Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

ヴォルガ・ドイツ人とアシュケナジム-3

2023年11月10日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

ヴォルガ・ドイツ人自治にあったサラトフ。ここの首都名は、フリードリッヒ・エンゲルスから付けられています。

エンゲリス - Wikipedia

(前略)

ロシア帝国により1747年に「ポクロフスカヤ・スロボダ(Покровская слобода)」としてウクライナ人入植者によって開礎されたが、ドイツ出身のエカチェリーナ2世の時代にドイツからの入植が推奨され、多くのドイツ人が入植し、ヴォルガ・ドイツ人文化の中心都市となっていた。1914年に都市の地位を得て「ポクロフスク(Покровск)」に改名される。ポクロフスクは、ドイツ人の間ではコザッケンシュタット(Kosakenstadt, 「コサックの町」)とも呼ばれた。

ソビエト連邦成立後の1924年、サラトフ州内にヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国が建国されると、その首都に昇格し、1931年にはエーンゲリスと改名された。その名称は、マルクス主義を大成させたドイツ人思想家、フリードリヒ・エンゲルスに由来する。しかし1941年6月22日の独ソ戦開戦により、同年8月にヨシフ・スターリン政権がヴォルガ・ドイツ人の強制移住とその自治共和国の廃止を決定したため、9月中にドイツ人は町から全て追い出された。その後、エンゲリス市は再びサラトフ州に組み込まれ、ロシア人やウクライナ人などのスラヴ系民族やタタール人が新たな住民となった。スターリン死後の1965年にヴォルガ・ドイツ人追放令は無効とされたが、その帰郷はソビエト連邦解体などによってもほとんど進まず、現在でもロシア人が最も多く住む街となっている。

 

エンゲルスもマルクスもユダヤ系から改宗派。

カール・マルクス - Wikipedia

マルクス家は代々ユダヤ教のラビであり、1723年以降にはトリーアのラビ職を世襲していた。マルクスの祖父マイヤー・ハレヴィ・マルクスや伯父ザムエル・マルクス(ドイツ語版)もその地位にあった[12]。父ハインリヒも元はユダヤ教徒でユダヤ名をヒルシェルといったが[13]、彼はヴォルテールやディドロの影響を受けた自由主義者であり[7][14][15]、1812年からはフリーメイソンの会員にもなっている[16]。そのため宗教にこだわりを持たず、トリーアがプロイセン領になったことでユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念し[注釈 3]、1816年秋(1817年春とも)にプロイセン国教であるプロテスタントに改宗して「ハインリヒ」の洗礼名を受けた。

マルクスは「反ユダヤ」と呼ばれるほどでした。

カール・マルクス - Wikipedia

 

ちなみに、この二人と近かった、シオニストのモーゼス・ヘスはユダヤ教徒でしたが、カトリック教徒と結婚し、亡くなった後はユダヤ人墓地に埋葬されました。英語Wikipediaを少し多めにgoogle翻訳。

Moses Hess - Wikipedia

抜粋google翻訳:

モーゼス・ヘスは、当時フランス統治下にあったボンで生まれました[1]。 彼のフランス語の出生証明書には、彼の名前は「モイーズ」と記載されています。 彼は母方の祖父にちなんで名付けられました。[5]: 7 彼の父親はラビに叙階されましたが、この職業に従事したことはありませんでした。ヘスは祖父からユダヤ人の宗教教育を受け、その後ボン大学で哲学を学んだものの、卒業することはなかった[2]。

 彼は「社会によって行われた不正義を正すために」貧しいカトリック教徒の裁縫師シビル・ペッシュと結婚した。 彼らはヘスの死まで幸せな結婚生活を続けたが[2]、シビルはフリードリヒ・エンゲルスが夫と再会するためにベルギーからフランスに密航している間に彼女と関係を持った可能性がある。 しかしシビルは、この関係は合意の上ではなかったと主張し、エンゲルスをレイプの罪で告発した。 この事件がヘスの共産主義運動からの分裂を促進した可能性がある[7]。

ヘスは社会主義の初期の支持者であり、後にシオニズムと呼ばれることになるものの先駆者でした。 リベラルなラインの実業家によって設立された急進的な新聞であるライン新聞の特派員として、彼はパリに住んでいました。 彼はライン新聞の編集者だったカール・マルクスの友人で重要な協力者であり、彼のアドバイスに従い、フリードリヒ・エンゲルスとも親交があった[9]。

ヘスは当初、理論的アプローチを通じてエンゲルスに共産主義を紹介した[9]。 マルクス、エンゲルス、ヘスは 1845 年にベルギーのブリュッセルに避難し、同じ通りに住んでいました。 この10年代の終わりまでに、マルクスとエンゲルスはヘスと不仲になった[9]。 ヘスの業績はマルクスとエンゲルスの『ドイツ・イデオロギー』の一部でも批判された[4]。 ヘスは1848年のコミューン弾圧後、一時的にスイスに逃亡した。 彼は 1870 年から 1871 年の普仏戦争中にも海外に赴くことになりました。 1850年代、ヘスは自然科学の研究に没頭し、独学で自分の考えの科学的基盤を獲得した[10]。 ヘスは 1875 年にパリで亡くなりました。ヘスは彼の希望に従い、ケルンのユダヤ人墓地に埋葬されました。 1961年、彼はナハマン・シルキン、ベル・ボロホフ、ベル・カッツネルソンなどの他の社会主義シオニストとともにイスラエルのキネレト墓地に再埋葬された。

 

ちなみに、モーゼス・ヘス達の新聞の経済的支援者となったであろうオッペンハイム家の

イスラム聖戦を先導した宮廷ユダヤ人の子孫-マックス・フォン・オッペンハイム - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

マックス・フォン・オッペンハイムも、改宗ユダヤ人で、ついでに言えば、母親の旧姓はエンゲルス。

Max von Oppenheim - Wikipedia

抜粋google翻訳:

マックス・オッペンハイムは、1860年7月15日にアルバート・オッペンハイムとパウリーン・エンゲルスの息子としてケルンで生まれました。 ユダヤ系の銀行家オッペンハイム家の一員であるアルバート・オッペンハイムは、ケルンの名門商家の出身でカトリック信者のポーリン・エンゲルスと結婚するために1858年にカトリックに改宗していた。 1867 年、マックスの祖父シモンはオーストリア=ハンガリー帝国のフライヘル (男爵) の称号を授与されました。 

エカテリーナ2世が「ユダヤ人の定義がわからない」と言ったのは、別の言い方をすれば、「ユダヤ人」「非ユダヤ人」は使い分けられるということ。

「ユダヤ人人口」も、急に増えたり減ったりも、そのせいもあるのでしょう。

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ヴォルガ・ドイツ人とアシュケナジム-2

2023年11月10日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

ヴォルガ・ドイツ人とアシュケナジム-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

に、

ふと、気になってエカテリーナ2世とユダヤ人のことを改めて調べてみると、エカテリーナ2世の時代、①ロシアでユダヤ人の定義を持っていなかった、②1772年まではユダヤ人はマイナーな宗教だった、と書いてあるものを発見。

これは本当なのでしょうか?

と抱いた疑問について書きましたが、もともとドイツ人だったエカテリーナがユダヤ人は知っていたはずなので、むしろ、「ユダヤ人は知っているけど、ユダヤ人の定義について答えられなかった」ということなんだろう、と考えます。

ヴォルガ・ドイツ人募集、ロシアへの定住のエージェントであった、フランス人とスイス人のLeRoy and Pictet社の映画版wikipediaのgoogle翻訳。これには、エカテリーナ2世が「信仰の自由」を認めたとありますが、表向きは「プロテスタント(多くはルター派)」「カトリック」の信仰の自由を認めたということで、実際はそこにユダヤ教徒、改宗ユダヤ教徒、クリスチャンの妻を持つ夫も含まれていた、ということでは・・かと。

LeRoy and Pictet - Wikipedia

Google翻訳:

ルロイ・アンド・ピクテ社は、エカチェリーナ2世の委託を受けて、18世紀にロシアに定住するドイツ人を募集した協同組合会社であった。 同社はフランス人のル・ロイ、ジュネーブ出身のスイス人のピクテ、ドイツ人のゾンタグによって設立されました。 ロシアへの入植者募集の分野では他に2つの企業が活発に活動しており、1つはフランス人カニュー・ド・ボールガール男爵がモンジューのオットー・フリードリヒ少佐とともに設立したもので、もう1つは独自の資金提供を受けずにジャン・ド・ボッフェ、ムニエ・ド・プレクール、クエンタンによって設立されたものである。 バンジャマン・クーレット・ドーテルヴィヴ。[1]

戦争と経済危機に疲れ果てた入植者たちに、エカテリーナは信仰の自由、税金と兵役の免除、そして自分たちの土地を希望通りに処分する権利を約束した。 何千人ものドイツの職人や農民がこれらの募集活動に応じ、ヴォルガ川の両側に103のドイツの村を設立しました。 したがって、彼らはヴォルガ・ドイツ人として知られています。 ル・ロイとピクテは、サラトフの南のヴォルガ川沿いとその左支流のカラマン川とタルリク川の東側に、1,530世帯、5,339人からなる25の植民地を設立した。 1767 年 8 月 19 日のルーテル派植民地。[2][3] ル・ロイとピクテは後に植民地の管理者となった。

 

仮置き:

Pictet Group - Wikipedia

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ヴォルガ・ドイツ人とアシュケナジム-1

2023年11月08日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

ドイツ・東欧系ユダヤ人アシュケナジム。

アシュケナジム - Wikipedia

シオニスト、イスラエル建国にかかわったユダヤ人、ユダヤ系にはアシュケナジムが多いですが、このアシュケナジムには、エカテリーナ2世の募集でロシアに渡ってきた「ヴォルガ・ドイツ人」がいるのではないかと私は思うようになっています。

日本語版wikipediaには、ヴォルガ・ドイツ人は単純労働をする移住者だけのように書かれていますが、

ヴォルガ・ドイツ人 - Wikipedia

こちらのウェブサイトには、「必要なスキル」がある移住者も勧誘したように書いてあります。

Recruitment of the Colonists | Welcome to the Volga German Website (volgagermans.org)

google翻訳:

ロシアの代表者は、エカテリーナ 2 世の 1763 年のマニフェストを新聞に掲載し、印刷されたコピーをヨーロッパ中に配布し、遠く離れた土地でのより良い生活の約束で何千人もの人々を魅了しました。 勧誘者は、ロシア政府を直接代表する者と、ロシア政府によってヴォルガ川下流に沿って独自の植民地を設立することを許可された民間の勧誘者のグループの 2 つのカテゴリーに分けられました。

ロシア政府を直接代表するために、エカテリーナは国会議事堂(現時点では王国の国会または議会)のロシア大使であるヨハン・マティアス・シモリンを、ロシア王室の採用活動を率いる特別委員として任命しました。シモリンの代理人は、本部がウルムにあったフリードリヒ・マイクスナーと、1765 年 10 月に最初はフランクフルト・アム・マインに本部を置いていたハーナウ出身のヨハン・ファシウスであった。

入植者の募集は、多くの場合、対象者の移住を望まないドイツ当局から強い反応をもたらしました。ドイツの統治者の多くは、厳しい処罰、商品の没収、および移住を検討している人の不動産売却の禁止を脅かす法律を制定しました。外交上の保護にもかかわらず、フランクフルトの当局はファシウスを街から追放し、1766 年 2 月下旬、彼はすぐにビューディンゲン市に新しい本部を設立しました。

ファシウスとロシア王室の彼の代表者は、入植者が必要なスキルを持っていることを確認し、地元当局による彼らの解放の文書を提示することを要求し、民間のリクルーターよりも採用活動においてはるかに綿密でした. ロシア政府は、移民を許可していたドイツ領土の外交関係を混乱させないように細心の注意を払う必要がありました。

サラトフ地域に到着した入植者の大半は、民間のリクルーターが率いる輸送グループの一部でした (約 56%)。これらの入植者の多くは、入植者として最初にデンマークに移住しました。

民間のリクルーターの中には 3 つの協力会社がありました。最初の会社はフランス人のル・ロイによって設立されました。ジュネーブ出身のスイス人ピクテ(。そしてドイツ人のゾンターク。彼らは、ドイツのフライドベルク (バート ナウハイムの近く) とボルンハイム (フランクフルトの近く) の町の近くで募集を行いました。 2つ目はフランス人のカノー・ド・ボールガール男爵とモンジューのオットー・フリードリッヒ少佐によって結成された。 3つ目は、独立した資金提供なしで、ジャン・ド・ボッフェ、ムニエとプレクール・ド・サンローラン、クエンティン・ベンジャマン・クーレット・ドーテルヴィヴによって結成されました。

何千人ものドイツの職人と農民がこれらの募集活動に応え、ヴォルガ川の両側に 106 のドイツの村を設立しました。したがって、彼らはヴォルガ・ドイツ人として知られています。ル・ロイとピクテは、サラトフの南のヴォルガ川に沿ってカラマン川とタルリク川の左側の支流に沿って、1,530 世帯、5,339 人からなる 25 の植民地を設立しました。 19, 1767.

