Various Topics 2

海外、日本、10代から90代までの友人・知人との会話から見えてきたもの
※旧Various Topics(OCN)

ナポレオンが大物になった背景-14(フランス銀行、サンシモン主義者)

2024年01月05日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

昨年から調べだした、「ナポレオンはなぜ大物になれたか」。

時系列を無視し、寄り道しながら書いてきました。

ナポレオンが大物になった背景-1(ジャン・ピエール・バシャッソン~クロード・ペリエ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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ナポレオンが大物になった背景-13(ギリシャのユダヤ人とサンジョルジョ銀行) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

ナポレオンはコルシカ生まれ。コルシカに移住したのは、実質コルシカを統治したようなサンジョルジョ銀行とつながりがあったから。

ジェノヴァ共和国を支えたサン・ジョルジョ銀行とは? (europa-japan.com)

このサンジョルジョ銀行を閉鎖したのもナポレオン。

フランスの中央銀行がこれに変わってできます。

さて、フランス(中央)銀行設立に大きくかかわったのが、

解体させたのもナポレオン。言い方を変えれば、サンジョルジョ銀行がフランス(中央)銀行に生まれ変わったーといえるのではないでしょうか。

フランス銀行 - Wikipedia

 

その後活躍することになるプロスペル・アンファンタンの親族はナポレオンの部下が2名ーアンファンタンは殉職した親族のおかげで、奨学金を得てリセに進学。ただし、工科大学では奨学金はおりず。

Prosper Enfantin — Wikipédia (wikipedia.org)

サンシモン主義者-5(Prosfer EnfantantとSaint=Simonianとスエズ運河) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)サンシモン主義者-5(Prosfer EnfantantとSaint=Simonianとスエズ運河) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

10+1 website|概念化の源流から見るネットワークの世界|テンプラスワン・ウェブサイト (10plus1.jp)

 

なお、このアンファンタンは、一番上のブログ記事に書いた、クロード・ペリエ一族とひょっとしたら遠縁かもしれません。

 

「ペリエ家とオルレアニスム」のブログ記事一覧-Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「Charlotte Enfantin(たぶん、1746年-1805年)」という人物で繋がるかもしれませんが、残念ながらデータは見つかりません。

ドーフィネ - Wikipedia

Marie Louise Enfantin (故人) - Genealogy (geni.com)

Pierre François Duchesne (1743 - 1814) - Genealogy (geni.com)

Rose Euphrosie Perrier (1748 - 1797) - Genealogy (geni.com)

Claude Périer, II (1742 - 1801) - Genealogy (geni.com)

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ナポレオンが大物になった背景-13(ギリシャのユダヤ人とサンジョルジョ銀行)

2023年12月23日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

ナポレオンが大物になった背景-10(コルシカのギリシャ移民とポッツォ・ディ・ボルゴ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-11(「コルシカ」とナポレオン) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ナポレオンが大物になった背景-12(コルシカに移住したトレビンゾ皇帝の子孫) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「反ユダヤ主義が高まっているからコルシカにユダヤ人移住を」…!? - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の続きとして

 

ナポレオンとコルシカ、ギリシャを調べていて、キーワードとしてでてきたものに「サンジョルジョ銀行」があります。

サン・ジョルジョ銀行 - Wikipedia

サン・ジョルジョ銀行(イタリア語:Banco di San Giorgio[1], 英語:Bank of Saint George)はヨーロッパ最古の認可された銀行である。1148年に創立され、ジェノヴァ共和国の財政を一手に引受けた。教会大分裂時代の1407年にフランスの干渉を受けて社名を変更している。預金供託金庫のモデルとなった。

(中略)

組織
本店はジェノヴァ初代ドージェ、シモーネ・ボッカネグラ(イタリア語版)の叔父グリエルモ・ボッカネグラ(イタリア語版)の指示で13世紀に建てられたサン・ジョルジョ宮殿(イタリア語版)にあった。

モナコのグリマルディ家を含むジェノヴァの著名な家族のいくつかが、この銀行の設立と統治に関わった。

サン・ジョルジョ銀行はその資金と直接投資を管理した4人のコンスルによって治められた[3]。共和国の有力な寡頭統治者たちはしばしば同行の要職を兼ねたので、銀行と共和国それぞれの影響力を区別するのは困難がつきまとった[4]。

サン・ジョルジョ銀行は設立当初から国に対し短期の当座貸越を与えていた。現金不足をしのぐために1408年から一般預金を受け入れだしたが裏目に出た。15世紀前半、銀貨の相対的下落に伴いフローリン金貨が値上がりし続けた。銀行は膨大な損失を蒙り、何度も取り付けに遭い、公債利子の現金払いすら難しくなった。この歴史を反省して、1539年にはスクード金貨[5]のみを扱う5種金貨建て口座を、1606年にはジェノヴァの銀スクード貨建ての口座とスペインのレアル貨建ての口座を新設した[6]。これは1604年にリヨンで為替相場を統一したことにともなう措置である。

事業

ジェノヴァの海外領土のほとんどは直接または間接にサン・ジョルジョ銀行が治めていた。15世紀を通して、共和国はその領土の大部分を段階的に同行の支配から取り戻した。しかし1453年、コルシカ、ガツァリア(イタリア語版)(クリミアと黒海周辺にあったジェノヴァ植民地)及びいくつかの領地の統治を同行の幹部たちに委ねた[7]。タマン半島はギソルフィ家(英語版)の支配下にとどまったが、一方でその君主の一族は同行の監督下にあった。

(中略)

16世紀後半からポルトガルやスペインの貿易事業も融資を受けており、17世紀には海洋貿易に深く関わり、オランダ東インド会社やイギリス東インド会社などと競争した。これには当時の日本とのいわゆる「南蛮貿易」も含まれる。

ナポレオンのイタリア遠征後、フランス銀行を中央銀行とするため、1805年にサン・ジョルジョ銀行は閉鎖された[8]。

 

(追記:

ナポレオンの先祖のフランチェスコ・ボナパルト(貴族)は、サンジョルジョ銀行で傭兵をし、1490年に銀行が支配していたコルシカ島に行き、アジャシオにあったサンジョルジュ銀行の代表者のGuido da Castellettoの娘と1493年に結婚したようです。

House of Bonaparte - Wikipedia

Sebastiano Nicola Buonaparte - Wikipedia

Sarzana - Wikipedia

 

 

15世紀にこの銀行に大きくかかわったのが、ギリシャ系ユダヤ人のギゾルフィ家。

Ghisolfi - Wikipedia

抜粋google翻訳:

デ・ギゾルフィ(デ・ギゾルフィ、デ・ギゾルフィ、ギグルシス、ギルグルシス、ギクスルフィスとしても知られる)は、中世後期からルネサンス初期にかけて著名なジェノバ・ユダヤ人の家族の名前である。

1419年、ジェノヴァのユダヤ人シメオネ・デ・ギゾルフィは、ビハカニムというタマン半島のトゥムタラカン自治体の君臨王女と結婚し、おそらくマトレガの町を中心とするこの地域を占領した[1]。 デ・ギゾルフィ一族は、15 世紀のほとんどの間、ガザリアのジェノバ領事館の保護領としてこの公国を統治しました。 1453年、ジェノヴァ共和国はクリミアの所有地を、多額の負債を抱えていた民間企業であるサンジョルジョ銀行に譲渡した。

ギゾルフィ家は銀行に代わってマトレガとその周辺地域を統治し続けた。 ホジ・ココスなどの仲介者を通じて、彼らはモスクワや他のロシア公国の支配者との関係を維持した。 ザカリアス・デ・ギゾルフィ シメオネの子孫であるザカリアス・デ・ギゾルフィは、1480年頃からタマン半島の王子兼統治者であった。

 

ギゾルフィの支配は、タマン半島だけに限らなかったのではないでしょうか。

タマン半島 - Wikipedia

タマン半島(タマンはんとう、英語: Taman Peninsula、ロシア語: Таманский полуостров)は、ロシア南部のクラスノダール地方にある半島。北のアゾフ海と南の黒海を分けるように東から西へ向かって伸びており、西はケルチ海峡を隔ててクリミア半島(クリミア共和国)と向かい合っている。クバン川が注ぎ込んでおり、半島各地には泥火山が見られ、天然ガスや石油も埋蔵されている。

ポントスから渡ってきたギリシア人がこの半島にヘルモナッサ(Hermonassa, Germonassa)やファナゴリア(Phanagoria)といった植民都市を築き、後にはハザールやキエフ大公国の都市トムタラカン(Tmutarakan)も築かれた。現在は港湾都市テムリュクが半島北部のクバン川河口付近にある。また半島の南の付け根にはリゾート都市アナパがある。

