Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

『カフェ・ヨーロッパ』と日本

2007年11月30日 | 芸術・本・映画・TV・音楽

1949年クロアチア(1991までユーゴスラビアの一部)に生まれたジャーナリスト、作家のスラヴェンカ・ドラクリッチの『カフェ・ヨーロッパ』は、彼女が1992年から1996年かけて書いたものです。

第2次世界大戦中ドイツに侵攻されていたユーゴスラビアが、戦後徹底して反ドイツ教育を施し、その後ドイツへの出稼ぎ者が多くなると(ドイツに出稼ぎに行っている同胞がドイツでつらい目にあっているのをひた隠し)180度教育方針を転換された話、冷戦時も西側は周辺国の憧れで、他の東欧諸国に比べて比較的楽に西側の国に行けたユーゴスラビアが周辺国に対しある種の優越感を持っていたこと。

反面、ユーゴスラビア人が西側に行ったときに受ける差別のことなどを淡々と書いてあります。

共産主義を遅れたものとする前提で考えると、『共産主義をたたき込まれ、他国の情報が制限されているので、それを疑うことなく、自国が一番だと信じ込んでいる国民』と『共産圏でありながら、実はそのイデオロギーを信じず、西側に憧れつづけた嘗てのユーゴスラビアや近隣の東欧の人々』とどちらの方が不幸なのだろう、この本を読んだとき、私はふと考えました。

日本は民主主義の国でどちらでもない、幸せ-しかしそうとも言いきれない気がします。

まず、制限されていないとはいえ、日常に入ってくる情報が偏っていること。新聞やテレビで取り上げていることは、日本国内のことか、せいぜいアメリカや西欧の主要国のことばかり。東アジアはともかく、その他の国で起きていることはどこか違う惑星の出来事のようです。

比較的取り上げられる東アジアのことでも、今月半ばの『北朝鮮が韓国から貨物列車を走らせるということに合意した』というニュースさえ、あまり話題になりません。

そして、この本の話をしたとき、日本watcherでもあるイギリス人の知人がつぶやきました。

「いずれ為政者に対して批判的な態度を保っているのがどんな支配的イデオロギーの国でも大事でしょう。あまり大っぴらに批判すると監獄に入れる旧共産国などか、何でもいえるのに、辛らつな政府批判を言うインテリがほとんどいない日本と、どちらがいいか」

情報が偏っていること、そして批判する人があまりいないこと、そういう意味では民主主義の日本も、実は共産主義の国と変わらないのかな、そう思えたりもします。

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A君のこと

2007年11月28日 | 福祉・医療

福祉関係の仕事をしていたときの思い出から。

「タ、○、リ」「タ、○、リ」

職場がある建物のロビーの前で、A君の声が響くことがありました。頭を坊主に刈り上げた年齢不詳のこの男性が大きな声で叫びながら前かがみで歩いて行く姿は、私達職員にも見慣れたものになっていました。

A君は自閉症の男性で、隣の授産所(作業所)に通う一人です。年齢は40過ぎらしいのですが、なぜか皆は“君”付けで呼んでいました。

当時、「タ○リ」の3文字は彼のお気に入りの言葉だったようで、一人でいるときも、誰かほかの人に会ったときも、同じ言葉を発しました。昔誰かが面白がってA君にあのサングラスのタレントの名前を教えたということも聞きましたが、そうであれ、「タ○リ」という言葉は彼を落ち着かせる役割をしていたようです。

当初は彼がその3文字しか言わないのかと思っていましたが、帰り際に出会うと、「さようなら」を言ってくれることがわかりました。

もっともこれは彼が安全と認めた人(主に女性)に対してだけだったので、最初に彼に「さようなら」と話しかけられた時は私も素直に喜んでいました。しかし、慣れないうちはそのあと随分つきあわされたりもして、困ることもあったのです。

言葉にこだわりがあるA君は時々自分の言葉に不安を覚えることがあったようです。そんな時、彼は眉をひそめながら「さ、よ、う、な、ら?」と一文字一文字ゆっくりとしり上がりで詰め寄ってきます。

急いで家に帰ろうとしている時にこういう場面に遭遇したことがありました。慌しく簡単に答えて済ませようとした私に彼は詰め寄ってきてなおも尋ねます。

「さ、よ、う、な、ら?」「これでいい?さ、よ、な、ら?」

「そう。もう帰るからね。さようなら。バイバイ。」

つい子供に向かってしゃべるような言い方(自己嫌悪)で別れようとしたとたん、次は聞いたばかりの「バイバイ」という言葉が気になってしまいます。その日は結局何度も「バイバイ」をも繰り返させられることになりました。

