Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

ナチスに協力したフランスのGroupe Collaboration-番外編(第二次世界大戦とSynarchism)

2023年07月31日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

ナチスドイツとファシストよりのユダヤ人を含む実業家、活動家から王族、政治家がいました。

ロレアル社創業者と娘婿とファシストグループ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロレアル創業者はじめファシストグループCagouleのメンバーを容認したフランス - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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「アニエッリ家・フィリッポ・ナルディ」のブログ記事一覧-Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

ナチスでも、ゲーリングは自分が処刑されるとは思っていなかったようでしたが、それも不思議。

ナチスドイツとホロコースト-10(ヘルマン・ゲーリングスパイ説) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ついでにいえば、不可解なカティンの森事件。(フランスのGroupe Collaborationのメンバーがこの地を訪れているのはなぜでしょうか・・)

ポーランドの『カティンの森』被害者は元シュラフタの家出身者が大半 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

そのほか疑問が残る繋がり。

ポーランド亡命政府とタデウシュ・ロメルとアンジェイ・ロメル - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

20世紀のポーランド-ビルダーバーグ~ウルズラ・フォン・ディア・ライエン~ヨハネ・パウロ2世 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

世界連邦運動とハンガリー-1(Sigmund Sternberg、ブダペストクラブ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ミッテラン元大統領-極右から左派、植民地主義者 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ポール・アンリ・スパーク~ロバート・ロスチャイルド - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

この「不思議」を解くカギが、「シナーキズム」?

「ディープ・ステイト」という言葉は、トランプ大統領以来よく出てくるようになりましたが、第二次世界大戦のころに既に信じられていたのでしょうか。

このウィキペディアができたのは、2004年。専門家は「影の軍団」を否定してますが、少なくともナチスは一部の西側の有力者と取引していたようではあります。

Synarchism - Wikipedia

Google翻訳:

シナーキズムは一般に「共同統治」または「調和のとれた統治」を意味します。 この一般的な定義を超えて、シナーシズムとシナーキーはどちらも、ヴィシー フランス、イタリア、中国、香港では秘密エリートによる支配を指すのに使用され、またメキシコでは親カトリック神権政治運動を表すのに使用されています[1]。

起源

シナーキーという用語の最も古い記録上の使用は、英国の聖職者トーマス・スタックハウス (1677 ~ 1752 年) によるものとされており、彼は著書『世界の始まりからキリスト教の確立までの新しい聖書の歴史』 (2 冊のフォリオで出版) の中でこの言葉を使用しました。 1737 年の巻)。

この帰属は、Webster's Dictionary (アメリカ英語辞典、1828 年にノア ウェブスターによって発行) に記載されています。 ウェブスターの共鳴関係の定義は完全に「共同統治または主権」に限定されています。 この言葉は、「とともに」または「一緒に」を意味するギリシャ語の語幹 syn と、「規則」を意味する Archy に由来しています。 シナーキーという言葉の初期の最も実質的な使用は、アレクサンドル・サン=イヴ・ダルヴェイドル(1842年 - 1909年)の著作に由来しており、彼は著書『ラ・フランス・ヴライ』の中で、理想的な政府形態であると信じていたものを説明するためにこの用語を使用した。 

アナキストのイデオロギーや運動の出現に反応して、サン=ティーヴは調和のとれた社会につながると信じた政治公式を練り上げた。 彼は社会階級間の協力による社会の分化と階層を擁護し、社会グループと経済グループ間の対立、つまりアナーキーではなくシンナーキーを乗り越えました。 具体的には、サン・ティーヴは、学術、司法、商業の3つの評議会から構成されるコーポラティスト政府を備えた連邦ヨーロッパ(および統合されたすべての州)を構想した。

秘密エリートによる支配

シナーキーという言葉は、特にフランス語とスペイン語を話す人の間で、影の政府またはディープステートを表すために使用されます。これは、エリートが存在する、またはエリートが知られる寡頭制とは対照的に、事実上政治権力が秘密のエリートに委ねられている政府形態です。

 ヴィシーフランスにて 元OSS職員ウィリアム・ランガーによれば、戦前からフランスの一部の産業界や銀行利権はナチス・ドイツに目を向け、ヒトラーを共産主義からのヨーロッパの救世主として期待していたという。 この理論は、1941 年 5 月 15 日に元グループ X-Crise のメンバーであるジャン・クトロの死 (1941 年 5 月 19 日) を受けて Pacte Synarchique と呼ばれる文書が発見されたことに端を発していると言われています。

この文書によると、 帝国は議会制を廃止し、共和制に置き換えることを目的として 1922 年に設立されました。 これにより、極右組織であるラ・カグールはフランスのシナキズムの武装部門であり、ヴィシー政権の一部の重要なメンバーはシナキストであるという信念が生まれた。 ヴィシー政府は調査を命じ、これによりラポール・シャヴァンが引き起こされたが、Movement Synarchiste d'Empire の存在を示す証拠は見つからなかった。

推定されるシナキストのほとんどは、Banque Worms または Groupe X-Crise と関係がありました。 彼らはフランソワ・ダルラン提督(ヴィシー首相、1941年から1942年)に近かったため、共同主義者らがヴォルムス銀行の利益のためにフランスの軍事的敗北を画策したという考えにつながった。

この信念体系は、「3つの異なる活動家グループの歴史を織り交ぜ、存在しないところに彼らの間に陰謀を作り出した偏執的な想像力の所業」として却下されてきた。 ほとんどの歴史家は、協定シナーキークは一部のフランスの協力者によって作成されたでっちあげであると断言している。

ナチス・ドイツはダーランと彼のヴィシー技術者らを弱体化させた。共和関係が存在したという考えを擁護しているのは極左の歴史家アニー・ラクロワ=リズだけである。

リンドン・ラルーシュ

ラルーシュ運動の指導者であるリンドン・ラルーシュは、アレクサンドル・サン=イヴ・ダルヴェイドルとマルティニスト教団から始まり、その後、共和主義者であったとされる重要な個人、組織、運動、政権が続く、広範囲にわたる歴史的現象について説明しています。

ナチスドイツ政府

彼は、大恐慌の間、世界秩序を維持し、国際債務の否認を防ぐために、金融機関、原材料カルテル、情報工作員の国際連合がヨーロッパ全土にファシスト政権を設置した(そしてメキシコでもそうしようとした)と主張している。 ラルーシュは、元米国副大統領で元PNACメンバーのディック・チェイニーを現代の「共和主義者」と特定し、「共和主義者」は「民間資金による国際武装勢力の足跡をたどって私設軍隊によって各国の正規軍に代わる計画を持っている」と主張している。 -親衛隊のような計画、米国財務省による数十億ドルの資金提供など、チェイニーのハリバートン一味の主要金融機関によって配備された部隊である。

(後略)

 

フランス語版がより詳しいです。

Synarchie — Wikipédia (wikipedia.org)

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ナチスに協力したフランスのGroupe Collaboration-3(Jacques Gabriel Benoist-Méchin)

2023年07月31日 | ナチスドイツとホロコースト・ホロコースト産業

フランスのナチス協力者は戦後、死刑になった人が多いですが、需要な人物で助かった人がいます。その一人は、前回の記事に書いたブリノン夫婦の友人。

とりあえず彼のフランス語版ウィキペディアの訳を貼り付けます。

 

Jacques Benoist-Méchin — Wikipédia (wikipedia.org)

フランス語google翻訳:

ジャック・ガブリエル・ポール・ミシェル・ブノワ=メシャン(Jacques Gabriel Paul Michel Benoist-Méchin、1901年7月1日にパリ17区で生まれ、1983年2月24日に同市で亡くなった)は、フランスの知識人、ジャーナリスト、歴史家、音楽学者、政治家である。 占領下の協力者であった彼は、1947年に死刑判決を受けたが、その後恩赦された。 彼はナチス権力とともに「新しいヨーロッパ」の創設に尽力し、ヴィシー政権内では極めて協力的な人物とみなされていた。 彼は歴史家としての多作な業績、歴史の大きな動きの予測、そしてアラブ世界についての知識で知られています。 戦間期には『ドイツ軍史』を出版し、戦後は『歴史における最長の夢』と題された一連の主要な伝記を出版した。

ジャック・ブノワ=メシャンは、文化的でブルジョワ的な環境に生まれました。 彼は、ブノワ=メシャン男爵として知られるスタニスラス・ルシアン・アルフレッド・ガブリエル・ブノワとマリー・ルイーズ・ポーリーヌ・ガテルの2度目の結婚で生まれた2人目の子供(1人目は死産)である。

(中略)

国際問題に特に敏感なジャーナリストである彼は、1925 年から 1927 年までニューヨークに行き、報道界の王ランドルフ・ハーストのアメリカの情報機関インターナショナル・ニュース・サービスで働いていました。 その後、ルイーズ・ワイスの『ニュー・ヨーロッパ』に取り組みました。 彼女は後に彼を一蹴し、彼が彼の成り上がりを辿る伝記を捧げたヒトラーへの賞賛を非難した。 その後、レオン・ベイルビーによってラントランジアンの書記長に就任した。 彼はドイツ語と英語を完璧に操ることができるため、数多くの作品を翻訳することができます。 ジャック・ブノワ=メシャンは、ヒトラーとナチズムに公然と好意的な意見を示した。