歴史
古代ギリシアの文献には、マエオタエ(マイオタイ人、Maeotae)やシンディ(シンドイ人、Sindi)といった先住の民族の名がみられる。ここにギリシア人たちが植民市を築き交易をおこない、後にはボスポロス王国の一部となった。

4世紀にはフン族がこの周囲を征服し、その後は大ブルガリアが、さらに7世紀半ばにはハザールが支配した。969年頃にハザール・ハン国が分解すると一時的にハザール・ユダヤ人の後継国家が建ったが、980年代末にキエフ・ルーシが半島を征服しスラブ人の国・トムタラカン公国が成立した。さらに1100年頃にはキプチャクが、1239年にはモンゴル帝国が侵入し、1419年にはジェノヴァ共和国の商人がタマン半島を含む黒海北岸に植民地を築いた。

15世紀を通して、クリミア半島に築かれたジェノヴァの都市・ガツァリア(Gazaria)に拠点を置く、ユダヤ系ジェノヴァ人のギゾルフィ家(Guizolfi, Ghisolfi)が、サン・ジョルジョ銀行の監督下でタマン半島を支配した。彼らはユダヤ人の執政官を通じてタマン半島を治めたが、彼らの存在は後に、ハザールのユダヤ教徒がこの時代までロシア南部に残っていたかどうかを巡る論争の元となっている。

1483年にはクリミア・ハン国がタマン半島を征服し、1783年にはオスマン帝国領となった。第二次露土戦争のさなかの1791年にロシア帝国がタマン半島を占領し翌年にはオスマン帝国に返還したが、1828年にはアドリアノープル条約でロシア領となった。ロシア領となったばかりの頃はタマン半島は人影はまばらで、入植したクバーニ・コサックが築いた集落(スタニツァ)タマン(Taman)が最大の町であったが、港湾都市のテムリュクがタマンに代わり最大の町となった。

なお、以前紹介した世界最古の銀行に、このサンジョルジョ銀行は入っていませんが、「消滅した銀行」であったからのっていなかったのか。

銀行とユダヤ人-2 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

銀行とユダヤ人-番外編(世界最古の投資銀行ベレンベルグ銀行) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

銀行とユダヤ人-番外編(ランベール邸のサミュエル・ベルナールが設立した銀行Banque générale/Banque royale) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

銀行とユダヤ人-番外編(Banque Generali~Genelali group) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

銀行とユダヤ人-3(Goldsmithと銀行) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

銀行とユダヤ人-4(ベンジャミン・ディズレーリの祖父とコーヒーハウス) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

おそらく、サンジョルジョ銀行は、「ジェネラリ」とともに「ロイズ」と無縁ではなかったでしょう。

ロイズとジョン・ジュリアス・アンガースタイン-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロイズとジョン・ジュリアス・アンガースタイン-2(Thompson/Thomson) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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「反ユダヤ主義が高まっているからコルシカにユダヤ人移住を」…!?

2023年12月18日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

今年10月31日の記事:

コルシカで19件の爆発 - OVNI| オヴニー・パリの新聞 (ovninavi.com)

コルシカ島各地で深夜に計19件の爆発が起きた。ガスボンベなどを使った爆発物によるもので、多数の別荘、旧税務署、不動産屋などが被害に。負傷者なし。翌日、コルシカ民族解放戦線(FLNC)が犯行声明を出したが、当局は2014年に武装闘争をやめたFLNCの再武装にしては早すぎると懐疑的で、分派の可能性も高い。マクロン大統領は9月末に同島を訪問し、仏大統領としては初めて自治権付与の可能性を探ると約束した。コルシカ議会はコルシカ語の公用語化、不動産購入の住民限定を求めており、協議は難航しそう。

 

今年11月4日の記事:

French Jews Are Seeking Sanctuary in Corsica ━ The European Conservative

Google翻訳:

フランスのコルシカ島のラビは、ハマスによるイスラエル民間人1000人以上の虐殺を受けて反ユダヤ主義が高まり続ける中、フランス本土での身の安全を恐れ、フランスの多くのユダヤ人が同島への移住について彼に連絡してきたと報告した。 先月。 コルシカ島のラビ、リーヴァイ・ピンソン氏は放送局ヨーロッパ1に対し、地中海の島への移住の可能性に関して、フランス各地のユダヤ人から多くの要望を受けていると述べ、「多くの人が、ここの生活状況を知りたい、話をしたいと私たちに連絡してくる」と語った。 可能性のある動きについては私たちに伝えてください。」 「彼らは子供たちと静かに暮らせる地域を探している」とラビは述べ、この島に興味を持ち、移住を真剣に検討しているユダヤ人たちから、先週だけで十数件の電話を受けたと述べた。

(中略)

コルシカ島ではユダヤ人はおおむね歓迎されているが、同島のイスラム教徒にとって状況はやや異なる。2015年のクリスマスに激しい反アラブ暴動が発生したときなど、これまで地元住民が反イスラム教徒の破壊行為や暴動に巻き込まれてきたからだ。 デモ参加者はイスラム教の礼拝堂を破壊し、イスラム教コーランのコピーに火を放ち、数百人が「アラブ人出て行け」などのさまざまなスローガンを叫びながらコルシカ島の首都アジャシオの通りを行進した。 翌年の夏、北アフリカ人と地元の若者の間のビーチでの乱闘中に、「ブルキニ」として知られるイスラム教の水着を着た女性の写真を撮っている地元民を北アフリカ人が捕まえたことから、別の暴動が勃発した。 昨年、コルシカ島の著名な民族主義者イワン・コロンナ氏が、イスラム教に関して「冒涜的な発言」をしたとして、イスラム過激派テロリストによって殺害された。 コロンナさんは襲撃後当初昏睡状態に陥り、コルシカ島で数日にわたる抗議活動と暴動が発生し、最終的には治療を受けていた南フランスの病院で数週間後に死亡した。

「反イスラエル政権」を「反ユダヤ」と置き換えることに、ユダヤ系の人々も多く反対しているのですけどね。

罪もなく殺されているパレスチナ人&政府に無視されているイスラエル人の人質)が見えない人たち・・・。

 

参考:

Beth Meir Synagogue - Wikipedia

コルシカのユダヤ人の歴史のwikipediaがないので、かわりにコルシカの下にあるサルディーニャ(イタリア)のユダヤ人の歴史のwikipedia:

History of the Jews in Sardinia - Wikipedia

 

追記:

Any Port in a Storm: Palestinian Jews in Corsica (1915–1920) | Cairn International Edition (cairn-int.info)

Google翻訳:

1915年12月から1920年8月まで、オスマン帝国のシリアとパレスチナの州から追放されたイスラエル系フランス国民またはフランスの保護下にあるユダヤ人からなる800人の難民がコルシカ島に受け入れられた。 1 つはアジャシオ、もう 1 つはバスティアの 2 つのグループで構成され、それらの統合はイスラエル人宇宙同盟the Alliance Israélite Universelleの支援を受けて島の行政サービスを担当しました。 彼らが強制滞在に耐えられるようにし、島社会の生活様式を共有しやすくするために、衣服、健全な学校、仕事などあらゆることが取り上げられた。 ついに故郷に帰る時が来たとき、大多数は島を離れることを選びました。 しかし、これらのユダヤ人とコルシカ島とのつながりは生き続けました。 コルシカ島に残ることを決めた人もいれば、2つの世界大戦の間に戻ってきた人もいた。 今日でも、バスティアの小さなイスラエル人コミュニティの中に、これらの難民の子孫がいます。

Alliance Israélite Universelle - Wikipedia

History of the Jews in France - Wikipedia

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ナポレオンが大物になった背景-12(コルシカに移住したトレビンゾ皇帝の子孫)

2023年12月18日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

ナポレオンが大物になれたきっかけは、コルシカに駐在していたフランスのマルブフ総督の縁。

このマルブフ総督はもちろん、ルイ16世にとってもVIPであったのが、ステファノポリ家。

Demetrio Stefanopoli - Wikipedia

デメトリオ・ステファノポリ(Demetrio Stefanopoli、1749年11月12日 - 1821年8月8日)は、コルシカ島の著名人でフランス軍の軍人であった。 コルシカ島のギリシャ人コミュニティの一員である彼は、1782 年にルイ 16 世からトレビゾンド最後の皇帝ダヴィッド コムネノスの子孫および後継者であることを認める特許状を受け取り、その後フランス語ではデメトリウス ステファノポリ コムネーヌとして知られていました。