このA君について、視覚障害者の同僚の話が印象に残っています。

「A君、私が授産所の前を通ると、『目、見えないの?大丈夫?』って声かけてくれるのよね。」

いくつかの単語や、挨拶、ちょっとした二語文しか言えないと思っていた彼が、視覚障害を持つ彼女が白い杖を持って歩く姿を見て声をかける・・・。

「私が、『大丈夫よ。A君仕事は?』って聞くと、また、『タ○リ』とか別の言葉でごまかすんだけど。」

障害のある彼女を気遣う彼のやさしさが、時に愉快な奇跡を起こすこともあったようです。

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CO2排出権取引よりも

2007年11月27日 | 環境・エネルギー

今、世界ではCO2排出権取引が大きなビジネスになっています。

昨日の新聞にも、日本がハンガリーから排出権を購入することになったという記事が載っていました。

これは、地球温暖化防止のために始まったビジネスではありますが、私にはどうしても環境を利用したビジネスゲームにしか見えないのです。

地球温暖化と共に、私達が直面している問題-資源不足、オイル価格高騰。

来月から日本でのガソリン価格がリッター155円になるといって騒がれています。ガソリン価格が上がると言うことは、物価の上昇にもつながるので、確かに由々しき問題なのは確かでしょう。しかし、価格だけを見ると、日本のガソリン価格は先進国の中では特別高いものではありません。

西欧諸国やお隣韓国などは、日本の1.4倍くらいではないかと思います。産油国や東欧などでは日本より安い国ももちろんあります。世界最大のガソリン消費国アメリカはというと日本の半値で、意外に高いのはトルコで日本の1.6倍位。

高い国というのは、ガソリン税の比率が高いわけですが、環境面や限りある資源を考えるなら、メリットもあるでしょう。

また、ガソリン価格のように他に多大な影響を与えることなくできる貢献もあります。

たとえば、シンガポールでは不必要な車を走らせないような規制をあの手この手でしてきています。たとえば、1989年までですが、この国では通勤時間などに中心街に乗用車で入るとき買わなければならなかったクーポンが、運転手を含む4人の乗車で免除されたりしていました(節約の為、ヒッチハイカーが横行して新しい問題になったため、この制度は廃止されました)。

これは単純に交通渋滞を避けるために作られた制度でしたが、同時にガソリン節約、環境に優しいという面もありました。

現在は、タクシーを利用する際、乗客が定員から少なくなるほど割り増し料金が払わされたりします。車にかかる税金自体も非常に高いので、車は贅沢品でもあります。

シンガポールのこれらの制度は、国が小さくて、公用交通機関が整備されているからできるという面があるので、一概に他の国で導入するわけにはいきません。

イギリスのある村でも、村の中の自給自足を促進することで、物流の為の輸送を減らそうとする試みもあるようです。

環境面や限りある資源を本気で考えるなら、『なるべく燃料を使わないようにする』というのが原点で、それには大企業や国だけのCo2排出権取引や、燃料価格による歯止めより、それぞれの地域にあった取り組みの方が効果的であると思います。

そして新エネルギー開発や省エネ技術も良いですが、まず現状の見直しが必要な気がします。

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透明人間に気配りを

2007年11月26日 | 生活・日常

自転車で総合病院の前の歩道を通ることがあります。

そこでは当然具合の悪そうな人や、高齢者や車椅子の人もいますが、それだけでなく、近くに盲学校や聾学校もあるので目や耳の不自由な人たちも少なくありません。

自転車の人は、彼らに注意しながら左側一列になって走るのが常ですが、朝夕そこを走る高校生軍団は例外です。さすがにスピードは出していないものの、道いっぱいに広がっておしゃべりをしながら通り過ぎます。

高校生軍団が通り過ぎるまで病院の塀にへばりついている高齢者を見たり、門から出ようとして危うく彼らにぶつかりそうになった幼児連れの若い母親の悲鳴が聞こえてきたり。

視覚障害者の友人は、自転車に白杖を折られたことが何度かあると言っていました(追いかけようもないので、泣き寝入りだったそうです)。

そして、危ないのは通行人だけに限りません。高校生達の逆の進行方向で走っている自転車の人達にとってもいい迷惑です。おしゃべりに夢中な彼らは、自分達以外何も見えていないようで道を空けようとしないのですから。

ベルをならしたり「すみません!」と怒鳴ったりしても道をあけないばかりか、自転車ごと真正面につっこみ、相手を街路樹にまで押しやる輩さえいます。

ある高齢者施設で体験学習をした女子高生がこんなことを言っていました。

「施設の廊下の真ん中で友達と話していたら高齢者を連れた職員の人に叱られました。最初はその人達が通る分は空けてあるのだから、『なんで叱られなきゃいけないの!?』って思いましたが、施設での体験を通して、高齢者には足も悪い人もいるし、そうでなくても自分達の都合で相手に回り道をさせていること自体が迷惑ということに気が付きました。」
というような内容であったと思います。