LeRoy と Pictet は後に植民地の管理者になりました。 勧誘者による管理の誤りと腐敗行為により、彼らは 1788 年にロシア政府によって植民地の管理者として解任されました。その後、私的に設立された植民地はコントラの下に置かれました。コントラは、公式には外国人入植者保護のためのサラトフ事務所として知られていました。 .その時点から、コントラはすべてのヴォルガ ドイツ植民地を監視していました。

「ヴォルガドイツ人~ロシア」のブログ記事一覧-Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

ふと、気になってエカテリーナ2世とユダヤ人のことを改めて調べてみると、エカテリーナ2世の時代、①ロシアでユダヤ人の定義を持っていなかった、②1772年まではユダヤ人はマイナーな宗教だった、と書いてあるものを発見。

これは本当なのでしょうか?

 

エカチェリーナ大王 Catherine The Great: 最新の百科事典、ニュース、レビュー、研究 (academic-accelerator.com)

抜粋:

ロシアはしばしばユダヤ教を別個の存在として扱い、ユダヤ人は別個の法制度と官僚制度を維持した。政府はユダヤ教の存在を知っていたが、キャサリン妃とその顧問らはユダヤ人とは何かという本当の定義を持っていなかった。なぜなら、彼女の治世中、この用語は多くの意味を持っていたからです。

ユダヤ教は、1772年までロシアでは存在しないとしてもマイナーな宗教であった。エカチェリーナがポーランド第一分割に同意したとき、新たに大きなユダヤ人要素は宗教によって定義された別の民族グループとして扱われた。

エカチェリーナはユダヤ人を正統派社会から切り離し、入植地ペールに閉じ込めた。彼女はユダヤ人の信者に追加の税金を課しました。家族が正教に改宗した場合、追加の税金は免除された。社会におけるユダヤ人は、正統派の隣人たちの2倍の税金を支払わなければなりませんでした。改宗したユダヤ人は商人階級に入り、ロシアの統治下で自由農民として農業を営む許可を得ることができた。


仮置き:

ハザール - Wikipedia

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トロフィム・ルイセンコとロシアと遺伝子工学

2022年12月12日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

オランダ政府3000農家閉鎖計画-"カルト的なイデオロギー” - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で紹介した動画をスペインの友人に送るとともに、他の海外の友人たちのも送ったところ、そのなかの米国の友人がこの記事を送ってきました。

Trofim Lysenko, the Soviet Era's Deadliest Scientist, Is Regaining Popularity in Russia - The Atlantic

Google翻訳:

確かなことは言えませんが、トロフィム・ルイセンコはおそらく、歴史上のどの科学者よりも多くの人間を殺しました。 ダイナマイト、毒ガス、原子爆弾など、他の疑わしい科学的成果によって、何千人もの命が奪われています。 しかし、ソビエトの生物学者であるルイセンコは、偽の農業研究によっておそらく何百万人もの人々が飢餓に陥ったと非難し、ためらうことなくそうしました. 数世紀にわたる多くの研究者の集合的産物である銃と火薬だけが、そのような虐殺に匹敵することができます. 20 世紀の変わり目に極度の貧困で育ったルイセンコは、共産主義革命の約束を心から信じていました。 そのため、科学の教義と共産主義の教義が衝突したとき、彼は常に後者を選びました。生物学が最終的にイデオロギーに適合すると確信していたからです。 それは決してしませんでした。 しかし、ひねくれた方法で、イデオロギーへのそのコミットメントは、今日のルイセンコの評判を救うのに役立ちました. 西側への敵意と西側科学への不信感から、彼は現在、反米感情の強い故郷での復活を楽しんでいます。

ルイセンコは異常な速さでソ連の科学界の頂点に躍り出た。 1898 年に農民の家族に生まれた彼は、Current Biology の彼の復活に関する最近の記事によると、13 歳まで読み書きができませんでした。 それにもかかわらず、彼はロシア革命を利用し、いくつかの農業学校への入学を勝ち取り、そこで他のプロジェクトの中でも特に、長く厳しいソビエトの冬の間、エンドウ豆を栽培する新しい方法を実験し始めました. 彼は設計が不十分な実験を行い、おそらく彼の結果のいくつかを偽造しましたが、その研究は 1927 年に国営新聞から賞賛を勝ち取りました。 農民を賛美しました。 当局は最終的に、1930 年代にルイセンコをソビエト農業の責任者に任命した。 唯一の問題は、彼がばかげた科学的アイデアを持っていたことです。 特に、彼は遺伝学を嫌っていました。 若い分野ではあるが、遺伝学は 1910 年代と 1920 年代に急速に進歩した。 遺伝学における最初のノーベル賞は 1933 年に授与されました。そして特にその時代、遺伝学は固定された特性を強調しました。植物や動物は、遺伝子としてコード化された安定した特徴を持っており、それが子供に受け継がれます。 名目上は生物学者ですが、ルイセンコはそのような考えを反動的で邪悪なものと考えていました。なぜなら、彼はそれらが現状を強化し、変化のすべての可能性を否定していると考えていたからです。 (実際、彼は遺伝子の存在を否定しました。)

(中略)

1920 年代後半から 1930 年代前半にかけて、ヨシフ スターリンは、ルイセンコの支援を受けて、ソ連の農業を「近代化」する壊滅的な計画を立て、何百万人もの人々を集団の国営農場に参加させました。 広範な不作と飢饉が生じた。 しかし、スターリンは方針を変えることを拒否し、ルイセンコに彼の急進的な新しいアイデアに基づいた方法で災害を修復するよう命じました。 ルイセンコは、たとえば、彼の「種の寿命の法則」によれば、同じ「クラス」の植物が互いに競合することは決してないため、農家に種子を非常に近くに植えることを強制しました。 彼はまた、肥料と殺虫剤のすべての使用を禁じました。 小麦、ライ麦、じゃがいも、ビーツなど、ルイセンコの方法で栽培されたほとんどのものは枯れるか腐ってしまう、とハングリー・ゴーストは言う。 スターリンは、少なくとも 700 万人が死亡した飢饉の大部分の責任を負うに値しますが、ルイセンコの慣行は食糧不足を長引かせ、悪化させました。 (飢饉による死亡者数は 1932 年から 1933 年頃にピークを迎えたが、4 年後、ルイセンコの方法を使用して耕作された農地が 163 倍に増加した後、食糧生産は実際には以前よりも減少した。) ソビエト連邦の同盟国もルイセンコ主義の下で苦しんだ。 中国共産党は 1950 年代後半に彼の方法を採用し、さらに大きな飢饉に耐えました。 農民は、木の皮や鳥の糞、そして時折家族の一員を食べることになりました。 少なくとも 3,000 万人が飢餓で死亡しました。

Trofim Lysenko - Wikipedia

私は最近、「ウクライナよりロシアを擁護する人だけでなく、中立の人までも「親ロ」とされてしまうこと」「反ロシア=反ワクチン(mRNAワクチン慎重派も含んで)=ファシストという構図」に対して危機感を持っていますが、それと同意見でないにせよ、理解しているアメリカ人の友人がこの記事を送ってくる―彼がコミュニスト嫌いのせいか、それとも「将来の食糧不足のために、今までの農業では死者がでる。なので、遺伝子工学を使って農業改革をしていくべき」なのか。

まあ、彼の意図はわかりませんが、現在のオランダのような農業改革に反対の私でも、こういう見方もできると知ることは必要だな、と思いました。

トロフィム・リフセンコをスターリンも、そしてフルシチョフを重用してきた背景はそのうち調べようかと思います。

とりあえず彼には記事をお礼をいいつつ、科学の主流派がいつも正しいと言えないということで、イグナーツ博士の話をし、

センメルヴェイス・イグナーツ医師が殺された時代と現代-WHOと村中璃子氏は時代錯誤 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

以下のリンクを送っておきました。

イヴァン・ミチューリン - Wikipedia

Ivan Vladimirovich Michurin - Wikipedia

ヤロビ農法 - Wikipedia

 

さて、遺伝子の話で、ダーウィンの進化論にいったので、ついでにダーウィンのウィキペディアを観たことから、新しい発見がありました。次回はそれについて書きます。

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サラトフとイサーク・ゼレンスキーとヴォルガ・ドイツ人-ロシアの"サラトフ”ドローン攻撃

2022年12月07日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

ウクライナ無人機攻撃で露本土被害、プーチン政権に衝撃…「防空網に不備」批判も(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース

ロシアの首都モスクワの南東約200キロ・メートルに位置するリャザン州と、南部サラトフ州の飛行場が、ウクライナの無人機(ドローン)によるとみられる攻撃を受けたことは、プーチン政権に大きな衝撃を与えた。露軍は5日、報復としてウクライナのエネルギー施設などにミサイル攻撃を展開したが、露国内では防空網の不備への批判も出ている。

 これまでウクライナ軍による露領内への越境攻撃は、国境付近や港湾などにとどまっていた。露西部カルーガ州の軍用飛行場で10月7日、無人機の墜落が伝えられたが、ウクライナの関与はわかっていない。

 今回の攻撃について、ウクライナ政府の公式な発表はないが、米政策研究機関「戦争研究所」は5日、両軍用飛行場への攻撃について「ウクライナ軍による攻撃だった可能性が高い」との見方を示した。

 ウクライナ政府高官は5日、米紙ニューヨーク・タイムズに、無人機はウクライナ領内から離陸し、ロシアに潜入した特殊部隊の協力も得たと語った。

 攻撃を受けたリャザン州のジャーギレボ軍用飛行場はウクライナの最前線から約500キロ・メートル離れ、サラトフ州のエンゲルス軍用飛行場は最前線から約700キロ・メートルの距離がある。

(後略)

 

11月29日からイサーク・ゼレンスキー→サラトフ→(エンゲリス(フリードリッヒ・エンゲルスの名より))→ヴォルガ・ドイツ人・・・と記事を書いてきましたが、サラトフ飛行場が攻撃を受けました。

イサーク・ゼレンスキー-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

イサーク・ゼレンスキー-2(サラトフとヴォルガ・ドイツ人とエンゲルスと…) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロシア語を話すドイツ人(ヴォルガ・ドイツ人) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ヴォルガ・ドイツ人とエカテリーナ2世とジョン・ジュリアス・アンガースタイン - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ジョン・ジュリアス・アンガースタインの娘婿ニコライ・アレクサンドルヴィッチ・サブルコフ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

グローバリゼーションとドイツ-1(ロシア) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

グローバリゼーションとドイツ-2(中国) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

グローバリゼーションとドイツ-3(ラーテナウとラパッロ条約) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

グローバリゼーションとドイツ-4(ロシアとイエズス会) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

昨日海外の友人との話の中で、イサーク・ゼレンスキーとサラトフの英文ウイキペディアのリンクを送りました。

Isaak Zelensky - Wikipedia

Saratov - Wikipedia

List of people from Saratov - Wikipedia

 

仮置き:

オレンブルク - Wikipedia

ユーリイ・ガガーリン - Wikipedia

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グローバリゼーションとドイツ-4(ロシアとイエズス会)