出身と家族

デメトリオ・ステファノポリはコンスタンティーノ・ブサッチ・ステファノポリの息子であり、彼自身もパオミア[1]のギリシャ人コミュニティの世襲長の息子でした。パオミアは1676年にマニ半島のヴィティロ出身のギリシャ人によって設立されたコルシカ島の村で、軍事指導者ナポレオンが統治したのと同じコミュニティです。 ボナパルトが所属していた[2]。

1729年から1731年のコルシカ革命でジェノヴァ側についた他のギリシャ人コミュニティと同様に、家族は土地を失い、アジャシオで騎兵部隊の隊長としてコンスタンティーノの給料と年金で生計を立てていた。 フランス軍。 その結果、1772年に彼が亡くなったとき、彼の未亡人はフランス陸軍大臣に自分と子孫の援助を求める手紙を書かなければならなかった[1][4]。

デメトリオには、ジョルジオ、ローラ=マリア、ジョバンニ=ステファノという2人の兄弟と1人の妹がいました。 彼の妹のパノリアはアブランテス公爵夫人ロール・ジュノーの母であった[5]。

(中略)

1781年、デメトリオは王室系図学者に自分の系図を提出し、1782年4月にルイ16世は彼の姓の主張を認めた[10]。 彼の新しい地位に従って、彼は王室の馬車に乗る権利を与えられ、1785 年の結婚契約は王室によって署名されました。 彼の妻であるエドメ・マリー・ド・ラ・ショセ・ド・ブーシュヴィル夫人は、他ならぬラ・トゥール・ドーヴェルニュ伯爵夫人によって王宮に紹介された [14] 。 1800 年の作品『ギリシャの航海』より、マニのマラソニシとギテイオン遺跡の眺め フランス革命後、彼は当初、反革命軍コンデに参加した。

1796年から1797年にかけてフランスがイタリアを征服した後、彼はオスマン帝国からの独立を求めるギリシャ人の願望を利用する計画でナポレオン・ボナパルトに雇われた。 ナポレオンは1797年にステファノポリを代理人としてギリシャに派遣し、伝えられるところによると彼をギリシャ王位の候補者とさえ考えていた。

ナポレオンは、デメトリオの妹が未亡人になったとき、年下にもかかわらず、彼女に結婚を申し込んだそうです。

 

(デメトリオの姪のウィキペディア

Laure Junot, Duchess of Abrantès - Wikipedia

に書いてあった情報。

Laure Marie "Panoria" Stefanopoli (or Stephanopoli de Comnène), to whom during her widowhood the young Napoleon Bonaparte made an offer of marriage. 

 

トレビゾンド帝国 - Wikipedia

 

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ナポレオンが大物になった背景-11(「コルシカ」とナポレオン)

2023年12月17日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

「コルシカアドべンチャー」というサイトの歴史のページに、書いてある文章-

History of Corsica (corsica-aventure.com)

抜粋google翻訳:

ナポレオン・ボナパルトは、おそらく世界で最も有名なコルシカ人です。 1769 年 8 月 15 日にアジャクシオで生まれたナポレオンは、1797 年にフランス共和国第一領事に就任し、彼の名前と銅像は今日に至るまで故郷アジャシオでよく見られます。 しかし、ナポレオンは自分の生まれた島に対してあまり郷愁や愛情を持っていないようで、彼の治世中、コルシカ島はフランス国家からほとんど無視されていた。 ナポレオン戦争末期の 1814 年、コルシカ島はイギリス軍に占領されましたが、王政が再確立されるとすぐに島はフランスに返還されました。 ナポレオンが隣のエルバ島に追放されたとき、アジャクシオは「喜んだ」と言われています。

「コルシカ島」と言えば「ナポレオン」と私たちは連想しますが、少なくとも当時も今も、独立派のコルシカ人だったら、それは「不愉快」なことだったのではないか、と思います。

 

ナポレオンにはさほど興味がなかったので調べることをしませんでしたが、欧米や日本の「ナポレオン研究家のサイト」がとても多いのに感心しました。

それに対し、コルシカの歴史は資料も研究も少ないようです。

いずれにしても、コルシカと切っても切れないギリシャ移民の話から、「第一次世界大戦後はコルシカ島から南フランスへ市民の大量流出。 この時期に財力のあるコルシカ人が植民者となり、落ちぶれたものの子孫がベトナム、アルジェリア、プエルトリコで農業事業を始めた」というような、コルシカには興味深い話があることに気が付くことができました。

History of Corsica - Wikipedia

Greeks in France - Wikipedia

Greeks in pre-Roman Gaul - Wikipedia

Cargèse - Wikipedia

オマケ:

オック語 - Wikipedia

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ナポレオンが大物になった背景-10(コルシカのギリシャ移民とポッツォ・ディ・ボルゴ)

2023年12月16日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

ナポレオンが大物になった背景-4(ヴァランスとマルブフ伯父、甥) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

「コルシカでナポレオンの面倒をみた父マルブフがコルシカでギリシャ移民の為に村を建設」というのが気になっていて、改めて調べてみたら、このような記事を見つけました。

 

The Fascinating Story of the Greeks of Corsica - GreekReporter.com

地中海で 4 番目に大きい島であるコルシカ島は、かつてはオスマン帝国の支配から逃れるために逃れてきたマニのギリシャ人にとって人気の目的地でした。 マニ半島の人々は、とりわけ自由な精神とギリシャ正教の伝統への献身で有名です。 17 世紀の終わり頃、オスマン帝国の支配下で生活できなくなった反抗的なマニオ族はコルシカ島に逃れ、そこで独自の小さなマニ族を設立し、言語、信仰、伝統を守りながら新しい故郷に定住しました。

1670年にオスマン帝国がペロポネソス半島のマニ半島の一部(エクソ・マニとザルナタ城、「マニの要城」)を占領したとき、住民に重税を課し、支払いを拒否した人々を迫害しました。 多くの人も亡命を余儀なくされました。 多数のマニオットがジェノヴァ共和国へ逃亡し、定住して耕作できる土地を求めることを決意した。 1675 年 10 月、730 人のマニオットがオイティロス港で船に乗り、ジェノヴァに向かった。 ジェノバ人と交渉したステファノプロス一家が率いるギリシャ人移民には、オイティロス司教パルテニオス・カルカンディスのほか、5人の司祭、12人の修道士、数人の修道女が同行した。

どういうわけか、マニからジェノヴァまでの旅で120人が命を落としました。 残りはジェノバに短期間滞在した後、当時ジェノヴァの領土であったコルシカ島に移送された。 もちろん、何世紀も前に、地中海の島は古代ギリシャ人によって大々的に植民地化されていたため、これはそこでの 2 番目のギリシャ人の植民地を構成しました。 ギリシャ人は島の乾燥した乾燥した場所を与えられましたが、そこは驚くほどマニに似ていました。 移民たちはそれをパオミアと名付けました。 それは現在のカルジェーズ村から東に 4 km (2.5 マイル) の場所にありました。 ギリシャ人はコルシカ島で文化、言語、伝統を守りました。 頑固なマニオットたちは、ジェノヴァ共和国に政治的忠誠を誓いながらも、何世代にもわたって国民的アイデンティティ、言語、多様性、正統信仰を守り続けました。

しかし、彼らのアイデンティティと伝統を維持するのは簡単ではありませんでした。 地元住民は冷酷な人々で、厳格で妥協のないカトリック教徒で、最初から入植者たちを良く思っていませんでした。 コルシカ島とギリシャ人の間の紛争は長年続きました。 それにもかかわらず、マニオ族は繁栄し、互いに近いパンコーネ、コロネ、ロンドリーノ、サリチ、モンテロッソの 5 つの村落を再建しました。 彼らはまた、7 つの小さな教会と聖マルティンに捧げられた修道院を建設し、修復しました。 ロンドリーノの主要教会は被昇天の聖母に捧げられました。 入植者と地元住民の間の紛争は 1715 年に頂点に達し、コルシカ人の武装集団がマニオットを攻撃し、最終的には撃退されました。 1729年、ジェノバ共和国に対するコルシカ人による島全体の蜂起の際、ギリシャ人はジェノバに対する忠誠を保ち、その結果、家が放火され、略奪された。 ついに 1731 年 4 月、ギリシャ人はパオミアを放棄し、アジャシオに避難することを余儀なくされました。

(中略)