そこで私は気が付きました。あの高校生達は、少しのスペース(たとえそれが30cm以下であったとしても)を空けているんだから、そこを通るなり歩くなりすれば良いのじゃないか、という論理を持っているのではないかと。

彼らは決して他人が見えていないわけでも(相手にぶつかった場合は完全に相手が見えなくなるらしく、謝る代わりにあらぬ方向に目をやります)、「どけどけ、俺様のオトオリダイ!」というわけでもなかったようです。

この高校生達すべてに福祉施設の体験学習やボランティアで行ってもらいたいところですが、彼らが立て続けに押しかけてきたら施設の職員もしまいには叱る気力をなくし、入所者にとっても不幸です。

そしてまた、傍若無人ぶりを発揮するのは実は高校生軍団に限ったことでなく、子供を乗せたママ達の集団であったりもします。高校生軍団の予備軍は続々生まれてくるでしょう。
 

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空港でのできごと

2007年11月24日 | 旅行

今年の夏、ドイツの国際空港でひどい目にあいました。

成田から
12時間のフライトを終え到着ゲートを出ると、テロ対策の一環でしょう、ロビーに列が作らされていました。列の終わりは混雑していたので、急いでいた私は暇そうにしていた男性セキュリティスタッフに入国審査の方向を訊きました。

すると彼はそれに答えず、バッグを彼の近くのワゴンに乗せるように指示したのです。怪訝に思って理由を尋ねると、ピックアップの検査だと言います。

急いでいたので怪しまれたのかと観念してバッグをワゴンに乗せたのですが、この後どうも様子が変でした。

まず、貴重品も入っている荷物を調べるのは本人の見ているところでするのが普通ですが、彼は私が見ていることを許しません。荷物を調べている間にペアの女性の検査棒のチェックを受けなさいということは時間短縮のためと思えば理解できますが、わざわざ後ろ向きにされたのは意味がありません。

そして第二に、一緒にいた夫が持っていた荷物も調べるときのこと。その荷物を開ける前に係員は「
Money?」と聞いたのです。荷物にお金が入っているかと聞いているのかと思って、「No」と答えると、彼は無言で小型スーツケースを開けだしました。(彼は税関の係官ではないので、そもそもこの質問がおかしいのです。)

私のマルタのペンフレンドは専門学校の教師です。一度、生徒数人をつれてのドイツの研修旅行のときに、やはり同じ空港で嫌な思いをしたそうです。その到着の際、生徒の一人が私達と同じようにピックアップされました。

この生徒の荷物はすべてワゴンにぶちまけられ、あわてて生徒の近くに駆け寄ろうとした彼は、係員の一人に取り押えられてしまいました。出したものを確認後、係員達がまるでゴミでも扱うようにばら撒いた中身をバッグにほおりこんでいくのを目にした彼は、このことに対して今でも怒ります。

「私達マルタ人が、ドイツ人に同じことをしたら、何んと言われるか・・・。」

私に起こったことは、お金目当てか、「日本人だったら何しても文句は言わないからからかおう」という頭があったような気がします。そしてその中には、マルタのペンフレンドも感じたような、人種的偏見があったはずです。

帰国後、私は空港のカスタマーサービスに苦情メールを出し、数通のやり取りの後、セキュリティサービスを総括する人物から改善を約束する丁寧な詫び状をもらいました。

私が苦情メールを出したのは、できるだけこういう意見をだして嫌な思いをする人が減れば良いと思ったからです。

ドイツのこの嫌な経験は一部の不良係員のせいであり、空港全体や他のドイツの人のせいでないことを私は良く分っています。しかし、人によっては、それがドイツ全体のイメージになってしまうかもしれません。

1120日から、日本では入国する外国人に指紋採取を義務付けました。これはアメリカについで2番目で、テロ対策とはいえ、やりすぎのような気がします。

また、このことは日本人には関係がないせいなのでしょうか、あまり話題にならないうちに導入されてしまいました。

ともかく、指紋採取だけでもありがたくないのですから、せめて入国する外国の人達(特にアラブ系、アジア系)が嫌な思いをしないように、係員の人達に気をつけて欲しいと思います。

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高齢者の町

2007年11月23日 | 福祉・医療

アメリカのアリゾナにサンシティ(Sun City)とういうコミュニティがあります。

55歳以上、本人がそれ以下でも配偶者が55歳以上であれば住むことができる町で、1960年にアメリカの不動産業者が砂漠の真ん中に人工的に作りました。町には病院、教会、ショッピングセンターに図書館や運動施設が備えられ、基本的にこの町に住む高齢者自身がそれらの施設で働いています。現在はアリゾナ以外にも数ヶ所あるそうです。