彼はヒトラーの中にヨーロッパの再生者、つまりかつて支配していたヨーロッパの連邦者を見ている。 平和主義者であり、ドイツとの接近を支持していた彼は、特にフランス・ドイツ委員会の一員であったフランスにおけるヒトラーの部下であるオットー・アベッツと知り合いになった。 彼はガブリエル・ル・ロワ・ラデュリがドリオを中心に集めたチームに熱中し、1936年にフランス人民党(PPF)に入党した。 1939年、彼は『我が闘争』からのコメントを抜粋した本『我が闘争の解明』を出版したが、その中でヒトラーは「政治家の現実主義で夢を実現しようと決意した先見の明のある人物」であると主張し、フランスに対して最も激しく敵対的な文章を避けた。他人を偽装し、ヒトラーはフランスそのものに対してではなく、フランスに対するユダヤ人の支配に対して反対していたと強調する6。

1940 年の敗戦後、二等兵として動員されていたジャック・ブノワ・メシャンは捕虜となり、ヴォーヴ 7 収容所に閉じ込められました。 ドイツ語が堪能だったため、彼はすぐにドイツ軍から通訳の任務を割り当てられ、まだ捕虜であったにもかかわらず、8月にベルリンの捕虜代表団の団長にフランス人支援の責任者であるジョルジュ・スカピーニに任命された。ドイツで拘束された囚人。 協力への関与を正当化するために、彼は次のように宣言しています。 私は彼と一緒にいることを選びます。 » 彼は 1941 年 2 月 25 日に評議会副議長兼事務次長に任命されました。 1941年5月、ダーラン政府の信頼を失墜させることを目的としたシナジーに関するペタンに提出された報告書に彼の名前が登場する。

1941年5月11日、ベルヒテスガーデンでヒトラーと会談するダーラン提督に同行する。 1941年6月9日、彼は仏独関係を担当する評議会副議長国務長官に任命された。 同月、彼はアンカラでデンツ将軍の軍隊がイギリス軍と自由フランス軍と敵対しているシリアに援軍を送る能力をトルコから獲得しようとする任務を担当した。 7月、彼はインドシナに関する日仏協定(ダーラン・カトー協定)の策定において決定的な役割を果たした。 ヴォルムズ銀行の有能な弁護士であった彼は、フランスを「新ヨーロッパ」の指導者と結びつけようとするヴィシー政権に参加する超協調的なテクノクラートの影響力のあるグループの一員であった。 1942年1月、彼はアベッツ経由でヒトラーからペタンに軍事同盟を提案するメッセージを受け取った。 彼はピエール・ラヴァルの政権復帰のためにヴィクトル・アッリーギと行動を共にしたようだ。 彼はトリコロール軍団の創設に賛成しているが、ドイツ人は拒否している。 ジャック・ブノワ=メシャンは、ドイツにおけるフランス人労働者のための組織の創設を推進し、ガストン・ブルネトンがその長に1942年4月6日に任命され、ドイツのフランス人労働者、ボランティア、あるいは強制的に義務づけられたフランス人労働者との社会活動を担当した。労働サービス。 ラヴァルは、ドイツ側との交渉の際にブノワ=メシャンが邪魔になることに嫌気がさし、また彼の無謀な入札に当惑し、ラ・ルレーヴをめぐる意見の相違があった1942年9月26日にその職を廃止した。 ラヴァルはまた、プラトン提督を自分の代わりに据えようとしていたと非難している8.9。 連合国軍の北アフリカ上陸(トーチ作戦)後、1942年11月16日、ル・プティ・パリジャンは、ドイツとの宣戦布告とドイツ憲法に対する侵略者との戦いを呼びかけるブノワ=メシャンの宣言を発表した。 「戦争、革命、治安」を合言葉にした超協調主義者の政府、マルセル・デアがジャン・ルチェアーと彼自身とともにアベッツに行くという提案。

彼は協力、特にトリコロール軍団の創設(最終的にはドイツ人によって拒否された)における役割により、1944年9月にフレーヌで逮捕され投獄された。 彼の裁判は1947年5月9日から高等裁判所で行われた。 6回の公聴会の後、国外追放に関与したことはなく、敵との戦術的・戦略的協力の役割について判断され、6月6日にブノワ=メシャンに死刑と終身国家堕落の判決が下された

彼は 7 月 30 日にヴァンサン・オリオル大統領によって恩赦され、8 月 6 日には死刑判決が無期強制労働に減刑され 、その後 20 年に減刑された 。 彼は 1953 年 9 月 24 日の赦免と、1953 年 12 月 9 日付けの法務大臣の命令による条件付き釈放の恩恵を受けました

自由の身となった彼はジャーナリストとなり、捕虜の間に書き始めたムスタファ・ケマル・アタテュルクやアラビア王イブン・サウードなどの歴史的人物の伝記を数多く執筆した。 この作品はアラビア国王とパリ・マッチ紙の注目を集め、同紙は彼のために数カ月の中東ツアーに資金を提供し、そこから彼はナセルなど当時の主要選手とのインタビュー集を携えて帰国した。イラク国王やシリア首相。 ジャック・ブノワ=メシャンはその後、アラブ世界の歴史と時事問題の専門家となり、その著書は今でも参考にされています。

 

メシャンがなぜ釈放されたのかと思って調べていたら

Synarchism - Wikipedia

なるものにたどりつきました。

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ナチスに協力したフランスのGroupe Collaboration-2(設立者Fernand de Brinonとユダヤ人妻)

2023年07月31日 | ナチスドイツとホロコースト・ホロコースト産業

Groupe Collaborationを設立したのは、Fernand de Brinon侯爵。

彼は戦後フランスで銃殺刑になりましたが、彼のユダヤ人の妻(カトリックに改宗)は釈放されました。

Fernand de Brinon - Wikipedia

Google翻訳:

フェルナン・ド・ブリノン侯爵(フランス語発音: [feʁnɑ̃ də bʁinɔ̃] 、1885年8月26日 - 1947年4月15日)は、フランスの弁護士およびジャーナリストであり、第二次世界大戦中のフランスとナチスの協力の立役者の一人であった。 彼は1933年から1937年の間にアドルフ・ヒトラーと5回個人的に会談したと主張した[1]。 ブリノンは協調主義者のヴィシー政権の高官であった。

1944年のフランス解放中、ヴィシー指導部の残党は亡命し、ブリノンは亡命政府の大統領に選ばれた。 戦争が終わった後、彼はフランスで戦争犯罪で裁判にかけられ、有罪判決を受けて死刑を宣告され、処刑された。 生い立ちと結婚 フェルナン・ド・ブリノンは、ジロンド県リブルヌ市の裕福な家庭に生まれ、大学で政治学と法律を学びましたが、パリでジャーナリストとして働くことを選びました。

第一次世界大戦後、彼はドイツとの友好関係を主張した。 彼はヨアヒム・フォン・リッベントロップと友人になりました。 ド・ブリノンは、クロード・ウルマンのユダヤ人の元妻、ジャンヌ・ルイーズ・レイチェル・フランクと結婚した。 彼女はローマカトリックに改宗した。[要出典]

1930年代のパリ ブリノン夫妻は1930年代のパリを代表する社交界の名手となり、政治的右翼エリートや急進派指導者エドゥアール・ダラディエの親しい友人となった。 パリにおけるリッベントロップの個人代表であるオットー・アベッツと連携して、ブリノンはフランス・ドイツ委員会の委員長を務めた。この委員会は、フランスの政治的および文化的体制に親ドイツ的な方向に影響を与えることを目的としたものであった。 これは、第二次世界大戦前、フランス政治に影響を与えようとしたナチスドイツの主なプロパガンダ手法でした。

ミュンヘン危機の際、ブリノンは二人の閣僚から得たフランス内閣の議論の記録をドイツ政府に送った。 占領されたパリ 第二次世界大戦でフランスがドイツに敗れた後、協力の主導者となったブリノンは、1940年7月に新ヴィシー政権の副首相ピエール・ラヴァルから、占領下のパリにあるドイツ最高司令部の代表として招待された。 ブリノンの席は没収されたパリのオテル・ド・ブルトゥイユ(フォッシュ通り12番地)であった。 ブリノンは、ドイツ大使オットー・アベッツとの長年の知り合いから恩恵を受けました。

1940 年 9 月には、ドイツとフランスの間でより緊密な文化的結びつきを確立することを目的としたグループ コラボレーションも設立しました。1942年、ヴィシー政権の指導者フィリップ・ペタンは彼に国務長官の称号を与えた。 ヴィシー政権の第 3 位のメンバーとして、またファシストの大義に対する熱烈な支持により、ナチスにとってブリノンの重要性は非常に高かったため、彼はユダヤ人生まれの妻のために、強制収容所への強制送還を免除する特別パスを取得することができました。

デ・ブリノンは、1943年4月にカティンの森でのポーランド人犠牲者の遺体の掘り起こしを訪問するために、反ボルシェヴィズムに対するフランス義勇兵団(LVF)の委員長としてドイツ東部戦線のドイツ最高参謀に招待された。1944年6月の連合軍のフランス侵攻に直面して、ヴィシー政権の残存勢力は1944年9月にドイツのジークマリンゲンに逃亡し、そこでドイツ人は亡命政府としてフランス国益擁護委員会を設立した。