1768年、フランスがコルシカ島の支配権を獲得し、フィヘレンであった総督コント・ド・マルブフは、フランス国王から約120のテラスハウスの費用を負担してカルジェーズ村の建設を手配した。 1775 年、ジョルジュ マリー ステファノポリの指導の下、ギリシャ人入植者のほとんどがアジャシオから新しい村に移住し、1784 年までにカルジェーズには 386 人のギリシャ人が住んでいた。

現在、コルシカ島に残っているギリシャ人コミュニティはほんのわずかです。

1789 年から 1791 年にかけて、カルジェーズはフランス革命によってもたらされた一般的な内乱の結果、近隣の村からの攻撃にさらされました。 1794 年、コルシカ島は短期間イギリスの手に落ちました。 1814 年、フランス第一帝政の崩壊に伴い、周囲の村々がカルジェーズ川の農地の一部を引き継ぎました。 1830 年にシャルル 10 世とブルボン王政が打倒されたときも同じことが起こり、コルシカ島のギリシャ人が平和を享受したのは短期間だけでした。 1874 年から 1876 年にかけて、この村のギリシャ語を話す住民の多くがアルジェリアのシディ メルアンに移住しました。同時に、より多くのコルシカ人が移住し、ギリシャ人は少数派になりました。

(後略)

 

ナポレオンの家系はもともと トスカーナ出身とのこと。なので、ギリシャ移民の話は直接には関係がなかったと思います。

ところが、ギリシャ移民とつながりがありそうだったのが、ポッツォ・ディ・ボルゴの家系。むしろ、フランス人のマルブフ総督と懇意だったのが、こちらが先だったのではないでしょうか。

Famille Pozzo di Borgo — Wikipédia (wikipedia.org)

抜粋フランス語google翻訳:

15 世紀半ばに住んでいたピエール ロヴィコ ダ ポッツォ ディ ボルゴは、ザンテ島 (ギリシャ) に定住して繁栄した一族の祖先です。 この支部からは、とりわけ、1598 年にアジャシオの兵士、1606 年にヴェネツィアに従軍した大尉ステファノ ポッツォ ディ ボルゴが誕生しました。

ドメニコ・ポッツォ・ディ・ボルゴ (1612-1685) は 51 年間ヴェネツィア政府の命令下に残り、1675 年にコルフ島、スーダ島、ザンテ島のイタリア中隊の大佐およびカンディア島の少佐としてのキャリアを終えました。 1649年4月29日、ザンテで、ザンテ貴族のジョルジョの娘エレナ・アポストリティと結婚した。 ジローラモ・ポッツォ・ディ・ボルゴ (1660-1705) ヴェネツィア軍曹長、1683 年艦長。1684 年に貴族バティスタの娘ビアンカ・モチェニゴと結婚。この支部はヴェネツィアで 1737 年に曹長ジローラモ ポッツォ ディ ボルゴによって消滅したが、彼は子孫が不明のまま亡くなった。

ポッツォ ディ ボルゴ家の一部の分家は弁護士、公証人、弁護士の家系を生み出していますが、その他の分家はサンゴの船長たちとともに海に目を向けています。 17 世紀以降、ポッツォ ディ ボルゴ家は、主にコルシカ島の町や村、特にアジャシオ、アラタ、アピエット、ヴィラノバだけでなく、地中海沿岸にも設立された多数の支部に分かれました。 コルシカ島では彼らは貴族の一員であり、ジェノバ評議会においてコルシカ人を代表しています。

参考:

スタヴィスキー事件-番外編(フランス人をスウェーデン王にした黒幕) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

革命と戦争、コルシカとカルボナリ-7 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

革命と戦争、コルシカとカルボナリ-6 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

革命と戦争、コルシカとカルボナリ-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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ナポレオンが大物になった背景-7(ナポレオンの母親の異父弟ジョセフ・フェシュ)

2023年12月13日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

昨日の記事

ナポレオンが大物になった背景-6(サンジェルマン伯爵とナポレオン) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

の末尾で紹介したのは「ヘブライの館」さんの記事。

サン・ジェルマン伯爵の謎〈後編〉 (client.jp)

この記事に書いてある「フェッシュ」-

抜粋:

ある日ナポレオンの腹心の部下のひとり、フェッシュが作戦上の意見を述べようとしたことがある。しかし、ナポレオンはまったく聞く耳をもとうとはしなかった。が、しばしの沈黙のあと彼は、フェッシュを宮殿の窓のところへ連れていき、こうたずねた。
「フェッシュ君。君にはあの巨大な星が見えるか?」

日中である。フェッシュは驚いて首を振った。
「いえ、何も見えません」

「そうだろう。あの星が私だけに見えているうちは全てがうまくいく。だから、私は他人の意見に耳を傾ける必要がないのだよ」

やはりナポレオンは、何かとてつもない力を身につけていたのだろう。それとも、魔術的な力とはまったく別のもの、たとえば人類の叡智をはるかに上回る“見えざる意志”とでも呼べるような未知の力によって、突き動かされていたのだろうか。

その後、ナポレオンは十数回にも及ぶ遠征で、次々と勝利を収め、ヨーロッパの大半を支配し、1802年、終身統領となって専制的権力を手中にしたのだった。そしてフランス革命を収束させ、『ナポレオン法典』の制定、学制、司法、行政の大幅な改変などの改革を行い、1804年、ついにフランス皇帝となって権力の絶頂を極めた。

このように、ナポレオンはわずか10年たらずで「皇帝」という地位にまで昇りつめていったのである。


このフェッシュというのは、おそらくナポレオンの母親の異父弟で、ナポレオンとは6歳くらいしか年上でない、ジョセフ・フェッシュだと思うのです。

(ナポレオン1769年生まれ、ナポレオンの母1750年生まれ、ジョセフ・フェッシュ1763年生まれ)

 

ブリタニカから

Joseph Fesch | Napoleonic diplomat, art collector | Britannica

Google翻訳:

ジョゼフ・フェッシュ(Joseph Fesch、1763年1月3日、コルシカ島のアジャシオで生まれ[現在はフランス]、1839年5月13日、教皇領[イタリア]のローマで死去))は、ナポレオンのローマ・バチカン大使を務めたフランスの枢機卿。 フェッシュはコルシカ島人で、ナポレオンの母親の異父兄弟でした。 エクス神学校で学んだ後(1781年 - 1786年)、故郷アジャクシオの大聖堂支部の大執事となった。 フランス革命中、ボナパルト家は先住民の革命指導者パスクァーレ・パオリのコルシカ島革命に反対し、フェッシュは1793年に彼らに加わることを余儀なくされ、トゥーロン神父への移住を余儀なくされた。その後すぐに彼は教会を離れ、多額の利益を上げた。

ビジネスベンチャーを通じて富を築き、供給請負業者としてナポレオンのイタリア訪問に同行した(1795年 - 1797年)。 フェッシュは 1800 年に教会に戻り、2 年後にリヨン大司教に任命されました。 1803年、彼は枢機卿の帽子を受け取り、フランス大使としてローマへ旅立ちました。 このポストで、フェッシュはしばしば熱意を示さなかったが、帝国の政策と教皇の抵抗の間の困難を解決しようとすることを余儀なくされた。 彼はナポレオンのデザインのこの側面からますます疎遠になっていきました。 1809年、ナポレオンが法王を事実上投獄した後、フェシュは抗議の意思表示としてパリ大司教座の受け入れを拒否した。

1811年、彼はガリア(またはフランス国立)教会の評議会を開き、教皇制への忠実さを力強く宣言した。 この無分別さにより、フェシュはリヨンに隠棲し、帝国が崩壊するとローマに隠棲しなければならなくなりました。 彼はリヨン大司教のまま残りの人生を送ったが、教皇は彼を追放するというフランスの要求に応じなかった。

1789年にフランス革命が勃発すると、彼は大多数のコルシカ島住民と同様に、同時期のフランス政府の行為の多くに嫌悪感を抱いた。 特に彼は、聖職者の市民憲法として知られる法律(1790年7月)のコルシカ島への適用に抗議した。 その都市の「支部」の校長として、彼は出来事の圧力を直接感じた。 というのは、宗教教団と企業の弾圧により、彼は私生活に隠蔽されることを余儀なくされたからである。


英語版wikipediaより

Joseph Fesch - Wikipedia

抜粋google翻訳:

フェッシュはコルシカ島のアジャシオで生まれました。 彼の父親はジェノヴァ共和国に仕えるスイス人士官フランツ・フェシュで、彼の家族はバーゼル貴族領に属し、1562年に神聖ローマ帝国で貴族に叙せられていた。母親は貴族アンジェラ・マリア・ピエトラサンタだった。 彼の母親は以前にジョヴァンニ・ジェロニモ・ラモリーノ大尉と結婚しており、異母姉に後にナポレオンの母となるレティツィア・ラモリーノがいた。 アジャシオ大執事ルチアーノ・ブオナパルテ (1718-1791) の支援を受けて、1781 年にエクス アン プロヴァンスの神学校に入学しました。1785 年に司祭に叙階され、24 歳でアジャシオ大執事になりました。 1791 年にルチアーノ ブオナパルテが亡くなった後、彼はしばらくの間、妹の家族の保護者および後援者となりました。

 

仮置き

Faesch - Wikipedia

Jules Faesch – Wikipedia

Paul Piccard – Wikipedia

Lucien Pictet – Wikipedia

LeRoy and Pictet - Wikipedia

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革命と戦争、コルシカとカルボナリ-9(コルシカ人フランソワ・コティ)

2023年12月07日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

コティのことは今までも何度か取り上げて、wikipediaも何度か紹介していますが、今回はコティの「コルシカ人の政治運動家」としての面を知るために、「政治」部分のgoogle翻訳を貼り付けます。

François Coty - Wikipedia

抜粋google翻訳:

1923年、接戦の末、コティはコルシカ島上院議員に選出されたが、彼の勝利は長くは続かなかったことが判明した。 フランス上院は収賄容疑で1924年に彼の選挙を無効にした[33]。  1922 年、コティは上流階級の読者を抱える権威ある保守新聞であるフィガロを買収しました。 コティは新聞の名前をフィガロに変更し、本社をロンポワン・デ・シャンゼリゼに移転した[34]。

コティの所有下で、かつては穏健保守だった同誌は、政治と経済に関して極右の立場を採用した。 フィガロは激しい反共産主義の記事を多数掲載し、政府に対する強い反対姿勢で悪名高かった。 彼はまた、「アクション・フランセーズ(彼は500万フラン以上を寄付した)、カサニャックのボナパルティスト・オーソリテ、クロワ・ド・フの機関紙ル・フランボーを含む6紙の過激派新聞」に助成金を出した[35]。

1926年、コティはレイモン・ポアンカレ首相と協力してフランス通貨を安定させるための基金を創設した。 彼はフランス政府に1億フランを融資すると申し出たが、おそらく物議を醸す政治的見解のため、基金を監督するよう任命されたグループから外された。 その後、彼はそのお金をニューヨークに持ち帰り、ニューヨークのフランス病院に多額の寄付をした[36]。

再び失望したコティは、1926 年に労働者階級を対象とした新聞「L'Ami du peuple」を創刊しました。 他の競合新聞よりも価格がはるかに低かったため、すぐに膨大な読者を獲得した[11][37]。 彼は長い一連の扇動的な記事を書きましたが、それは注目を集めました。 1933年7月1日、彼はフランスのユダヤ人退役軍人団体に対する名誉毀損で法廷で有罪判決を受け、1933年9月にジュネーブのユダヤ人コミュニティに電報を送り、その中で反ユダヤ的非難を撤回し、電報の内容を撤回するよう求めた。 世界ユダヤ人会議のユダヤ人会議で朗読される[38]。

コティは、第一次世界大戦退役軍人組織であるファイソーとクロワ・ド・フなど、後に極右組織となる組織に資金援助を行った。 しかし、彼は数年後にサポートを終了しました。

1933 年、高級政治家、寄生虫、悪党に囲まれ、経験豊富な政治家に惑わされながら、彼は国家改革を発表し、彼自身の運動であるフランス連帯を設立しました。 1934年7月に彼の死後、運動はさらに過激になった [39] 。 コティはボナパルティストで国家主義者であり、第三共和制のこの時期に多くの同胞と同様に、圧倒的な行政権を持つ強力な共和国の熱烈な擁護者であった。

彼は 2 冊の本を書きました。『反共産主義』(1928 年)と『植民地を救え』(1931 年)です。国家改革の中で、彼は女性の投票を含む直接普通選挙による共和国大統領の選出を提案し、任期は 7 年でした。 2期の任期を続ける可能性と、最高裁判所の設置が可能となる。 これらの措置の一部は、後に1958年にシャルル・ド・ゴールによって設立された第5共和政でも採用された[40]。

関連:

フランソワ・コティ-1(1904年創業「コティ」の看板は残れど…) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

フランソワ・コティ-2(子孫から見る「コティ」) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

フランソワ・コティ-3(「コティ」の名を勧めたエマニュエル・アレーネ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ベルナール・アルノーのメンターAntoine Bernheim-番外編(シャネルの5番とロシアの化粧品会社) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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戦争と革命、コルシカとカルボナリ-8(パナマ贈賄事件とドレフュス事件)

2023年12月06日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

2017年にマルタでジュ―ナリストが殺されました。

マルタのジャーナリスト暗殺事件 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

この事件を追っていたマルタの女性政治家が、2022年1月に欧州委員会の議長に選出されました。

欧州議会新議長のロベルタ・メツォラ議長とパナマ文書 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

2023年1月、欧州委員会の、欧州委員(元テレビキャスター)とお仲間3人がカタール汚職。この4人はマネーロンダリングでも起訴されました。

欧州議会科学技術選択評価委員会の委員長でもあったEva Kailiとカタール汚職とマネーロンダリング - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

1番上と2番目は「パナマ」がキーワード。3番目も可能性ありですが、汚職に隠れて詳しいことはわかりません。

 

「パナマ」-19世紀末にパナマ運河をめぐりは20世紀初めにフランスで贈賄事件を起きました。

パナマ事件 (y-history.net)

賄賂を受け取ったとされ、起訴されたものの中にコルシカ出身の政治家がいました。

Emmanuel Arène - Wikipedia

フランス語google翻訳:

早い時期 エマニュエル・アレーヌは1856年1月1日にコルシカ島のアジャシオで生まれた[2]。 彼は商人のジョゼフ・アレーヌと店主のジャンヌ・ポール・フォルシオーリの6人の子供の5番目でした。 彼の祖父ルイ・アレーヌはヴァール州ソリエスポン出身の宿屋の主人で、1757年にアジャシオに定住して繁栄した[1]。 この家族は、アジャカの古いブルジョワジーのカンピ家とフォルシオーリ家との結婚を通じてすぐに地元のコミュニティに溶け込みました。

エマニュエルの父親は裕福な商人で、かなりの社会的名声を獲得しました。 彼の葬儀にはイギリス、イタリア、デンマークの領事とコルシカ島政府の高官数人が参列した[3]。 伝統的にボナパルティストの環境で育ったにもかかわらず、アレーヌは若い頃から共和党に共感を示した。 中等教育を修了した後、エクス・アン・プロヴァンス大学に入学しましたが、1年目で落第しました。 その後、エクスよりも真剣に勉強しようと決意してパリへ向かった[3]。 彼の目標は弁護士の資格を取ることであった[4]。 彼は、共和党のジャーナリスト兼作家であり、レオン・ガンベッタと親しかった反聖職者のフリーメーソンであるエドモンド・アバウトが主宰する機関誌『ル・シークル』の愛読者となった。

(中略)

第 5 および第 6 議会 (1889 ~ 1898 年) パナマ事件中の1892年のアレーヌ 1889年9月22日の総選挙で、アレーヌは第1回投票で4,090票、対ボナパルティスト候補アバトゥッチの2,965票でサルテーヌ(コルシカ島)の副議員に再選された。 彼は共和党グループに登録した。 この議会では、彼は農業省と内務省の予算をめぐる議論に積極的に参加した。 彼はコルシカ島への税の段階的引き上げとヴィザヴォナからコルテまでの鉄道路線の完成を求めた。 彼はパナマ事件で指名されたが、1893年8月20日の総選挙の第1回投票で再選された[8]。 彼は1893年にパナマ事件で最終的に無罪となった[6]。 1893年の選挙運動で彼は次のように宣言した。

(中略)

ドレフュス事件中の1897年11月12日、アレーヌはオーギュスト・ショイラー=ケストナー、マチュー・ドレフュス、ルイ・ルブロワ(フランス)、エドガー・デマンジュらと、ドレフュスに対する判決の修正を支持する世論を動かすキャンペーンを開始することに同意した[11]。 アレーヌは、1897 年 11 月 14 日のフィガロ紙に「ヴィディ」というペンネームで「M. ショラー=ケストナーの文書」に関する記事を書きました。

(中略)