2022年12月07日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

ロシアの極東進出は、ピュートル1世の時代かららしいです。

ネルチンスク条約 (y-history.net)

1689年、ロシアのピョートル1世と清の康煕帝の間で締結された国境協定。清朝にとって最初の国際条約であり、シベリアに深く入り込んだ大幅に有利な内容であった。

 17世紀後半、ロシアのピョートル1世(大帝)は、シベリアへの進出を積極的に進め、ロシアの探検家や商人が満州地方の北辺に出没し始め、黒竜江(アムール川)流域で毛皮や金を奪う動きを示した。それに対して、清朝は、三藩の乱で北方の防備が手薄になっていたが、乱を平定した康煕帝は北方に目を向け、1685年に軍隊を送ってロシアが建設していたアルバシンの城塞を攻撃、その進出を抑えようとした。3年間の戦闘を経て、康煕帝はピョートル大帝に親書を送り国境協定を提案した。両国の代表は1689年、ネルチンスクで会談し、ネルチンスク条約として調印した。なおこの交渉で通訳に当たったのは清朝側のキリスト教宣教師であった。康煕帝は西洋人宣教師を使い、中国最初の外国との条約を締結したのだった。

(中略)

1689年の、中国が締結した最初の国際条約であるネルチンスク条約の締結にあたっては、清朝の宮廷で重く用いられていたイエズス会宣教師たちが重要な役割を果たした。ネルチンスクでの折衝では中国側全権のソンゴト(満州人)を補佐して、イエズス会士ジェルビョン(中国名張誠)とペレイラ(中国名徐日昇)が参加した。条約はラテン語、ロシア語、満州語で書かれ、正文はラテン語とされた。

(後略)

その後、
ロシアの東アジア侵出 (y-history.net)

 

この100年後弱のエカテリーナ2世がドイツ他欧州の商人を集めてそれに対抗しようとしたのも、そんな経緯があったと思うのです。(特にイギリスの息がかかった商人、金融業者にはスパイもいたと思います。)

さて、1689年にロシアと清で締結した国境協定、中国側の通訳をしたのはイエズス会。

佐藤優氏が、2014年に書かれているものに、ガリツィアとイエズス会について書いているものがありました。
これを紹介してくださっている方のブログから転載させてもらいます。

【佐藤優】近代の矛盾が凝縮するウクライナ ~イエズス会が播いた種~ - 語られる言葉の河へ (goo.ne.jp) 

(1)ウクライナ紛争でポイントになるのは、西ウクライナのガリツィア地方だ。ここは、1945年までソ連もしくはロシア帝国の版図になったことは一度もない場所だ。古くはハプスブルク帝国、つまりオーストリア=ハンガリー帝国の支配地で、第一次世界大戦後はポーランドに属していた。歴史的に反ロシア、ウクライナ独立運動の中心で、ここの人たちはウクライナ語をしゃべる。
 同じウクライナでもロシア帝国支配下におかれた地方は、19世紀の徹底したロシア化政策によって、ウクライナ語での教育や出版が禁止され、ロシア語を話す。
 それに対してオーストリア=ハンガリー帝国は多言語主義を採用して、少数民族の言語を尊重したので、ガリツィア地方ではウクライナ語が生き残った。中心のリボフではウクライナ語の新聞、雑誌、書籍も刊行され、ガリツィア地方はウクライナ・ナショナリズムの大きな拠点になっている。

 (2)ガリツィア地方のもう一つの特徴は、周囲がみんなロシア正教なのに、ここだけカトリック信者が圧倒的に多い。
 ただし、「ユニエイト教会」という特殊なカトリック教会だ。


 宗教改革が起こったとき、ポーランドとチェコとハンガリーは、強力なプロテスタント軍によって席巻された。中世の軍隊は、基本的に傭兵ばかりだったから規律が緩く、兵は状況を見て「負けそうだ」となったら逃走して、勝ちそうな陣営に加わるというのが戦争のやり方だった。でも、プロテスタント軍は信仰に裏打ちされているから規律も厳しくて、また強かった。

 それを見たカトリックは、これは敵わんということでイエズス会を作った。イエズス会はローマ教皇直轄の軍隊なのだ。カトリックは伝統と規律の厳しさで徹底した訓練をできる組織だから、軍隊を作らせたらこれまた非常に強かった。カトリック軍は、まずポーランドでプロテスタントを蹴散らした。チェコでも蹴散らし、スロバキアに進み、ハンガリーに入ってもまだ勢いがある。それで正教の世界だったウクライナまで到達した。


 でも、ウクライナで困ったことになった。正教の連中はどんなに脅しをかけても改宗しない。それで妥協案として東と西の教会を統一したユニエイト教会を作りましょうとなったわけだ。儀式に関しては「香を焚いて〈イコン〉という聖像を拝む。その正教のやり方を続けてもらって全く問題ないです」と。カトリック教会では神父は独身をとおすけれど、正教は下級司祭の結婚を許している。これも「そのままで結構です」と。
 ただカトリックが断固譲れない点が二つあった。まず教皇が一番偉い、と認めること。そしてフィリオクェ(Filioque)という教義上の解釈を受け入れること。

 (3)キリスト教は、父・子・聖霊の三つが一体となったものを唯一の神であるとする宗教だ。しかし、この聖霊がどこから発出すると考えるか、その解釈についてカトリックと正教の間で違いがあった。カトリックは、父なる神から子なる神キリストを通して聖霊を知ることができるという解釈。これをフィリオクェという。フィリオは子で、クェはアンド(も)だから、フィリオクェとは「子からも」という意味になる。キリストは亡くなっているから、キリストの機能を果たすのは実際には教会となる。つまり聖霊を知るには教会を通す必要があり、これがカトリック教会に権力を集中させる根拠になるわけだ。
 対して正教会は、聖霊は父成る神から現れ出で、神の意思さえあれば、別に教会とは関係のない、キリスト教徒じゃない人のところへもストーンと落ちてくるかもしれないという解釈。
 教会を重視するのか、しないのかで、救済観や組織観が全部変わってくるから、カトリック側にとって、ここは絶対に譲るわけにはいかなかった。
 その結果、教義はカトリックだが、見た目は正教会という変な形の教会ができあがった。
 ロシア人はこのイエズス会のやり方を非常に汚い手口だと嫌悪していて、ロシア語では「イエズス会」っていうとペテン師とか嘘つきという意味になった。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の中にも「それはイエズス会士だ」なんてセリフが出てくる。ペテン師のやり方だという意味で、その語源がまさにこの西ウクライナにある。

□佐藤優『君たちが知っておくべきこと 未来のエリートとの対話』(新潮社、2016)の「戦争はいつ起きるのか 2014年4月5日」

 

佐藤氏によると、「戦争に勝つためにカトリックがイエズス会を作った」となっていますが、「戦争のために1540年にローマ教皇が承認」ということでしょう。

ロシア正教会の歴史 - Wikipedia

イエズス会はスペインの改宗ユダヤ人などが、1534年に作りました。

イグナチオ・デ・ロヨラ - Wikipedia

イエズス会 - Wikipedia

 

イエズス会とコンベルソ-1(イエズス会と奴隷) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

イエズス会とコンベルソ-2(ルイ=ル=グランとヴォルテール、オランダのIsaac de Pinto) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

イエズス会のドイツ人修道士が作った秘密結社イルミナティ~人智学協会 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「宗教」と「戦争」 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「クローニー資本主義」と「Bule blood(s)」 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

イエズス会の神父が作った外交学院がCSIS・参考にされたカール・ハウスホーファー(?) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

アルザスのユダヤ人ラティスボーンと「不思議のメダイ」・ユダヤとイエズス会と愛徳姉妹会 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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グローバリゼーションとドイツ-3(ラーテナウとラパッロ条約)

2022年12月05日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

17世紀ロシアに移住したドイツ人たちがロシアでコミュニティを作り、ロシア革命後の1918年ににヴォルガ自治州、1924年ヴォルガ自治共和国共和国を作ったものの、スターリンのよって翻弄されたヴォルガ・ドイツ人。

ヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国 - Wikipedia

抜粋:

沿ヴォルガ連邦管区に所属し、名目上はヴォルガ・ドイツ人の民族自治共和国として、1918年のロシア革命に乗じて、1918年10月29日にヴォルガ・ドイツ人労働コムーネに設立が宣言され[1]、他の地域の非ロシア系同様にヴォルガ地域のドイツ人を特別な地位にした[2]。その後1924年1月6日に自治共和国の状態に格上げされた[1][2]。

(中略)

ソ連においての第二次世界大戦が始まると独ソ戦は大祖国戦争と名付けられたが、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国に終幕が下ろされることになる。ソ連政府によって全てのドイツ民族が「人民の敵(英語版)」であると宣告され、ロシアの一般大衆に、ヴォルガ・ドイツ人に対する迫害や恐怖心を膨らませた。1941年8月28日にスターリンは「ヴォルガ・ドイツ人追放宣言」を公布し、ヴォルガ・ドイツ人自治共和国の解体と、全てのヴォルガ・ドイツ人をカザフ・ソビエト社会主義共和国やシベリアに強制移住することを決定した[2]。終戦後、ヴォルガ・ドイツ人は、ヴォルガ地域に帰国しないとする契約書に署名を強いられた。

1953年にスターリンが死ぬと、ヴォルガ・ドイツ人の待遇は急激に改善し、1964年に二つめの宣言が発布された。無辜の民衆を告発・弾劾したことについて政府の非を公に認め、ソ連国民に対して、ヴォルガ・ドイツ人の「経済的・文化的発展」に、あたうる限りの補助と支援を惜しまないようにと迫った。翌1965年に、「ヴォルガ・ドイツ人追放令」は公式に撤回され、無効とされた。それでもヴォルガ・ドイツ人自治共和国の再建はなされなかったのである。これはヴォルガ・ドイツ人の、ロシア文化への同化を迫る結果となった。

ソビエト連邦の崩壊後、多くのヴォルガ・ドイツ人は帰国権を楯に、ドイツに出国した[4]。このような集団移住は、ヴォルガ・ドイツ人の多くが、もはやドイツ語を分からなくなっているか、あるいは少ししか分からなくなっているという事情にもかかわらず、しばらく続いた。しかしながら1990年代後半に、ドイツ政府が、ドイツ語を少しも解さないドイツ系ロシア人の定住に手を打つと、とりわけヴォルガ方言のドイツ語でさえ分からなくなったヴォルガ・ドイツ人にとって、ドイツへの出国はいよいよ難しい問題となった。

 

1924年の自治共和国に格上げは、ユダヤ系実業家、政治家のヴァルター・ラーテナウがロシアとラッパロ条約を結んだことからでしょう。

 

ヴァルター・ラーテナウ - Wikipedia

ヴァルター・ラーテナウ(Walther Rathenau, 1867年9月29日 - 1922年6月24日)は、ドイツのユダヤ系実業家、政治家、作家。多国籍企業電機メーカーAEG会長。キリスト教へ改宗しなかった[1]。ヴァイマル共和国初期に外相を務め、ソビエト連邦とラパッロ条約を締結したが、極右テロ組織コンスルのメンバーに暗殺された。

経歴
実業家
のちにAEG(「一般電気会社」)の共同設立者となるユダヤ系実業家エミール・ラーテナウの長男として、ベルリンに生まれる。弟と妹が一人ずついる。父エミールはトーマス・エジソンの特許を取得して、AEGは電気、銀行、紡績、製紙、陶磁器、鉄工、航空、自動車、鉄道電化、軍事産業など巨大コンツェルンを築いた[1]。

1886年からシュトラスブルク大学およびベルリン大学で物理学、哲学、化学を学び、博士号を取得。1890年からはミュンヘン工科大学で機械工学を学んだ。当初彼は父親の仕事を継ぐことを嫌って芸術家、軍人、外交官への道を目指していたが、結局父親の仕事を受け継ぎ、1893年からAEG社によるビッターフェルトやラインフェルデンでの工場設立を担当した。1899年からはベルリンの商社の経営に参画、1912年に同社の社長となる。AEG社監査役として1904年以降80社もの監査役を兼ねた。