ドイツ側は委員会の合法性を見せかけたいと考え、ド・ブリノンを委員長に、ジョゼフ・ダルナン、ジャン・ルシェール、ウジェーヌ・ブリドゥ、マルセル・デアを含む他のヴィシー関係者を委員に招集した。 逮捕と裁判 デ・ブリノンは最終的に進軍してきた連合国軍によって逮捕された。 彼と妻はともにフレネス刑務所に拘留されたが、最終的に彼女は釈放された。 ド・ブリノンは戦争犯罪の罪でフランス司法裁判所の法定裁判で裁判を受け、1947年3月6日に有罪判決を受けて死刑を宣告された。 彼は4月15日にパリ郊外モンルージュの軍要塞で銃殺刑を受けた。

(後略)

妻のウィキペディア。

Lisette de Brinon - Wikipedia

パリのユダヤ人銀行家の家族に生まれ、以前はユダヤ人銀行家クロード・ウルマンと結婚していたリゼット・ド・ブリノンは、熱心な社交家であり、左派(レオン・ブルム)や右派(ピエール・ドリュー・ラ・ロシェル)の著名人に囲まれていた。 フィリップ・ペタンの初期のスピーチの一部を書いたことで最もよく知られるエマニュエル・ベルルはいとこでした。

彼女はユダヤ教からカトリックに改宗した[1]。 彼女の二番目の夫であるフェルナン・ド・ブリノン侯爵は、アドルフ・ヒトラーとの初期のスクープ・インタビューで頭角を現したカトリックの貴族で、1940年6月にナチスの手でフランスが壊滅的な敗北を喫した後、フランス協力の立役者の一人となった。 戦争が進むにつれ、リゼットがユダヤ人であるという不都合な理由もあり、またブリノンと秘書のシモーネ・ミトルとの長期にわたる関係も原因で、夫婦は距離を置くことになった。

連合軍の解放後、ヴィシー政府が飛び地のジークマリンゲン城に亡命した際、リゼットはブリノンを追って行こうとした。 彼女は死の危険を冒してドイツに入国しましたが、城に到達することはありませんでした。 リゼットと夫は連合軍に捕らえられ、トゥールーズで裁判にかけられた。 彼女は短期間投獄されたが、夫は反逆罪で有罪となり1947年に処刑された。彼女は別の協力者、ジャック・ブノワ=メシャンの友人だった。

(後略)

 

参考:

ウルスラ・フォン・ディア・ライエン~リッベントロップー1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ウルスラ・フォン・ディア・ライエン~リッベントロップー2(息子ルドルフ・フォン・リッベントロップ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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ナチスに協力したフランスのGroupe Collaboration-1

2023年07月30日 | ナチスドイツとホロコースト・ホロコースト産業

アラン・ドロンが1976年に作った“フランスのユダヤ人迫害映画” - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

『コレクター-暴かれたナチの真実』-オランダのメンテン事件 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

『遠い日の家族』『善き人の為のソナタ』『サラの鍵』(メモ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の3本は、ナチスがらみの映画を紹介しましたが、映画と言えば、70年代には「アラン・ドロン以上にフランスで人気がある俳優」と呼ばれたジャン・ポール・ベルモンドの父親は、ナチスの協力者のグループ、Groupe Collaborationのメンバーでした。

と言っても、彼の場合は政治的ではなく、「著名な芸術家」としてメンバーになっていたのだと思いますが。

ジャン・ポール・ベルモンドの父親 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

こちらが、Groupe Collaborationの英文Wikipediaです。

Groupe Collaboration - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

Groupe Collaboration は、第二次世界大戦中に活動したフランスの協力主義者グループです。 このような多くの現代グループの街頭政治をほとんど避け、ナチス・ドイツとの密接な文化的つながりを確立し、フランスの生活の上層部にアピールすることを目指した[1]。 それは「ヨーロッパ主義」の見通しを促進し、ヨーロッパ全体の「国民革命」の一部を通じてフランスの再生を目指した[2]。

発達

このグループは、1940 年 9 月にフェルナン・ド・ブリノンによって設立されたフランス・アルマーニュ委員会を復活させたものでした。 政党としての地位を避け、代わりにドイツ人との「文化的」協力に努めた。 この目的のために、それは主に保守的なアプローチを採用し、ディスカッションサークルの主催や、La Gerbe と L'Union Francaise という 2 つの雑誌の発行などの活動に焦点を当てました。

この構想にはオットー・アベッツの支援があり[4]、少なくとも部分的にはドイツの資金によって財政的に支援された。 それは、科学、経済、文学、法律部門で支持される分野に基づいたセクションと、演劇、音楽、視覚芸術のセクションを含む芸術セクションに分かれていました[4]。

マックス・ドローネは音楽部門の会長を務め、この役割でドイツ高官のパリ訪問を祝うガラ・イベントを企画することが期待されていた。 ドイツの彫刻家でナチスの活動家でもあったアルノ・ブレーカーによるパリでの展覧会がグループの後援のもと開催され、解放後の時代に多くの物議を醸す出来事となった。

また、パリでは毎週ラジオ番組を放送した。 本部はパリにあったが、グループはヴィシー・フランスと占領地の両方で組織することが許可されていた。 1943年までに、占領地域で26,000人、ヴィシー地域で12,000人の会員を獲得し、約200,000人がその行事に参加した。メンバーの多くは、それ以外は政治運動に積極的ではなかった。

Alphonse de Chateaubriant, the 1911 Prix Goncourt winner, presided over the group, whilst its governing committee included Abel Bonnard and Cardinal Alfred-Henri-Marie Baudrillart among its membership.[3] Pierre Benoit, Georges Claude and Pierre Drieu La Rochelle were among the other prominent figures to sit on the committee,[4] along with Robert Brasillach, Jacques Chardonne[11] and Paul Belmondo.

 

仮置き:

Fernand de Brinon - Wikipedia

Lisette de Brinon - Wikipedia

Jacques Benoist-Méchin - Wikipedia

Louise Weiss - Wikipedia

アルザスのJaval家-1(欧州議会の建物) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

Alphonse de Châteaubriant — Wikipédia (wikipedia.org)

Otto Abetz - Wikipedia

Pierre Drieu La Rochelle - Wikipedia

Robert Brasillach - Wikipedia

 

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『コレクター-暴かれたナチの真実』-オランダのメンテン事件

2023年07月30日 | ナチスドイツとホロコースト・ホロコースト産業

先日の記事の抜粋から。

アラン・ドロンが1976年に作った“フランスのユダヤ人迫害映画” - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

抜粋:

MR. KLEIN (1976) | 4K Restoration | Trailer | Dir. by Joseph Losey & starring Alain Delon - YouTube

この映画製作の背景はこちらのウェブサイトがわかりやすくまとめられていると思いますが、

【解説】映画『パリの灯は遠く』ジョゼフ・ロージー監督が投影した、歴史と記憶のかすかな連鎖|CINEMORE(シネモア)

この映画について、別の方向から見て行こうと思います。

 

最初に主人公がユダヤ人から安く買いたたく絵は、オランダのエイドリアン・ファン・オスターデの絵画。

アドリアーン・ファン・オスターデ - Wikipedia

この映画に出てきた絵とは違うのですが、今年6月にこのような記事がありました。

Boston MFA Reaches Deal with Heirs Whose Painting Was Sold to Hitler – ARTnews.com

(Google翻訳)

ボストン美術館、寄贈者2名、ユダヤ人美術商ポール・グレープ氏とアーサー・ゴールドシュミット氏の相続人は、第二次世界大戦中に最終的にヒトラーの手に渡ったアドリアン・ファン・オスターデの絵画「酒場で会話する顧客」(1671年)に関して合意に達した。 2017年、この絵画の新しい所有者であるスーザンとマシュー・ウェザビー夫妻は、ボストンMFAにオランダとフランドルの絵画を贈呈することを約束し、顧客同士が居酒屋で会話していた。 同美術館の出所担当シニアキュレーター、ビクトリア・リード氏は、この絵の出所が暗い過去を暗示していることに気づいた。

この絵はもともとディーラーのポール・グレープと彼のビジネスパートナーであるアーサー・ゴールドシュミットが所有しており、彼らは1900年代初頭にパリを拠点とするギャラリー、ポール・グレープ・エ・シーで一緒に働いていました。 他のユダヤ人のギャラリーが非ユダヤ人の所有者に譲渡されて「アーリア化」されていく中、グラウプ氏の長いリストには国際的な顧客がおり、彼のビジネスが特に価値あるものとなったため、ナチス帝国文化会議所から特別に取引を続ける許可を与えられた。 しかし 1937 年に彼の特別許可は取り消され、彼とゴールドシュミットはギャラリーと作品の在庫を残してナチス占領下のフランスから逃亡しなければなりませんでした。 出発前に、彼らは『酒場で会話する顧客』をヒトラーの代理人であるカール・ハベルストックになんとか売り込み、その後ヒトラーの美術顧問兼学芸員のハンス・ポッセに売却した。 この絵は、ヒトラーが将来リンツに建設する総統博物館に展示される予定だった。

 

『パリの灯は遠く』は1976年制作で、オランダがキーワード。主人公のロベールは、非ユダヤ人のフランス人ですが、「ユダヤ人の弱みに付け込んで、ユダヤ人たちから美術品を買いたたくフランス人」でした。