1899 年の早春、コルシカ島出身の若いジョセフ マリー フランソワ スポトゥルノは、家族がアレーヌの母親ジャンヌ フォルシオーリを知っていたが、パリに到着し、そこでアレーヌは彼に無給の助手としての仕事を与えた。 アレーヌは、後にフランソワ・コティとして知られるスポトゥルノを政治家や役人、そしてパリ社会の幅広い知人に紹介した[13]。 ある時、アレーヌはコルシカ島の議員が山賊だと主張したジャーナリストのアーサー・マイヤーに決闘を挑んだ。 スポトゥルノはアレーヌに同行してブローニュの森で夜明けの合流を果たし、そこで両名は発砲するも命中せず、満足のいく名誉を与えられた[14]。

スポトゥルノは香水の販売に興味を持ちました。 アレーヌはこの冒険を彼に奨励し、母親の名前コティをとってコティと綴ることによってコルシカ島の出自を隠すようアドバイスした。 これが美容製品会社Coty, Inc.の起源となった[15]。


彼はコティの恩人でした

フランソワ・コティ-3(「コティ」の名を勧めたエマニュエル・アレーネ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

このアレーヌ初め、賄賂を受け取ったとされる議員144名は1897年に「無罪」とされました。

Panama scandals - Wikipedia

抜粋google翻訳:

贈収賄裁判では、元都市開発大臣ベトー氏に懲役5年が言い渡され、そのうち懲役3年となった。 運河会社の財務顧問であり、さまざまな賄賂の代理人だったライナッハ男爵が自殺した。 他の被告はイギリスに逃亡した。 1894 年 12 月 7 日、レセップスは亡くなりました。 関与を告発された政治家にはレオン・ブルジョワやアルフレッド・ジョセフ・ナケなどが含まれる[3]。 144人の議員が汚職に関与していたことが判明し、ジャン・ジョレスはフランス議会からこの問題の調査を依頼され、1893年に完了した[4]。 パナマ事件の捜査は1897年に再開されたが、被告は無罪となった。

このパナマ運河贈賄事件が送ってすぐ、ドレフュス事件が起こります。考えてみると、この事件はパナマ事件から国民の目をそらすためのような事件となっていたかもしれません。

ドレフュス事件 - Wikipedia

アレーヌは「パナマ運河贈賄事件」で無罪になった後、1897年ドレフュス擁護派として、フィガロ紙に記事を書きました。

フィガロ紙は、後にコティが買収、反ユダヤの「右翼新聞」になりました。

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革命と戦争、コルシカとカルボナリ-7

2023年12月04日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

前回の記事

革命と戦争、コルシカとカルボナリ-6 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

で、紹介した日本語版wikipediaに、

「シャルル10世やメッテルニヒはボルゴがフランスの自由主義の背後にいると非難をした」という文言が出てきます。

「反ナポレオン」と言われているカルロ・アンドレア・ポッツィ・ディ・ボルゴは、実はナポレオンを成功に導いた「黒幕」だったと、私は思うようになっています。そもそも、ナポレオンの家より、ボルゴの家の方が格が上。

これまたと「敵対していた」と言われる、フィリッポ・ブォノローティの黒幕も、ボルゴだと思います。

カルボナリはメンバー同士が、「良い従兄弟」と呼んだらしいですが、ナポレオンの改名前の苗字Buonaparteは、Buona(良い)parte(一部→分家)ともとれます。

ボルゴ家はボナバルト家の遠縁であり、ついでに言うとブォナロッティの苗字Buonarrotiも前半がBuonaで、こちらもナポレオンと縁戚あり。

(参考:

革命と戦争、コルシカとカルボナリ-4 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

Carbonari - Wikipedia

抜粋:

As a secret society that was often targeted for suppression by conservative governments, the Carbonari operated largely in secret. The name Carbonari identified the members as rural “charcoal-burners”; the place where they met was called a “Barack”, the members called themselves “good cousin” while people who did not belong to the Carbonari were “Pagani”. There were special ceremonies to initiate the members.[1]

 

仮置き:

フランス革命に関わったフリーメイソン達・フリーメイソンも「駒」では? - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

マリー・アントワネットと女官長マリー・ルイーズの真実-美化されていたマリー・ルイーズ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

パリのランベール邸の所有者-2 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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革命と戦争、コルシカとカルボナリ-6

2023年12月03日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

ポッツォ・ディ・ボルゴ家には、ジョセフのように反フリーメイソンになるものもいれば、フリーメイソンの大役になる人もいます。反ナポレオンで有名になった一族が、ナポレオン生誕200年を祝う-同じ家系から出ても、相反するものを支援する人が出るのは当たり前です。

しかし、その中でも「陰謀」にかかわっただろう人もいたのだと思います。

Famille Pozzo di Borgo — Wikipédia (wikipedia.org)

Charles André Pozzo di Borgo — Wikipédia (wikipedia.org)

Joseph Pozzo di Borgo — Wikipédia (wikipedia.org)

 

1928年生まれのローランはマルセイユ生まれで、「ポッツィ・ディ・ボルゴ」名は、母方から。

気になるのは、このローランがおそらく40代の若さでアヴァスの理事長になったり、政治家でないのに、シラクなどと近しかったことです。

Roland Pozzo di Borgo — Wikipédia (wikipedia.org)

フランス語google翻訳:

ローラン ポッツォ ディ ボルゴは、1928 年 12 月 13 日にマルセイユで生まれ、2001 年 8 月 28 日にヌイイで亡くなった、フランスのレストラン経営者、実業家、起業家、パトロンです。

バイオグラフィー

ポッツォ・ディ・ボルゴとして知られるローラン・フェランディーニ=ポッツォ・ディ・ボルゴは、マシュー・フェランディーニとマリー・アンヌ・ポッツォ・ディ・ボルゴの息子であり、古代コルシカ島のポッツォ・ディ・ボルゴ家に属している。

1970 年代にリール通りに Le Bistrot de Paris をオープンし、そこで偉大なレイモンドの息子である若きシェフ、ミッシェル・オリバーを立ち上げました1。 ローランド ポッツォ ディ ボルゴはビジネスで頭角を現し、1982 年に設立した 65 店舗のレストラン チェーン「ビストロ ロマン」で「カルパッチョ食べ放題の王様」となりました。ビストロ ロマンは現在、Flo2 グループの所有物となっています。

彼はまた、1970 年代にはアヴァス・コンセイユ・リレーションズ・パブリックの理事長を務め3、慈善祝賀会が開催されるクロード・ポンピドゥー財団の管理者4、1969 年にはナポレオン・ボナパルト生誕 200 周年記念委員を務めました5。

1994 年、パリ市長のジャック・シラクは、シャンゼリゼ委員会会長のローランド・ポッツォ・ディ・ボルゴと協力して、シャンゼリゼ通りの大規模改修プログラムを開始しました6。 彼はシャンゼリゼ通りの歴史に関する本の著者です。


こちら、「ポッツィ・ディ・ボルゴ」と表示はなっていますが、反ナポレオンだった(実は怪しい?)先祖の日本語版wikipediaです。

ポッツォ・ディ・ボルゴ - Wikipedia

カルロ・アンドレーア・ポッツォ・ディ・ボルゴ(Carlo Andrea Pozzo di Borgo, 1764年3月8日 - 1842年2月15日)は、コルシカ島出身の政治家。

生涯
アジャクシオ近郊のアラタでボナパルト家の遠戚の家庭に生まれ、幼少時はナポレオンの遊び仲間だった。

成長するとピサで法学を学んだ後に弁護士になり、フランス革命が勃発すると立法議会議員となりパスカル・パオリの腹心になった。ナポレオンがパオリと対立するとブオナパルテ家弾劾決議を下し、一家をマルセイユに追放に追い込んだ。

フランス軍がコルシカ島を占領すると逆に追放され、以後反ナポレオン運動の先頭に立つ。ナポレオンは自分のことを熟知していたボルゴを大変恐れていたとされている。

1804年、ウィーンにいたボルゴはロシアのチャルトリスキ公爵の推薦を受けてロシア皇帝アレクサンドル1世の外交顧問になった。ところが、3年後にチャルトリスキ公爵が失脚し、続いてロシアとフランスの間でティルジットの和約が結ばれたことから職を辞してウィーンに戻る。ところが、ナポレオンからオーストリア帝国宰相メッテルニヒにボルゴの引渡し要求があり、身の危険を感じた彼はロンドンに移った。