この町のことを、ある公共の福祉施設の人に話したことがありました。

「日本が核家族化してきているといっても、未だ子供と住む高齢者も少なくないし(2世帯住宅という発想は、日本独自のものでしょうか・・)、この町のようなものがあったとしても、まず健康面、経済面をクリアしなければならないというハードルもありますが、若者優先の日本のあり方をみているとこんな選択肢があってもよいのではないか」というコメントを添えて。

「そりゃ、隔離だよ。世の中の動きに逆行することになる。」

彼は眉をひそめて言いました。

自ら望んで高齢者が町の住人になり出入りは自由でもそれを『隔離』と呼ぶのであれば、高齢者達だけがカラオケをしたり、習い事をしたりするところでもある彼の職場も『隔離施設』になってしまうことになります。

しかしこの町を『隔離』と思わない私でも、やはりある一定の年代の人しかいない町の不健全さというものは理解できます。また、その町に住む比較的若い層の高齢者や体力のある高齢者に、そうでない人達の面倒をみさせることになる側面もあるでしょう。

それでも、この町のように高齢者が第一線にたって働けるということや、映画館で上映される映画が昔懐かしいものであったり、ジムで高齢者向けのプログラムが当たり前のように用意されているというのも、なかなかよいものである気がするのです。

勿論、定年制度の違いとか、日本とアメリカの高齢者の意識の違いを考えると、たとえ魅力的なコミュニティを作ったとしても日本で成功させるのはまだまだ難しいでしょう。

地域の『高齢者給食会』について、あるバイタリティあふれる大正一桁生まれの女性が打ち明けてくれたことがありました。

「地区の役員さんがあんまり熱心に勧めてくれるものだから、公民館の給食会にでたことがあったのよ。でも給食会で席についたら、前に座ったおじいさんは突然入れ歯をはずして湯のみ茶碗で洗い出すし、隣に座ったおばあさんは肩肘ついたままくちゃくちゃご飯たべるし、表情のない人ばかりでおもしろくもない。もう2度と行く気はないわ。」

これは極端とはいえ、残念ながら、人生を積極的に楽しもうとする高齢者は日本にはまだあまり多くないのが現実なのかもしれません。

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ドイツのトウモロコシ畑 2

2007年11月22日 | 環境・エネルギー

昨日ドイツにトウモロコシ畑が多くて驚いたという話を書きましたが、ドイツ人のペンフレンドによると、彼にとってのトウモロコシ畑は、子供の頃からの夏の風物詩の一つであるとのことでした。子供の頃、畑からトウモロコシをもいでくることが、楽しみだったという彼は、日本でもトウモロコシが栽培されているのを見て驚いたそうです。

近年ドイツでトウモロコシ栽培が増えているのは確かであるものの、もともとよく作られている作物なのでしょう。もちろん私も、TVの5分番組『世界の車窓から』などでヨーロッパのトウモロコシ畑が広がっているのを見たこともあったので、ドイツでも全くないとは思っていませんでした。

しかし、「ドイツといえば大麦とジャガイモ」と書いてしまったのは、「『日本と米』は結びつくけど、『日本とトウモロコシ』はちょっと・・」と言うのと同じくらい少し乱暴なとらえ方でした。

さて、それにしても今回の手紙で彼は、『トウモロコシ』を『玉蜀黍』と書いてきました。今はパソコンですぐ漢字に変換することも可能ですが、彼の日本語のメールにはこうした漢字だけでなく、難しい言い回しも良く使われています。彼が流暢に日本語を操れるようになっている今も、日々精進に務めていることにいつも感心させられています。

付け加えれば、彼は日本語だけでなく英語も堪能で、日本語と英語の専門的な通訳もできるほどです。

こんな彼の、大きなトウモロコシを抱えてうれしそうに駆けている少年時代の姿を思い浮かべて、思わず微笑んでしまいました。

(まあ、今でもこの語学の達人は少年らしさを失っていませんが・・。)

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ドイツのトウモロコシ畑

2007年11月21日 | 環境・エネルギー

今年の7月の終わりに、フランクフルトから友人の自動車でフランスのアルザス地方に向かいました。アウトバーン(高速道路)沿いに広がる田園風景をぼんやり眺めつつ、私はトウモロコシ畑が異様に多いのに気がつきました。

実は同じ道を昨年の6月の初めにも通ったのですが、その時畑にどんなものが栽培されていたのかは覚えていません。トウモロコシの時期には早かったので、種は蒔かれていたとしてもまだ育っていなかっただけなのかもしれません。それにしても、今年の旅行で見たトウモロコシ畑の多さはとても印象に残りました。