実在の人物ポール・グレープ(&アーサー・ゴールドシュミットも?)はユダヤ人でしたが、1937年まではナチスの協力者でした。

そして、オランダでは、この美術商たちのようにユダヤ人たちから美術品を買い叩いていた美術商で、のちにナチスの協力どころか、ユダヤ人/ポーランド人大量殺害までした美術商がいました。

オランダのテレビ映画がありますが、

コレクター 暴かれたナチスの真実 - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ・動画配信 | Filmarks映画

映画『コレクター ―暴かれたナチスの真実―』予告編 - YouTube

こちらに描かれているピーター(ピーテル、ペーター?)・メンテンという画商がそうです。

Pieter Menten - Wikipedia

Google翻訳:

ピーテル・ニコラース・メンテン(Pieter Nicolaas Menten、1899年5月26日ロッテルダム[1] - 1987年11月14日ロースドレヒト)は、オランダの起業家、美術収集家、有罪判決を受けた戦犯である。 彼はロッテルダムの裕福な家庭で育ち、実業家として当時ポーランドの一部だったルヴフに定住しました。 1939 年にドイツがポーランドを征服した後の 1941 年に、彼は SS に入隊しました。 この間、彼はクラクフのウリツァ・グロットゲーラ12番地に住んでおり、精米所オリザのオーナー兼キュレーターでした。 当初、彼は通訳として占領者を助けましたが、すぐにポーランドでのナチスの処刑、美術品の盗難、その他の活動の対象となるユダヤ人家族の選択に参加しました。

メンテンは、1941 年に特別行動団 (EGz.b.V.) の一員として、ポーランド、ガリシア東部のポドホロジェ村とウリュチ村のユダヤ人の大量虐殺に参加しました。 彼は1941年7月7日に数十人のユダヤ人が死亡したポドホロジェでの殺人事件への共謀で有罪判決を受けた。

 1949年、メンテンは協力、美術品の窃盗、そして外国での兵役に就くことを理由に裁判を受けなければならなかった。 彼の弁護士であるラッド・コーテンホルストは、同時にKVPの国会議員であり下院議長でもあり、メンテンの告発のほとんどを免罪することができた。 メンテン氏は最終的に、公判前の拘留期間と同等の懲役8か月を言い渡された。 1950年から1952年の新聞では、(最初​​の)「メンテン事件」は主にメンテンが被害者の役割を引き受けた事件であった。 1945年に彼が公判前拘留中に、ブルーメンダールにある彼の家が国内軍によって強盗に遭い、盗まれた家には膨大な美術品のコレクションがあった。 メンテン氏はまた、「無罪証人」カール・エバーハルト・シェーンガルト氏が死刑を宣告され、すでに処刑されたとの告発など、戦争犯罪での自身の訴追の仕方を強く批判した。

メンテン氏によると、彼の広範な不動産ポートフォリオは、差し押さえられた後、オランダ経営協会によって高すぎる手数料で維持されていたという。 デ・テレグラーフ紙のジャーナリスト、ヘンク・ルンショフは、特にメンテン事件における特別司法行政の行き過ぎに対するルンショフの批判が裏付けられたと考えてメンテンを擁護した[2]。 メンテンは多額の報酬を受け取った[3]。 国会ではメンテン事件について責任ある閣僚に質問がなされたが、この事件は特に絵画の強盗に関するブルーメンダール警察による虐待疑惑に関するものだった[4]。 この後、メンテン事件は1976年まで忘れ去られることになる。

メンテンはブラリクムで贅沢に暮らし、そこで著名なオランダ人との関係を築きました。 彼のお金がどこから来たのかは明らかではないが、彼はオランダ人としては6番目に裕福な人物となるだろう。 1976 年 5 月、最終的なメンテン事件は、『De Telegraaf』誌の全面記事によって明るみに出ました[5]。そこでは、ブラリクマーが競売にかけようとしていた美術品に注目が払われました。 週刊誌「アクセント」の編集長であるジャーナリストのハンス・ヌープは、ジャーナリストのヘンリエット・ボアスから、メンテンが多くの芸術作品を1943年にガリシアから略奪美術品として列車でオランダに持ち込んでいたと密告された。

ヌープはメンテンに没頭し、この問題をニュースにすることをやめなかった。 その後、テレビ番組「TROS Aktua」も定期的にこの事件に注目し、その結果全国的な名声を得た。 1941年から1943年の間、メンテンは親衛隊大尉の階級でドイツ軍の通訳として、殺人および窃盗への協力、加担の罪を犯したと言われている。 彼は1943年に、略奪した美術品を3台の貨車でオランダに輸送させたと言われている。 この報道を受けて、検察庁はこれらの事実を理由にメンテン氏を起訴した。 ピーター・メンテン、1977年5月 1976年11月に逮捕される前日、メンテンは妻とともにスイスに逃亡し、その後12月6日にウスターのホテルで逮捕された。

(中略)

1978年12月4日、ハーグの法廷特別法廷は、メンテンは1952年の法務大臣の不起訴の約束に頼ることができたため、検察庁の訴追は認められないと宣言した。 さらに、裁判所によれば、この訴追は欧州人権条約における合理的な期間内での裁判の要件に反するものであったという。 その後、検察庁は破棄して控訴した。 最高裁判所は両方の点で地方裁判所の意見に同意しなかった。 同大臣は、メンテン氏が決して訴追されないと明示的かつ無条件に約束したわけではない。 さらに、この期間は検察庁が刑事手続きを開始する真剣な意図を持った瞬間から開始されるため、合理的な期間は超過されませんでした。 最高裁判所は再び破棄の上告を行い、事件をロッテルダム地方裁判所に付託した[9]。

1980年7月9日、メンテンはロッテルダム地方裁判所特別法廷により、戦争犯罪として敵国への奉仕としてポドホロジェでの大量処刑に参加した罪で懲役10年と罰金10万ギルダーの判決を受けた。そして人道に対する罪。[10] メンテンは公判前の拘留と刑期の3分の2を差し引いて1985年に釈放された[11]。 彼は認知症を患い、ロースドレヒトの老人ホームで88歳で亡くなった。

(後略)

 

なお、オランダのテレビ映画には、「サイモン・ヴィーゼンタール」がメンテンを擁護していたという会話があります。

それと、メンテンに礼状を贈っていたユダヤ人として「シュテグリッツ」の名が出てきますが、これはおそらくステグリッツ姓。

彼は「絵画を買いたたかれるユダヤ人」に同情する側として映っているシーンがあるので、この礼状が「メンテンに脅されて書いたもの」「メンテンと何らかの取引があって書いたもの」「偽造」の可能性が強いですが、メンテン擁護側にいたから名前が出たのでしょうか。

しかしまあ、この映画の邦題は、

『コレクター-暴かれたナチスの真実』ではなく、『コレクターー暴かれたオランダ美術商の真実』とでもすべきでしたね。

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フィンランドのエアコン・地球温暖化、ヒートアイランド解決が先では?

2023年07月29日 | 環境・エネルギー

先日書いた記事。

温暖化とエアコン室外機 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

欧州にはエアコン(クーラー)が日本のようにほぼ全家庭に使われていることはないですが、北欧フィンランドはどうなのか、と思いました。

この下のレポートによれば、フィンランドのクーラー普及率は限りなく低いよう。

フィンランドのエアコン事情|一般社団法人日本エアコンクリーニング協会 (j-aca.jp)

念のため、フィンランドの友人に尋ねてみると、

「今はエアコン(ヒーター・クーラー)を設置する家も増えているけど、小さい家ではエアコンを行かう方が安く済むから。フィンランドでは昨年でも30度を超えるのは2、3日だけど。」

という返事。

つまり、

「小さい家だと暖房費が安く済むためエアコンを購入するけど、クーラーは本当はあまり必要ない。エアコンの機能としてついているだけで、ほとんど使わない」

とのことのようです。

フィンランドの友人に、ヒートアイランドの話をしながら、

「都市部であっても、エアコンの室外機の影響もないし、そもそもエアコンがあっても人口密度も低い、その上自然豊富なフィンランドはヒートアイランドはあまり関係ないですね。

地球温暖化はやはり、CO2の問題より前に、ヒートアイランドを抑える努力が先なんじゃないかと思うんですけどね。少なくとも緑化や土の地面が必要なのに、東京都知事などが樹木伐採しようとしてるんですから、ありえません。

フィンランドと日本の条件が違っても、学ぶことが多いはずです。」

と返信しました。

Urban heat island - Wikipedia

抜粋Google翻訳:

緑地のない密集した都市生活は、都市部の顕著なヒートアイランド効果につながる(イタリア、ミラノ) 都市ヒートアイランド (UHI) は、人間の活動により、周囲の農村地域よりも著しく温暖な都市地域です。 温度差は通常、日中よりも夜間の方が大きく[1]、風が弱いときに最も顕著になります。 UHIは夏と冬に最も顕著です。 UHI 効果の主な原因は、地表の改変によるものです。

ある研究によると、ヒートアイランドはさまざまな種類の土地被覆に近接することによって影響を受ける可能性があり、不毛の土地に近接すると都市部の土地は暑くなり、植生に近接すると都市部の土地は涼しくなります。 エネルギー使用によって発生する廃熱も二次的な要因です。