1812年、再度ナポレオンとの対決を決意したアレクサンドル1世は、ボルゴをロシアに呼び戻した。彼はナポレオン打倒のための外交工作に努め、ウィーン会議ではルイ18世の擁立を支持して、イギリス代表のウェリントン公と連携した。再興されたブルボン朝(王政復古)に駐仏ロシア大使として派遣されたボルゴはフランス本土への連合軍の進駐の短縮とフランスが支払う賠償金の軽減に努めた。その一方で、フランス革命の成果を否定しようとするフランスの王党派やメッテルニヒの動きには強い反感を抱き、リシュリュー公ら穏健派を支援するとともに露仏関係強化に努めた。これに対してシャルル10世やメッテルニヒはボルゴがフランスの自由主義の背後にいると非難をしたが、ロシアは彼をそのまま職に留めた。

(後略)

 

参考:

トリエステの近現代史-7(エミール・デルランジェ) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

戦争と通信社-1(Sigmund EngländerとFrédéric Émile, Baron d'Erlanger) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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革命と戦争、コルシカとカルボナリ-5

2023年12月03日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

コルシカの話はここからでした。

『ミュンヘン』から『ボルサリーノ』そしてアルジェリアとコルシカ-1 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

『ミュンヘン』から『ボルサリーノ』そしてアルジェリアとコルシカー2 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

コルシカマフィアとなると、コルシカに残るより、コルシカを出て、マルセイユなどに出て行ったので、「コルシカ独立派」の名った人は少なかったでしょう。

20世紀、ジョセフ・ポッツォ・デ・ボルゴや、フランソワ・コティ(香水、化粧品の「コティ」創業者)が、反共産主義、反ユダヤ、反フリーメイソンとなり、アルザスの反共産主義達-(ロレアル社の創業者)と一緒にフランス本土で活躍するようになりましたが、彼らはナポレオンと同じく、コルシカの独立には興味がなかったと思います。

スタヴィスキー事件-3(映画『最強のふたり』のフィリップのお祖父さん) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

ロレアル社創業者と娘婿とファシストグループ - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

コルシカからマルセイユの渡った、マフィアのフランシス・スピリトは、なんとジャン・シアッペ(イタリア語読み:チアッペ)の友人でした。

François Spirito - Wikipedia

Carbone and Spirito were also active in Paris, where the Prefect of Police, Jean Chiappe, was a friend of Carbone.

シアッペは、『ボルサリーノ』に出演したジャン・ポール・ベルモンドの映画『薔薇のスタビスキー』の主人公、スタヴィスキーと怪しい関係にありました。

スタヴィスキー事件-4(「国際決済銀行」とフランス、マルト・アノー) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

スタヴィスキー事件 - Wikipedia

ジョセフ・ディ・ボルゴの祖先の代から、ボルゴ家には国際ネットワークがあったので、ジョセフはそれを利用したかも。

スタヴィスキー事件-番外編(フランス人をスウェーデン王にした黒幕) - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

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革命と戦争、コルシカとカルボナリ-番外編(Terra Corsa)

2023年12月02日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

コルシカの旗の絵を「パオリはムーア人ではなくて、エルトリア人にしたのではないか?」と書きましたが、いろいろ調べていくうちに、「パオリは「遠くをみつめる奴隷」を自分たちに当てはめて使い、独立を成し遂げた時に改めい旗をつくるつもりだったのではないか。」と思えてきました。

とりあえず、コルシカの民謡ー独立を願う人たちの歌の中から。

ナポレオン・ボナパルト、フィリッポ・ヴォナローティ、この二人はコルシカを踏み台にした、というのが正しいように思えます。

 

本当に愛したパスカル・パオリが考えた旗の「ムーア人」は「エルトニア人」といった具体的な民族でもなく、「自由になることを夢見ている奴隷」だったのかもしれません。

 

コルシカの郷土愛の歌をー

Terra Corsa (Clip officiel) - YouTube

 

この動画の最後に、ムーア人が頭に巻いていたハチマキと顔の輪郭だけのモニュメントが映ります。これは、ムーア人(奴隷)が自由になりつつあって、消えて行っているのにも見えます。

旗についてはこちらに書いてあります。

革命と戦争、コルシカとカルボナリ-3 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

 

参考:

Terra Corsa : les coulisses de l'enregistrement (Making of) - YouTube

パトリック・ブリュエル - Wikipedia

Florent Pagny — Wikipédia (wikipedia.org)

Jean Charles Papi
BIOGRAPHIE | Jean-Charles Papi (jeancharlespapi.com)

Patrick Fiori - Wikipedia

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革命と戦争、コルシカとカルボナリ-4

2023年12月01日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

パスカル・パオリの息子世代のナポレオン・ボナパルト。

このナポレオンより7歳年上で、ナポレオンと同じく親仏家のイタリアの革命家に、フィリッポ・ヴォナローティがいました。彼の家系は「ミケランジェロ・ヴォナローティの家系に属する」と言われているそうです。

フィリッポ・ブオナローティ - Wikipedia

フィリッポ・ジュゼッペ・マリア・ルドヴィーコ・ブオナローティ(Filippo Giuseppe Maria Ludovico Buonarroti, 1761年11月11日 - 1837年9月16日)はイタリア生まれのフランスの革命家。芸術家ミケランジェロの家系に属するといわれる。フリーメイソンの会員でもあった。

若年期
1761年、貴族の息子としてピサにて誕生。数学や音楽に関心を示し、特に音楽に関する素養は後の生活に役立った。

12歳の時、当時オーストリア領であったトスカーナ大公国へ赴き、大公レオポルド[注 1] の小姓として召し抱えられた。彼の庇護の下、17歳の時ピサ大学に進学。文学を読み、法学を学んだブオナローティは、法学の権威たちから危険分子と判断されかねない論文を書いた。

卒業後はフィレンツェで行政官となるはずであったが、ブオナローティはこの時期、ルソーの著作を貪り読み、共和主義思想に傾倒していた。この結果、オーストリア・ハプスブルク家の欧州支配に反発するようになった彼は、廷臣としての地位に甘んずることを潔しとせず、ピサで弁護士となる。その後、急進的なジャーナリストとして活動して、すぐに治安当局と対立するようになった。1786年には家宅捜索を受け、当時禁書に指定されていたドルバックの『自然の体系』を押収された。また1788年、フィレンツェの「ガゼッタ・ウニヴェルサーレ(Gazetta Universale)」紙の編集に携わった。

渡仏
1789年からのフランス革命に勇気付けられ、ピサではその急進的な主張に対する監視も厳しかったことから、フランス領となって間もないコルシカ島へと旅立ち、革命運動に参加。彼はそこで「コルシカ愛国新聞」(Giornale patriottico di Corsica)紙上で主張していた革命的なメッセージを広めることに勤めた。ちなみに、イタリア語の論文で公にフランス革命を支持したものはこれが初めてであった。

コルシカ島は、ルソーが考える理想社会の姿に最も近いとされた地であった。この地で彼はブオナパルテ(ボナパルト)家と親しくなり、親英派のパスカル・パオリとは敵対する活動を行った。なお、一族からはナポレオン・ボナパルトが出ていたことから、この縁が後に彼の危機を救うこととなる。

(中略)

バブーフの陰謀
テルミドールのクーデターに際し、ロベスピエール派と見なされた彼は投獄され、その獄中でバブーフと知り合う。彼の思想に同調したブオナローティは、バブーフの熱烈な支援者となり、いわゆる「バブーフの陰謀」にも加担した。ところが1796年5月8日、陰謀は事前に漏洩。彼はバブーフらと共に逮捕され、死刑宣告を受けた。バブーフは処刑されたが、ブオナローティはナポレオン・ボナパルトの尽力により処刑を免れ、同年7月にシェルブール近郊の要塞に監禁された[注 3]。

その後
オレロン島やソスペルの監獄を転々とした彼は、ナポレオンが政権を握ると釈放され、警察の監視のもと1806年にスイスのジュネーヴに移住。そこで音楽とイタリア語の教師として生計を立てた。しかしその間も、「愛国者協会」やイタリアの秘密結社「カルボナリ」に関わり、革命家としての活動を継続した。

ナポレオン失脚後のヨーロッパは、オーストリア宰相メッテルニヒの主導のもと、ウィーン体制と呼ばれる反動的体制が布かれていた。これに反発したブオナローティは、国際的な反メッテルニヒ運動を展開した。しかし計画は1823年に発覚し、彼は再びジュネーヴを追われた。ベルギーのブリュッセルに移った彼は、秘密結社「ル・モンド」を設立した。

(中略)

1831年から翌1832年にかけて、ボローニャ、モデナ、パルマなどでカルボナリが起こした一連の蜂起(中部イタリア革命)を指導したが、いずれも挫折。この頃、カルボナリの運動方針を巡ってマッツィーニと決裂、マッツィーニはカルボナリを離党した。

また、イギリスのチャーティスト運動にも積極的に加わるなど、革命の長老として活動したが、1837年にパリで死去した。

 

さて、このフィリッポではなく、ミケランジェロの曾孫※のフィリップ・ヴォナローティが「エルトリア」の研究を行っていたというのに気が付きました。※ミケランジェロは子供がいたように思えないので、彼の兄弟の曾孫ではないでしょうか?