ドイツといえば大麦とジャガイモ-私にはイメージ的にはそちらの方が強く、ドイツのトウモロコシ畑という図があまりしっくりきませんでした。ドイツでは昔からトウモロコシ栽培がさかんなのだろうか・・・急にそんな疑問が沸いてきたので調べてみると、ドイツでは最近ビールの原材料となる大麦の栽培をやめて、トウモロコシ栽培に切り替えている農家が増えているということがわかりました。価格が上がっているだけでなく、国がトウモロコシ栽培をする農家に助成金を出しているからです。

ご存知のとおり、トウモロコシは人間の食材料、家畜の餌でもありますが、近年は環境に優しいバイオ燃料エタノールの材料として需要が高まっています。実際はエタノールの燃焼時にもCO2は排出されるのですが、原料となるトウモロコシはじめサトウキビなどが生長する過程でCO2を吸収するのでその分を差し引くという考え方です。

「さすがに、エコ大国ドイツ」と言いたいところなんですが、なんだか引っかかる点もあります。

トウモロコシの栽培をする農家が増えたお陰でドイツの大麦の生産量が減り、その結果大麦の価格が倍に跳ね上がりました。そしてそれがビールの値段にも影響しています。ドイツのビールの消費量はそれでなくても減少傾向。拍車がかからないことを望みます。

さて、話が変わりますが、ドイツでは「ビオナーデ(Bionade)」というオーガニック炭酸飲料が大ブームを巻き起こしています。この麦芽だけを使ったソフトドリンクは、バイエルンのあるブラウマイスター(ビール醸造職人)が1995年に発明し、長い年月をかけて改良したものです。

ここまで来る間には資金面他大変な苦労があったようですが、その甲斐あっての人気。今年からドイツ国内のマクドナルドでも発売されており、周辺国にも輸出されるようになりました。また、真偽は分りませんが、この人気に目をつけたアメリカのコカコーラ社から買収の話もあったらしいです。(ブラウマイスターは断わったといいます。)

このブラウマイスターは、冷遇されている大麦の救世主だけでなく、ある意味で、ドイツの救世主になるかもしれません。

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ルドルフの肉

2007年11月20日 | 友人・知人

一年が過ぎるも早いもので、もうクリスマスもすぐそこです。

先日イタリアのペンフレンドとクリスマスの話をしていたのですが、

「クリスマスといえば、サンタクロース。あなたはあの赤い服を着て、白いひげのサンタが、アメリカのCoca Cola社が考え出したサンタクロースということを知っていますか?」

と訊かれました。

私もあのサンタクロースのイメージが、Coca Cola社が考え出したものというのは、ずっと前にテレビのクイズ番組で見て知っていました。セント・ニコラウス(=サンタクロース)もびっくりの派出さですが、なんともこのユーモラスなおじいちゃんのイメージは、見る人を楽しい気分にさせます。

それではサンタクロースにつき物の、あのトナカイ、「真っ赤なお鼻の、トナカイさんは、いつもみんなの、笑いもの」というトナカイのルドルフはいったい?

どうやらこれもアメリカが発祥の地で、1939年にシカゴのデパートの宣伝用のお話から生み出されたようです。

フィンランドのペンフレンドはトナカイの料理が大好きです。昨今は手に入りづらくなっているものの、フィンランドではトナカイの肉は今でもポピュラーな食材です。

「外国人でトナカイの料理を嫌がる人は少なくないんだよ。特にアメリカ人はね。彼らにとってサンタクロースとトナカイは子供の頃から大切なファンタジー。だからトナカイ料理を見ると、可愛いルドルフやルドルフの仲間が皿に盛られているようで、感傷的になっちゃうのさ。」

フィンランドは一応サンタクロースの故郷ともされています。(セント・ニコラウスは現在のトルコ付近出身だったはずですが・・・。)サンタクロースの家もあって、毎年世界各国から手紙が届いたり、サンタの家に各国から子供たちが押しかけます。

フィンランドをサンタクロースの故郷にしたのも、アメリカでしょう。トナカイが多いからそうなったのかもしれませんが、彼らがトナカイの肉に舌ヅツミを打っているのを知っていたのでしょうか。

「うーん、今日のルドルフはうまかった!」もうじきフィンランドのペンフレンドから報告が来そうです。

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梅ちゃん

2007年11月19日 | 友人・知人

「梅ちゃん」と思わず呼んでしまう高齢のご婦人がいます。

彼女は90歳近いお歳ながらコーラスグループを率い、高齢者施設(!)や刑務所慰問のボランティアに行ったり、手品の腕を磨いたりと、今時の若者より生き生きと毎日を送っています。