人口密集地が成長するにつれて、その面積は拡大し、平均気温は上昇する傾向があります。 ヒートアイランドという用語も使われます。 この用語は、周囲よりも相対的に暑い地域を指すのに使用されますが、一般的には人為的に妨害された地域を指します。 UHI の影響もあり、都市の風下では月間降水量が多くなります。 都市中心部の熱が上昇すると、成長期が長くなり、弱い竜巻の発生が減少します。 UHI はオゾンなどの汚染物質の生成を増やすことで大気の質を低下させ、地域の河川に温かい水が流れ込んで生態系にストレスを与えるため水質も低下させます。

すべての都市に明確な都市ヒート アイランドがあるわけではなく、ヒート アイランドの特性は都市が位置する地域の背景気候に大きく依存します。都市内での影響は、地域の環境条件によって大きく異なります。 熱は、日陰の源として機能し、蒸発冷却を促進する樹木や緑地によって軽減されます。[8] その他の選択肢としては、屋根の緑化、日中の受動的放射冷却の用途、都市部でのより明るい色の表面と吸収性の低い建築材料の使用により、より多くの太陽光を反射し、より少ない熱の吸収を図ることが挙げられる。 気候変動は都市部のヒートアイランドの原因ではありませんが、より頻繁でより激しい熱波を引き起こしており、それが都市におけるヒートアイランド効果を増幅させています。コンパクトで密集した都市開発は、都市部のヒートアイランド効果を増大させる可能性があります。 、高温と曝露の増加につながります。

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『ある画家の数奇な運命』・リヒターとパフォーマンス・アートが出てきた1960年代と日本のサブカルチャー

2023年07月28日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

2018年のドイツ映画『ある画家の数奇な運命』を視聴。

映画『ある画家の数奇な運命』公式サイト (neverlookaway-movie.jp)

ある画家の数奇な運命 - Wikipedia

映画『ある画家の数奇な運命』予告編 - YouTube

 

これは、芸術、デザインについて勉強中の友人にも見てもらいたくて、メールを送りました。

「(前略)

もしまだご覧になったことがなければ、このドイツ映画を観てください。

ゲルハルト・リヒターをモデルにした理由とは? 映画『ある画家の数奇な運命』監督、フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクに聞く|美術手帖 (bijutsutecho.com)

ある画家の数奇な運命|画家リヒターが映画に激怒した理由 | IndieTokyo

私はリヒターは色を塗りたくった絵を知ってたくらいで興味がなく、普通であればスルーしてしまうのですが、儲けものでした。

ナチスの退廃芸術、戦後も東独でも同じような感じに「芸術」が管理されてきたからこそ、60年代くらいには必要以上に印象派絵画以前の絵画の価値が落ち、「絵画はもう古い!」という声や、「パフォーマンスアート」などが生まれてきたんだな・・・・などと思いながら観ました。

同時に、(映画の中の芸術論がすべてじゃないのだけど、)「『芸術』は『愛(色恋ばかりにあらず)』とと似ている。『愛』も『芸術』は管理されると色あせるし、与えるほうも、与えられる方もタイミングが合わないと全く響かない」とも。

(後略)」

友人は情報に喜んでくれました。一つの映画は情報に一つにすぎませんが、興味のない分野(リヒターにせよ、映画に出てきたパフォーマンス・アートにせよ)を知るのはとっつきやすいのが映画。

彼が、「パフォーマンスアートは自分は理解できないものの一つ。東ドイツ発祥のようなものだったのかな?」と漏らしたこともあって、再度返事を送りました。

 

「パフォーマンス・アートは、米国発祥の気がしますが、いずれにせよ、映画にもでてくるデュセルドルフの教授のモデルとなった「ヨーゼフ・ボイス(西ドイツ)」の役割は大きかったのでしょう。ついでに言えばパフォーマンス・アートは自己表現なので、「理解」は求められていないのではないかと。

芸術と愛と「管理」の話を書きましたが、ふと、クールジャパンに反対していた櫻井さんのことを思い出しました。

ポップカルチャーを世界に発信した第一人者、櫻井孝昌氏を悼む - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

2015年12月に亡くなった櫻井孝昌氏とクールジャパン - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

(後略)」

 

最後の故櫻井孝昌氏は芸術家でもないし、ジャンルもアニメやアイドルなどのポップカルチャー/サブカルチャーでしたが、おそらく心情的には1960年代のドイツの芸術家たちと似ていたような気がしました。

 

リヒターに話を戻せば、リヒターの「芸術」は高額で取引されるようになりました。

ゲルハルト・リヒターの最も高額な作品とは?オークションレコードTOP3をご紹介 - NEW ART STYLE (and-art.jp)

1960年代のドイツの芸術家たちは、どう思うのでしょうか。

1960年代はに一部とはいえ「絵画は古い(おそれく正統派)。パフォーマンス・アートだ。」という芸術家がいたのは、「拝金主義と芸術を切り離そう」という人たちがいたからだと思うのです。

(映画にでてくる、主人公クルト(リヒターがモデル)の友人のひとりは「拝金主義の芸術家」でした。たぶん彼はのちにディーラーになったリヒターの友人だと思います。)

参考:

「ブランド」と「芸術品」と「職人技」-番外編(人間にできてAIにできないこと) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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アラン・ドロンが1976年に作った“フランスのユダヤ人迫害映画”

2023年07月25日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

『遠い日の家族』『善き人の為のソナタ』『サラの鍵』(メモ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の最後の方に、

『サラの鍵』

サラの鍵 - Wikipedia

映画『サラの鍵』予告編 - YouTube

この映画は、フランスで1942年に行ったユダヤ人狩りの話をもとにした話。

ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件 - Wikipedia

これは、アラン・ドロン出演映画でも軸にいていたようなので、この映画を観てから記事を書きます。

パリの灯は遠く - Wikipedia


と書きましたが、『パリの灯は遠く』を視聴終了。

MR. KLEIN (1976) | 4K Restoration | Trailer | Dir. by Joseph Losey & starring Alain Delon - YouTube

 

この映画製作の背景はこちらのウェブサイトがわかりやすくまとめられていると思いますが、

【解説】映画『パリの灯は遠く』ジョゼフ・ロージー監督が投影した、歴史と記憶のかすかな連鎖|CINEMORE(シネモア)

この映画について、別の方向から見て行こうと思います。

 

最初に主人公がユダヤ人から安く買いたたく絵は、オランダのエイドリアン・ファン・オスターデの絵画。

アドリアーン・ファン・オスターデ - Wikipedia

この映画に出てきた絵とは違うのですが、今年6月にこのような記事がありました。

Boston MFA Reaches Deal with Heirs Whose Painting Was Sold to Hitler – ARTnews.com

(Google翻訳)

ボストン美術館、寄贈者2名、ユダヤ人美術商ポール・グレープ氏とアーサー・ゴールドシュミット氏の相続人は、第二次世界大戦中に最終的にヒトラーの手に渡ったアドリアン・ファン・オスターデの絵画「酒場で会話する顧客」(1671年)に関して合意に達した。 2017年、この絵画の新しい所有者であるスーザンとマシュー・ウェザビー夫妻は、ボストンMFAにオランダとフランドルの絵画を贈呈することを約束し、顧客同士が居酒屋で会話していた。 同美術館の出所担当シニアキュレーター、ビクトリア・リード氏は、この絵の出所が暗い過去を暗示していることに気づいた。

(中略)

この絵はもともとディーラーのポール・グレープと彼のビジネスパートナーであるアーサー・ゴールドシュミットが所有しており、彼らは1900年代初頭にパリを拠点とするギャラリー、ポール・グレープ・エ・シーで一緒に働いていました。 他のユダヤ人のギャラリーが非ユダヤ人の所有者に譲渡されて「アーリア化」されていく中、グラウプ氏の長いリストには国際的な顧客がおり、彼のビジネスが特に価値あるものとなったため、ナチス帝国文化会議所から特別に取引を続ける許可を与えられた。 しかし 1937 年に彼の特別許可は取り消され、彼とゴールドシュミットはギャラリーと作品の在庫を残してナチス占領下のフランスから逃亡しなければなりませんでした。 出発前に、彼らは『酒場で会話する顧客』をヒトラーの代理人であるカール・ハベルストックになんとか売り込み、その後ヒトラーの美術顧問兼学芸員のハンス・ポッセに売却した。 この絵は、ヒトラーが将来リンツに建設する総統博物館に展示される予定だった。

(後略)

このナチスに絵を略奪されたとしているポール・グレープというユダヤ人は、もとはナチス協力の美術商でした。

Paul Graupe - Wikipedia

ポール・グレープは 1881 年にドイツのノイトレビンのユダヤ人の家庭に生まれました。 彼はグラマースクールに通い、ポーゼンにあるジョセフ・ホロヴィッツの会社で書店員として見習いをしました。 その後、ライプツィヒのグスタフ・フォック、ミュンヘンのジャック・ローゼンタール、ベルリンのマルティン・ブレスラウアー、キールのリプシウス&ティッシャー、そしてボンのフリードリッヒ・コーエンで働いた[1]。 グラウプは 1902 年までにベルリンに自分の名前で古書店を設立しました。第一次世界大戦では不適格者として兵役が免除されました。 1916年に彼はベルリンで最初の書籍オークションを開催し、1917年にはライナー・マリア・リルケの献呈本を含むインゼル・フェルラーク社の共同創設者で出版社の故アルフレッド・ヴァルター・ハイメルの蔵書を競売にかけた。