昨日「パスカル・パオリが旗にしたのは、ムーア人の絵でなくて、エルトリア人だったのでは?」という疑問を持った私にとっては興味深い偶然でした。

革命と戦争、コルシカとカルボナリ-3 - Various Topics 2 (goo.ne.jp)

抜粋:

コルシカ、サルディーニャの旗は、「ムーア人」というより、「エトルリア人」の絵だったのではないか・・と想像してしまったり・・・。。

エトルリア - Wikipedia

エトルリア人 - Wikipedia

 

Filippo Buonarroti - Wikipedia

抜粋google翻訳:

フィリッポ・ブオナローティ (フィレンツェ、1661 年 11 月 18 日 - 1733 年 12 月 10 日) [1] は、ミケランジェロ・ブオナローティの曾孫で、イタリアのトスカーナ大公コジモ 3 世の宮廷の役人であり、古物収集家であり、エトルリアの研究を行った。 この分野で最も早くからアントニオ フランチェスコ ゴリにインスピレーションを与えました。

(中略)

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革命と戦争、コルシカとカルボナリ-3

2023年11月30日 | シチリア、コルシカ~欧米ネットワーク

コルシカの旗と、サルディーニャの旗に使われているムーア人は「成敗されたムーア人」「戦勝品の首」という説が有力ですが、ほんとうにそうだったのでしょうか?

ムーア人の首を使ったスペインのアラゴンの紋章では、ムーア人に目隠しをしてありますが、コルシカもサルディーニャにも、目隠しはありません。

コルシカの旗「テスタ・モーラ」とパスカル・パオリ - フランスSV : Global Studies Program 2015 : YNU (ynu-gsp.jp)

4人のムーア人を使ったものでは、リボルノに、「4人のムーア人」という、モニュメントートスカ―ナ大公フェルデナント一世の台座の周りに、鎖でつながれた4人のムーア人-がありますが、

リヴォルノの街歩き (その16 古要塞) : イタリア芸術を楽しむ (blog.jp)

コルシカとサルディーニャの旗のムーア人は、これほど屈辱的ではありません。

コルシカ、サルディーニャの旗は、「ムーア人」というより、「エトルリア人」の絵だったのではないか・・と想像してしまったり・・・。。

エトルリア - Wikipedia

エトルリア人 - Wikipedia

動画:食器に骨…地中海文明の手掛かりか 仏コルシカ島で発掘作業進む 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

古代エジプトのミイラを包む 布に書かれた文字の謎 - 日本経済新聞 (nikkei.com)

 

いずれにせよ、「ムーア人」を旗にしたパスカル・パオリは、コルシカのみならず、独立をめざした地域にとっては、理想だったのではないでしょうか。

フランス語版ウィキペディアから抜粋してGoogle翻訳:

Pascal Paoli — Wikipédia (wikipedia.org)

しかし、哲学者、特にルソーとヴォルタイレン 3 の目には、コルシカ島は啓蒙期ヨーロッパの最初の民主国家として、またパオリは「啓蒙された専制君主」として映ります。 イタリアの自由の最も強力な支持者の一人であるミラノの哲学者ジュゼッペ・ゴラーニは、独立の大義において彼と協力するようになりました11。 経済レベルでは、パオリは 1756 年にコルシカ島にジャガイモを導入し、ジェノバのアルガジョラ大統領とカルヴィ大統領に対抗する目的でリル ルッス (1758 ~ 1765 年) を設立し、コルシカ島の肖像を描いた硬貨を鋳造しました。村戸(1762年)。 カンポロロには「国立印刷所」が設立され、そこで一種の公式新聞である Ragguagli dell'Isola di Corsica が発行されました。このリンクは曖昧さ回避ページです。 彼は海軍を創設し、コルテ島をコルシカ島の首都とし、政府の本拠地とした。 彼は健全な通貨を鋳造し、復讐を禁止しています。

(中略)

「コルシカ島人が彼を呼んだバブ・ディ・ア・パトリア(「祖国の父」)は、1768 年にフランスの侵略者に対して次のようなメッセージを手紙 [12] に書きました。「私たち(コルシカ人)は、生まれも育ちもイタリア人です。感情はありますが、何よりも言語、習慣、伝統によって、そしてすべてのイタリア人は歴史の前、神の前では兄弟です。コルシカ人として、私たちは奴隷でも「反逆者」でもなく、イタリア人として他の人たちと同じように扱われる権利があります。イタリアの兄弟たちよ…そうしないと私たちは無になってしまう…私たちは名誉をもって勝利するか、さもなければ武器を手にしたまま(フランス人に対して)死ぬことになるだろう…神の御名が神聖で正義であるのと同じように、私たちの解放戦争は神聖で正義である。そして、まさにここ私たちの山の上に、イタリア全土に自由の太陽が現れるでしょう…」

(中略)

パオリ将軍の演説 1768

勇敢なコルシカ人、勇敢な若者、親愛なる寛大な同胞の皆さん! 私たちの国と同様に、自由に熱心だったすべての国は、その名を永遠に変えるような変遷を経験しました。 私たちに負けず劣らず勇気があり、力も劣らない人々が憎しみを破壊し、その不屈の精神によって敵の不釣り合いな計画を挫折させてきたことを私たちは知っています。 自由を維持するために必要なのは欲望だけであれば、きっと誰もがそれを楽しむでしょう。 しかし、この貴重な宝石は、あらゆる障害に打ち勝つ美徳と勇気によってのみ獲得できます。

自由な人々の条件と特権は、公正な考えを与えるにはあまりにも重大すぎます。 また、彼らはすべての人の驚きと羨望の的でもあります。 さて、勇敢な若者よ、最も重要な瞬間がやって来ます。 私たちを脅かす危険に立ち向かおうと強制しなければ、私たちの評判と自由は台無しになってしまいます。 今日に至るまで、私たちは自らの英雄的行為を考慮して自分を慰めてきたのは無駄でした。 私たちの祖先や指導者たちが多大な労力を費やしたのは無駄でした。

彼らがこれほど輝かしい方法で多くの血を流したのは無駄でした。 いいえ、私たちの自由を獲得し維持するためにあなたの命を犠牲にした有名で寛大な擁護者は、あなたの子孫があなたを恥辱で赤面させることを恐れていません。 彼らはあなたの輝かしい足跡をたどり、くびきを負うのではなく死ぬことを固く決意しています。 私たちはフランスの武器と比較して自分たちの武器を測らなければならないことを恐れさせられています。 これは私たちには想像できないことです。 我々は、ジェノバとの紛争の調停者であった最もキリスト教的な国王が、今日我々の敵となったことや、陛下がジェノバ共和国と緊密に団結し、平等に自由で偉大さに満ちた国民を征服したいと望んでいるなどとは決して信じない。

 それにもかかわらず、それが見た目と同じくらい現実であり、世界で最も偉大な君主が武装して、非常に弱く、数が少ない国に対して戦争を仕掛けた場合、私たちは勇気を期待しなければなりません。 自立して生き、自立して死ぬという寛大な決意を堅持しましょう。 このスピーチは、臆病で臆病な魂に向けられたものではありません。 もし私たちの中にそのような人がいたら、私たちは同胞のためにそれらを放棄するでしょう。 価値のあるコルシカ人は皆、最も美しい炎、最も勇敢な勇気、自由への最も熱烈な熱意によって生かされています。

私にはコルシカ島人の数と同じくらい多くの英雄がいます。 これは自分に価値があることを証明するチャンスです。 外国軍が圧制的な共和国の救世主として命を賭して我が国の海岸に上陸した。 私たちは自由と保存のために自分のものを犠牲にすることを恐れるのでしょうか? 寛大な若者の皆さん、私たち一人一人は、自由の喪失と祖国の崩壊からは生き残ることはできないと確信しています。 血の最後の一滴までお互いを守ることをみんなで誓いましょう。 自由な人々を打ち負かすのは簡単ではありませんが、高貴で寛大な魂にとって不可能なことは何もありません。 »

 

仮置き:

コルシカ民族解放戦線 - Wikipedia

シチリア王国/両シチリア王国 (y-history.net)

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