ストラスブールの星付きレストラン オ・クロコディルと欧州連邦主義者たち - Various Topics 2 (goo.ne.jp)
にでてきた、スピネッリグループ。
この名は、
アルティエロ・スピネッリ
から。
スピネッリの同志で監獄にいたのは、
ドイツ系ユダヤ人のウルスラ(ウルズラ)・ハーシュマンの夫でイタリア系ユダヤ人のコローニ。
ウルズラの英語&イタリア語のwikipedia。
コロー二のイタリア語版wikipedia。
彼女は夫のコロー二が44年に亡くなった翌年に、アルティエロ・スピネッリと再婚をします。
このウルズラの弟はアメリカに渡ったアルバート・ハーシュマン(英語読み)-
抜粋:
ベルリンでユダヤ系の家庭に生まれる。フリードリヒ・ヴィルヘルム大学に進むもののユダヤ系だったことからナチスの政権獲得に伴いフランスに出国、エコール・デ・オートエチュード・コマーシャル・ド・パリやソルボンヌ大学で学んだ後にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに遊学。スペイン内戦に於ける共和国側での従軍を経て1938年にトリエステ大学で博士号を取得。
学位取得後は姉のウルスラと共に反ナチスの活動を続けるが、フランスがナチス・ドイツに占領されて暫く後にポルトガルに脱出し、ロックフェラー財団の奨学金でアメリカ合衆国に赴きカリフォルニア大学バークレー校で研究生活に入る。1943年から1946年までアメリカ合衆国陸軍に従軍の傍ら、最初の著書『国力と外国貿易の構造』を上梓。復員後は連邦準備制度理事会勤務から1952年に世界銀行のスタッフとしてコロンビアに赴任し、ボゴタにある国家計画局の財政顧問を2年間務めた後私的な経済コンサルタントとして1956年までコロンビアに滞在した。
アメリカに帰国してからはイェール大学のリサーチ教授を振り出しにコロンビア大学国際経済学教授(1958年)・ハーヴァード大学政治経済学教授(1964年)を歴任。1974年にプリンストン大学プリンストン高等研究所経済学教授となり、2012年に97歳没で死去するまでその座にあった[1]
Albert O. Hirschman - Wikipedia
ちなみに、ウルスラの3女のエバは、インドのアルマティア・センの2人目の妻でした。
欧州連邦主義は、マイノリティが作った、という私の仮説は遠からず、ということなのかも。
(米国あってのことですが。)
参考:
イタリア新大統領はなぜ、ヴェントテーネ島に行ったか?: やそだ土産品店(やそだ「イタリア&EU」総研のアンテナ・ショップ) (cocolog-nifty.com)