第一次世界大戦後、グラウプはジョゼフ・ベア&カンパニー、ジャック・ローゼンタール、ルートヴィヒ・ローゼンタール、カール・ヴィルヘルム・ヒルゼマン、マルティン・ブレスラウアーらとともに、第一次世界大戦で破壊されたルーヴァン大学図書館の所蔵品の補充の整理に協力した[2][3]。 1927 年まではブック アートとグラフィック アートが彼のビジネスの主な焦点でした。また、オークション カタログも出版していました。 彼は事業を美術品にまで拡大し、1930 年から 1932 年にかけて、ヘルマン ボール美術館と提携して 17 件の主要な美術品オークションを開催しました [4] [5]。

ナチス時代 ナチス時代のポール・グレープの活動は、「ナチスの美術貿易の起源とネットワークへの中間と灰色の領域」と評されている[6]。 1933年にナチス(国家社会主義者)が政権を握ったとき、アルフレッド・フレヒトハイムのような多くのユダヤ人画商は、ギャラリーがアーリア化、すなわち非ユダヤ人に移管されたため、逃亡を余儀なくされた。 しかし、グラウプはナチス帝国文化会議所から1937年まで美術品の取引とオークションを継続する特別許可を得た[7]。 彼には国際的な顧客がいたため、ヨーゼフ・ゲッペルスは彼を外貨獲得者とみなした。 グレープは、1933年に自殺したマックス・アルスバーグのコレクションなど、数多くの美術コレクションの清算に携わった。

 

映画でアラン・ドロンが演じるロベール・クラインが数ある絵画のなかでこのユダヤ男性から買ったオランダのオスターデの絵に取りつかれているように見えるのはなぜでしょうか。

それは単に、「自分の持っている美術品の中で1番価値があるのがこのオスターデの絵だった」と言えばそれまでですが、「オランダ」がここでキーワードにもなっていたのではないかと思うのです。

このオスターデの絵を売ったユダヤ人男性は、「絵は祖父か曽祖父が気に入って購入したもので家にずっとあった」と話していることから、彼の家族は元はオランダ在住であった可能性が高いように思います。(その彼は、ラストで列車に乗せられたロベールの後ろに立っています。)

次に、ロベールが自分の家系がユダヤ人でないかを調べに父親のところを尋ねた時、

「クライン姓はオランダにもあるが、うちの家系とは繋がりがない。うちはルイ14世の頃からフランス人(カトリック)だ」と父親は憤慨して答えます。

ここでも「オランダ」が出てきています。父親が言っていることは「オランダのクラインはユダヤ人。偽ロベール・クラインはオランダ系ユダヤ人だ」と同様の意味になります。

 

さて、ロベールが父親に会いに行く場面は、ストラスブール。

(カテドラルの中のからくり時計の映像も出ますが、ちょうどそれは死神が出ているとき。

ファイル:Cathedrale de Strasbourg - Horloge Astronomique - Details.jpg - Wikipedia

Strasbourg Cathedral Astronomical Clock - Diliff - ストラスブール大聖堂 - Wikipedia

同じくナチスに死神と言えば、これまた先に紹介した『遠き日の家族』にも出てきます。)

 

アルザスは有力ユダヤ人が多い地域で、アラン・ドロンのパトロンであった、ポール・ルイス・ワイラーともつながりがあります。

アルザスのJaval家-7(Pauli Louis Weiller) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ポールはユダヤ人でナチスから逃れましたが、母親(Javal家出身)はホロコーストの犠牲になりました。

1976年にはフランス政府が公にするのを嫌がったヴェル・ディヴ事件を映画に使えたこと、ヴェル・ディヴ事件で、一旦捉えられても、すぐ釈放してもらった人達がいた(アナウンスも本当にあったのか不明ですが。)事実を描いたこの映画が作成できたことは、ポールたちの力添えがあったからではないか、と思うのです。

2006年の『サラの鍵』では、簡単に釈放される女性が一人出てきますが、アナウンスもなく、厳しくチェックされるわけでもなく、視聴者が置いてきぼりにされる演出でした。

 

さて、先に書いた「オランダ」、この映画で「オランダ」にこだわっているのはたまたまなのでしょうか。

他にも、「わざわざロベールの母方祖母をアルジェ生まれにしたのは、単に祖母の出生届の入手を遅らせる筋書きを作るためだったのか?」とか、「19世紀のような召使いぎるユダヤ人貴族?は何で必要だったか。苗字が「ザビエル」。(「ザビエル」は大元はユダヤ姓。)」「偽ロベール・クラインが飼っていたと思われるシェパードが、何故ロベールになついていたか。この映画は実は「ドッペルゲンガー現象」の話?」等々とわからないこと多数の映画。

しかし、細かいことを気にせずに,まずは一度観てほしい映画です。(2度、3度と観ると疑問が解けるのもあるかもしれません。)

 

参考:

イエズス会とコンベルソ-1(イエズス会と奴隷) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ピエ・ノワール - Wikipedia

第二次世界大戦の目的を考える-「タブー」と封印されたことから紐解けば… - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ジャン・ポール・ベルモンドの父親 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ストラスブール大学に保管されていた「ナチス人体実験」の標本 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ユダヤの血がながれている欧米人は多数のはず - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ウクライナ危機の理解は第二次世界大戦の裏を知ることから - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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4回目の介護認定調査の結果

2023年07月24日 | 人物

4回目の介護保険認定調査 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の結果が来ました。

今回も希望通りで、要介護1。

またしても期間は1年間なので、来年も認定調査を受けなくてはなりませんが(脳卒中の患者の回復は「固定」してしまうと考えられて、ある時から、見直しは3年毎くらいが普通のようです。)、今までと同じようにケアマネのNさん、訪問リハビリのOTのYさん、看護師のTさんにお世話になることができて、うれしいです。

病院の担当の若いドクターも、私の要望をくみとって、意見書を書いてくれたのだと思います。※参考参照

最高のメンバーに助けられてきています。

 

参考:

要介護度に納得できない!その時どうすれば?~介護のキホン~|介護情報なら安心介護のススメ|セコム (secom.co.jp)

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『遠い日の家族』『善き人の為のソナタ』『サラの鍵』(メモ)

2023年07月23日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

今回観た映画のメモ。


『遠い日の家族』

遠い日の家族:映画作品情報・あらすじ・評価|MOVIE WALKER PRESS 映画

これは1985年のクロード・ルルーシュの映画です。

このころ彼の映画『愛と悲しみのボレロ』のも出演しているエヴリーヌ・ブイックスがユダヤ人少女役、『男と女』のジャン・ルイ・トランティニャンがユダヤ人一家を匿う役の映画。

 

『善き人のためのソナタ』

善き人のためのソナタ - Wikipedia

【映画】善き人のためのソナタ 予告編 - YouTube

この映画は、セバスチャン・コッホとマルティナ・ゲデックが出演していることで見始めたものです。
今の若い人たちには、ドイツが2つに分かれていた時代も想像できない人も多いでしょう。

この映画に関連して、東ドイツについてはまたの機会に。

仮置き:

GYAOで配信しているドイツ映画『希望の灯り』 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

1989年11月9日、ベルリンにいたドイツ人の友人 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

エーリッヒ・ミールケ - Wikipedia

 

 

『サラの鍵』

サラの鍵 - Wikipedia

映画『サラの鍵』予告編 - YouTube

この映画は、フランスで1942年に行ったユダヤ人狩りの話をもとにした話。

ヴェロドローム・ディヴェール大量検挙事件 - Wikipedia

これは、アラン・ドロン出演映画でも軸にいていたようなので、この映画を観てから記事を書きます。

パリの灯は遠く - Wikipedia

 

今回、「メモ」とタイトルに入れたのは、

『善き人の為のソナタ』と『サラの鍵』がu-nextの配信(有料)が7月31日で終了してしまう為。

u-nextを利用している方はもしご覧になるならお早目にどうぞ。

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『シュヴァルの理想郷』『6才のボクが、大人になるまで。』『男と女 人生最良の時』の共通点

2023年07月20日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

最近観た3本。

『シュヴァルの理想郷ある郵便配達員の夢』

シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢 - Wikipedia

映画『シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢』 - YouTube

映画「シュヴァルの理想宮 ある郵便配達員の夢」公式サイト 2019年12/13公開 (cheval-movie.com)

こちらは実話の映画化。

スウェーデン映画『短くも美しく燃え』と同じように、「動く絵画」のような映画です。
俳優、子役の演技も引き付けられます。


『6才のボクが、大人になるまで。』

6才のボクが、大人になるまで。 - Wikipedia

映画『6才のボクが、大人になるまで。』予告 - YouTube

1995年『ビフォア・サンライズ』、2004年『ビフォア・サンセット』、2013年『ビフォア・ミッドナイト』と、最初の映画の設定も俳優も変えぬまま、「その後」を描き続けたリチャード・リンクレーター監督が作った映画。

この映画は2002年~2003年にわたって、同じ子役、同じ俳優を使って、12年間を描いたものです。(イーサン・ホークは父親役で出演。)

 