ドイツ経済界で大きな役割を演じていたことは、彼がユダヤ系ドイツ人の有力経済人からなる「友愛協会」の会員に迎えられたことからも窺える。電機業界が不況を迎えた際はカルテル戦略で乗り切る手腕を見せた。1914年に第一次世界大戦が始まり、8月に軍需物資供給組織の指導者となった。ラーテナウは世界大戦に反対であったが、プロイセン軍事省戦時原料局長に就任し、ドイツ戦時経済を整えた[1]。しかし、彼の祖国への奉仕はのち反ユダヤ主義者によって攻撃された[1]。

 

ラパッロ条約 (1922年) - Wikipedia

ラパッロ条約(ラパッロじょうやく、ドイツ語:Vertrag von Rapallo、露: Рапалльский договор)は、1922年4月16日、イタリアのラパッロにおいてブレスト=リトフスク条約と第一次世界大戦に基づく領土及び金銭に関する主張を互いに放棄した上でドイツ(ヴァイマル共和政)とソビエト・ロシア(ロシア社会主義連邦ソビエト共和国)[1]との間で成立した条約である。

両国政府は、両国間の外交関係を正常化し、「相互親善の精神により両国の経済的必要を解決するため協力する」ことにも同意した。

ラパロ条約とも表記される。

成立過程
1922年4月よりジェノヴァで開催されていたジェノア会議が成立の契機となった。この会議ではソビエト・ロシアの代表も招かれたが、帝政ロシア時代の対外債務(シベリア鉄道の建設など)の返済をめぐってフランス代表と意見が衝突し、この会議を通じたソビエト・ロシアへの国際的な承認も得られることはなかった。この会談の際、ともにヴェルサイユ体制から除外されていたドイツとソビエト・ロシアの代表による秘密交渉が行われ、ソビエト外務人民委員ゲオルギー・チチェーリンとその交渉相手であったドイツ外務大臣ヴァルター・ラーテナウによって4月16日にラパッロ条約が調印された。

条約の発展
ソビエト・ロシアの支配下にあるか、あるいはソビエト・ロシアが強い影響力を持つウクライナ共和国、白ロシア共和国、ザカフカース連邦共和国を構成するグルジア共和国、アゼルバイジャン共和国、アルメニア共和国及び極東共和国の各ソビエト共和国に対するドイツの関係を認めるため、ラパッロ条約を拡大する補足条約が11月5日にベルリンで調印された。

また、ソビエト領内でのドイツ軍の軍事訓練を認める秘密の付属条項が7月29日に調印されたが、これはヴェルサイユ条約の条項に違反することであった。秘密軍事協定は1923年に結ばれたとする主張もある[2]。

影響
この条約は第一次世界大戦とロシア革命(十月革命)から続いていた両国の外交的孤立を終らせた。 両国ともヴェルサイユ条約のためにかなりの領域と政治的影響力を失ったことから[3]、ラパッロ条約は西側に対して反ヴェルサイユ連合を形成することを意図していた。西側には両国政府の国際的な立場を強化するものとして不安なことと受取られた。

ワイマール連合(Weimar Coalition)の一員であるドイツ社会民主党がローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの殺害を含めたドイツ共産党への残忍な抑圧に関与し続けていたにも関わらず、社会主義国との良い関係を交渉し、維持するというドイツ政府の決定はワイマール共和国の多くの保守と極右のグループにとっても警戒すべきことであった。

ソビエトの地位が強化されたことはポーランド、バルト三国およびフィンランドの懸念となった。その対処として、防衛と外交で協力を強化する提案がなされたが、議会の反対に遭い失敗している。

この独ソ両国の連携は、1933年にドイツで反共産主義を掲げるアドルフ・ヒトラー政権が成立するまで続いた。なお、ベルリン条約で再確認されたが、独ソ間の信頼は1920年代半ばのドイツのイギリスとフランスへの再接近によって弱まった。

軍事的影響
これにより、両国は軍事面などで連携を深め、ソ連はソビエト軍の訓練をドイツで行い、ドイツは航空訓練(ヴェルサイユ条約で一切の空軍を持つことをドイツは禁止されていたため)や毒ガス実験の場などをソ連から提供された。ハンス・フォン・ゼークトやマックス・バウアー、後のドイツ国防軍を担うヴェルナー・フォン・ブロンベルク、ヴィルヘルム・カイテル、ハインツ・グデーリアン、フーゴ・シュペルレなどが当時のソ連と関係を持った。

ドイツは将校によるソ連軍将校の教育を行い、以後ドイツ人による外国軍の訓練活動をトルコやボリビアでも行い[2]、中華民国では中独合作の形となり、軍事的な面以外に経済的な面でも(兵器の輸出などで)ドイツを支える基盤となった。

 

仮置き:

欧州とユダヤ人-3(Warburg familyとAlbert Ballin) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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グローバリゼーションとドイツ-2(中国)

2022年12月04日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

グローバリゼーションとドイツ-1(ロシア) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で紹介した記事の後半を。

America in Global Context: German Entrepreneurs around the World | Immigrant Entreprenuership (immigrantentrepreneurship.org)

Google翻訳:

(前略)

1898 年には 107 のドイツ系大企業があり、中国とイギリスの王室植民地は起業家活動の有望な地域でした [42]。

上海のドイツ人の数は約 600 人でした。彼らのほとんどは貿易で働いていました。他の人々は、薬剤師、一般開業医、音楽販売業者、本販売業者、または肉屋として働くことにより、民族コミュニティにサービスを提供しました.上海にはドイツの商家が 30 軒ありました。そのうちの 17 社は、香港や中国各地に支店を持っていました。ハンブルクに 22、ロンドンに 3、ブレーメンに 3、ハノーバーとベルリンにそれぞれ 1 つずつ、合計 22 の支店または代理店を持っていた [43]。上海は、ドイツ貿易のために揚子江を開くための足がかりでした。これは、高度帝国主義時代の中国におけるドイツの半植民地的利益と結びついており、帝国は揚子江での貿易を保護し、経済活動を強化するために数隻の大砲を派遣した。漢口 (現在の武漢の一部) は、1880 年代から外国経済の浸透に開放された重要な内陸貿易センターでした。

(中略)

たとえば、上海のカイザー ヴィルヘルム シューレは、コミュニティの子孫を対象としており、「すべての子供たちに、文化的功績が他のどの民族にも匹敵する強力な祖国に属しているという誇り高い認識を植え付ける」ことを目的としていました。 [45] 香港におけるドイツの起業家の関与は、「参加型植民地主義」という言葉でよく表現されています。 1898 年には 21 の大きな商家、5 つの船舶仲買人、および 8 つの小売業者を擁していたドイツは、英国やインドよりも香港にわずかに少ない企業しか持っていませんでした。

ヨーロッパへの輸出入の約 60% はドイツ企業を通じて行われました。しかし、これらは全体像の一部にすぎず、ドイツ人は英国の企業や機関にかなりの割合で参加していました。香港商工会議所の理事 9 名のうち 2 名はドイツ人でした。王室植民地で最も重要な信用機関である香港上海銀行 (HSBC、今日では時価総額で英国最大の銀行) には 4 人のドイツ人取締役がおり、そのうちの 1 人は 1897 年に取締役を務めていました。 1906 年には、香港にある大規模な英国企業の取締役会の 3 分の 1 がドイツ人で占められていることがわかりました。

彼らはまた、砂糖、紡績、石鹸、酸、ガラス、およびその他の製品のいくつかの生産施設に投資または所有していました。彼らは香港に正式な国家権力を持っていなかったが、ドイツ人はイギリスの支配に参加し、そこから利益を得た[46]。

東南アジアおよび太平洋地域におけるドイツのビジネス活動は、これまでほとんど学術的な注目を集めてきませんでした。

(長い中略)

この世界的な概観は、米国が特異なケースではないことを示しています。これは、1900 年頃の起業家による移民のより広い枠組みに統合することができます。ドイツの実業家や商人は、世界のすべての地域に見られ、多方向のビジネスを行い、複雑な国境を越えたネットワークを確立しました。

この記事は、これらの企業のハイブリッドで国境を越えた性格により、「ドイツの起業家」という一面的なラベルを適用することが不可能であることを示しています。それらは、独自の地方経済、国家経済、さらには世界経済に統合されました。

ドイツとの関係は重要でしたが、相対的な成功を説明する唯一の要因ではありませんでした。ここでの主な議論は、起業家が成功したのは、ドイツ人として国家的な意味で行動したからではなく、国境を越えて行動し、特に移転という行為を通じて行動し、グローバル化する経済の国際市場と戦略を一致させたからである.彼らの主な目的は、前哨基地として行動することによってドイツ帝国の経済を強化することではなく (想定されたイデオロギーの構築として)、彼らの企業、国境を越えたネットワーク、および地域経済の地位を強化することでした。

しかしこれは、彼らが、ドイツと海外の民族共同体に定着した「大ドイツ帝国」のナショナリストの考えに無縁だったことを意味するものではありません。それは、これらの感情がビジネス戦略や社会的関与に明確な影響を与えなかったことを意味するだけです.

多くは、投資家、商工会議所やその他の地元機関の代表者、または後援者として、それぞれの地元産業のプロモーターとして行動しました。ロンバルディア州のミリウス家、グラスゴーのロッテンバーグ家、メキシコシティのボーカー家などがその例です。

国境を越えたアプローチは、これらの活動をドイツのグローバルな貢献主義の証拠として解釈すること、または同時代の人々が言うように、ドイツの移民を「他の人々の肥料」と見なすことの落とし穴を避けるのに役立ちます[Völkerdünger].

米国や他の場所のドイツ人は、ホスト社会へのプラスの影響を強調し、国内の物語での地位を確保することにほとんど夢中になっていました.帝国のエリートたちは、世界的な文化的および経済的優位性を仮定することによって、これを支持しました。

キャスリーン・N・コンゼンは、20世紀に至るまで歴史学に残っていたこれらの見解に対抗するために、移民奨学金が「共感的に非貢献主義者」になることを正しく求めています.[61]ドイツの起業家が工業化以前の地域と世界経済を結びつける上で何らかの役割を果たしたことは確かに真実であり、上記で示されています。しかし、彼らの主な関心事は、ドイツ帝国の栄光ではなく、グローバル化する経済のビジネスの可能性でした。

この発展は 1914 年 8 月以降、急激な縮小を経験しました。ドイツの起業家精神と海外資本は、一般的な、時には暴力的なドイツ人恐怖症や、隔離、抑留、本国送還、非植民地化などの政府の措置の影響を受けました。ドイツ経済が同等レベルのグローバル統合に到達するには、半世紀以上かかるでしょう。

 

2017年1月に、海外の友人たちに質問をしてそれについて書いた記事です。

「もしロシア革命が成功していなかったら」-歴史を学ぶ意味は-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「もしロシア革命が成功していなかったら」-歴史を学ぶ意味は-2 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

この時は、スペイン内乱云々どまりでしたが、ドイツ商人たちのことを知ってからは、「ロシア革命が起こらなければ、ロシアとドイツ商人が、ドイツから極東にかけて開発したりすることもあったのではないか」なんて考えたりするようになりました。」

船ではなく陸地から-「一帯一路はヴォルガ・ドイツ人が19世紀から目指していた」ということはないか・・・。

 

一帯一路 - Wikipedia

抜粋:

一帯一路(いったいいちろ、拼音: Yídài yílù、英語: The Belt and Road Initiative, BRI; One Belt, One Road Initiative, OBOR)とは、中華人民共和国が2017年から推進し続け、中国と中央アジア・中東・ヨーロッパ・アフリカにかけての広域経済圏の構想・計画・宣伝などの総称を指す。

習近平中国共産党中央委員会総書記が2013年9月7日、カザフスタンのナザルバエフ大学における演説で「シルクロード経済ベルト」構築を提案したことに始まり[1]、翌2014年11月10日に中国北京市で開催されたアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議で習総書記が提唱した。中国からユーラシア大陸を経由してヨーロッパにつながる陸路の「シルクロード経済ベルト」(一帯)と、中国沿岸部から東南アジア、南アジア、アラビア半島、アフリカ東岸を結ぶ海路の「21世紀海上シルクロード」(一路)の二つの地域で、インフラストラクチャー整備、貿易促進、資金の往来を促進する計画である[2][3]。

