリリアンの父であるウージェンヌシュラーでした8。

 

参考:

ファリサイ派 - Wikipedia

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オットー・フランクの戦後・ホロコーストの悲劇を利用した人たち

2022年07月26日 | ユダヤ人の分類・ユダヤ人の歴史

前回書いた記事

オットー・フランクとネイサン・ストラウス・Jr - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

改めて、オットー・フランク氏のウィキペディアを見ると、

オットー・フランク - Wikipedia

抜粋:

信仰

フランク一家はあまりユダヤ教に熱心ではなかったが、とりわけオットーがそうだった。妻エーディトはアムステルダム亡命後にユダヤ教への信仰心を強めていたが、オットーはシナゴーグでの礼拝に出たり出なかったりという感じだった[112]。彼はヘブライ語もまったく解さなかった[113]。

アンネも隠れ家潜伏前は信仰心がなかった。アンネの友達でよくアンネの家に通っていたハンネリ・ホースラルは「アンネは父親似なのか信仰心が全くなかった」と回顧している[114]。

一方マルゴーは母エーディトやホースラル家とともに祝日には頻繁にシナゴーグの礼拝に通ったという[114]。そんな日にはオットーとアンネが二人で祝日の締めくくりの夕食の準備をしたという[114]。

戦後にはアムステルダム改革派ユダヤ教信徒共同体の設立者の一人となったが、ユダヤ教一筋の人間にはならなかった[79]。
オットーの再婚の妻フィリッツィはアンネ・フランク資料館初代館長の篠光子に手紙を書き、その中でオットーについて

ユダヤ教とキリスト教の協調

 彼はリベラルなブルジョア出身だったので、特に宗教的というわけではありません。しかし、歴史上の重大事件が、彼を明確な主義を持ったユダヤ人にしました。
 そして、世界中の主要な宗教間の調和、特に、ユダヤ教とキリスト教の協調は、彼の崇高な理想となりました。 — 一九八二年一一月 フィリッツィ・フランク[115]
と書いている。

 

第二次世界大戦中、米国がユダヤ人難民受け入れを拒否していましたが、これには、「米国にいるのは改革派ユダヤ人が多いが、ユダヤ人難民を受け入れること、保守派のユダヤ人の数が逆転してしまう(10倍)」と反対していた人たちもいたというのを読んだことがあります。

「ナチスの犠牲となったユダヤ人は、反シオニストだった」ということを言う人もいるようでしたが、いずれにせよも犠牲になったユダヤ人は「正統派、保守派」のユダヤ人が多かったのではないでしょうか?(そしてユダヤ系の共産主義者たちも。)

なのに、むしろ改革派のユダヤ人のなかに、「ホロコーストの被害者ユダヤ人」をアピールする人たちがいます。
そもそも、ユダヤ人の生き残りとして、有名になりメディアにもでるユダヤ人たちは、シオニストの改革派ユダヤ人が主流のよう。

以前書いたのなかで、反シオニストのプリーモ・レーヴィが終身上院議員になることもなかった理由が見えてきた気がします。

 

リリアーナ・セグレ-2(Belli=戦争、 Paci=平和) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の中に、

プリーモ・レーヴィが終身上院議員になれず、リリアーナ・セグレがイタリアの終身上院議員に選ばれたのはなぜでしょうか。

リリアーナの以外にも1983年からホロコーストの生存者等で終身上院議員になった3人がいて、一人はおそらくプリーモ・レーヴィと先祖で繋がるであろう、リータ・レーヴィ・モンタルチーニ。

リータ・レーヴィ=モンタルチーニ - Wikipedia

この人はユダヤ人だからとベルギーに逃げなければなりませんでしたが、強制収容所に行くことはなく、ノーベル賞生理学賞を受賞した人。

リリアーナ・セグレは、ユダヤ系イタリア人のノーベル賞受賞者のエミリオ・セグレと血縁があるとか、父親のアルベルトがひょっとしたらから、欧州連邦主義者のマリオ・アルベルト・ロイエと関係があるからなのか、と考えたりします-が確かなことはわかりません。

マイノリティ出身の成功者-マリオ・アルベルト・ロイエ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

もう一つは、リリアーナの夫のアルフレード・ベリ・パチ。彼が政治に絡んでいるようだったからなのか。

ところで彼については、生年月日も記載しているものがなく、しかも苗字のBelli Paciと言う名字もネットで調べてもなかなか出てきません。
リリアーナも本来であればすでにリリアーナ・(セグレ)・ベリ・パチとすべきところ、名字はセグレだけを使っているようですし、ネットで探しても彼女の息子と同姓同名がでてくるくらいです。

そもそも、Balliはラテン語で「戦争」、 Paciはラテン語で「平和」であり、名字としてはユニーク。

(後略)

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