『男と女 人生最良の日々』

男と女 人生最良の日々 - Wikipedia

あれから53年…『男と女 人生最良の日々』予告編 - YouTube

フランス映画『男と女 人生最良の日々』クロード・ルルーシュ監督インタビュー - YouTube

(『男と女 人生最良の日々』は、1966年の『男と女』の映像のほか、この映画と76年の短編『ランデブー』を組み合わせた映像も使われています。

ジャン・ルイ・トランティニャンの訃報・「男と女」 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

"C'ETAIT UN RENDEZ-VOUS" - Claude Lelouch (1976) - YouTube

伝説の9分には続きがあった。’76年の映画『ランデヴー』続編にまつわる深いい話 (oceans.tokyo.jp)

 

1966年版の映像に出ている4人の俳優がそのまま53年後を演じます。

The Boat Ride / La Promenade En Bateau - from 'Un Homme Et Une Femme' (1966) in HD - YouTube

Love Is Stronger Far Than We - Astrud Gilberto (1969) - YouTube

 

この3本、まったくジャンルは違うのですが、

「どんなにドラマチックな人生でも、平凡な人生でも、時は平等に過ぎていく。」ことを感じさせる点で共通。

 

参考:

1967年のスウェーデン映画『みじかくも美しく燃え』・エルビラ・マディガンとマリー・フォン・ヴェッツェラ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

ジャン・ルイ・トランティニャンの訃報・「男と女」 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

映画と関係ないのですが、クロード・ルルーシュがインタビューで語っているピエール・バルーの関係で。

60億円追徴課税のLIXIL創業者長女、グループ財団から不透明な資金提供が判明 (biz-journal.jp)

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温暖化とエアコン室外機

2023年07月19日 | 環境・エネルギー

猛暑が続きます。

科学者でもない一般の人が「エアコンの室外機とアスファルトが温暖化の原因の理由の一つ」と言ってきても、「いや、温暖化の原因はCO2.エアコンの室外機などの影響は小さい。ヒートアイランド現象があるだけ。」無視に近い態度をとってきたのではないかと思います。

しかし最近は「エアコン」にスポットが当たってきています。
が、それは「エアコンの室外機の温風」を問題視するからでなく、「新しいエアコン」の開発が商機になるから言い出しただけのようです。

例えばスイスインフォの記事。

家を冷やし、地球を暖めるエアコン - SWI swissinfo.ch

抜粋:

飛行機以上に環境汚染度が高いエアコン

IEAは生活水準の向上や人口増、熱波の頻繁化により、2030年までにエアコンの設置台数が40%増加しうると予測している。

寝室用の固定式エアコンが約3000フラン(約42万円)するスイスでは、エアコンの販売業者にとっては朗報かもしれないが、環境や気候には悪影響だ。エアコンや扇風機の消費電力は、全世界の電力使用量の10%を占めている。また、冷蔵庫など他の冷却機器と合わせると、世界の二酸化炭素(CO₂)排出量の約1割を占めている。これは、航空輸送や海上輸送での排出量よりもはるかに多い。

その理由は、こうした製品には温室効果をもたらす冷媒ガスが使用されているからだ。こうした冷媒ガスの中でも、オゾン層破壊の原因物質となるクロロフルオロカーボン(CFC)やハイドロクロロフルオロカーボン(HCFC)に代わり、1980年代後半からハイドロフルオロカーボン(HFC)が最も広く使用されている。しかし、HFCも無害ではない。HFCの地球温暖化係数(GWP)は、CO₂の1000倍にものぼる。パリ協定やモントリオール議定書などの国際条約、特にスイスが批准しているキガリ改正では、今世紀半ばまでにHFCを大幅に削減することを目指している。

ネオサービスの代表アネロッティ氏は、HFCに代わるガスは、CO₂、アンモニア、プロパンだと話す。「これらは、将来の冷媒ガスだ。しかし、コストや危険性が高く、効率面でも劣るため、現時点で使用はまだ制限されている」

「エアコンなしでは命に危険な世の中」を作り出し、その反省をすることもない産業界・・と私などは思ってしまいます。
(エアコン以外にも
、乾燥機、パソコン等OA機器も熱を放出。太陽光発電も量が増えれば温度に影響させるのではないでしょうか。
太陽光発電の困った現象「ホットスポット」とは?原理や対策法を解説! (sma-ene.jp)

 

昨年、

19世紀後半から一気に増えたのエネルギー消費量知っていますか?・アルベロベッロから学ぶこと - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の記事で紹介した、資源エネルギー庁の資料、なぜか削除されています。

とにかく、19世紀後半から地球に負荷をかけているのは「大資本家(産業界)」。

 

近年は、「家畜が温暖化の原因」とまで言い出し、そこでまた商機を立ち上げる…。

オランダ政府3000農家閉鎖計画-"カルト的なイデオロギー” - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

狂っています。

 

参考:

家電の昭和史エアコン (kdb.or.jp)

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ジェーン・バーキンの訃報・「保護される「LGBTQ権利」」とセルジュ・ゲンズブール

2023年07月17日 | 人物

昨日観ていた映画は、シャーロット・ゲンズブール出演、『3つの心、あのときもしも』。

3つの心 あのときもしも/ラブ・トライアングル 秘密 - 映画情報・レビュー・評価・あらすじ・動画配信 | Filmarks映画

この映画は、リヨンやパリの街並みと、カトリーヌ・ドヌーブとキアラ・マストロヤンニ親子共演というところまでは良かったのですが、脚本や配役について行けなくて私は挫折。

この映画を閉じてYahooニュースを開くと、シャーロット・ゲンズブールの母親である、ジェーン・バーキンの訃報のニュースがありました。

ジェーン・バーキンは、イギリス人に生まれ、フランス国籍をとった女優さん。

ジェーン・バーキンの英文Wikipediaから。

Jane Birkin - Wikipedia

Google翻訳:

(前略)

ジェーン・マロリー・バーキンは1946年12月14日、ロンドンのメリルボーンで生まれた。 彼女の母親、ジュディ・キャンベルは英国の女優で、舞台での仕事で最もよく知られていました。 彼女の父親、デビッド・バーキンは、イギリス海軍中佐で第二次世界大戦のスパイでした。 彼女の兄は脚本家兼監督のアンドリュー・バーキンです。 演劇・オペラ監督のソフィー・ハンターは彼女の姪である。

バーキンはチェルシーで育ち、自分自身を「内気なイギリス人の女の子」と表現した。 彼女は容姿のせいでいじめられたと語った。 「私は自分の体格のせいで、特に寄宿学校ではとても苦労しました。他の人たちは、私が半分男の子、半分女の子だと言いました。私には胸がなく、発育中の胸さえありませんでした。それはひどいものでした。」  バーキンはケンジントンにあるミス・アイアンサイドの学校に通った。 彼女はワイト島のアッパー・チャイナ・スクールでも教育を受けた。

(中略)

1965年、バーキンはイギリスの作曲家で指揮者のジョン・バリーと結婚した。 二人の出会いは、バリーがミュージカル『パッション・フラワー・ホテル』にバーキンをキャスティングした際だった。 彼らの娘は写真家のケイト・バリー(1967年4月8日 - 2013年12月11日)であった[30]。 結婚生活は1968年に終わった[31]。 バーキンと次女シャルロット・ゲンズブール(2010年) バーキンは、1968年に『スローガン』の撮影現場で出会ったフランス人ミュージシャンのセルジュ・ゲンズブールとロマンチックでクリエイティブな関係を築いていた。彼らは12年間交際したが、噂や反対の誤報にもかかわらず結婚することはなかった。 

 彼女は最終的にフランス国民となった。 1971年、バーキンとゲンズブールには娘、女優、歌手のシャルロット・ゲンズブールが生まれました。 ゲンズブールのアルコール依存症と暴力が原因で、二人は1980年に別居した。 彼女は彼のことを「一緒に暮らすのが非常に難しい男」だと評し、レコーディングセッション中、彼女がパートを歌えないと彼は彼女に向かって叫び、定規で殴るだろうと語った。 彼女は、彼が後年自分のスタイルを発展させるのに貢献したことを認め、「すべては私に関するもので、彼は私の言うことをよく聞いてくれた」と述べた。

1982年9月4日、監督のジャック・ドワイヨンとの関係から三女ルー・ドワイヨンを出産した。 彼女はこう語った。「ジャックとの出会いは、私のキャリアにおいて本当のターニングポイントだった。私生活では、セルジュと別れてから、ジャックと私は13年間一緒に暮らし、ルーをもうけた。」 二人は1990年代に別居した。 オブザーバー紙は2007年、ドワイヨンが「ゲンズブール(1991年に死去)への悲しみに勝てず」、別居以来孤独に暮らしていたと報じた。 バーキンは、ドワイヨンが自分の映画に自分をキャスティングすることに興味を失い、「若い女の子たちがいつも映画を作っているのにジャックが去っていくのが苦痛だ」と感じたと語った。

その後、バーキンはフランスの作家オリヴィエ・ロランと関係を持った。 バーキンは孫たちと過ごすことが多かった。 彼女の娘ケイト・バリーは、2013年12月にパリの4階のアパートから転落して死亡した。 ジェーン・バーキンは1960年代後半から主にパリに住んでいた。 2020年、彼女は1970年代のパリを回想しながら、「当時はとても無邪気な時代だったし、社会問題も今日のようなものではなかったと思う」と語った。

2021年9月6日、バーキンは脳卒中を患ったものの、順調に回復していると報告された。 2023年7月16日、バーキンはパリの自宅で死亡しているのが発見された。 彼女は76歳でした。

太字の部分、ジェーンの2020年の言葉が気になります。

もしかしたら、現在の「LGBTQの権利運動」が政治に使われること、そしていつの間にか政府によって統制されるようになっていることへをジェーン・バーキンは批判していたのではないか、とも思えます。
ジェーンの愛したセルジュ・ゲンズブールだったら、まず今の動きを批判していると思うんです。
「政治家に保護されるLGBTQの「権利」って何?」とでも言いそう。

(二人とも異性愛者でオープンマリッジでもないですが、「LGBT」やオープンマリッジの理解者であったと思います。反逆児、異端児、(真の)自由人には、現状の動きが異常に見えるでしょう。)

ジェーン・バーキンさんのご冥福をお祈りします。

 

参考:

フランスきっての色男|セルジュ・ゲンズブール | THE RAKE JAPAN | The Modern Voice of Classic Elegance

セルジュ・ゲンスブール - Wikipedia

ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ - Wikipedia

Jane BIRKIN et Charlotte GAINSBOURG : « Tant d’émotions entre nous » - YouTube

L'aquoiboniste - YouTube

Serge Gainsbourg ft. Jane Birkin - Je t'aime...Moi non plus (Official Audio) - YouTube

シャルロット・ゲンズブール - Wikipedia

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『大統領の料理人』-フランス人は「王様」好き?