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グローバリゼーションとドイツ-1(ロシア)

2022年12月04日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

イサーク・ゼレンスキー-2(サラトフとヴォルガ・ドイツ人とエンゲルスと…) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロシア語を話すドイツ人(ヴォルガ・ドイツ人) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

からいろいろ脱線していますが、ヴォルガ・ドイツ人も含めドイツの商人たちのことを。

 

これは、ドイツ人プロテスタント移民の1720年~現在の歴史を書いてくれているウエブサイトのようです。

ここでは、19世紀から20世紀のドイツ人商人たちがグローバリゼーションの中心にいたことが書いてあります。
(このドイツ人の中にはおそらくナポレオンによって、解放、改宗したユダヤ人も多かったと思います。)

ヴォルガ・ドイツ人のロシアでの活躍も書いてあります。

この記事にでてくるアンダーラインの部分、ルードヴィッヒ・ヌープ(Ludwig Knoop)は、ウルズラ・フォン・ディア・ライエンの先祖(直系)です。

 

About | Immigrant Entrepreneurship

America in Global Context: German Entrepreneurs around the World | Immigrant Entreprenuership (immigrantentrepreneurship.org)

Google翻訳:

(前略)

1914 年までに、ドイツは工業生産の点でフランスとイギリスに取って代わりました。世界の GNP に占める割合は 8.7% に上昇しました (英国は 8.2%、フランスは 5.3%、米国は 18.9%)。同時に、賃金は他の西ヨーロッパ諸国よりも依然として低く、生産は比較的安価でした。

金本位制に基づく固定為替レートの国際システムの中で、これは輸出における競争上の優位性に貢献しました。ドイツの輸出率は、一般的に世界の輸出率よりも速く上昇しました。英国とフランスのそれぞれ 15% とは対照的に、国内工業生産のほぼ 4 分の 1 が輸出されました。

(中略)

最も注目に値するのは、ドイツの電気産業が 1913 年に世界市場の 46% を占め、世界中で使用されている事実上すべての電球がドイツ製であったことです [8]。電気および通信部門では、Siemens & Halske は、家族のつながりによって結ばれた国境を越えた活動の典型的な例を表しています。 1858 年にヴェルナー フォン シーメンスの兄弟ヴィルヘルムがロンドンに支店を設立し、10 年後に別の家族の一員であるアレクサンダーが加わりました。

ロンドン支線は、1870 年に英国とインドの間に最初の電信線を建設し、その後、米国と英国の間の電信接続 (Direct United States Cable) を拡大することでその名を馳せました。事業は拡大し、支店は独立した会社であるシーメンス ブラザーズ アンド コーポレーションに変わりました。株式会社(1881)。その後、同社は、発電機の生産に重点を置いたシーメンス ブラザーズ ダイナモ ワークス (1906 年) も追加しました。移行により、シーメンスはグローバル プレーヤーになり、会社は英国の帝国市場に即座にアクセスできるようになり、その帝国の統合に貢献し、それ自体がグローバリゼーションの原動力として機能しました。

その他の主要なシーメンス プロジェクトには、ロシア帝国の電信ネットワークとサンクトペテルブルクの路面電車システムが含まれていました。これらは、Siemens & のロシアの現地支社によって建設されました。ヴェルナーの弟カール・フォン・シーメンスが経営していたハルスケは、コーカサスの銅採掘事業とノウゴロドのガラス工場にも投資した[9]。

帝国ドイツの起業家は特に機敏でした。ドルトムント、ブレーメン、フランクフルトのビジネスマンの 72% は、海外で長期間を過ごしていました。当然のことながら、ほとんどが貿易部門で働いていた [10] 。ドイツに戻った人々は、商業的および技術的なノウハウを高め、外国語能力を高め、時間と空間を超えて存続することが多いビジネス上の連絡先を確立して帰国しました。

(中略)

ドイツの化学研究は、1840 年代以降、特にギーセンにあるユストゥス リービッヒの研究所を通じて、国際的に有名になりました。また、ドイツでの需要を上回る数の、よく訓練された卒業生を生み出しました。 「英国染料産業の父」として知られるアウグスト ヴィルヘルム ホフマンは、ベルリンに戻る前の 1845 年から 1865 年にかけて、新しく設立された王立化学大学の所長を務めました。

英国の化学産業に残った人々のうち、2 人が際立っています。Ivan Levinstein (1845-1916) と Ludwig Mond (1839-1909) です。どちらもユダヤ人であり、英国でより大きな自由を享受していたでしょう.レビンスタインはベルリンで学んだ後、1​​9 歳でイギリスに移りました。 1865 年、彼はマンチェスターの近くにアニリン製造会社を設立し、亡くなるまでに英国最大の染料メーカーに発展しました。

(中略)

ユルゲン・オスターハンメルは、19世紀のグローバリゼーションの歴史の中で、工業生産への一方的な焦点が商人の持続的な重要性を覆い隠していると正しく主張しています。

「彼らは依然として世界経済の最も重要な「インターウィーバー」[Verflechter] でした。変化する状況に適応すると同時に、これらの状況に影響を与えることによって、彼らは遠く離れた市場を結びつけ、繊維工場や綿花プランテーションなどのさまざまな生産体制をまとめ、銀行や銀行に流れ込む資本を蓄積しました。 [23]

19 世紀後半に世界貿易の価値が 10 倍に成長するにつれて (そしてドイツの貿易がさらに急速に成長するにつれて)、ドイツの商人コミュニティが世界のすべての地域で貿易の可能性を秘めた形で出現しました。ただし、2 つのグレーゾーンを指摘する必要があります。第一に、貿易と産業活動の区別はしばしば明確ではありませんでした (いずれにせよ、それは 20 世紀の経済科学によってのみ描かれました)。

(中略)

イタリアの 2 つの地域 (イタリア北部のロンバルディア州と南部のナポリ) を比較すると、これらのパターンが確認され、ネットワークの重要性が強調されるだけでなく、地域の違いについても議論されます。今日、ロンバルディア州はイタリアで最も工業化され、最も裕福な地域です。その首都ミラノは何世紀にもわたって、特に絹の貿易の中心地でしたが、付随する産業部門を生み出すことに失敗しました.

18世紀後半以降、国境を越えた起業家ネットワークは、「[ミラノで]新しい起業家文化を育み、科学的革新を受け入れ、確立された製造業者と新しい製造業者の無数のベンチャーに資金を提供し、革新的な生産プロセスを輸入し、専門労働者と経営力をもたらしました。商業雑誌を創刊 [ . . . ] そして、芸術科学奨励協会を設立しました。

(中略)

19 世紀には、イギリスでも重要な商人コミュニティが発展しました。ロンドン以外では、目的地にはマンチェスター、ブラッドフォード、リバプール、グラスゴーが含まれていました。先住民族の商人は主に海外市場に関心を持っていましたが、ドイツの家屋は大陸との成長する貿易を事実上独占していました.

そのうちの何人かは最終的にロンドン市の銀行業に移り、そこで最大級のプライベート バンクをいくつか設立しました。例には、シュレーダー家とシュパイアー家 (パリとニューヨークでも活動した)、アーネスト・カッセルとアレクサンダー・クラインワートが含まれます。ドレイク、クラインワート、 Co. は 1914 年の資本金が 400 万ポンドで、ロスチャイルド家に次ぐ市内最大の民間銀行でした。

もちろん後者は、18世紀後半のドイツ系ユダヤ人移民ネイサン・マイヤー・ロスチャイルドによって支部として設立された[38]。戦争の勃発後、ドイツが所有する資本の大規模な隔離が英国とその帝国でも発生しました。英国、イタリア、その他の地域では、ドイツのビジネスの存在感は戦前の水準に戻ることはありませんでした。

オスマン帝国では、最大のドイツ商人の植民地がイスタンブール、スマーナ、サロニキに存在していました。産業および採掘活動もありました。たとえば、北エーゲ海のタソス島では、プフォルツハイムのシュパイデル兄弟が亜鉛鉱を発見し、島全体の探査ライセンスを取得し、1905 年に採掘を開始しました。数十人のドイツ人技術者、管理者、鉱夫が島に移動しました。彼らは加工工場を建設し、電信ケーブルを敷設し、本土との定期的な輸送接続を確立しました。 1914年以前の帝国の世界政治の夢に沿って、ドイツ当局とシュパイデル兄弟は、この島をドイツが所有する準植民地領土として描いた[39]

ロシア帝国のさらに東では、ドイツの商人コミュニティは、近代を通じてサンクトペテルブルク、モスクワ、およびその他の都市中心部に遍在していました。

ナポレオン時代の後、英国の駐在員が英国の植民地により集中し始めたとき、ドイツの商人はロシアの対外貿易において支配的な勢力でした.ハインリヒ・シュリーマンは間違いなく最も顕著な例です。彼は 1846 年に会社の代表者としてロシアに来て、藍の貿易で最初の財産を築き、その後事業を多角化し、事業帝国を拡大しました。

彼はヨーロッパで最も裕福な人物の 1 人になり、1870 年代以降、古代トロイの発見に人生を捧げました。ドイツのビジネス コミュニティは民族的に内向的でした。彼らはロシア社会への統合度が低く、精巧な民族生活(クラブ、教会、レストラン、プレス)を示しました。一般に、19 世紀から 20 世紀初頭にかけてのロシアのドイツ人起業家は成功を収め、一部の個人は莫大な富を築き上げました。サンクトペテルブルクの例としては、銀行家のアレクサンダー バロン スティーグリッツ、「砂糖王」レオポルド ケーニッヒ、商家のスパイ、アンバーガー、モルウォなどがあります。モスクワの企業の中で、ルートヴィヒ・ヌープの国際的に事業を展開しているマーチャントハウスが際立っています。

サラトフ/ヴォルガと黒海のロシア南部地域では、ドイツの大量移民を背景に大企業が発展しました。これらには、農業部門向けの技術的に高度な機械の生産者が含まれていました。ヴォルガ地方では、製粉産業とサルピンカ織物 (麻と綿の混合物) の生産は、ライネッケやボレルなどのドイツ系移民企業によって支配されていました。 1880 年代以降、国際的な緊張が高まり、少数派はますます「ドイツの危険」と認識されるようになりました。次に、サンクトペテルブルクのドイツ大使は、カイザーの誕生日に居住しているドイツ人の聴衆に、「強力なライヒに属していることを誇りに思っている祖国を愛するドイツ人」と呼びかけました[40]。ロシアにおけるドイツの起業家精神の終焉を意味した。多くのドイツ人実業家はソ連を去り、ドイツや他の国に事業活動を移した[41]。

(後略)

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ジョン・ジュリアス・アンガースタインの娘婿ニコライ・アレクサンドルヴィッチ・サブルコフ

2022年12月03日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

ヴォルガ・ドイツ人とエカテリーナ2世とジョン・ジュリアス・アンガースタイン - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

からの続きです。

 

ジョン・ジュリアス・アンガースタインの娘ジュリアナは、ロシアの将軍ニコライ・サブルコフと結婚していますが、彼のロシア語版ウィキペディアから。

彼はエカテリーナ2世の息子で、(暗殺された、パーヴェル1世とその息子アレクサンドル1世について本を書いています。

Саблуков, Николай Александрович — Википедия (wikipedia.org)

ロシア語Google翻訳:

ニコライ アレクサンドロヴィッチ サブルコフ (1776-1848) - ロシア帝国軍の少将、有名な英国人、皇帝パーヴェル 1 世とその死についての「ノート」の著者

実際の枢密院議員、上院議員、国務院議員であるアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・サブルコフの長男。彼の誕生の年に、彼はプレオブラジェンスキー連隊に登録されました。彼はドイツ語、フランス語、英語を完璧に学び、優れた家庭教育を受けました。 1790年代初頭、彼は下士官から始めてライフガード騎馬連隊に入隊しましたが、すぐにN. I. サルティコフ元帥に任命されました。