梅ちゃんは若い頃に保健婦をしていました。

「私が仕事をしている頃、一人のお年寄りの女性がよく会館にカラオケに来ていたのよ。きれいな人だったんだけど、実際の年齢より老けているというか、覇気がないというか。その人がある時ぱったりこなくなっちゃったんで、ご病気かな、どうしちゃったのかしらって心配していたの。

それから1ヶ月程して現れた彼女は驚いたことに別人のように、生き生きして若返っているじゃない。聞けばお嫁さんが怪我をして入院していたので、家事や孫の世話に追い回されていたと言うの。『今になってこんなにこき使われるなんて!』悪態をつくけど、うれしそうでね。人間やっぱり何歳になっても、やることがあって、頼りにされ、適度に気を張って生きていくことが大事なんだなってその時しみじみ思ったもんだわ。」

そんな梅ちゃんは一人暮らし。

「ちょっと具合が悪い時なんか、世話しなきゃいけない人がいるわけじゃないから雨戸閉めたまま寝ていたって構わないんだけどさ、ほら、一人暮らしの老人のところで雨戸が開いていないと近所の人に『死んでいるんじゃないか』って思われるから大変なのよ。這ってでも雨戸開けにいって、それからまた寝るの。」

「一人も気楽なんだけれど、人と話すことが少なくってね。話したいなって思うとこうやって(私の上着をつかみながら)『この服珍しい柄ね』なんて見ず知らずの人に話しかけちゃうのよ。」

スーパーなどに行くと、見知らぬ高齢女性から話しかけられることがあります。急いでなければしばし歓談することもあるのですが、彼女達の話はいつの間にか嫁の悪口や孫自慢、病気自慢となることも多く、辟易することも少なくありません。そこへいくと梅ちゃんの場合、“会話を楽しむこと”をモットーとし、相手へのサービス精神も決して忘れません。

梅ちゃんのような素敵な高齢者になりたいと常日頃思っています。

とはいえ、彼女を並のおばあちゃんと一緒にするのはふさわしくないのかも知れません。

以前、彼女と話していた時、話題がいたずら電話(変態男の電話)の話になりました。

「ほら、電話帳に女性の名前っていうと一人暮らしってわかるじゃない。そういう電話案外多くってね、この間もあったのよ。だから電話帳にのせないようにしてもらったの!」

と梅ちゃんは鼻を膨らませて怒りました。

彼女は永遠の“乙女”です。

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イタリアの友人

2007年11月18日 | 友人・知人

私が英語で文通を始めるようになったのは高校2年のとき。相手は1つ年下のイタリア人の女の子でした。

当時は今のようにEメールなどなかった時代です。やり取りは郵便しかなく、たとえエアメールでさえ、返事を受け取るまでに最短で2週間近くかかりました。

彼女は大変話好き。ネイティブではないので英語は完璧ではありませんが、いつも読む人を楽しませるための手紙を送ってくれました。彼女より数段英語力の劣る私は、そんな彼女に応えようと『高校生の為の文通ガイド』なる虎の巻と、英語の辞書を使って四苦八苦。しかし、結局大切なのは言葉より、伝えようと思う気持ちでした。

お互い不自由な英語ながら、家族、ペット、学校、イタリアの朝食、本の話・・・、そして大人になるに連れて、ボーイフレンド、進路、旅行、物価の話と内容も変わっていき、いつまでも話題がつきることはなかったのです。

しかし、まずは私の方が忙しくなってなかなか返事が書けなくなったことから、10年を過ぎた頃に、自然消滅のような形で二人の文通は途絶えてしまいました。

それから約15年たった一昨年の秋、私はイタリアに旅行しました。知人を訪問する為の旅行でもありましたが、これをきっかけに時々彼女のことを思い出すようになりました。

クリスマスカードを送ってみようかな-文通が途絶えてから大分月日がたっていたので、彼女の元にカードが届くかどうか確信はありませんでしたが、出してみる価値はあるはずです。届いたとき連絡をもらえるようにメールアドレスもカードに記しておきました。

そして翌年の2月になって、突然私のパソコンに彼女のメールが飛び込んできたのです。

懐かしい彼女から届く初めてのEメール。彼女はご主人と別居して、今は別の土地で暮らしている為、カードを受けとるのが遅れたとのことでした。

「あなたを忘れたことはありません。数年前に日本に大きな地震があったと聞いたとき、私は心配でたまらず、あなたに手紙を出しました。でも、その手紙が戻ってきてしまったのでずっと心配していたんです。また連絡が取れて本当によかった!」