2023年07月16日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

前回から続いて3本目に観た映画です。

大統領の料理人 - Wikipedia

映画『大統領の料理人』予告編 - YouTube

 

この映画は、『最高のふたり』がそうであったように、こちらも実話をもとにした映画。

この一か月で観た映画・『最強のふたり』について - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

映画自体はよくできていると思いますが、『最強のふたり』(それに加えて『最強のふたり』のドキュメンタリー)と違って、私は主人公も映画も好意的にとらえられなかったのです。

それは映画が悪いわけではなく、「フランスではフランス革命以降現代まで、「王様」を作り上げる国-これでは大統領は完全に王様だわ。」という驚き(はっきり言って嫌悪感に近い)があってのことです。

この映画の「大統領」はミッテラン大統領。

ミッテラン元大統領-極右から左派、植民地主義者 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

決して映画で描かれるほどの好々爺タイプじゃなかったんじゃないか、と思わせる人。

そして主人公のオルタンス・ラボリも、自分の知り合いの業者を使ったり、「大統領の為」と言いながら、問題行動が多すぎに思うのです。

オルタンスのモデルとなったのは、ダニエル・マゼ・デルプシュ。

Danièle Mazet-Delpeuch — Wikipédia (wikipedia.org)

ダニエル・マゼ・デルプシュは、1942年にアルクイユ・カシャンで生まれたフランス料理人です。 彼女は最初のテーブル ドットの 1 つを開設したことで、農村観光の先駆者とみなされます。 彼女は、1988 年から 1990 年までフランソワ・ミッテラン共和国大統領の専属料理人を務めたことでも知られており、この職に就いた初の女性となった。 この経験は、2012 年に公開されたクリスチャン ヴァンサン監督の映画『Les Saveurs du palais』にインスピレーションを与えました。

バイオグラフィー

ダニエル・マゼ・デルプシュは、1942 年 3 にパリ郊外のアルクイユ・カシャンで生まれました 。彼女が 8 歳のとき、家族はペリゴール  に移りました。 彼女は父親の好み、曽祖母と母方の祖母の才能と経験のおかげで、味と良い製品について学びました。 彼女が自分で料理をするようになったのは 19 歳で結婚し、徐々に養う家族が増え 、25 歳で 4 人目の子供を出産したことです。

そして、彼女は卒業証書を持っていないにもかかわらず、専門的に自分のスキルを使い始めます。 1974 年、彼女は最初のターブル ドット の 1 つを、シャヴァニャック 1近くの村落ラ ボルドリにあるペリゴール  の農場で開発しました。 彼女は納屋を宿泊施設に改造し、特にトリュフとフォアグラを世界中の顧客に紹介しました。 これにより、彼女は農村観光の先駆者として認められるようになりました。 その後、彼女はそこで料理のレッスンも受けました。

1980 年代に米国に移住し、料理レッスンを行った。 1986 年から 19874 年頃、彼女はいとこ  のおかげでジョエル・ロブションとニューヨークで出会いました。 その後、彼女はパリに戻り、そこで離婚したときにアパートを購入しました。 その後、ロブションは彼女をフランソワ・ミッテランに推薦し、ミッテランは 1988 年に彼女を彼の専属料理人に任命しました。彼女は 1990 年までミッテランに仕えました。

10年後、彼女は南極ミッションのインターネット広告に応募したが、最初に30歳未満の男性がその仕事に求められており、応募する必要はないと言われた。 彼女は差別について苦情を言う用意があると述べ、立候補が認められたエリゼ通りでの経験について言及した。 そのため、彼女は 60 歳のとき、14 か月にわたる科学遠征のための食事を準備するため、マルタン ド ヴィヴィエ 基地にあるサン ポール エ アムステルダム 5に向けて出発しました 。 その後彼女はペリゴールに戻り、そこでトリュフを開発し、逆の季節を利用して一年中この料理を食べられるようにするためにニュージーランドでトリュフを入手しました。 彼女は複数の経験を積んだために不在にもかかわらず、彼女の食卓は彼女が世話できるときはいつでも機能し続けました。

2012 年、クリスチャン ヴァンサン監督の映画『Les Saveurs du palais』は、カトリーヌ フロが演じるオルタンス ラボリーの役柄として、ミッテランと共演した彼の経験にインスピレーションを受けて作られました。

(後略)

しかしまあ、この映画のおかげで、「王様気分」がマクロンだけでないことを知りました。

ジャン・ポール・ベルモンド追悼-5(追悼式で国王気取りのマクロン大統領) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

LE BANQUIER : la #chanson d'Emmanuel #Macron (#cover Le Chanteur de #Balavoine) - YouTube

こちらは4分33秒あたりから、エリゼ宮と、宮殿での晩餐会の準備の様子が映ります。大統領個人の食事会ではありませんが、参考まで。

Baccarat, the crystal of princes and presidents - YouTube

 

オマケ:

この映画に出てくるニュージーランドの取材チームの女性メアリ役(この役必要だった?)は、フィンランド映画『愛の部屋、裸の2日間」で、パソコンの画面にしか出てこない女優さんでした。

『愛の部屋、裸の2日間』というポルノチックな邦題をつけられたフィンランド映画『2Nights Till Morning』 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

アーリー・ジョヴァー - Wikipedia

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『Angel』と『めぐり逢わせのお弁当』

2023年07月16日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

この数日に観た映画3本です。

1本目は『Angel』

Angel (2007 film) - Wikipedia

Angel Trailer -- In cinemas 29th August - YouTube

この映画の監督はフランソワ・オゾン。

フランソワ・オゾン - Wikipedia

この映画の原作を読んでいないので、映画が原作に忠実に描いているかどうかはわかりません。
なので、このオゾン監督(同性愛者)の解釈か編集かわかりませんが、この映画には、主人公のエンジェルを世話する女性ノラがエンジェルに「恋愛感情」を持っているように見える場面があります。

私がこの映画を観たのは、「18世紀末から19世紀前半の西欧」について調べていることがあってからだったのですが、この映画の原作者エリザベス・テイラー(女優と同姓同名)は1912年生まれの英国人で、この小説が出版されたのが1957年。

丁度この時期、イギリスで同性愛の非犯罪化させる動きが出ていたようなので、原作もひょっとしたら監督の描くようだったのかもしれません。

Angel (novel) - Wikipedia

Elizabeth Taylor (novelist) - Wikipedia

LGBT史年表 - Wikipedia

この映画は、50年代の映画のように作られています。演技の大袈裟さも、そしてロンドンの街や海外旅行の場面にスクリーンを張っての映像前で俳優に演技させたり。

評価はさほど良くないようですが、印象に残る映画でした。

 

2本目の映画は、インド映画の『めぐり逢わせのお弁当』

めぐり逢わせのお弁当 - Wikipedia

間違って届けられたお弁当がもたらす珠玉作/インド映画『めぐり逢わせの​お弁当』予告編 - YouTube

この映画は、若いころ私が友人(病気で数年前に亡くなりました)にプレゼントした、インドの積み重ねるアルミのお弁当箱が出てくる映画です。何かの時にテレビで予告編をみたことがあって観たいと思いながら、観れないままであった映画です。

『マイ・インターン』が70代の男性のファンタジーであったのと似て、この映画は定年間際の男性のファンタジー的なところもあります。

『マイ・インターン』と『リトル・ガール』 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

しかしこの映画は「インド」でなければ描けなかったファンタジー。変わっていくインド(進化)、変わらないインド(格差は下に行くほど変わらず)。

この映画の主人公二人はインドのムンバイのほぼ中間層であるのでしょう。

 

(この映画とほぼ同じころに、インド・ムンバイ近郊のインド人の友人の息子さんたちが作った映画がありますが、こちらはエリート組ですね。。

India has come quite a long way! - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

MummyPapa | Short Film | Ali Haji | Vedant Lamba | Arjan Aujla - YouTube

さて、この映画の主人公サージャン役のイルファーン・カーン、残念なことに、2020年4月末にお亡くなりになったようです。

イルファーン・カーン - Wikipedia

 

3本目は

大統領の料理人 - Wikipedia

映画『大統領の料理人』予告編 - YouTube

これは次回に。

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