1795 年から 1796 年にかけて彼は海外にいて、彼自身の言葉を借りれば、「イタリアとドイツの両方で多くの法廷に代理を務めた」。プロイセンの兵役に精通した彼は、皇帝パーヴェル1 世のこの部分の要件に迅速に対処し、その任務を正確に遂行したことで、特別な恩恵を受け、短期間でキャリアを築きました。1796 年には、彼はすでに少尉でした。 1799年 - 大佐であり、戦隊を指揮した。パーヴェル 1 世の死後まもなく、新しい上司とのトラブルにより、1801 年 9 月に少将に昇進して引退し、2 度目のヨーロッパ旅行に出かけました。

ロシアに戻り、V. Ya. チチャゴフ提督の助言を受けて、彼は再び軍務に就きましたが、すでに海軍部に所属していました。 1807 年に、彼は海軍大学の計数遠征隊の隊長に任命されました。 1809年に引退してイギリスに行き、1812年まで滞在した。 敵対行為が勃発すると、彼は兵役への入学を申請し、1812 年 8 月 8 日に軍隊に所属することを決意して兵役に就いた。

彼は、F.K. コーフ将軍の指揮下にありました。彼は多くの前衛的な出来事に参加し、クラスノイ近くの戦いで際立っていました。彼は M. I. Kutuzov によって「賞に値する」と認定され、黄金の武器と 3 度の聖ウラジミール勲章を受け取りました。

ロシアでの戦争の終わりに、彼は 1813 年 3 月 29 日に制服を着て引退しました。彼は家族の絆を利用して、イギリスからのローンの問題に関するロシア政府からの指示を実行しました(彼はイギリスの銀行家E.アンガースタインの義理の息子でした)。彼は残りの人生をサンクトペテルブルクで過ごし、イギリスにいる妻の親戚を訪ねました。

彼は 1848 年 6 月 20 日 (7 月 2 日) にコレラで亡くなり、サンクトペテルブルクの磁器工場の墓地に埋葬されました。

1930 年代、彼の遺灰はアレクサンドル ネフスキー大修道院のラザレフスキー墓地に移されました。

彼はパーヴェル1世とアレクサンダー1世の時代について非常に重要な「メモ」を英語で書き、彼らを閉じた家族の輪だけに運命づけました。それらは1865年まで印刷されませんでした(Frazer's Magazine、8月と9月)。

それらの抜粋は、Revue Moderne (c. 1866) でフランス語に翻訳され、Russian Archive (1869) でロシア語に翻訳されて印刷されました。ロシア語の全文は、1902 年に E. L. カスプロヴィチによってライプツィヒで出版されました。

家族 イギリスにいる間、1804 年 11 月 20 日、ニコライ アレクサンドロヴィッチ サブルコフは、有名な愛好家で絵画の愛好家であるエドワード アンガーシュティン (1735-1823) の娘であるイギリス人女性のミス ジュリアナ アンガーシュティン (1772-1846) と愛のために結婚しました。

後にロンドン国立美術館から遺贈された豊富な絵画コレクションを持っていました。同時代の人によると、サブルコヴァ夫人は「あまり魅力的な外見ではなく、非常に背が高く、骨が広く、優雅ではなく、声が荒く、歯が長いが、マナーは柔らかく、会話は楽しかった。サンクトペテルブルクに住んでいる彼女は、夫によると、ロシア語を学んだことはありませんでした。

このウィキペディアでは、ジョン・ジュリアス・アンガースタインは、エドワード・アンガースタインになっています。(本名の名前の方も、いくつもついているので、統一されなくても仕方がないとはいえ、わかりづらい。)

いずれにしても、この娘婿はロシア王室に非常に近かったわけです。

参考:

パーヴェル1世 (ロシア皇帝) - Wikipedia

アレクサンドル1世 (ロシア皇帝) - Wikipedia

息子-

John Angerstein (MP) - Wikipedia

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ヴォルガ・ドイツ人とエカテリーナ2世とジョン・ジュリアス・アンガースタイン

2022年12月03日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

イサーク・ゼレンスキー-2(サラトフとヴォルガ・ドイツ人とエンゲルスと…) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロシア語を話すドイツ人(ヴォルガ・ドイツ人) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

から:

ヴォルガ・ドイツ人、ドイツ人だけでなく、ヨーロッパ全土から、技術を持った移民者の誘致をエカテリーナ2世(ドイツ出身)が大々的にしたのが始まりとのこと。

History of the Germans in Russia | Welcome to the Volga German Website (volgagermans.org)

Recruitment of the Colonists | Welcome to the Volga German Website (volgagermans.org)

google翻訳:

ロシアの代表者は、エカテリーナ 2 世の 1763 年のマニフェストを新聞に掲載し、印刷されたコピーをヨーロッパ中に配布し、遠く離れた土地でのより良い生活の約束で何千人もの人々を魅了しました。 勧誘者は、ロシア政府を直接代表する者と、ロシア政府によってヴォルガ川下流に沿って独自の植民地を設立することを許可された民間の勧誘者のグループの 2 つのカテゴリーに分けられました。

ロシア政府を直接代表するために、エカテリーナは国会議事堂(現時点では王国の国会または議会)のロシア大使であるヨハン・マティアス・シモリンを、ロシア王室の採用活動を率いる特別委員として任命しました。シモリンの代理人は、本部がウルムにあったフリードリヒ・マイクスナーと、1765 年 10 月に最初はフランクフルト・アム・マインに本部を置いていたハーナウ出身のヨハン・ファシウスであった。

入植者の募集は、多くの場合、対象者の移住を望まないドイツ当局から強い反応をもたらしました。ドイツの統治者の多くは、厳しい処罰、商品の没収、および移住を検討している人の不動産売却の禁止を脅かす法律を制定しました。外交上の保護にもかかわらず、フランクフルトの当局はファシウスを街から追放し、1766 年 2 月下旬、彼はすぐにビューディンゲン市に新しい本部を設立しました。

ファシウスとロシア王室の彼の代表者は、入植者が必要なスキルを持っていることを確認し、地元当局による彼らの解放の文書を提示することを要求し、民間のリクルーターよりも採用活動においてはるかに綿密でした. ロシア政府は、移民を許可していたドイツ領土の外交関係を混乱させないように細心の注意を払う必要がありました。

サラトフ地域に到着した入植者の大半は、民間のリクルーターが率いる輸送グループの一部でした (約 56%)。これらの入植者の多くは、入植者として最初にデンマークに移住しました。

民間のリクルーターの中には 3 つの協力会社がありました。最初の会社はフランス人のル・ロイによって設立されました。ジュネーブ出身のスイス人ピクテ(。そしてドイツ人のゾンターク。彼らは、ドイツのフライドベルク (バート ナウハイムの近く) とボルンハイム (フランクフルトの近く) の町の近くで募集を行いました。 2つ目はフランス人のカノー・ド・ボールガール男爵とモンジューのオットー・フリードリッヒ少佐によって結成された。 3つ目は、独立した資金提供なしで、ジャン・ド・ボッフェ、ムニエとプレクール・ド・サンローラン、クエンティン・ベンジャマン・クーレット・ドーテルヴィヴによって結成されました。

何千人ものドイツの職人と農民がこれらの募集活動に応え、ヴォルガ川の両側に 106 のドイツの村を設立しました。したがって、彼らはヴォルガ・ドイツ人として知られています。ル・ロイとピクテは、サラトフの南のヴォルガ川に沿ってカラマン川とタルリク川の左側の支流に沿って、1,530 世帯、5,339 人からなる 25 の植民地を設立しました。 19, 1767.

LeRoy と Pictet は後に植民地の管理者になりました。 勧誘者による管理の誤りと腐敗行為により、彼らは 1788 年にロシア政府によって植民地の管理者として解任されました。その後、私的に設立された植民地はコントラの下に置かれました。コントラは、公式には外国人入植者保護のためのサラトフ事務所として知られていました。 .その時点から、コントラはすべてのヴォルガ ドイツ植民地を監視していました。

Who are the Volga Germans? | Welcome to the Volga German Website

抜粋Google翻訳:

1764 年から 1772 年にかけて、30,623 人の入植者がロシアに到着し、ロシアの草原で新しい生活を始めました。ほとんどの家族はドイツ語を話す土地から来ましたが、少数はイギリスやスカンジナビア諸国などのヨーロッパの他の地域から来ました. 移民予定者が移民契約に署名し、業務を手配するとすぐに、彼らは中心部に位置するいくつかの都市に集められ、ロシアのエージェントは彼らに一時的な居住区を見つけ、毎日の食料を与えました

 

ロシアがらみで18世紀で気になる人物がイギリスにいます。

ジョン・ジュリアス・アンガースタイン。

John Julius Angerstein - Wikipedia

彼は、英文ウィキペディアでは、

John Julius Angerstein was born in St Petersburg, Russia, in 1735. It has wrongly been suggested that he was a natural son of Empress Catherine II or of Elizabeth, Empress of Russia. Family tradition holds that his true parents were Empress Anna of Russia and the London businessman Andrew Poulett Thompson; his first position after arriving in London c. 1749[3] at the age of fifteen was in Thompson's counting-house.[1]

となっていて、「母親はエカテリーナ2世かエリザベータ女帝と言われたりするけど、アンナ女帝と父親との間の子供」となっていますが、まずエカテリーナ2世は1729年生まれなので、ジョン・J・アンガースタインの母親説はまずありません。

ただ、彼の年齢やそのハンサムな容貌と教養から考えても、愛人の多かった「エカテリーナ2世」のお気に入りになりそう・・・・1949年にイギリスに帰ってロシアに行くことはなかったのだろうか?などと想像したりします。

(なお、名字のアンガースタインは彼を取り上げた医師といわれていますし、誕生年も1732年だったり、1735年だったり、謎の人物。
ANGERSTEIN FAMILY | London Metropolitan Archives (lma.gov.uk)

エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝) - Wikipedia

(エリザヴェータ女帝の母親説はありえそう。

エリザヴェータ (ロシア皇帝) - Wikipedia

 

ロイズとジョン・ジュリアス・アンガースタイン-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロイズとジョン・ジュリアス・アンガースタイン-2(Thompson/Thomson) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロイズとジョン・ジュリアス・アンガースタイン-3(Poulett/Pawlett) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロイズとジョン・ジュリアス・アンガースタイン-4(The South Sea Company) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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ロシア語を話すドイツ人(ヴォルガ・ドイツ人)

2022年11月29日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

前回

イサーク・ゼレンスキー-2(サラトフとヴォルガ・ドイツ人とエンゲルスと…) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

を書きましたが、

以前、在住ドイツの日本人女性リスさんのブログで「ロシア語を話すドイツ人が多い」という記事を思い出しました。

ロシア語はドイツでも広く通じる - 怠惰にドイツで同居 (fc2.com)

「東欧や東ドイツ出身者は、学校でロシア語を習っていた人もいるからだろう」と思っていましたが、ロシアに住んでいたドイツ人(ユダヤ系含む)は案外いるようなんですね。

 

Volga Germans - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

ヴォルガのドイツ人は、以前の数でヴォルガ地域に戻ることはありませんでした。彼らは何十年もの間、この地域に定住することを許されていませんでした。第二次世界大戦後、多くの生存者がウラル山脈、シベリア、カザフスタン (今日のカザフスタン人口の 1.4% がドイツ人と認識されている - 約 200,000 人)、キルギス、ウズベキスタン (約 16,000 または 0.064%) に残った [2]。

戦後数十年、かつてドイツ自治共和国があった場所への再定住について話し合う人もいました。しかし、彼らの財産はすべてロシアの共産主義者によって占拠されていました。彼らはそこで新しい人口からの反対に会い、辛抱しませんでした。

1979 年 6 月の提案では、エルメンタウを首都とする、カザフスタン内の新しいドイツ自治共和国が求められました。この提案は、避難したヴォルガ・ドイツ人の生活条件に対処することを目的としていました。当時、約 936,000 人の民族ドイツ人がカザフスタンに住んでおり、共和国で 3 番目に大きな民族グループでした。

1979 年 6 月 16 日、ツェリノグラード (アスタナ) のデモ隊がこの提案に抗議しました。大多数のカザフ人の間での否定的な反応と地元のウイグル人の間での自治の要求を恐れて、与党共産党はカザフスタン内での民族的ドイツ自治の提案を破棄した. 1980 年代後半とソビエト連邦の崩壊以来、少数のドイツ人がエンゲルスに戻ってきましたが、より多くのドイツ人が恒久的にドイツに移住しました。

彼らはドイツの帰還法を利用しました。これは、ドイツ民族出身の難民または追放者である、またはそのような人の配偶者または子孫であることが証明できるすべての人に市民権を与える政策です。 1991 年のソビエト連邦の崩壊とバルト諸国の独立以来、一部のロシア系ドイツ人がカリーニングラード州 (以前は東プロイセンの一部) の地域に戻り始めました。

ヴォルゴグラード近くのロシア南部のヴォルガ・ドイツ人の旧領土にも。このテンポは、ドイツが旧ソ連からのドイツ民族への自由な帰還権の付与を停止した後に増加した.