(地震の心配は無用でしたが、)異国に住む友人がずっと私のことを気遣ってくれていた、それだけで、胸がいっぱいになりました。

今では、英語を大分忘れてしまったと言う彼女。確かに時おり気まぐれに届く彼女のメールは、昔と違って長くはありません。しかし、陽気で、エネルギッシュな文面は昔と変わらず、彼女のメールを受け取るたびに私はタイムスリップしてしまいます。

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Encounters with Japan

2007年11月17日 | 友人・知人

「将棋の多面打ちのようだね」と友人に言われる程多くなった私の海外のペンフレンド達。

私自身、始めた当初はこんなに多くのペンフレンドを持つとは思ってもいませんでしたが(現在8人)、今では皆かけがえのない人達です。

彼らは皆日本に興味がある人達で、そのきっかけを話してもらうのは楽しいです。

フィンランド人のペンフレンドは40代前半男性。

「10歳のとき、黒澤監督の『七人の侍』をテレビで見た。その翌日の昼休み、僕ら仲間は学校の裏の森でチャンバラごっこをし始め、何も知らない先生をハラハラさせた-それがすべての始まりさ。剣道も習ったから今でも1から10なら日本語で数えられるよ。」

彼の日本に対しての思いは、大学時代に知り合った当時60歳の日本人留学生の影響もあると言います。この男性はフィンランドの巨匠建築家アールトの研究をするため、単身フィンランドにやって来ていました。ペンフレンドとその仲間達は彼の中に『現代の侍』を見たのです。

ドイツ人のペンフレンドも40代前半男性。彼のきっかけも映画、そして日本文学。

「日本学を勉強し出したきっかけが、二つありました。一つは現代文学、川端の『古都』を独訳で読んだことです。

もう一つは、やっぱりドイツのテレビで小津の映画を観たことです。こんな作風の映画を作る国の文化を知ってみたかった・・・」

彼の日本語は非常に流暢で、日本語でやり取りできる唯一のペンフレンドです。

デンマーク人のペンフレンドは女性で40代後半。彼女も映画がきっかけでした。ただ、前出の二人と違って、その映画はハリウッド製作映画『将軍』。

今年の誕生日に友人からシリーズ版DVDをプレゼントされた彼女は、それを観て着物の袷が男女共左が上ということに気がつきました。

「西洋で男性の洋服の袷の左が上なのは、銃を懐に持って抜きやすくするためと聞いたことがあります。日本の場合、着物も短刀などを隠し持てるようにでしょうか。」

着物の袷が左上になった由来はともかく、DVDを観ながらもこんな細部も見逃しません。

他のペンフレンド達が日本に興味を持ち出したきっかけも、この3人と似たりよったりです。まあ、私達が海外の国に興味を感じ出すきっかけも似たようなものでしょう。

しかし、彼らと私達が大きく違うところは、彼らが皆自国の文化に対しての愛情と誇りを持った上で日本に興味をもってくれているという点です。

「愛情、誇りと言う前に、日本人は自国の文化に関心がなさすぎる。」

海外のペンフレンド、外国人の知人とのやりとりで、いつも反省させられるところです。

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アニミズム

2007年11月16日 | 生活・日常

昨夜、ちょっとした拍子に主人が息子のご飯茶碗を落として割ってしまいました。真っ二つに割れた茶碗を眺めながら、割った本人も、私もとてもショックを受けました。幸い持ち主は早く床についていたので、その場にはいませんでした。

その茶碗は別に高価なものではありません。ただ、息子が生まれたときに私の姉がお祝いに贈ってくれた5点セットの中の1つでした。

茶碗は平仮名で名前が入っている子供っぽいデザインでしたが、大人でも使える大きさだったので、高校生になった今でも息子は使っていました。食器のデザインに無頓着ということもありますが、彼にとって伯母から貰ったこの茶碗は特別なものだったのだと思います。

とはいえ、さすがに高校生にこの茶碗を使わせ続けることに限界を感じていた私は、「そろそろこれはしまって、別の茶碗を買ってこよう」と思い始めていました。

しかし、(そんな思いをキャッチして割れたような)お茶碗を手にとって、私は溜息をつきました。

もともと私は物に心があるような気がして、物をぞんざいに扱うことが出来ません。だから物が壊れて捨てなければならなくなったときは、「お別れをしなければならない」という気持ちで悲しくなるのです。しかも今回のように思い入れがあるものを処分しなくてはならなくなったときは特に。息子が小学校に上がると同時に使い出した茶碗です。