2002 年のロシアの国勢調査の時点で、8,340 人のドイツ人 (人口の 0.87%) がカリーニングラード州に登録されていましたが、2010 年には死亡により 7,349 人に減少しました。ヴォルゴグラード州は、2010 年の国勢調査で 10,102 人のドイツ人を数えました[要出典]。しかし、第二次世界大戦前のドイツ人人口のほとんどがカリーニングラード州に残っておらず、現在の人口の大部分は最近のロシア語を話す移民です。

ドイツ政府による新たな規制により、ドイツへのドイツ人の流れは、止まることはないとしても大幅に減速し、中央アジアに残っているドイツ人は移住を続けていますが、ドイツではなくロシアに移住しています。

こちらのウィキペディアによると、やはりユダヤ系ドイツ人が多いようです。
(ドナウシュヴァーベンも改宗ユダヤ人や、ユダヤ人と結婚した人は少なくない印象があります。そもそもマイノリティだから国を出るパターンは多いと思います。)

History of Germans in Russia, Ukraine, and the Soviet Union - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

2010 年のロシアの国勢調査では、2002 年の 597,212 人から 394,138 人のドイツ人が数えられ、ドイツ人はロシアで 20 番目に大きな民族グループになりました。シベリアには約 30 万人のドイツ人が住んでいます [52]。さらに、同じ国勢調査では、ドイツ語を理解する市民が 290 万人いることがわかりました (ただし、その多くはドイツ語を学んだロシア人またはイディッシュ語を話すユダヤ人です)。

現代のロシアにおける著名な民族ドイツ人には、1991 年から 2002 年までトムスク州知事を務めたヴィクトル・クレスや、2000 年から 2007 年までロシアの経済貿易大臣を務めたヘルマン・グレフ [53] が含まれる。連邦区と 32% はヨーロッパの連邦区に住んでいました。シベリア連邦管区は 308,727 人で、最大の民族ドイツ人人口を抱えていました。

しかし、この連邦区でさえ、彼らは全人口のわずか 1.54% しか占めていませんでした。ドイツ人人口が最も多い連邦対象は、アルタイ地方 (79,502 人)、オムスク州 (76,334 人)、ノボシビルスク (47,275 人)、ケメロヴォ (35,965 人)、チェリャビンスク (28,457 人)、チュメニ (27,196 人)、スベルドロフスク (22,540 人)、クラスノダール (18,469 人) でした。

オレンブルク (18,055)、ヴォルゴグラード (17,051)、トムスク (13,444)、サラトフ (12,093)、ペルミ地方 (10,152)。ドイツへの移民はもはや一般的ではなく、一部のドイツ人はカザフスタンからロシアに移動していますが、ロシアにいるドイツ人の数は減少し続けています.

2011年、ロシアへの同胞帰還のための連邦プログラムの下で、旧ソ連共和国に住むドイツ民族がカルーガ州に含まれた[55]。 1989 年の国勢調査によると、キルギスタンに住んでいるドイツ人は 100,309 人でした。最新の国勢調査データ (1999 年) によると、キルギスタンには 21,472 人のドイツ人が住んでいました。タジキスタンのドイツ人人口は、1979 年時点で 38,853 人でした [56]。

ドイツには推定 230 万人のドイツ系ロシア人がおり、旧ソ連以外では最大のロシア語を話すコミュニティの 1 つをイスラエルのコミュニティと共に確立しています。

ドイツは現在難民を多く受け入れていますが、ナチス以前にユダヤ系を含む難民を自国から出した国だったのですね。

 

参考:

ワルド派、ユダヤ人、ドナウシュヴァーベン - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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イサーク・ゼレンスキー-2(サラトフとヴォルガ・ドイツ人とエンゲルスと…)

2022年11月29日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

イサーク・ゼレンスキーは、1890年にロシアのサラトフ県サラトフに生まれました。

サラトフとは

サラトフ - Wikipedia

サラトフ(サラートフ;ラテン文字転写の例:Saratov、ロシア語:Сарáтов IPA: [sɐˈratəf] 、ru-Saratov.ogg 発音[ヘルプ/ファイル]) は、ロシア連邦の都市。沿ヴォルガ連邦管区に含まれるサラトフ州の州都である。

ヴォルガ川有数の河港を持つほか、鉄道が通る交通の要衝で、ソ連時代以来の工業、文化、教育の中心である。人口は838,056人(2021年全ロシア国勢調査による。1989年ソ連国勢調査では 904,643人)。 概要 町の名はタタール語で「黄色い山」を意味するサル・タウ(Sary Tau)から。 1590年、ヴォルガ川の舟運の警備のために、ヴォルガ川右岸に要塞が建設された。ヴォルガ・ドイツ人の入植が進められた地域で、ドイツ人コミュニティーが存在した。

1870年に鉄道でモスクワと結ばれてから大きく発展した。 初期の社会革命党(エスエル党)が、この街を活動拠点とした。ロシア革命後は、ソ連の航空機や宇宙開発に関する生産が行われていたことで、外国人の立ち入りが制限されていた。

歴史

サラトフ市街 ヘロドトスの『歴史』第6巻にはスキタイの都市で古代ギリシア人の植民都市でもあったゲローノス(Gelonus)の名が登場する。これを、現在のサラトフ周辺にあったとする議論がロシアにはあるが、ウクライナ中部のポルタヴァ州にあったとする議論が有力である。

(中略)

サラトフは18世紀にはヴォルガの主要な河港として交通や物流の中心となる。 サラトフの聖堂 モスクワからリャザンを経てウラル地方を結ぶ鉄道は1870年にサラトフに達した。26年後の1896年にはヴォルガ川対岸にも鉄道が完成した。リャザン・ウラル鉄道が所有する鉄道連絡船は、1935年にヴォルガ川を渡る鉄道橋が開業するまでの39年間にわたり、サラトフと対岸のポクロフスク(現在のエンゲリス)の間を結び続けた。

第二次世界大戦(独ソ戦)の時期、サラトフはスターリングラード攻防戦を後方で支える拠点となった。南北方向に兵員や武器弾薬などをスターリングラード(現在のヴォルゴグラード)へ運ぶ特別列車が往復し続けた。 1991年のソビエト連邦の崩壊間での間、軍用機の製造工場などがありソ連の宇宙計画や空軍力を支えていたサラトフは、外国人の立ち入りを厳しく規制する「閉鎖都市」となっていた。

1941年以前、サラトフ対岸のポクロフスク(ドイツ語名コザッケンシュタット Kosakenstadt、1931年よりフリードリヒ・エンゲルスを記念しエンゲリスと改名)はヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国の首都であった。20世紀初頭、ヴォルガ・ドイツ人は80万人を数えた。 ヴォルガ・ドイツ人出身の科学者、産業家、音楽家などは多く、サラトフの諸大学や音楽学校の礎を築いたのも彼らであった。第二次世界大戦が起こるとヴォルガ・ドイツ人は半数以上がシベリアやカザフスタンへ強制移住させられ、

(中略)

サラトフにはロシア科学アカデミーに属する6つの研究所、その他の研究所21ヶ所、19のプロジェクト研究所、サラトフ国立大学、サラトフ国立社会経済大学、ほか多くの科学技術系の大学や研究所があり産業を支えている。 オペラ・バレエ劇場(1962年)、音楽院(1912年)、サーカス、コンサートホール、博物館、ラジーシチェフ記念美術館(1885年)、多くの高等教育機関がある。サッカークラブ「ソーコル・サラートフ」を保有する。 自動車工業、石油化学工業が盛ん。また、サラートフ航空機工場では多くの航空機が生産された。市旗・市章に描かれているチョウザメの漁業もヴォルガ川沿岸で行われている。

このサラトフという町には、ドイツ人コミュニティがありました。これは、ドナウシュバーベン(ドナウ川沿いに移住したドイツ人。ユダヤ系も含む)のヴォルガ版。

ヴォルガ・ドイツ人 - Wikipedia

 

オマケ:

サラトフ州の首都は「エンゲルス」の名から。

フリードリヒ・エンゲルス - Wikipedia

ブレーメン、マンチェスター、繊維工場・・・ひょっとしたら、ウルズラ・フォン・ディア・ライエンの祖先と知り合いだった可能性はないでしょうか。

ウルズラ・フォン・ディア・ライエンの祖先Ludwig・Knoop(ロシアのアレクサンドル2世により男爵に) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

Ludwig Knoop - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・ヌープ男爵 (1821 年 5 月 15 日、ブレーメン - 1894 年 8 月 14 日、ブレーメン) は、自由ハンザ都市ブレーメンの綿商人であり、当時最も裕福な起業家の 1 人でした。彼は 1877 年にロシアのアレクサンドル 2 世によって男爵に叙されました。

若いころ 彼は、ゲルハルト・ヌープ (1782-1862) とアンナ・レベッカ・フレリクス (1793-1878) の息子として生まれました。彼には 3 人の姉妹と 5 人の兄弟がいました。 生活 彼はブレーメンで学び、マンチェスターでブレーメン生まれの綿花輸出業者ヨハン・フレリヒスの会社De Jersey & Co.で綿花ビジネスを学びました。

彼は 1840 年に会社の代理人フランツ ホルツハウアーの助手としてモスクワに行きました。その年、彼はロシアで最初の動力駆動の綿工場を設立しました。 1842 年、技術面で有利なスタートを切るために 1775 年に課された英国の綿機械の輸出禁止が解除され、ロシアでの綿の製造が拡大することが可能になりました。

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イサーク・ゼレンスキー-1

2022年11月28日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

ウクライナのゼレンスキー大統領と血縁があるかどうかわかりませんが-

イサーク・ゼレンスキー - Wikipedia

イサーク・アブラモヴィチ・ゼレンスキー(ロシア語: Исаак Абрамович Зеленский、1890年6月22日 - 1938年3月15日)は、ロシアの革命家、ソビエト連邦の政治家。

経歴
1890年6月22日(ユリウス暦10日)[2]、ロシア帝国サラトフ県(ロシア語版)サラトフでユダヤ人の仕立屋の家庭に生まれた[3]。地元の小学校を卒業してからは印刷所の版組見習いや帽子屋[4]として働き、1906年からボリシェヴィキ党員[5]、翌1907年から党サラトフ委員会メンバーとなった[3]。

1908年春にオレンブルク県(ロシア語版)で逮捕され、同年秋から当局の監視対象となるも、翌1909年春に姿を消してアストラハンとペンザの党組織で活動[6]。ほどなくオレンブルクに戻って鉄道の党組織で活動するも[6]、1910年に再び逮捕されてサマーラへと追放された[5]。サマーラでも党組織で活動したが[6]、1912年7月に三度逮捕されてナルィム地方 (ru) へ3年の追放刑に処された[2]。翌1913年夏にナルィムから脱走するも年内にツァリーツィンで[6]逮捕され、再びナルィム地方への3年の流刑を言い渡された[2]。しかし翌1914年8月に三度脱走してサマーラに戻り、さらに12月にはモスクワに移った[6]。翌1915年にはソルモヴォ地区(ロシア語版)で健康保険基金の書記として働いていたが[3]、同年8月にまたも逮捕され、カチュグ(ロシア語版)への永久追放を言い渡された[5]。流刑先ではキレンスク郡 (ru) とヴェルホレンスク郡 (ru) で1916年末まで過ごしたが、翌1917年の二月革命直前にモスクワへ脱出した[6]。

1917年2月から10月までモスクワのバスマンヌィー地区(ロシア語版)党組織および地区ソビエトで活動し[6]、モスクワ市ソビエト幹部会メンバーともなった[3]。十月革命の際はモスクワで武装蜂起に参加[3]。11月から1918年8月までバスマンヌィー地区ソビエト議長、8月からはモスクワ市ソビエト地区議長も務める[2]。1918年から1921年4月までロシア社会主義連邦ソビエト共和国食糧人民委員部 (ru) 参議会メンバーとして[2]、農村からの暴力的な食糧徴発に関与[4]。1920年5月まで党モスクワ県委員会責任書記を務め[2]、同年には党モスクワ市委書記、翌1921年には責任書記を歴任[3]。1921年1月から4月までモスクワ市ソビエトおよびモスクワ県ソビエト執行委管理員・行政区分小委メンバーでもあった[5]。

1921年3月16日から翌1922年3月27日まで党中央委員候補となり、同年4月2日から晩年1937年10月12日まで中央委員を務めた[2]。1921年4月4日から1924年9月までは党モスクワ県委責任書記、1922年4月3日から1924年5月23日まで党中央委組織局員(英語版)候補を、1923年6月14日から翌1924年5月23日までは党中央委書記局員候補を務め、1924年6月2日から同年8月20日まで組織局員および書記局員を務めた[2]。

1924年6月12日からは中央アジア民族国家分割中央領土委メンバーを務め、11月31日から1931年1月まで党中央委中央アジア局議長および責任書記として[2]、現地の農場集団化を主導した[3]。1925年8月22日から9月7日までトルキスタン戦線 (ru) 革命軍事会議メンバーでもあった[2]。1929年から1931年まではウズベキスタン共産党中央委第一書記であった[5]。第6回(スペイン語版)および第10回(ロシア語版)から第17回(ロシア語版)までの党大会にも出席し[7]、1937年には全ロシア中央執行委(ロシア語版)および連邦中央執行委メンバーにも選出された[3]。

しかし、ツェントロソユーズ (ru) 部長を務めていた1937年8月7日に[2]「右翼トロツキスト陰謀事件」に連座して逮捕され、貿易業務のサボタージュによって人々の間に不満を広げようとしたことを「認めた」[3]。そして翌1938年3月13日に死刑判決を下され、同月15日に処刑された[5]。その後、1959年6月に連邦最高裁軍事参議会(ロシア語版)によって名誉回復(ロシア語版)が、翌7月に党籍回復がなされた[5]。

ウズベク社会主義ソビエト共和国の都市アサカは、ゼレンスキーを記念して1924年から1937年まで「ゼレンスク」と呼ばれた[8]。

前に、ガリシアの地主のロベルト・ゼレンスキー伯爵とゼレンスキー大統領は「遠くても血縁はあるのではないか?」と書きましたが、1850年生まれで「地主で伯爵」のロベルトより、イサーク・ゼレンスキーのほうが近そうな気がします。

 

ロシア語版のウィキペディアによると、イサークは2度結婚していて、2度目の妻(1900年~1960年)との間に生まれた息子はの名はウラジミール。

 

Зеленский, Исаак Абрамович — Википедия (wikipedia.org)

抜粋ロシア語Google翻訳:

最初の妻はAnna Grigoryevna Soltsです。 エンジニアである娘のエレナは、ボイラープラントの専門家である技術科学博士のナタン・ボリソビッチ・リーバーマンと結婚しました。 孫 - ボリス・ナタノビッチ・リーバーマン、経済学者、国家統計委員会の従業員、起業家[6]。 2番目の妻 - マリア・フョードロヴナ・ムラトヴァ(1900-1961)、ネベリスク地区党委員会の女性部門の責任者、その後ボルシェビキの全連合共産党の中央委員会の組織部門、および中央統制の副権限を与えられた代表者中央アジア委員会; ピーザント誌の編集者。 息子 - ウラジミール。

参考:

ゼレンスキー大統領~モンゴル・100年前の極東共和国 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

Galiciaのロベルト・ゼレンスキー伯爵-ウクライナのゼレンスキーとの関係は… - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

仮置き:

サラトフ - Wikipedia

社会革命党 - Wikipedia

アレクサンドル・ケレンスキー - Wikipedia

ヴォルガ・ドイツ人 - Wikipedia

ヴォルガ・ドイツ人自治ソヴィエト社会主義共和国 - Wikipedia

 

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ロシア・ウクライナと"習わなかった"歴史・「赤軍」「白軍」そして「緑軍」

2022年11月16日 | ヴォルガドイツ人~ロシア

着弾ミサイルは露製とポーランド - Yahoo!ニュース

【AFP=時事】ポーランド外務省は15日発表した声明で、ウクライナとの国境に近い東部プシェボドゥフ (Przewodow)に同日午後3時40分、ロシア製ミサイル1発が着弾し、2人が死亡したことを確認した。

(後略)

ポーランドはNATO加盟国。

軍需産業界(西側も東側も)が喜びますね。もちろんNATO入りが承認されないウクライナも。戦場となる国の国民の苦しみに興味を持たない人たちにとっては、戦争もゲーム。

インターネットがなかったころは、専門的に勉強をするのでなければ、欧米から見た歴史しかおそわりません。

インターネットでも「ソ連、ロシア側からの歴史」を観ることは難しいのですが、それでもWikipedia(必ずしも正しいことばかりではないので、読むのに注意は必要ですが、英語、フランス語以外の言葉のバージョンと比べながら読むとよいと思います。)

をしりとりのように拾っていったり、Youtubeの歴史や人物をひろっていくとそれに近いことはわかります。

昔、フィンランドに「東郷ビール」があったと聞いて、フィンランドが日本に親日感情を持つ理由がよくわかりませんでした。

(東郷ビールについては誤解があったようです。

Suomen kieli - フィンランド語・「東郷ビール」という伝説 (mikeneko.jp)

抜粋:

最近は少なくなりましたが,以前から,いろいろな書物・記事に「フィンランドには,日本の東郷提督を記念した『東郷ビール』がある」という話が出ています.たとえば,もう大分前ですが,雑誌「SAPIO」1996年11月27日号に,「世界の移住最適都市ベスト13」という記事があり,第6位にヘルシンキが上がっていました.その中に,つぎのような記述が出ていました.

フィンランド人の対日感情はかなりいい.バルト海で睨みを利かせていたロシアのバルチック艦隊を日露戦争時に日本海海戦で打ち破り,これが結果的に1917年のフィンランド独立に貢献したことから「独立運動の恩人」として東郷平八郎元帥が慕われ,その顔をラベルに印刷した「トーゴービール」が今でも販売されているというほどである.

 

日本で放送が打ち切りになったドラマやアニメ。

『はいからさんが通る』と『野望の国』の打ち切り、昔も今も(2013年12月12日の記事再アップ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

おそらく、歴史で習ったことがないので、うまく線で繋がらないことがありましたが、少なくとも19世紀後半から20世紀中ごろの歴史は、この「歴史の知識で空白となっていること」を埋めると、見方は変わってくるのではないか、と思います。

 

こちら、ジオヒストリー日本語版なので、完全にロシア・東欧からの歴史というわけではないと思いますが、ご参考まで。

ソビエト連邦の歴史 - YouTube

第一次世界大戦 - YouTube

 

現在のロシア、プーチンは、「赤軍(コミュニスト)」ではなくむしろ「白軍」の立場におこうんですが、西側にとってロシアは「コミュニスト」国。

もちろん、もともと「赤」「白」で分けられないので、現代はもっと曖昧です・・・なんて思っているところで「緑軍」というものがあったことを知ることができました。

緑軍 - Wikipedia

緑軍(ロシア語:Зелёная армия[1])は、ロシア革命後のロシア内戦の時期に旧ロシア帝国領内外で活動した、農民やコサックを中心とした非正規の軍事組織の通称である。緑の蜂起軍(зелёные повста́нцы)、緑のパルチザン(зелёные партиза́ны)、緑色運動(Зелёное движе́ние)[2]、第三勢力(тре́тья си́ла)とも呼ばれる。

反ボリシェヴィキ、反白軍を基本としたが、その中でも親赤軍派は赤緑(красно-зелёные)[3][4]、親白軍派は白緑(бело-зелёные)[5]と呼ばれた。なお、広義には主要勢力である赤軍と白軍に所属しない第三勢力のことを緑と呼ぶこともある。

概要
名称の由来は、緑軍の多くが農村やその周辺の森林地帯を活動拠点としていたためと言われる。旧ロシア帝国領各地では、その土地の文化と強く結びついた緑軍の活動が十月革命以降活発に見られるようになった。


マフノ派の兵士たち

ウクライナでは、ネストル・マフノに指導された農民アナキスト派のウクライナ革命蜂起軍(黒軍)による「マフノ運動」が、1918年から1921年にかけて南部を中心に隆盛した。彼らは農村部に大きな影響力を持ち、中央政府であるウクライナ人民共和国、ウクライナ国、オーストリア=ハンガリー帝国、白軍、ソビエト政府に反対する運動を展開した。

ウクライナで特徴的なのはウクライナ・コサックの伝統からの影響で、多くの非正規軍の指導者がコサックの長官である「オタマーン / アタマーン」の称号を名乗った。彼らを、蜂起オタマーン(ウクライナ語:повстанський отаман)と呼ぶ。その代表格は「オタマーン・フルィホールイェウ / アタマーン・グリゴリエフ」の名で知れられているニキフォー・グリゴリエフ(英語版)。「オタマーン・ゼレーヌィイ(緑)」こと、ダヌィーロ・テルプィーロ(英語版)など、彼らは元はウクライナ人民共和国軍の指揮官であったが、その後反共和国の蜂起オタマーンとなり、赤軍に対する蜂起を指導し、最後はデニーキン軍やマフノ軍に敗れて落命した。

緑軍の活動は、コサックや農民が人口の大多数を占めた黒海沿岸のカフカースやクバーニ、クリミア半島でも展開された。

ロシアにおける最大の緑色蜂起は、1918年から1921年に隆盛したタンボフ蜂起である。ロシア帝国軍の将校であったピョートル・トクマコーフや社会革命党員のアレクサンドル・アントーノフに指導された農民蜂起は、タンボフの町を占拠し、白軍司令官コンスタンチン・マーモントフ将軍からの支援を受けつつ、民主制を政治形態に採用し、創立議会の召集を支持して1920年まで影響力を保持した。しかし、白軍がクリミアから国外へ亡命すると急速に力を失い、赤軍に撃破され指導者は戦死または処刑された。


ボリス・サヴィンコフ


自発的でない、戦局のために企図された緑軍蜂起もあった。ポーランド・ソビエト戦争においてスタニスラウ・ブラーク=バラホーヴィチ将軍と社会革命党員ボリス・サヴィンコフが指導したベラルーシにおける農民蜂起である。1920年10月15日、ポーランド下院議会は赤軍との戦闘に加わっていたポーランド内の同盟軍をすべて11月2日までに武装解除することを決定したが、そのためポーランド軍の支援を受けていた有力な白軍の司令官ブラーク=バラホーヴィチは早急に事態を打開する必要に迫られた。ブラーク=バラホーヴィチと彼を輔佐していたサヴィンコフは赤軍に占拠されていたベラルーシにて農民蜂起を起こし、赤軍を放逐する計画を立てた。バラホーヴィチ軍は11月上旬に各地で赤軍を撃破しマズィールなどを占拠したが、ベラルーシ人民共和国の独立が真剣に考えられていなかったことから支持が得られず、11月18日には赤軍の攻撃でマズィールを放棄、最終的にポーランド国内へ撤退したところで抑留され、武装解除された。バラホーヴィチはベラルーシ系ポーランド人のシュラフタ出身であったが、第一次世界大戦中にアタマーン・プーニンの部隊に所属していたことから、自身もアタマーンを名乗っていた。

(抜粋)

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