結局その割れた茶碗は翌朝までキッチンカウンターに重ねて置いておきました。すぐ捨ててしまうのは偲びなかったからです。

朝起きてきた息子は、自分のお茶碗が割れてしまったことを知ってしばし呆然。

茶碗が彼にとって大切であったこともありますが、アニミズムを私から受け継いでいた息子がショックを受けるのは分っていました。

「お茶碗、強力接着剤でくっつけておいたら、何かに使えるかな?食器としては無理だけど」こんなことをつぶやいたら、息子は馬鹿にするでもなく「うん」と頷きました。

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フィリピン人少女の自殺

2007年11月15日 | 海外ニュース・できごと

フィリピンのミンダナオ島で、小学校6年生の女の子が命を絶ちました。

「貧しさで勉強が全うできない」ことを苦にしての自殺でした。

この少女の家は電気も水道もなく、貧困層が住む地域の中でも特に貧しかったといいます。自殺の前日、彼女は学校で必要なものを買うために、100ペソ(260円)を父親に貰おうとしたけれど、父親にはそのお金がありませんでした。翌日に父親が借金をしてきたときは、少女は首をつった後だったといいます。

死後見つかった、望みをかなえる人気テレビ番組宛の彼女の手紙には、「私の望み:勉強を全うすること、自転車、学校のかばん、靴、両親の仕事」と書かれていたそうです。

少女は、交通費や食費が払えずに学校に行けないことも多く、よく泣いている姿が目撃されていました。

20年程前にマニラに行った時、空港では花を売る女の子達、路上では信号待ちの車の間を縫ってタバコなどを売ったり、窓拭きをしようとする男の子達などをたくさん目にしました。

夜遅くのレストランの出入り口で、急な雨に戸惑う客のもとに傘を差し掛けに走ってきた男の子にいたっては、まだ小学校前くらいにしか見えませんでした。皆あの手この手でアイディアをひねり出し、チップを貰おうと必死でした。

昔の日本では、貧しい家庭では、親に売られていく子供さえいました。今でもアジア、アフリカなどでもまだそういう国はたくさんあります。

フィリピンでは、親に売られるようなことはなくとも、学校に行かせてもらえない子供はまだたくさんいるでしょう。

この少女は、貧しくても学校に行かせてくれて、借金しても学用品を買い揃えようとしてくれる親を持っていたことは救いでした。しかし、その愛情が結果的に悲劇を招いてしまったのかもしれません。なんともやるせなさを感じさせる事件です。

これをきっかけに、フィリピンでは政府に対しての批判がでて、それで政府も飢餓、貧困対策の追加拠出を表明したとのこと。

弱者に対する救済措置等はどこの国でも腰が重く、「何か事件があった後議論が沸騰し、それから政府も行動を考える」というパターンがお決まりですが、「事件が起こる前に対策を考える」というのが本来あるべき姿だと思います。

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ここはフランス?

2007年11月14日 | 友人・知人

フランスの東部に住むフランス人ペンフレンドから、「パリについてどう思うか?」と訊かれました。

私がパリに行ったのはもう
20年以上前ですから、彼女の質問に答えるには情報が古すぎました。しかも、そのときのパリの印象は、私にとってあまり良いものではなかったので、「私はどちらかと言えば大都市より地方都市、もしくは普通の町や村をぶらぶらするのが好きなので、パリにもう一度行くならむしろ他の地方都市に行ってみたい。」と言葉を濁しました。

その反対に彼女に自分の首都に対しての感想を尋ねると、彼女は丁寧に答えてきてくれました。

「私は美術館や歴史的建造物がある首都を誇りにしています。でも、パリに行くたびに、『いったい私が今いるところは本当にフランスなのだろうか?』と外国にいるかのような錯覚を起こすんです。

パリではたくさんのアフリカ系の人達や、アラブ系の人達とすれ違います。言っておきますが、私は人種差別者なんかではありません。ただ時々、フランス語が多少しゃべれて、仕事もあって、法律を犯さなければ誰でも住めてしまうのが首都ということに対して疑問を感じます。」

ついで、治安の悪さや町の落書き、不衛生さを嘆いていましたが、彼女にとってのパリの一番の不満材料は、『フランスの首都に異邦人が多すぎる』と言うことのようでした。

これは正直な気持ちでしょう。大都市で異邦人が多いというのは別にパリに限ったわけではないし(実は今に始まったことでもないのですが)、そういう首都について国民が残念に思うことは自然だと思います。

日本の、それこそ京都のような古都に多種多様な民族が住み出したら、そしてそれが当たり前の姿になったら、たぶんそれがどんな人種、民族であっても喪失感、場合によっては屈辱感を感じるのではないでしょうか。

また仮に、カサブランカで多くの東洋人が住み着き、モロッコ人より東洋人の方が多い場所がいくつもあったら、外国人の私から見ても少し寂しく感じます。

移民問題はいろいろ複雑ですが、「古きよき町を、何処の国だかわからないような町にしないでほしい。」そんな単純な願いも、もう少し理解されても良い気がします。

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